2390民主党案における宗教的感性の意義

 

 

164国会 衆特別委 第8回(62日)

○池坊委員 宗教に関する寛容の態度というのは私、理解できるんですね。つまり、寛容とは、心が広く、人の言動をよく受け入れることなんです。だから、自分の信仰だけでなく、宗教だけでなく、他の宗教も排除することなく認めましょうということだと思いますが、宗教的感性となると、私には、何で宗教的というのをつけなければならないのか。感性というのは、御存じのように、外界からの刺激を受けて直接的に感じ取る能力なんですね。ある意味では、もう既に人間そのものに宿しているものなんです。だから、感性を豊かにするとか、感受性を。そうすると、それが宗教的というのはどういうことなのか意味不明という感じがするんです。
 先週、笠さんでしたか、真善美ということをおっしゃいましたね。私も、より美しいもの、よりよきもの、よりすばらしいものに対する希求の心というのは深く持っておりますが、それと宗教的、宗教とどういうふうに結びつくのかを伺いたいと思いますことと、宗教的とおつけになったからには何か意味がおありになると思うんですね。特定の宗教に触れることなくして、宗教的とお書きになったわけですから、宗教的感性が教えられるのでしょうかということを伺いたいと思います。

○笠議員 宗教的感性というものが教えられるのかということでございますけれども、これは、私どもの第十六条の規定の中にも、この第三項ですね、ここに書いておりますように、私どもは、これを一方的に押しつける、要するに、教えるということだけに、教育上尊重されなければならないということで、これまで余りにも、もちろん、特定の宗派、宗派教育というものは、やはり控えなければならないと私ども思っています。
 ただ、宗教教育となったときには、やはりその中には、この第四項で我々が規定しておりますように、これは、従来の規定をより明確にしたつもりなんですけれども、特定の宗教の信仰を奨励し、またはこれに反対するための宗教教育その他宗教的活動はしてはならないということで、より具体的に書かせていただいたと思っております。
 そして、先ほどの、宗教に関する寛容は、それは理解ができるとおっしゃったわけですけれども、私どもは、宗教的感性というものは、もちろん、学校教育の教室の場で、恐らく教材をもって、例えば教科書をもってということだけではなくて、例えば地域において、あるいは、一義的には、家庭の中での教育の中にも、当然、家の中でそれぞれ信仰もあると思いますし、家庭において、結婚式であるとか、あるいは、お宮参りであるとか七五三であるとかお葬式、いろいろな行事に参加をして、あるいは、そういう中で身につけていくものもあると思えば、あるいは、地域の中でのいろいろな行事、伝統行事であるとかお祭りに参加をしたりとか、そういう中からはぐくんでいくこともあろうかと思いますし、そういう広い意味で、私どもは「教育上尊重されなければならない。」ということで規定をさせていただきました。


○池坊委員 教育上ということですから、教育において関係してくると思うんですね。そうすると、さっきおっしゃる宗教的感性が何ですかということが全くあいまいであると私は思いますので、だけれども、それはちょっとお答えになれないんだなというふうに理解いたしました。今おっしゃるように、お宮参りとか七五三もきっと宗教的感性の中に入るとお考えでいらっしゃるんですね。
 では、次に入ろうと思いますが、十六条の第二に、宗教的伝統や文化に関する基本的知識の修得及び宗教の意義の理解は、教育上尊重されなければならない。この宗教的伝統や文化に関する基本的知識の修得というのはどういうことを指すのでしょうか。そして、宗教の意義の理解というのはこれとどういうふうに結びつくのでしょうか。お伺いしたいと思います。

