地方紙社説(2006年12月)


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学校再生は自浄作用と家庭教育で

■注視しよう教育振興基本計画
先だって参議院で改正教育基本法が与党の単独採決で成立した。結局、民主党案は廃案になったわけである。「教育の憲法」と呼ばれているのだから対案を審議するなど国民の前に赤裸々にし採決してほしかった。

「はじめに賛成・反対ありき」では感情が先行し理念が埋没する。加えて実相が表出せず、結局、学校が苦悩することになるのではないだろうか。その苦悩の間隙を縫って行政という権力や父母という保護者が種々の注文をつけることになりはしないか気掛かりだ。

その結果、学校が萎縮しないか心配である。萎縮の中にいい教育は育たないし創造は生まれない。文部行政はそのことをしっかり認識し慈愛にも似た感情で学校を育てなければなるまい。そうでなければこの国の教育は羅針盤を失った船の航行のようにいつ、どこの港にたどりつくか分からない。

この後、政府は改正教育基本法に基づいて教育振興基本計画関連の諸施策を作っていくことになるが、その過程や内容をきちんと注視しなければならない。これからが正念場と言えよう。

■児童生徒の教師評価
国会の教育基本法改正、文科大臣諮問の中央教育審議会、総理大臣開催の教育再生会議とこのところ国家レベルの教育審議が相次いでいる。「いじめ自殺」や「高校必修未履修」等が湧出している時だけに緊張感がある。

そんな中「教育再生会議」(野依良治座長)が学校再生のひとつとして教員の資質向上を掲げている。それを図るため、校長が行う教員評価に保護者、児童・生徒らも参加させる外部評価を導入することを盛り込んだようだ。

果たして児童・生徒や保護者に適正な教員評価ができるだろうか。指導を受ける立場の「子ども」が、指導する立場の「先生」をどのような観点で評価するのだろうか。大学予備校での講師評価は聞くが、それは大学進学希望者によるものである。未発達の児童・生徒が総合的な視点で指導を施している専門職としての教員を評価できるはずがないではないか。思い上がりで利己的な子どもが育つようでむしろこちらの方が心配だ。

さすがに、導入に消極的な委員もいたようだが、評価方法の工夫で懸念が一掃できると大勢判断したようだ。熟考を願いたい。先に書いたが教員が委縮したり、生徒にこびるような状態の学校では真にいい教育が展開されない。そのような学校が出現しないか気になる。

多数から幅広い意見を求めたいとか、将来を背負って立つ若者の意見も-と言えば聞こえはいいが、大人が自信を失っている姿が見える。憲法改正国民投票法案では投票者年齢は18歳からとしている。与那国町においては合併住民投票に中学生も参加させた。

わが国では選挙権は20歳からである。この年齢を成人とし社会的に責任を持てる年齢としているからだ。もっと大人が責任を持ち大人自身の考えで諸問題を解決したいものだ。教員の資質向上にもそのことが言える。

■自浄作用で学校変革を
専門職として教職に就いている教員が自分の仕事ぶりを保護者や児童・生徒に評価してもらい、いけないところを質(ただ)してもらうという教員評価。そういう状況を作りだした学校を憂える。この責任は学校がまず負わねばなるまい。

つまり、自浄作用で学校を再生させなくてはいけない。そのためには教室にいる目の前の児童・生徒の学習指導に責任を持つことから出発したい。

次に、人間指導の最初の担任は両親である。その教室は家庭。この認識を今こそ強くしてわが子に当たりたい。今回の改正教育基本法の目玉のひとつが「家庭教育」であったことを知りたい。教員も親も同等に学校再生に責任がある。

八重山毎日新聞 2006年12月23日

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安倍内閣の初国会 与野党ともに役割未達成

小泉純一郎前首相からバトンを受けた安倍晋三首相にとって初めての国会が終わった。首相が最重要法案と位置付けていた改正教育基本法や、防衛庁「省」昇格関連法を成立させるなど、政府与党の立場からすれば「それなりの成果を挙げた」との総括になろう。

だが、一連のプロセスを振り返ると、消化不良感はぬぐえない。その責任は民主党など野党サイドにもある。安倍内閣が初編成した予算案などを審議する来年の通常国会では、国民がより納得できる論戦を展開して、与野党双方がそれぞれの役割を果たしてほしい。

