成嶋 隆 参考人 意見陳述 (2006121日 参議院教育基本法に関する特別委員会)

 

 新潟大学の成嶋でございます。私は、憲法学および教育法学を専攻する者としまして、これらの学問的な観点から、主として政府提出の教育基本法案について所見を述べたいと思います。論点は大きく2つありまして、1つは法律主義の限界という問題、もう1点は法と道徳の関係という原理原則にかかわる問題であります。

 第1の法律主義の限界についてであります。

 法律主義といいますのは、戦後日本の教育法制の改革の中で確立されました教育法制上の原則の1つであります。これは、戦前日本の学校教育が天皇の発する勅令により規律されるという、いわゆる勅令主義を取っていたのを改めまして、教育に関する事項を国会の制定する法律により規定すべきこと、そして教育行政はその法律に基づいて行うべきことを要請する原則であります。この法律主義の原則は、国会が国民代表機関であり、その定める法律が民主的な正当性を担っていると、そういったことの確認に基づいております。従いまして、それ自体は極めて積極的な意義を持つ民主主義的なルールであります。

 しかしながら、この法律につきましては留意すべき点があると思います。それは、この原則の内に、言わば内在的な限界があるということであります。言うまでもなく、法律を含む法という規範は、違反に対して何らかの制裁が加えられる、つまり強制力を伴うという非常に強力な社会規範であります。これに対しまして、教育という営みはすぐれて精神的、文化的な営みでありまして、そこには強い自律性ないし自主性が確保されなければなりません。とりわけ、教育の内容や方法など、教育の内的事項と呼ばれる領域につきましては、法による画一的な規制に本来なじまないと。基本的には、日々の教育実践を踏まえて、教育界において自主的、自律的な討議、あるいは研究を通じて確定されていく、そういったものであると考えられます。

 言い換えますと、法律によって規律することが許されるのは、基本的には教育の外的事項、つまり条件整備の面に限られるということであります。そして、仮に教育の内容に関する立法、つまり教育課程立法が許容される場合でありましても、それは教育課程のごく大綱的な、あるいは大枠的な部分に限定されなければならないということであります。

 このように、教育に対する立法の関与には、おのずと限界があると考えられますが、このことを教育という営みの持つもう一つの本質に照らして考えてみたいと思います。

 教育は、現在の世代を超えて次の時代を担う主体の形成、次の時代の新しい文化を創造する人間の形成を任務としております。

 このことを、近現代の教育思想界に大きな影響を及ぼしましたフランスの教育思想家であるコンドルセという人物は、次のような言葉で語っております。「教育の目的は、既成の意見、既にある意見ですね、既成の意見を神聖化するのではなく、既成の意見を次々の世代の自由な検証にゆだねることにある」と、このようにコンドルセは申しております。

 つまり、教育が現在の価値を次の世代による自由な検証にゆだねる営みであるということであります。そうであるとしますと、その教育の在り方を現在の世代が法律によって拘束するということは、創造的な、クリエーティブな教育の余地、あるいはそれが将来において開花する可能性の芽を摘み取ってしまう、そういう危険性があります。このことも、教育に対する法による規律が抑制的、謙抑的でなければならないということのもう一つの理由であります。

 以上のような原則的な観点から政府の改正案の条項を見てみますと、看過できない問題点が幾つかございます。

 まず、教育の目標を定めた法案の第2条であります。

 既に指摘されておりますように、ここには極めて数多くの道徳規範、つまり徳目が教育の目標として掲げられております。法律の中に道徳を盛り込むということの問題につきましては後ほど申し上げますが、ここでは先ほど申しました教育の在り方についての立法の謙抑性という、これは教育条理上の要請と考えられますけれども、そういった条理上の要請に照らして、この法案2条の規定が自主的、自律的に展開されるべき教育実践を法的に拘束することになるということの問題性を指摘しておきたいと思います。