○笠議員 今、ちょっとその前に、宗教的感性の中にということではなくて、先ほど申し上げたような、家庭の中で、あるいは地域の中で、学校の中で、そういったいろいろな行事等々の中で身につけていく。感性を磨いていく、身につけていく、そういう行事に参加したりする中で。だから、感性の中にそれが含まれるということではございません。
 それで、今おっしゃった宗教的な伝統や文化に関する基本的な知識ということでございますけれども、当然、一般教養としての基本的な知識の修得については、これまでにも学習指導要領などを通じて、これは学問としても教えられている部分があると思います。ただ、これは特定の信仰を身につけろとか、当然ながらそういうことではございませんけれども。
 そしてさらに、今、きょうもちょうど朝からも議論になっておりましたけれども、文化財でありますとか、あるいは自然に触れたりとか、そしてまた、地域に残る遺跡や名所といったものを訪ねたりする。さらには、歴史を学ぶ中で、あるいは先人たちが残してくれた文学や芸術作品を通じて学ぶことができるものも含めてのこの宗教的な伝統や文化に関する基本的な知識の修得ということでございます。

○池坊委員 そうすると、具体的に宗教的な伝統と文化というのは、お宮参りとか七五三とか、そういうことをイメージしていらっしゃるんですか。

○笠議員 それも一つでございます、まさにそれも一つ。
 ただ、それに限定するということでは当然ございませんけれども、この宗教的な伝統、文化に関する基本的知識というものの中では、社会通念上認められ、もはや日本の文化として定着している、例えばクリスマスであるとか、おみこしであるとか、武術とか、あるいは、いただきますと言うときに合掌することや神社で拍手することなどを、宗教的色彩が濃い状況や形態で行われている場合を除いて、この伝統、文化の範囲と理解をしているわけでございます。

○池坊委員 わかりました。つまり、これは宗教に関する教育の中にお入れになって、わざわざ「宗教的な伝統や文化」とか「宗教的感性の涵養」などとお書きにならないで、人々がはぐくんできた、あるいは生まれ持っている感性を磨くとか、あるいは日常生活にある伝統や文化を大切にするとか、そういうこととお書きになったら、多分みんながわかりやすかったのではないかと思います。わざわざ宗教にお書きになったのが、ちょっと何かみんなにわかりづらいものを与えたと思います。
 そういう意味では、第十六条の一番最初にございます、生の意義と死の意味を考察し、命あるすべてのものを学ぶ態度を養うことというふうに書かれておりまして、これも宗教とこの命というものを並列にお書きになっていらっしゃいますが、宗教ともしかかわって生と死を考えるならば、これは、生と死のとらえ方は、宗教上、宗派によって随分違います。キリスト教では天国に行きますし、仏教では輪廻ですし、さまざまと違うのですね。
 ですから、これも多分、宗教とかけ離れてお書きになったら、それはそれなりによく理解できたのではないかというふうに私は考えます。
この辺はちょっと無理がおありになったのかなという気がいたします。
 それから、前文にございましたね、祖先を敬い、子孫に思いをいたす。文章としてはわかりますけれども、どういうふうな姿をイメージしていらっしゃるのでしょうか。
 私思いますのに、おっしゃろうとしていることは何となく、漠としてわかるんだけれども、きれいな文章にしよう、言葉遊びをしているなんて失礼なことは申し上げませんが、言葉を何か一生懸命考えようとなさって継ぎ足したのかなという感じがしないでもありませんので、どういう社会、どういうことをイメージしていらっしゃるかを伺いたいと思います。

○笠議員 決して私どもは言葉遊びをしているつもりはございません。
 まさに、この前文の中に、我々が今あった「祖先を敬い、子孫に想いをいたし、」という文言をしっかりとここに書かせていただいた中には、今例えば具体的にどうなんだというお話がありましたけれども、二千年以上の長きにわたって、まさに海に囲まれた地形の影響もあって、他国とは趣の異なる固有の伝統文化を日本ははぐくんできたわけでございます。さらには、四季に恵まれ、そして気候にはぐくまれてきた緑多い自然もございます。これらの日本固有の文明を発展させてきた我々の先祖に対して敬意を払うこと、そしてこの貴重な文明を後世にしっかりと伝えていくことは、私どもは教育の大きな使命であることだと思っておりますし、そのことにかんがみ、この文言を入れたところでございます。
 日常生活の中で、もちろん、お墓参りをして先祖を敬うということだってこれはありますでしょうし、例えば、それこそふるさとは遠きにありて思うものではございませんけれども、そういうような心の中で思いをいたすということだってあると思います。
 自分自身の祖先や故郷に対しての思いもあれば、もっと広い意味で、豊かな四季折々の自然の美しさに感動し、あるいは数多くの文化的な遺産などに接する中で、日本に生まれてきたことに喜びを感じ、そして日本に愛着を持ち、これから生まれてくる子供たちにも、後世にもそうしたすばらしさというものを伝え、引き継いでいきたいというような心を涵養していくことこそが大切だということで、この前文に盛り込ませていただきました。