「教育の憲法」とも呼ばれる教基法の改正は、極めて時期が悪かった。会期中に「タウンミーティングやらせ質問」「未履修」「いじめ自殺」という三大問題が浮上したからだ。教育関係の質疑はそれら一辺倒に陥った感がある。

こうした中、果たして採決を急ぐ必要があったのか。与党側の対応は非常に疑問だ。安倍首相の初陣≠飾りたいとの思い入れもあったのだろうが、事は「国家の大計」である。通常国会へ決着を先送りしても良かったと思う。

その上、タウンミーティングをめぐる問題では、政府与党が被告≠フ立場だ。教基法改正の根拠の一つを「タウンミーティングにおける国民からの意見集約」が占めている以上、まずは野党からの責任追及に徹底して応じるなど、けじめをつけることの方が採決よりも優先されるべきだった。

教基法改正については、野党の対応にも疑問が残る。民主、共産、社民、国民新党の四党は衆院での採決を欠席したが、沖縄県知事選での共闘維持を念頭に置いた動きだった。本来なら四党それぞれが討論を行い、法改正へのスタンスを議事録に残すべきなのに、そうした議会制民主主義の手続きを怠った。

四党に民意を託した有権者からすれば、分かりにくく残念な結末だ。まして民主は対案を出しており、法案修正に努力すべき立場だったはずである。

民主をめぐっては賛成に回った防衛庁「省」昇格関連法の採決で、欠席者が相次いだり退席者が出るなど、政党の根幹である「政策の一致」に疑問符が付く場面が相次いだ。来年の参院選で与野党逆転を目指すのであれば、党内論議を尽くし、政権獲得へ向けた政策をきちんと固めるべきだ。

通常国会では自民、公明、民主三党が共同修正案の作成で合意した憲法改正手続きを定める国民投票法案や「共謀罪」新設の組織犯罪処罰法改正案、少年法改正案などが論戦の対象となる。

その途中には統一地方選、直後には参院選があるが、それら重要課題を政争の具としてはならない。安倍首相も政策面などでカラーをもっと前面に出し、国民の判断を仰いでほしい。

神奈川新聞 2006年12月20日

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臨時国会閉幕 戦後政治転換に検証必要

安倍内閣で初めての臨時国会が、十九日閉幕した。「改正教育基本法」と「防衛庁の『省』昇格関連法」という、戦後の社会や国の枠組みを変容させる可能性のある法律が相次いで成立した。戦後政治に残る国会となったといえよう。

教育基本法は一九四七年に制定されて以来の見直しとなった。強まった個人主義に対して「公共の精神」を強調し、新たに策定する教育振興基本計画などを通じて、教育への国のコントロールを強化する可能性を含んでいる。しかし政府側が、教育現場がどう変わるのかなどの十分な説明を果たしたとは思えない。

防衛省昇格関連法は、内閣府の外局として国家機構の中で一歩控えていた形の防衛庁を、省に格上げして前面に押し出す意味合いを持つ。併せて自衛隊として「付随的任務」だった国連平和維持活動(PKO)などの海外での活動を、防衛・治安出動などと同じ「本来任務」とする内容だ。憲法の平和主義を踏まえて軍事に抑制的であった国の防衛政策を転換する意図がうかがえるが、なぜ今その必要があるのかは理解し難い。

これら法改正によって戦前のような軍国主義に戻るとは考えにくい。だが、戦後続いてきた社会や国の基本的な仕組みや慣習、国際社会での日本の位置づけなどに変化をもたらす契機となる可能性は大いにある。

両法案は小泉内閣からの継続審議であったが、成立させた安倍内閣の役割は大きい。二つとも自民党内などに根強い意向がありながら長年実現しなかった。それだけに安倍晋三首相が掲げる「戦後体制からの脱却」を印象づける形となった。

八十五日間の会期中、政府が今国会に提出した法律・条約十四本はすべて成立、承認された。継続審議となっていた政府提出十法案のうち六本が成立した。巨大与党の力を見せつけた。

改正教育基本法の成立を受け政府は関連法の見直しに着手する。防衛政策では、自衛隊の本来任務となった海外派遣を容易にするための「恒久法」の制定などを視野に入れつつある。これらの延長線上に安倍首相が目指すのは持論の憲法改正だろう。実際、憲法改正手続きを定める国民投票法の来年の通常国会での成立を図る構えだが、問題だ。

