2010年1月


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「原発」解説 学会の責任果たす一歩に

 国内の原子力施設で放射性物質漏れなどの事故やトラブルが起きた際、深刻さのレベルや周辺に与える影響などを日本原子力学会の専門家が解説する試みが2月から始まる。

 電力会社や国とは一線を画す独立の第三者として学術的な立場から事故や影響を分析し、安全上の見解を迅速に発信するのが狙いという。自治体と報道機関の問い合わせに限り対応する。

 これまで電力各社では原発トラブル隠しや不祥事が相次いだ。監督する立場の国にも厳しい視線が注がれている。今回の試みは、内向きといわれてきた学会が、社会的な責任を果たすという意味では評価できる。

 解説に当たるのは10人程度で全員が大学の研究者だ。今後、側面から技術情報を支援するメンバーを募集し、チームの総勢は110人ほどとなる。

 横溝英明会長は会見で「電力会社や国とは離れた立場で、電力会社の主張に間違いがないかを学術的な立場で解説したい」と意気込みを語る。

 しかし、解説チームが実際のトラブルに対し迅速に機能するのか、中立性が確保されるのかという点については懸念を持たざるを得ない。

 実際の対応は、自治体と報道機関から連絡を受けて解説担当者を決め、独自にトラブルの情報を収集、分析して適切な解説を提供する仕組みだ。緊急を要する重大事故に速やかに対応できるのかが最大の課題だろう。

 日本原子力学会は原子力技術の開発に努める専門家でつくる団体である。原子力に関する国の委員会などに加わっている専門家も少なくない。解説チームが信頼を得て機能するには、中立的な立場で国や電力会社の評価をきちんとチェックすることが欠かせない。

 本県では、中越沖地震以降、柏崎刈羽原発で火災が相次ぐなど東京電力や国の対応に、不信感をぬぐえない県民が少なくない。

 中越沖地震では柏崎刈羽原発で変圧器火災が発生、消火作業が進まず黒煙の上がる状態が続き不安が広がった。住民避難の必要性の判断をめぐり県と国とのやりとりに時間を要し、安全情報の提供が遅れる事態にもなった。

 変圧器火災は放射性物質漏れにはつながらず、結果的に避難は必要なかった。ただ原子炉の安全に直接関係ない設備を軽視しがちな技術者と、一般社会との認識のずれを浮き彫りにした。

 解説チームには、原子力業界内の常識ではなく、市民の目線に立って取り組むことも求められる。

 かねて原子力業界はその閉鎖性から「原子力ムラ」ともいわれてきた。今回の試みに加え、国民への直接の情報発信にも力を入れることで、「ムラ」からの脱却を目指してほしい。

新潟日報 2010年1月31日

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政教分離判決 再確認した憲法の原則

 砂川市が市有地を神社に無償で使わせているのは、憲法の政教分離原則に反する−。地元住民による訴訟の上告審で、最高裁大法廷は違憲判決を言い渡した。

 判決は、市の対応を「一般人の目から見て、特定宗教に特別の便益を提供し、援助していると評価されてもやむを得ない」と指摘。「信教の自由との関係で相当とされる限度を超える」と踏み込んだ。