 次に政府案で問題になりますのは、教育行政に関する法案の16条、特にその第1項であります。この規定は、現行法の教育行政条項であります101項の規定のうち、その前段にあります「教育は不当な支配に服することなく」、この文言は残しておりますが、1項後段の、「教育は国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである」、この部分を、「教育はこの法律及び他の法律の定めるところにより行われるべき」ものという文言に変えております。

 政府案において削除されました現行法101項後段の部分、私はこれを直接責任の原理と呼んでおりますが、それは、子どもの教育につき、親からの信託を受けた学校における教師集団が、免許制度によって公証された専門的な職能を発揮することを通して文字通り直接的に教育責任を果たしていく、このような教育の在り方を定めているというふうに解されます。国家は、そのような自主的、自律的な教育の場あるいは教育空間に権力的な干渉を及ぼしてはならないと、それが一項前段の不当な支配の禁止規定の趣旨であると考えられます。

 現行法の102項は、教育行政につきまして、教育行政がこの自覚の下に、つまり1項の自覚の下に、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならないと、このように定めております。現行法10条は、このように、教育と教育行政の関係につきまして極めて重要な原則を定めております。

 ところで、この現行教基法10条に関しまして、従来から政府は、法令に基づく教育行政機関の行為は、たとえそれが教育内容にわたるものであっても不当な支配には当たらないという解釈を取ってまいりました。一方、国家の教育への関与につきまして指導的な判断を示しました学力テスト事件に関する1976年の最高裁判決は、「教育行政機関が教育関係法律を運用する場合には、教基法101項の不当な支配とならないように配慮しなければならない拘束を受けており、その意味で、教育基本法101項は、法令に基づく教育行政機関の行為にも適用がある」と、このように判示しております。

 元々、この現行教基法10条が、戦前における教育行政というものが、法令に基づく場合も含めて教育内容に対する立ち入った干渉をなしていたということに対する反省に基づいているということを踏まえるならば、この最高裁の解釈の方が私は妥当であるというふうに考えております。

 条件整備を基本的な任務とする教育行政機関は、教育の自主性、自律性を損ねるような介入を行うことは、たとえそれが法律に基づいている場合であっても不当な支配となるということであります。更に申し上げますと、教育行政機関の依拠する法律自体が教育内容への不合理な、あるいは不当な介入、干渉を可能とするようなものであった場合、これも私は不当な支配に該当することになるというふうに考えます。つまり、法律自体が不当であるならば、その法律による行政も当然不当なものになるということであります。言わば、法律による不当な支配と言うことができると思います。

 このような見地から、改正法案を再度見てみますと、先ほど指摘しましたように、法案の161項の後段部分が、「この法律及び他の法律の定めるところにより」と、このように規定していることが問題となります。この法律というのは、言うまでもなく改正教育基本法のことでありますけれども、この改正教育基本法は、2条におきまして道徳規範を教育の目標として掲げ、それを学校教育のみならず教育のすべての分野に及ぼすような法律であります。このように、私はその改正教基法自体が不当性を帯びているというふうに考えるわけです。そうしますと、それに基づく行政も当然に不当性を帯びるということになるはずであります。

 ところで、この法案の161項の規定ですが、私の見たところ、この規定は大日本帝国憲法の権利規定にありましたいわゆる法律の留保という仕組みを髣髴とさせるというふうに見ております。法律の留保と申しますのは、例えば旧憲法の29条、これは言論、著作等の自由を保障した規定ですが、その29条では、日本臣民は法律の範囲内において言論、著作等の自由を有すと、このように規定されています。ここに見られる法律の範囲内においてという文言の示すのがこの法律の留保であります。その意味するところは、憲法に規定された権利や自由の具体的な保障内容であるとか、あるいはその保障の範囲、これは憲法ではなく法律で定めるというものであります。つまり、すべてはその法律任せ、法律次第ということになります。旧憲法の下では、この法律の留保の仕組みの下で、多数の言論規制立法などが行われ、憲法の言論の自由の保障が実質的には骨抜きになってしまったと、このような経緯がございます。