今必要なのは、今回の二つの法改正の影響を立ち止まって検証することではないか。社会がどんな方向に行くのか、何か問題が起きないのかを見極めなければならない。それほど重大な意味を持つ改正だったことを肝に銘じておきたい。

山陽新聞 2006年12月20日

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国会閉会 将来恥じぬ議論したか

安倍内閣が九月に発足後初めての臨時国会が閉会した。八十五日間の今国会では、「教育の憲法」といわれる教育基本法が制定以来五十九年ぶりに改正され、防衛庁の「省」昇格関連法もあっけなく成立した。戦後の教育の根幹や防衛政策が大きく転換する、曲がり角の国会になったといえる。

しかし、重要法案の白熱した論戦があったか。政府の説明は全く十分でなく、民主党など野党の追及も迫力を欠く体たらくだ。国民に賛否があり、国の行く末を左右する法案に対して、今国会が将来の検証に恥じない丁々発止の議論をしたとはとても思えない。

今国会は、安倍新内閣の国づくりの方向性とその実像を国民に示す機会だった。「改革、競争」一辺倒だった小泉前内閣の何を継承し、何を刷新するのか。だが、安倍晋三首相の打ち出す「戦後体制からの脱却」の必然性や真意は、多弁ながら明確ではなかった。

改正教育基本法は、現行法が培った「個」の尊重から「公」重視に基本理念を急旋回させた。教育目標に「愛国心」重視の姿勢を掲げた。では、なぜ戦前回帰なのか、それによっていじめ自殺や各教委の無責任対応など混迷する現場が立て直せるのか。愛国心も個々に価値観が違うものを強要していいはずはない。社会情勢の変化を見据えた教育再生について、説明責任が果たせたとはいえまい。

防衛庁の省昇格関連法にしても、国防権限が強化され、「付随的任務」だった自衛隊の海外派遣が「本来任務」に格上げになる。これまでの「専守防衛」を根本から覆しかねない重大な懸念をはらむ法案である。

こうした安倍内閣の「危険ゾーン」への踏み込みをただせなかった民主党の責任は大きい。

独自に提出した教基法改正案では、むしろ愛国心は自民党より色濃く盛られた。集団的自衛権でも一昨日まとめた「政権政策」で一部容認に踏み込むなど、自民党との対立軸が明確でない。対案を出しつつ攻め切れない小沢体制の弱さが、重要国会で露呈した形だ。

考えてみれば、自民党復党問題に大義があったか。タウンミーティングやらせ問題、税制改正の企業優遇路線。民主党が攻める切り口は多々あった。それを生かせない野党第一党に、来夏の参院選で政権交代をかける力量があるか。

昨秋の衆院選で自民党に圧倒的多数議席を与えた有権者も、今後の国の在り方を見極めたい。

中国新聞 2006年12月20日

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臨時国会閉幕 国民とのずれが明確に

9月に発足した安倍内閣にとって最初の関門だった臨時国会が19日、閉幕した。政府が重要法案として位置付けた改正教育基本法や防衛省昇格関連法が成立した点が今国会の大きな特色だ。安倍晋三首相が政権公約として掲げる「戦後レジーム(体制)からの脱却」への一歩を踏み出したことになる。

教育基本法は昭和22年の制定以来、初の改正。前文で公共の精神や伝統の継承などを盛り込み「我が国と郷土を愛する態度を養う」と明記した。一方、昭和29年発足の防衛庁は防衛省となる。国連平和維持活動(PKO)などを自衛隊の付随的任務から本来任務に格上げした。また、防衛相は閣議開催や予算の直接要求なども可能となる。

保守勢力の念願だったこの2つの法改正を受け、安倍首相は憲法改正に向け、来月召集の通常国会で国民投票法案の成立を図る考えだ。与党が衆院で圧倒的多数を確保しているとはいえ、改正教育基本法のように力づくで成立を図ることだけは避けるべきだ。

安倍首相が「美しい国」として描く国家像、新しい国のかたちが次第に具体化しつつある。国が大きな曲がり角に差し掛かっていることへの懸念、警戒感を抱かざるを得ない。

重要法案が次々と成立することとは裏腹に、会期中に安倍内閣の支持率は、発足時の65・0%の高水準から48・6%へと急降下した(共同通信社世論調査)。郵政民営化造反議員11人の復党が原因とみられるが、はたしてそれだけだろうか。