 その上で、信教の自由を保障した憲法20条と、宗教団体に対する公金や公の財産の支出、利用を禁じた同89条に違反するとした。

 地方公共団体と宗教とのかかわりについて、明確な判断を示した。妥当な判決といえる。

 砂川市以外にも公有地を神社などの宗教施設に無償で使わせている例は、道内でも少なくない。

 市町村は、判決を重く受け止めなければなるまい。実態を把握し、違憲状態の解消に努めてほしい。

 訴訟の対象となった空知太神社は町内会館に併設する形で、市有地に立っている。

 市側は、地域住民の憩いの場であり宗教性もないと主張していた。

 これに対し判決は一、二審の判断を支持し、鳥居や祠(ほこら)などを見ても神道の神社であり、そこで行われている祭事も宗教行事だと認定した。

 気になるのは、最高裁が今回、政教分離の是非を判断するに当たって新たに示した基準の内容だ。

 宗教施設の性格、無償提供の経緯や態様、これに対する一般人の評価など諸事情を考慮し、社会通念に照らして総合判断すべきだ−とした。

 これまでは「目的に宗教的意義があり、効果が特定宗教への援助、助長、促進または圧迫、干渉になるような行為」に限って違憲とする「目的効果基準」を採用してきた。

 完全な政教分離は困難との観点から、政教間の一定程度のかかわりを認めたものだが、今回の基準はより柔軟な解釈を打ち出している。

 目的効果基準に対しては、国家と宗教との分離をなしくずしにしていくとの批判が根強くある。

 一般人の評価や社会通念という漠然とした基準を加えることで、場合によって慣習や世俗性を取り込んだ解釈も可能になるのではないか。

 憲法の精神に基づいた厳格な適用が、なにより求められる。

 わが国はかつて、国家神道を精神的支柱として戦争への道を突き進んだ。神社参拝が強要され、信教の自由も奪われた。政教分離原則は、そうした苦い体験のもとに生まれたことを忘れてはなるまい。

 判決は神社撤去や土地明け渡し以外の違憲状態の解消策について、札幌高裁に差し戻した。注目しよう。

北海道新聞 2010年1月21日

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75・6%が廃止求める 教員免許更新制でアンケート 全教

 全日本教職員組合(全教)は15日、教員免許更新制についてのアンケート調査の結果を発表しました。2009年度に更新のための講習を受講しなければならないとされた対象者のうち1247人が回答。受講によって教育活動に影響があったとの回答が54・3%にのぼり、75・6%が同制度を「廃止すべき」と答えました。

 更新制は、教員免許を10年ごとに無効にし、「更新講習」の受講・認定で更新していく制度。安倍自公政権が改悪教育基本法の具体化として導入しました。民主党中心の現政権は「制度廃止」の方向を打ち出す一方、教員養成や免許制度の検討をすすめ、結論がでるまで現行制度を維持するとしています。

 アンケートでは、「この制度で教育はよくならない」との回答が67・5%を占め、「よくなる」との回答は0・3%でした。今後の取り扱いについては、「このまま続けるべき」との回答が0・7%にとどまりました。

 受講にあたっての負担感を97・1%が訴え教員の多忙に拍車をかけていました。教育活動への影響があったとの回答のうち、具体的には「部活動」(38・3%)「授業準備」(30・0%)「同僚への負担のしわ寄せ」(26・7%)などをあげています。(複数回答)

 全教の今谷賢二教文局長は、アンケート調査の結果もふまえ、「教員養成や免許制度の見直しとは切り離して、ただちに更新制は廃止すべきです」と強調。廃止を要求するとりくみを強めたいと語りました。

しんぶん赤旗 2009年1月15日

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人への投資を怠ってはならぬ 「科学技術立国日本」再考

 「なぜ世界一にならないと駄目なのか」。政府の行政刷新会議による事業仕分けで、舌鋒(ぜっぽう)鋭く迫った“必殺仕分け人”の蓮舫参院議員(民主党)が発したひと言が、「科学技術立国日本」に大きな波紋を投げかけた。

 ノーベル賞受賞者6人が鳩山由紀夫首相に予算編成で直訴した際、「科学研究は世界一でなければ意味がない。1番と2番では100倍以上、価値が違う」と厳しく反論したのは、小柴昌俊・平成基礎科学財団理事長だった。

 それでも2010年度予算案の科学技術振興費は09年度比3・3%減で、厳しい財政下では科学振興も錦の御旗にならない現実を突き付けられた。

 9日間にわたる仕分け作業の傍聴者は約2万人、ネット閲覧は延べ270万回に上った。密室で行われてきた予算編成の一端を公開し、国民の関心を引きつけた意義は大きく、世論調査でも評価する声が7割を超えた。「議論が拙速すぎる」との批判もあったが、おおむね好評だったといえる。

 それゆえに、研究者らが強い危機感を持つのは当然だろう。だが、少し冷静になって考えてみたい。これほど科学技術政策が国民の注目を浴びたことが、かつてあっただろうか。

 ▼予算は20年で3倍増だが…

 個別具体的な事業を取り上げれば、いろいろ不満はあるであろう。

 一方で、文部科学省や経済産業省など関係省庁が重複して事業を実施するため、縦割りの無駄が問題となっている。欧米に比べて研究者の層が薄いことも、長年指摘されている。

 国民の目を集めるいまこそ、こうしたさまざまな課題を俎上(そじょう)に載せて議論し、「科学技術立国」を掲げる日本の現実を見つめ直す良い機会である。

 日本の科学振興費は少ないのか。財務省によると、政府の科学技術振興費は約20年で3倍増した。2倍増の社会保障関係費を超える伸びだ。国と民間を合わせた研究開発費も対GDP(国内総生産)比3・57%で、ドイツの2・36%や米国の2・02%などをしのぎ、主要国では随一の水準という。