 改正法案の16条の規定というのは、この法律の留保が果たした悪しき役割を教育の場面で演じる危険性がある。教育の自主性、自律性を保障する現在の教基法を国家による法律を通した、法律の力によるその教育統制立法、このようなものに変質させてしまうということになると思います。

 第2の論点は、法案の2条における徳目の法定の問題であります。このことも非常に重要な問題点をはらんでいるというふうに思われます。

 先ほど、教育立法における謙抑性の要請とかかわって、法律が教育の内的事項を規律する際の限界を指摘いたしましたが、とりわけ道徳規範につきましては、これを法律に規定すること自体に大きな問題点があるように考えられます。

 実は、この点は教育基本法の立法者たちも十分に自覚していたように思われます。例えば、立法時に文部大臣を務めました田中耕太郎氏は、道徳の徳目などを公権的に決定することは「国家の任務の逸脱」であると、このように述べております。

 また、教育基本法の立法事務に主導的にかかわった行政法学者の田中二郎氏、この人は後に最高裁の判事を務めました。その判事在任中、いわゆる尊属殺人重罰規定に関する1973年の最高裁判決におきまして、重要なことを意見として述べております。尊属殺人重罰規定といいますのは、後に1995年に削除されました刑法の旧200条が定めていたものでありまして、尊属殺人、つまり親殺しですね、これを普通殺人よりも重く罰するという規定でありました。この規定に関しまして、田中二郎判事はこのように言っています。「親を尊敬し、尊重するという道徳は、個人の尊厳と人格価値の平等の原理の上に立って、個人の自覚に基づき自発的に遵守されるべき道徳であって、次が大事です、法律をもって強制されたり、刑罰を科すことによって遵守させようとすべきものではない。」こういう発言です。

 この田中意見のとおり、人間の良心の命令である道徳規範はまさしく諸個人の自覚に基づいて自発的に守られるべきものでありまして、決して法によって強制すべきものではないというふうに考えられます。としますと、正にその道徳規範を法定した法案の2条はこの点で重大な問題点があると、このように言わなければなりません。

 法案2条は、道徳規範を法定するのみならず、更に「態度を養う」という文言にも見られますように、法定された道徳規範に見合うような態度まで求めているということがあります。このことは憲法との関係でいいますと、思想および良心の自由を保障した憲法19条に違反すると、このように考えられます。道徳というのは良心の命令でありますけれども、諸個人の内心における良心の判断、つまり倫理的な価値判断、これが道徳ということであります。その内心における良心の判断の自由を保障したのが憲法19条であるということになります。

 それから、道徳規範を法定することは国家が特定の道徳規範を公定することを意味するわけで、公に定める、このことは憲法19条の規範内容の一つであります国家の価値中立性という原則に反することになります。耳慣れない表現かもしれませんけれども、この価値中立性といいますのは、例えば憲法学者の西原博史氏によりますと、倫理的、道徳的な領域における国家の中立性ということです。

 国家が特定内容の倫理的な、道徳的な規範にくみすること、あるいは国家が道徳に関する監督の任務を引き受けることは許されないと、そういう原則であります。で、法案2条はまさしくこのように国家が特定の世界観を正当なものとして公認したということを意味するわけですので、この点でも憲法19条に違反いたします。

 まとめます。総じて教育基本法案は、教育や道徳に対する法の関与の在り方という点で極めて重大な問題点を含んでいると思われます。参議院は良識の府、理性の府と言われています。法改正を含むその立法の本来の在り方について、良識ある判断を切に望むものであります。

 ありがとうございました。

 

 文責:教育基本法「改正」情報センター(審議中継を書き起こしたものであり、実際の議事録とは異なります)

 


世取山洋介 参考人 意見陳述 (2006121日 参議院教育基本法に関する特別委員会)

 