小泉政権の負の遺産とされるのが格差問題。持てる者と持たざる者、中央と地方、さらに地方同士でも格差が広がっている。このほか、医療、福祉、いじめなど、国民にとって切実な問題が山積している。にもかかわらず、首相の熱意がどうも伝わってこないのだ。こうした姿勢が「国家あって国民なし」の政権ではないかとの批判を生んでいる。

もっと言えば、首相の目指す政策の優先順位が、国民が期待する政策とずれているといわざるを得ない。沖縄知事選や神奈川、大阪の衆院補選で自民党は勝利したものの、前回総選挙に比べ、無党派層の票を相当減らした事実が、そのことを示している。

それにしても野党、特に民主党には迫力も一貫性もなかった。野党共闘を組んで安倍政権との対決路線で臨んだはずだったが、国会戦術は最後までぶれた。特に教育基本法改正案に関しては、衆院段階で与党単独採決に反発して審議拒否しながら、沖縄県知事選で野党候補が敗北した途端、何ら明確な説明もなく審議に復帰してしまった。

来夏の参院選へ向け民主党は基本政策を公表した。すべての年金一元化と消費税の福祉目的税化、安全保障政策では集団的自衛権の一部容認などが柱だが、全体的にはあいまいさが残る。参院選は小沢一郎代表にも正念場になるだけに、安倍首相の「美しい国」路線に対抗するもう一段の政策づくり、そして国家像の提示が必要ではないか。

秋田魁新報 2006年12月19日

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臨時国会閉幕 国民の期待を裏切った

改正教育基本法に防衛庁の省昇格関連法。日本の在り方にかかわり、国民の意見も分かれる重要な法律を慌ただしく仕上げて、臨時国会がきょう閉幕する。

だが、果たして国会は国民の関心や期待に応えることができたのだろうか。閉会日を迎えて募るのは、そうした疑問とむなしさに似た思いである。

この国会では冒頭に安倍晋三氏が首相に指名された。安倍首相にとっては初舞台の国会であり、各党にすれば安倍政権がやろうとする政治を国民の前に引き出す論戦の場であったはずだ。

首相は所信表明演説で「美しい国」づくりを唱えた。技術革新で経済成長を維持し、再チャレンジができる社会を目指す。教育改革に力を入れ、外に向かっては「主張する外交」を展開したい。首相の第一声はこんな内容だった。

しかし、九十日近い国会であったにもかかわらず、その中身をめぐる論議が深まることはなかった。日本の社会に重くのしかかる格差の是正、社会保障制度の再構築といった政治の喫緊の課題には解決策がほとんど示されずじまいだ。

そんな中で唯一際立っていたのが、安倍首相が政権公約に掲げる「戦後レジーム(体制)からの脱却」である。改正教育基本法や防衛省昇格法の成立は、その大きな一歩と位置付けられる。

首相は年明けに始まる通常国会で憲法改正のための国民投票法案の成立を期す構えだ。集団的自衛権の行使に向けての研究、自衛隊の海外派遣をいつでも可能にする恒久法の制定も近く政治日程に上ってくることが予想される。

今国会では野党第一党の民主党の存在感のなさも目立った。安倍政権に対決姿勢を打ち出したものの、国会対策に一貫性がなく攻撃力を欠いた。教育基本法改正案の審議を拒否したかと思えば、また戻ってくるなどしたのがいい例だ。

タウンミーティングでの「やらせ質問」問題もあって、野党には追い風が吹いていた。それを生かせなかった責任は、追及不足だった民主党が負わなければならない。最大野党が無気力であっては国会論戦が盛り上がるわけがない。

安倍首相が唱える「美しい国」や「戦後レジームからの脱却」に警戒心を抱いている国民は多い。安倍政治の本質を明らかにし、正すべきは正すのが野党の役割だ。民主党に反省を促したい。

統一地方選や参院選を控えた一月からの通常国会こそは、安倍首相や与党にとっても野党にとっても正念場となる。まともな論争を取り戻し、国会の復権を図る。そんな重い宿題が残った。

新潟日報 2006年12月19日

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国会閉幕 選択肢を示せたのか

臨時国会が事実上、閉幕した。安倍晋三政権が発足してから初めての論戦の場だった。教育基本法改正案、防衛庁を「省」に昇格させる法案など重要法案が成立、日本の針路に大きな問題を投げ掛ける国会となった。