 確かに、研究費や施設整備は年々増え続けてきた予算で充実してきたかもしれない。にもかかわらず、なぜ研究体制などで欧米に後れを取るのか。

 縦割り行政の弊害のほか、研究内容の評価システムや事業チェックの在り方など課題を挙げればきりがないが、今回、とくに指摘したいのが、科学者や技術者など「人」への直接投資が長年置き去りにされてきたことだ。

 いくら研究費を増やして施設を良くしても、実際に研究をし、成果を挙げるのは人である。だが、この国では人への投資を怠った結果、人材が育ちにくい環境になってしまったのだ。

 その象徴が、年々深刻化する一方の博士号取得者の就職難だろう。

 1991年、当時の大学審議会は専門能力を持つ人材育成などを目的に大学院生数を10年後に倍増することを提言した。これを受け、博士課程在学者は91年度の約2万9千人から2008年度には約7万4千人に急増した。

 国も1996年からの科学技術基本計画で博士号を取得した若手研究者、いわゆる「ポストドクター」(ポスドク)を研究の担い手として増やす「ポスドク1万人計画」を打ち出した。2006年度時点で、ポスドクは約1万6千人にまで膨れ上がっている。

 しかし、博士号取得後の就職先は期待されたほど広がらず、少子化や不況などの影響で大学、企業とも雇用実績は伸び悩んでいる。ポスドクは単年か数年の期限付きで大学や研究所に在籍するが、企業でいえば契約社員的存在であり、身分は安定していない。

 ▼博士になっても生活苦では

 ある研究員は「年収は200万円に満たない。30代で助教など正職員になれたら幸運だが、契約終了後の行き先がなければ、研究費を自ら払って大学に残らないといけない」と嘆く。

 海外ではどうか。ポスドクは教授と学生をつなぐ重要な存在で、実際の研究もポスドクが担うことが多い。北米の大学で博士号を取得した九州大のある特任助教は「博士号取得まで学費を払ったことがない。ポスドクにも十分な給料が出ている」と振り返る。

 一方、日本ではいまや、博士課程進学を断念する例も出ている。大学院の場合、返済すべき奨学金は数百万円になり、就職難も重なって「修士課程を終えて博士課程に進むのは1割程度で、それも生活苦で辞める人もいる」(九大の若手研究員)という。

 これでは、若者の理工系離れが進むのも当たり前ではないか。大学や社会の受け入れ態勢が不十分のまま、博士の数だけ増やそうとしたつけが、理工離れをもたらしたともいえる。当然、国も無責任のそしりは免れまい。

 日本が今後、科学技術の分野で一層磨きをかけ、世界の中で存在感を示すには、人材養成が欠かせない。

 若山正人・九大数理学研究院長は「研究陣のすそ野を広げなければ、飛び抜けた人材は出てこない。多様な人材を集めることが必要」と訴える。そうした環境を整えるためにも、政府は「人」への投資を怠ってはならない。

西日本新聞 2010年1月12日

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教員の資質 競争と評価で鍛え上げよ

 民主党政権により、全国学力テストの縮小など教育政策が立て続けに転換している。十分な検証もされないまま、マニフェスト(政権公約)優先の施策が目立つ。これでは、教育再生が進むとはとても思えない。

 特に危惧(きぐ)されるのが、同党が公約とした教員免許制度見直しだ。文部科学省は、今年度始まったばかりの免許更新制を廃止し、教員養成課程6年制について有識者会議を設置し、近く検討を始める。

 都市部を中心に団塊の世代が大量退職していった影響で、優秀な教員確保、育成に教育委員会は苦慮している。教師の資質向上は学校教育を左右する最重要課題である。結論ありき、で議論を急いではならない。

 学校では保護者の要望が多様化し、教室外の問題も増えている。旧態依然とした指導法は通用しなくなり、マンネリ化した授業に子供たちが飽き、学級崩壊が起きるケースも報告されている。

 免許更新制は、10年ごとに講習を実施し、ダメ教師には免許失効もあり得る制度だ。ベテラン教師も含め自身の指導を見つめ直す機会として有効である。

 6年制は実習を大幅に増やし、大学院教育で教師の社会的地位向上などをねらっている。だが採用前では「お客さま」扱いの域を出ない。優秀な教師を育てるには採用後が肝要で、現場で鍛える態勢充実こそ先決ではないか。