 世取山です。今日はこういう機会を与えていただきましてありがとうございました。

 私は、職業研究者として新潟大学に勤めており、教育行政、教育法、そして子どもの権利を専門としております。また、ボランティア・ベースでありますけれども、国連子どもの権利条約と深い関係を持つディフェンス・フォー・チルドレン・インターナショナルというところの日本支部の事務局長を94年以来務めてきました。

 今日私がお話ししたいのは、子どもの権利という観点から見た国会審議の問題点、現行教育基本法の先駆性および政府法案の問題点ないしは欠陥についてです。2つの国会にまたがって130時間ぐらいの審議が行われてきたことは承知しておりますし、可能な限りそれをフォローし、精査するように努めてまいりました。

 で、その成果に基づいてはっきり申し上げなければならないのは、実はこの国会の中で子どもの権利という観点からの法案審議がさほど充実してなされていないということです。例えば政府法案の最大のポイントになっている16条ですけれども、ここでは現行法10条の一項の規定の趣旨、すなわち、たとえ国会の定めた法律に基づくものであったとしても行政の行為が不当な支配に該当する場合があり得るのだという現行教育基本法の10条の趣旨が16条においてもなお継承されているのかどうかということがこの議場で大きな問題とされてきました。

 その際、委員の多くの方が引用するのは、76年の最高裁学テ判決ということになるわけですけれども、引用されている部分は、「教育内容に対する国家的介入についてはできるだけ抑制的であることが要請される」と、この部分です。しかしながら、その直後について、一体なぜ国家的干渉が抑制的であることが望まれるのかということの理由を子どもの権利という観点から指摘した次の文章はさほど引用されているわけではありません。読みます。「殊に個人の基本的自由を認め、その人格の独立を国政上尊重すべきものとしている憲法の下においては、子どもが自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような国家的介入、…は、憲法26条、13条の規定上からも許されない」と。

 憲法13条は個人の尊重原理を定めたものであります。しかし、もし仮に国家が、人間が自律した大人になる前の子ども時代に自由に干渉することができるとすれば、実は将来における自律した大人というのは子ども時代において根絶やしにされることになるわけです。したがって、憲法13条の個人の尊重原理から見れば、子ども時代を国家干渉からどのように守るのかということは当然重大な関心事とならざるを得ないわけです。

 現行教育基本法の先駆的な性格として指摘しなければならないのは、この関心を既に持ちながらこの教育基本法がもう作られたという事実です。例えば、前文では個人の尊厳を重んじる教育が行われなければならないとはっきり言い、そしてそのような教育の目的が、教育の第一目的が人格の完成、すなわち人格の全面的発達に求められることを1条で明らかにし、その結果としてのみ良き国民形成が行われるということを明らかにしている。さらに、2条においては、そういった人格の完成を満たす教育が行われなければならない方法について規定しているわけですけれども、そこで書いてあることは、「学問の自由の尊重」と「自他の敬愛と協力」なわけです。今風に言いますと、相互尊重と協働に基づいて教育が行われなければならないんだということを2条は実は言っているわけなんですね。

 教育基本法の立法者意思を最もよく示すと言われている1947年の「教育基本法の解説」を読みますと、10条のところを読みますと、実は10条は民主主義国家における国家と国民との関係についての規定なので、本来であれば2条に規定されていてしかるべきだったんだけれども、しかし特に教育行政に関係するので独立した条項に起こしたと言っているわけです。つまり、2条と10条は表裏一体の関係にあり、「自他の敬愛と協力」、「学問の自由の尊重」という言葉は101項において、引用しますが、「教育は国民全体に対して直接責任を負って行わなければならない」と言い換えられているわけです。

 先ほど直接責任については成嶋先生から説明がありまして、そのとおりだと思いますので、それについては説明を加えませんが、皆さんに対しては釈迦に説法であるということを重々承知した上で、直接責任と対になる概念、すなわち間接責任とは一体何なのかということの定義だけはここで言っておきたいと思います。それは、国会に定められた法律に従って教育を実行し、国民代表を通してそれを選出した親や国民に対して責任を果たすという考え方です。