その割に論戦は盛り上がらなかった。審議時間の多くが、タウンミーティングの「やらせ質問」や高校未履修問題に費やされている。

来年夏の参院選挙を念頭に、対立軸をはっきりさせ、国民に選択肢を示す努力を与野党がどこまで傾けたか、疑問が残る。

教育基本法を変えれば学校に生き生きした空気は戻るのか、いじめはなくなるのか。なぜいま、防衛庁を「省」に昇格させる必要があるのか−。こうした疑問に、安倍首相をはじめ政府側は納得のいく答えを示すことができなかった。

例えば教育基本法について首相は、「戦後60年たった今こそ改正し、新しい理念の下で再スタートを切る必要がある」といった抽象論に終始している。

暮らしに直結するテーマの論戦も物足りなさが目立った。来年は所得税・個人住民税の定率減税が全廃される。事実上の増税である。

そんな中で安倍政権は、2007年度の予算編成に向けて企業減税を打ち出してきた。

正社員からパート、アルバイトへの置き換えなどにより、働く人たちの所得は増えず、そうでなくても個人消費に元気がない。そんな時の個人増税、企業減税だ。

景気はそれで大丈夫なのか−。国民が抱く疑問に、国会は十分にこたえられなかった。社会保障の将来像や消費税についても、首相の考えはさっぱり伝わってこない。

論戦が精彩を欠いた一因は民主党にある。重要法案について、党内に意見の違いを抱えたまま臨んだ結果、与党案の問題点の追及が中途半端に終わった。内閣不信任案による揺さぶりも、4日間の会期延長であっさり封じ込められている。

タウンミーティングでの「やらせ質問」も、はじめに掘り起こしたのは共産党だった。野党第一党としての存在感を、民主党は示すことができていない。

国会の終盤で、衆院では4野党が内閣不信任案を出しておきながら、参院の首相問責決議案は共産、社民の2党だけで提出した。民主党が衆院と参院で対応を変えたためである。分かりにくい対応だ。

年が明ければ通常国会が始まる。予算案を中心に、安倍政権の真価を本格的に問う場になる。入念な準備を与野党に望む。

信濃毎日新聞 2006年12月17日

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「改正教基法の課題」 危うい国家的関与の強化

「教育の憲法」といわれる教育基本法改正案が成立した。しかし参院本会議では投票総数230票のうち賛成131票、反対99票。総数を100とすると「57%対43%」と、ある意味ではわずかの票差は異様であり、それだけ問題のある改正法である点を忘れてはならない。

教基法は1947年に制定されて以来、初の改正だ。なぜこの時期に、という素朴な疑問は消えない。「戦後体制からの脱却」を掲げる安倍晋三首相にとって、政権の最終目標は憲法改正であり、その布石となるのが教基法改正だ。

また、郵政造反組の復党問題や政府のタウンミーティングでの「やらせ質問」などで内閣支持率が急落している折である。今回の改正はつまずいてはならない改憲への第一歩とみての強行突破なのだろうか。とすれば教基法は踏み台とみなされたことになる。

教基法の審議中には、いじめ自殺や必修科目の未履修など教育にかかわる深刻な問題が相次いだ。それだけに民主、共産、社民、国民新の野党四党の反対を押し切った与党の姿勢に対して「なぜ今なのか」「急ぎ過ぎ」という批判の声が上がっている。

改正教基法の一番の特徴は、教育に対する国家的な関与の度合いを強めたことだろう。この点で同法が具体的に反映される今後の学習指導要領改定や学校教育法、教員免許法、地方教育行政法など30を超す関連法の改正から目が離せない。

法律は一度成立すると、反対意見があったことは次第に忘れられ、やがて拡大解釈されていく。「抵抗力」の弱い地方では特にその傾向が強く、法解釈は形式的になりがちだ。教員が多忙で、子供と正面から向き合うことが少なくなった教育現場では、国の方向転換に混乱し、いじめの再発や新たな問題も起こりかねない。

改正教基法の条文では第二条「教育の目標」として豊かな情操と道徳心、公共の精神、伝統と文化を尊重し国と郷土を愛し国際社会に寄与する態度が明記された。

これまでの教基法で学問の自由や自発的精神が前面に出ていたのと比べ、改正法では徳目教育を目標化した点が目立っている。「愛国心」について安倍首相は「内面に入り込んで評価することはない」と言っている。だが政府は「教員の指導は責務」「学習姿勢を評価」と、現場に具体的な指導を求めている。