 文科省は来年度予算案で自民党政権時に予算要求した主幹教諭増員を見送った。主幹教諭は校長の学校運営を支え、新人教師らの指導役にもなる。教員世界の横並び意識を変える制度であるが、日本教職員組合(日教組)など一部教職員組合は反対していた。

 民主党の輿石東参院議員会長は出身母体の日教組の新春の集いで、教育が参院選の争点になるとし、「いよいよ日教組の出番だ」などと語ったという。だが日教組は評価や競争を嫌う体質を今でも引きずっている。

 これまでの民主党の教育政策をみると、教員の「負担」などを減らすことに重きが置かれ、厳正に評価し、指導力向上につなげる視点に欠ける。それでは悪平等など教育界の悪弊を絶てない。

 教師の資質向上に重要なことは、評価をためらわず、熱心な教師には待遇面を含め報い、ダメ教師を教壇に立たせない施策を徹底することである。

産経新聞 2009年1月11日

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どんな教育を目指すのか いまこそ国民的論議を起こせ

 2010年度政府予算案で子育て・教育関連の「子ども手当」「高校実質無償化」に、それぞれ2兆円規模、1千億円単位の金額が盛り込まれた。

 子ども手当の対象は中学生までだ。高校無償化は文字通り公立高生の授業料をゼロにし、私立高生に対してもそれを大幅に減額する施策である。多くの国民が多額の教育費にあえいでいるなか、家庭に直接、恩恵をもたらして教育負担を目に見えて軽減する。

 「子どもを社会全体で支える」が、政権交代を果たした民主党の一つの理念であり、鳩山政権の考えだ。重要な政策転換であることは間違いない。

 一方で、気掛かりなことがある。民主党政権は、どんな教育を目指すのか。カネの話に隠れて、その議論が新政権から一向に出てこないことだ。

 ●混迷する学力テスト

 象徴的なのが全国学力テストだ。

 学力テストは自民党政権が学力向上策として打ち出し、07年に復活した。小学6年生と中学3年生の全員を対象に、算数・数学と国語の2教科で始まった。「全員参加」が眼目だ。

 これに対し、民主党は昨年夏の衆院選でマニフェスト(政権公約)にこそ示さなかったが、全員参加の見直しを掲げた。「学力傾向を知るのは抽出調査で十分」という判断であり、全員参加型を無駄な事業と位置付けた。

 文部科学省は早速、4割程度の抽出調査にする方針を出した。ところが、行政刷新会議の事業仕分けで「もっと減らせ」と言われると、昨年末に3割程度へとさらに圧縮した。すでに文科省は小学校約5500校、中学校約4800校の抽出対象校を選び、4月20日に実施する段取りを決めている。

 これで毎年50億―60億円投じていた予算を33億円に減らした、と文科省は言う。これもカネの話である。

 しかし、大事なのは「何のための学力テストなのか」のはずだ。

 そもそもテスト復活時、文科省は全員参加の意義や目的を「子ども一人一人の学力を把握し、国の教育施策に生かし、同時に自治体や学校の指導改善につなげる」と説明した。そして、いまは「全体の学力傾向を把握する」(川端達夫文科相)に転じた。

 では、学力傾向を把握して国はどうするのか。文科省は明確な指針を示さないまま、テストには自前採点を条件にして対象校外でも市町村が希望すれば参加できるという。これなら過去3回と変わりなく、横並び意識も働いて多くの自治体が参加するだろう。

 学力テストで測れるのは学力の一部にすぎない。それなのに都道府県別、市町村別などの結果が毎年独り歩きして、点数=学力という風潮が強まるばかりではないか。全国学力テストを見直す本来の意味は、そこにある。

 私たちも社説で、全国学力テストを全員参加型から抽出型に変えるよう求めてきた。国の施策に反映させるためなら、毎年200万人を超す大規模テストは不要だ。個々の学習状況を点検して日々の指導に生かすのであれば、子どもに身近な自治体や学校が工夫を凝らして独自のテストに取り組めばいい。そう考えてのことである。

 国がやるべきは教育水準の確保であり、そのためにテストで全体的な学力の経年変化をつかんで改善すべき課題を得ることだ。決してテストで自治体や学校を競わせることではない。