○池坊委員 余りにも大層な文言だったので、私、ちょっとびっくりしたんです。
 要するに、祖先の人たちの、日本人の先達の人々の心を大切にしながら、次に生きていく人たちを思い、夢や希望を感じながら、人類の貢献に役立つようにということなんですね。
 私、これを読みましたら、私は、父が亡くなりましてから二十年間、毎月お墓参りをしておりますけれども、それは両親が好きだからしているので、一々祖先に余り、もちろん感謝はしていますけれども、敬うと毎日思っているわけじゃないし、子孫に思いをはせと言われましても、それは、やはり五十年後、百年後、人類が滅亡しないで世界がうまく幸せであってほしいなというふうに思いますので、わざわざ祖先が、子孫がとおっしゃったのにはそれなりの深い深い何かがおありになると私は思いましたけれども、そうでない、普通のことを大層にお書きになったというふうに解釈させていただきます。

 

164国会 衆特別委 第12回(68日)

○中井委員 … 時間で、これをやろうかやるまいかとさっきから迷っているんですが、民主党案には、宗教的感性の涵養という言葉が入っております。十六条の三項であります。与党においては、またあるいは中教審におきましても、宗教的情操の涵養ということについてかなりの論議があった。それを結局盛り込まないという形で、基本法の案が出されているわけでございます。
 その根幹は、やはり特定の宗教のための宗教教育の禁止、その中で、すべての宗教のための宗教教育、宗教一般を宣伝する目的で行われる教育ということについては、これは教育上好ましくないんじゃないか、こういったところから、おとりにならなかったんだろうと私は拝察をいたしております。
 過般、公明党の方が、我が党の提案者に対しまして、この宗教的感性の涵養ということは、これは道徳じゃないか、伝統じゃないか、こういう言い方をされて、宗教的感性というのをわかっていないんじゃないか、こういう御判断でございます。また、その前には、私どもの党の土肥議員も、この点に関して質疑をされました。なかなか、一つの神様を信じてそれ以外を信じないという人と、日本独特の多神の世界とは随分違うんだなと思って、僕は聞かせていただきました。ローマ帝国も、多神、最大のときには四十万ぐらい神様がいたらしいんですが、日本はやおよろず、もっと大きいのかもしれません。
 そういう中で、日本は営々と柔軟に、民族としていろいろな宗教を受け入れて、一神教の方はおられるし、無宗教の方もいれば、多神教の方もおられるという社会で今日まで参りました。今残っていますいろいろな行事や伝統、こういったものは、すべて神事や宗教からきていると言っても過言ではない。例えば大相撲。大相撲のあのしきたりというのはほとんど、これは奉納ですから、神様に供えるわけでありますから、そういう信仰からきている、それがスポーツに今昇華している。
 こういったことを含めた日本人のあり方というのを、道徳とか伝統ということだけじゃなしに、生命やとうとさ、死の意味、こんなことを含めて、トータルで日本人として教えていくというのが、民主党の言われる宗教的感性の涵養ということなのかと私は考えていますが、いかがですか。

○笠議員 まさに、今中井委員が御指摘のとおりでございます。本当に、やはり人間の力を超えたさまざまなものに目を向けることで、生きとし生けるものの命の大切さを知り、自分自身に謙虚にもなっていくことができるということで、他者への慈しみというものも生まれてくるものだと思っております。あえて私どもは、そういったことが今の時代大変重要であるということで、この宗教教育をもっと積極的にやっていくべきではないかということで、盛り込ませていただいております。