 教育基本法10条は、個人の尊重原理から出発し、直接責任性を採用したということになっているわけです。つまり、個人の尊重原則に基づけば、教育における責任の果たし方というのは直接責任以外あり得ないというのが1947年に日本人が示した見解だということになるわけです。

 教育基本法の骨格というのは、前文、1条、2条、10条ということになっているわけですけれども、政府法案の最も大きな特徴は、この背骨に対して実に精密で緻密なアタックを掛けているということです。

 政府法案は、前文で「個人の尊厳を重んじ、」とは言っているんですけれども、それは個人の尊厳を重んじる人間というふうに掛かっておりまして、結局国家との関係における個人の尊厳の尊重原理は骨抜きにされているわけです。したがって、そのような骨抜きにされた下において1条に規定されている人格の完成というものも骨抜きにされていくわけで、むしろ1条の後段に規定されている、「必要とされる資質」を身に付けた国民育成こそが実は政府法案においては教育の第一目的となっているというふうに言って構わないというふうに思います。しかも、第2条では20以上にわたる徳目が規定され、そして16条では直接責任が明示的に排除されて、間接責任が採用されているということになっているわけです。

 現行教育基本法が個人の尊厳原理に基づく教育の自主性擁護法であったと言うのであれば、政府法案は端的に教育の国家統制法だと言うべきであると思いますし、最高裁学テが示した子ども時代に対する配慮は喪失させられているというふうに言っておきたいと思います。

 これが政府法案の最大の問題点なわけですけれども、あえて2つだけ問題点を指摘したいと思います。

 一つは2条です。

 2条に掲げられている1号から5号の徳目の構造というのは現行学習指導要領の道徳編とほぼ同じです。これは何を意味しているかというと、学習指導要領を基本法に格上げするということを意味しています。しかも、道徳だけを基本法に格上げしているわけですから、道徳が筆頭科目化されることになるわけです。そうすれば、英、数、国、理、社などの教科教育が道徳教育化させられるということが法的にオーソライズされるという極めて大きな問題点を持っており、これはもちろん修身が筆頭教科であった戦前の教育制度を想起させるものとなっているわけですが、しかし残念ながらこの問題はまだこの国会において取り上げられているわけではないということです。

 第2番目に指摘しなければならないのは16条と17条の問題です。

 経済財政諮問会議や規制改革・民間開放推進会議が提案している学テ、学校毎の成績公表、学校選択、バウチャー制度などを内閣が自由に決めることができるようになって、トップダウンで降ってきたそのような指令を無限定の権限を持つ文科省が実行できる体制ができ上がるわけです。しかしあえて言いますけれども、新しい学力テスト体制が最高裁学テ判決で示した合憲性審査の基準をクリアできるかどうかは私には疑問です。

 ここでもう一度最高裁学テ判決に戻りますが、最高裁学テ判決の10条解釈の最大のポイントは、それを教育人権と結び付けたというところにあるわけです。つまり、26条の背後には子どもの学習する権利があると言い、さらに、一定範囲の下において、初等中等教育の教師にも教育の自由があるというふうにはっきり述べています。

 その際に根拠としたのは、引用しますが、「子どもの教育が教師と子どもとの間の直接の人格的接触を通じ、その個性に応じて行われなければならないという本質的要請」があるからこそ自由が必要とされると言っているわけです。ただ、これは30年前の判決でして、この30年間、子どもの権利は飛躍的に進展していて、それは国連子どもの権利条約に規定されているわけです。

 62項では、生存と発達が子どもの権利であることを確認した上で、さらに12条では、意見表明権を規定しています。これは、子どもに自由に意見を表明させ、これは感情も含めてですけれども、その表明した感情や意見に対して大人が適切に応答しなければならないということを規定したものですけれども、これは、こういう大人と子どもとの間の応答的な関係、決して大人に対して服従するという権威的関係ではなくて、そういう応答的な関係こそが子どもの人間としての成長、発達をもたらすというふうに考えている条項であるわけです。これが、先ほど言った最高裁学テの本質的要請と共鳴していることは比較的分かりやすいことだというふうに私は思います。