 ●新政権は全体像示せ

 昨年春始まったばかりの教員免許更新制度を見直す。大学院修士修了を教員免許の取得条件にし、教員養成課程を6年にする。教員の質向上のため、民主党政権はこんな方針も掲げた。

 教員免許更新制は廃止も視野に入れており、制度の急変につながる。教員養成6年化も制度の大変革である。

 いずれも政策として打ち出しながら、具体化に向けた論議は途絶えている。何より、そんな個々の政策を通して、どんな教育を実現しようとするのか。その全体像が見えないのだ。

 子どもに基礎・基本とともに、多様で幅広い「生きる力」を育てる。これが教育の要であり、大きな目標である。子どもたちの学ぶ意欲を高める。家庭の経済格差による学力格差を埋める。これらも重要な教育課題である。

 一朝一夕にはいかないが、そのためには、どうすべきか。学力テストを見直すのも、教員の養成や質向上策を考えることも、そこに収斂(しゅうれん)する。

 新政権が教育改革を掲げるのなら、国民の理解が不可欠であり、教育ビジョンを語らねばならない。いまこそ国民的な論議を起こすべきだろう。

 東大の基礎学力研究開発センターが4年前、全国の公立小中学校長を対象に実施したアンケートを思い起こす。ゆとり教育見直しの一環で学校選択制などが議論されていたが、校長の85%が「教育改革が速すぎて現場はついていけない」と回答したのだ。

 教育政策はこの10年余り、ゆとり教育の導入とその見直しの間で揺れ、学校現場はその都度、対応に追われるという構図が続いてきた。その二の舞いにならないよう、幅広く意見を聞き、地に着いた論議が求められる。

 すべては子どものためである。

西日本新聞 2010年1月10日

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親権制限 虐待防止に本腰入れねば

 親から虐待される子どもたちを守るため、親の絶対的な権利と義務とされてきた「親権」が制限されることになりそうだ。

 法務省の研究会が今月中にまとめる報告書には、民法改正の必要性が盛り込まれる。法制審議会などで検討した上で、2011年の通常国会への法案提出を目指す。

 深刻化する児童虐待に対し、親権に踏み込んで法制度を見直すのは初めてだ。親子関係に影響を及ぼす制度だけに、丁寧な論議が求められる。

 全国の児童相談所が受理した08年度の虐待件数は約4万2700件で、10年前の約6倍に達した。虐待で死亡した子どもも後を絶たない。宗教上の理由などで、親が子どもの治療を拒否する「医療ネグレクト」も多い。

 08年4月に施行された改正児童虐待防止法は、強制立ち入り調査や、子への接近禁止命令など、相談所の権限強化が盛り込まれた。

 だが改正法にも限界があった。親が親権を盾に、子の連れ戻しを主張し、施設側とトラブルになる例が相次いでいる。親元に帰れば、虐待が繰り返されかねない。悲惨な実態を踏まえれば、親権制限が検討されるのは当然だ。

 民法では、相談所が親権を制限するには、家庭裁判所に「親権喪失宣告」を申し立てるしかない。だが、これが認められると、戸籍に記載される。子どもの将来に影響を及ぼす懸念がある。家裁の判断に時間がかかり、実効性に乏しい側面もある。

 これに対して、報告書の方針は、親権を一時的に停止できるようにするものだ。虐待された子どもを受け入れる児童養護施設の施設長の権限を民法上の親権よりも「優越」させる規定も設ける。家裁による親権喪失宣告に比べて迅速に対応できるようにする。

 親権一時停止は、その間に親への支援や指導を進め、虐待姿勢の改善を図ろうという点にある。停止期間が短ければ短いほど、親子関係に与える傷も浅くて済むだろう。

 問題は、親に対するきめ細かな支援の在り方だ。カウンセリングを行うには、人的手当てが重要になる。

 親が虐待をする原因は、複雑である。望まない出産や、育児ストレス、配偶者への不満などが絡み合っているとされる。核家族化や地域との結びつきが弱まり、孤立感を抱く親も多い。

 相談所は、急増する児童虐待に追われて慢性的な人員不足に悩まされている。児童養護施設の体制整備も追い付かない状況という。これではいくら法改正しても、実効は上がるまい。