 もし政府が、教基法、最高裁学テ判決、そして国連子どもの権利条約というものを真剣に考えるとすれば、最低限四つのことが必要とされると思います。

 1つ、子どもの要求への柔軟な応答を不可能にするような国家介入を差し控えること。2つ、自らの要求や欲求を表明できなくするような子どもへのプレッシャーを減じること。具体的には、競争主義的な教育制度を改めるということ。第3に、大人が子どもの要求に応答できるような条件を整備すること。端的に言えば少人数学級の実現です。そして第4に、学校において子どもの自由な意見表明を奨励し、子どもの要求に応じる自由と責任を教師に移譲していくこと。

 以上の4つの観点から見た場合に、政府法案が数多くの問題点を持っているということは確かだと思いますが、時間がありませんので、1つだけ指摘させていただきたいというふうに思います。

 国連子どもの権利条約の実施監視機関である国連子どもの権利委員会は、既に98年と04年に日本政府報告の審査を行っております。そこで、次のような懸念を98年に示しました。これ外務省訳ですけれども、「児童が、高度に競争的な教育制度のストレス及びその結果としての余暇、運動、休息の時間が欠如していることにより、発達障害にさらされていることについて、条約の原則及び規定、特に第3条、第6条、第12条、第29条及び第31条に照らし懸念する。」

 つまり、ここでは既に日本の教育制度全体が子どもの成長発達権と相当に緊張関係を持っているということが国際的には承認されているわけです。にもかかわらず、どういうわけかこの競争主義的な教育制度を更に競争主義的にする新学力テスト体制の導入が政府によって提唱されているということになるわけです。

 その際、伊吹文科大臣は、今の日本の教育の実態は余りにもひどいので、そのマイナス面を引き受けてもなおそれを実行する必要があるのだというふうに言っているわけですけれども、しかしこの国会に、日本の学力をめぐる、何がどういうふうに悪くて、それが何に由来するのかということについての量的、質的なデータが出たということは私は知っておりません。したがって、立法事実はここでも闇の中ということになります。

 これに対して、国連子どもの権利委員会は、競争主義的教育制度の是正のためには、今の質の高い教育を維持しながら、高校を卒業すればだれでも高等教育に進学することが可能なカリキュラムをNGOと一緒に開発すべきだということも言っています。さらに、競争主義的教育制度から受けるプレッシャーを他の子どもに転嫁することを意味しているいじめについては、子どもの参加の下にその解決を図れと言っているわけです。ここに教育基本法に示された個人の尊重原理、直接責任、さらには最高裁学テ判決が示した子ども時代の尊重の発展型を見ることは実に簡単なことであるというのが私の意見です。

 教育の自主性擁護法、個人の尊厳原則に基づく教育の自主性擁護法を皆さんは発展させていくのか、それとも全く逆の教育の国家統制法の道を選ぶのか、相当に重大な選択を皆様はこれからされようとしているのだろう、というふうに思います。

 ただ、研究者としてあるいはボランティアのアクティビストとして言いますが、選択をするのに果たして国会内で十分な議論がされたと言えるのでしょうか。立法者意思は明確にされたのでしょうか。立法事実はどうでしょうか。さらに、この国会の外に目を転じてみれば、果たして国民的議論は十分展開したと言えるのでしょうか。あるいは、国民的合意は成立したと言えるのでしょうか。教育は国家百年の計だというふうに言いますけれども、相互信頼に基づかない基本法制定は将来に必ず禍根を残すということを申し上げて、意見陳述を終わりとします。

 どうもありがとうございました。

 

 文責:教育基本法「改正」情報センター(審議中継を書き起こしたものであり、実際の議事録とは異なります)