 児童虐待の増加に歯止めを掛けなければならない。政府に求められるのは、法整備と同時に、マンパワーの確保に力を尽くすことだ。

新潟日報 2010年1月6日

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年のはじめに考える 変わる高校・大学入試

 入試の季節が近づきました。公立高校では推薦枠を見直して学力重視の傾向に、大学入試でも改革の動きがあります。入試制度は様変わりしそうです。

 昨年十月に開かれた東京都教育委員会で、都立高校入試の推薦枠が議論の的になりました。一部の委員から「枠が広がりすぎている」と批判が上がったのです。

 都立高校の推薦入試は職業科でスタートし、二〇〇九年度は普通科を含むすべての学科で行われ、全百七十三校のうち、約97%の百六十七校で実施されました。

 選考は調査書(内申書)のほかに面接や小論文などで受験者を評価しており、学力試験は課されていません。

◆4分の1が推薦入試枠
 推薦入試は学校の特色にふさわしい生徒を選んだり、学力偏重になりがちな入試を多様化させるといった狙いがあります。

 推薦枠の人数は上限の範囲内で各校が決めますが、一〇年度は都立校の募集人員四万一千七百八十六人のうち、一万一千七十七人にのぼります。批判は「入試で四人に一人が学力試験を受けないのはおかしい」という指摘です。

 推薦入試は主に一月下旬に行われ、推薦された生徒はそこで不合格でも一般入試を受けられる機会不平等の問題もあります。

 新型インフルエンザが流行し、自治体が高校入試で追試験を実施するかどうかで悩んでいます。追試にも受験機会や出題水準の「公平性」という問題が存在します。

 推薦入試の見直し論には内申書への不信もあるようです。推薦入試で合格するか否か、それ以前に推薦してもらえるかは内申書が大きな比重を占めます。教師によって内容がばらついたり、恣意(しい)的に作成されることがあってはなりません。しかし、その実態は中学校側にしか分からないことです。

◆入試は公平であるべき
 入試は公平、公正な制度であるべきです。推薦枠の拡大が公平性を損ねているとしたら、改善しなければなりません。ただ、入試制度の急な変更は生徒への影響が大きく、拙速は避けるべきです。

 都教委は今春からの変更を見送りましたが、来春から推薦枠を減らす方向で臨むようです。

 大阪府はすでに推薦入試をしていません。埼玉県は学力検査のない入試を一〇年度から廃止し、千葉県は一一年度から二回ある試験の両方で五教科の学力検査を行います。学力試験を重視しだした自治体をみると、私立高校が多い都府県のように見受けられます。

 大学では推薦入試と学力の関係が深刻な問題になっています。国公私立大の全入学者のうち、推薦入試やアドミッション・オフィス(AO)入試での学生が四割を占めています。AO入試は面接や小論文などを通じて志願者を評価しようという方法です。一九九〇年代から各大学に広がりました。

 ところが、この方式の入学者に基礎学力の不足が指摘され、見直す動きが出ています。国公立ではAO受験であってもセンター試験を課したり、AO入試自体を廃止する大学も出てきています。

 文部科学省は学力不足の学生を増やさないためにも「高校・大学接続テスト」(仮称)導入を検討しています。高校段階の学習達成度を測定し、推薦入試やAO入試にも活用する狙いがあります。ただ、大学入試センター試験との関係など、導入までには多くの問題が残されています。

 私立大学にはAO入試や推薦入試を簡単にやめられない事情があります。少子化が進み、大学の募集定員と志望者が同数の「全入」時代となり、本年度は四年制私立大の四割以上で定員割れです。経営の厳しい私学では推薦やAO制度をうまく利用すれば、定員確保ができるからです。

 有名私大には付属や系列の中学校を設ける動きが活発です。子供は大学までの進路が保証され、学校は一定の人数を早めに確保できます。“囲い込み”とも言え、私学の必死さがうかがえます。

 神奈川県教委では昨年十月、公立高校全日制の定員増を求めた教育委員一人が辞任しました。全日制の定員比率が低く、定時制を選択せざるを得ない生徒が多いとの主張は通りませんでした。全日制が増えれば定時制や私学が影響を受けるのは間違いありません。

 今後、公私を問わず、学校の存続競争が激しくなるでしょう。大学だけでなく、高校も淘汰(とうた)の時代に入ったとみるべきです。

◆教育内容も再考の時期
 高校でも推薦入試は学力不足の抜け道となってはいないでしょうか。日本は人材育成が何より重要です。制度が学力不足を招いている要因の一つだとしたら、見直さなくてはなりません。入試議論にとどまらず、高校と大学は教育内容も再考する時期に来ています。

中日新聞・東京新聞 2010年1月3日

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