現場にとって、徳目教育は難題だろう。これから新たな指導要領や関連法に沿った教育が試みられ、やがて「模範校」が一つの基準になるだろう。その過程で、教師の多様な価値観や子供の自由な発想が変にゆがめられないか心配である。

学校や教育委員会の硬直的な対応でいじめ問題が膨れ上がったのと同様、徳目教育も形式化する恐れがある。国歌斉唱が学校評価の一つの基準になっているのと同じ理屈だ。上意下達ではない幅のある試行を望みたい。国の教育への関与は、あくまでも抑制的であるべきだ。

陸奥新報 2006年12月18日

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政府は疑念、不安をぬぐえ/「教育の憲法」改正

敗戦二年後の一九四七年に施行された教育基本法は、五十九年にわたって戦後教育の柱になり「教育の憲法」と言われた。国家のためだった戦前の教育を反省し、自主的に考えられる一個の人間を育てていくことを根本理念にしている。

その理念を大きく転換させて「公共の精神」を重視する改正教育基本法が十五日、参院本会議で自民、公明両党の与党賛成多数で可決された。

自民には、個人を重視する現行法は道徳や公共心を軽視し、教育を荒廃させたとする意見が根強い。その思いも受けた小泉政権が改正案をつくる。引き継いだ安倍政権下で成立した。

戦後体制からの脱却を掲げる安倍首相は、占領時代につくられた教育基本法と憲法を自らの在任中に「二十一世紀にふさわしい内容に書き換えたい」と言って登場した。首相は目的の一つを達成した。

背景にあるのは、昨年の衆院選で自民が大勝した数の力だろう。だが、自民はこの選挙で、国民に直接賛否を問いかけてもいいほど重要な教育基本法の改正を争点にしていなかった。

共同通信が十一月下旬に行った全国世論調査によると、改正案賛成が53.1%、反対は32.9%。賛成した人のうち今国会で成立させるべきとする人は43.1%、成立にこだわるべきでないが53.8%あった。

改正には肯定的だが、教育は「国家百年の計」だから丁寧な審議を、と世論は望んでいたとみる。私たちも、改正の是非を国民が判断するためにも深い論議が必要と繰り返し求めた。

ところが、今国会の審議は改正案賛成の「やらせ発言」もあったタウンミーティング、いじめ自殺などが中心になった。なぜ今改正なのかの政府の説明も不十分。消化不良になった感があり疑念、不安が残った。政府はぬぐうべきでないか。

改正法は、公共の精神を尊ぶとか「我が国と郷土を愛する態度を養う」といった現行法にない道徳規範を盛っている。

ただ、愛国心は自然ににじみ出るべきもので何を愛するかの考え方も違うはず、という声が改正賛成の人にもある。なのに教育の目標の一つと明文化し、押し付けるようにしていいかという疑念がある。愛国心をどう教え、どう評価するのかという不安が学校現場から出ている。

国が教育に関与しすぎないよう歯止めをかけてきた現行法の条文に「教育は法律の定めによって行われるべき」と付け加えられた点も問題視されている。

これで国や行政が教育に介入しやすくなり、工夫して教える学校現場の自由が締め付けられないか。政府が変わり、法律や教育目標も変わって教える側、教えられる側とも混乱するのではないか。そんな心配もある。

改正法の成立で土台が変わった教育の実際の姿がどうなるかは、これから本格化する学習指導要領の改定のほか関連する法律の改正、教育再生会議の提言によって煮詰まっていく。

その過程で、懸念されている問題を政府が解消しようとするのかしないのか注視したい。安倍政権が目指し、戦後日本の大きな曲がり角になる憲法改正問題にも目を一層凝らしたい。

東奥日報 2006年12月17日

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教育基本法改正 議論は尽くされたのか

暗然とした気持ちにさせられる。改正教育基本法が、過去の教育行政や現在の実態についてさしたる検証、反省もなく、与党の力ずくで成立した。

安倍晋三首相は「改正は新しい時代の教育の基本理念を明示する歴史的意義を有する」と自賛する談話を発表したが、未来を展望した議論があったというのだろうか。政治家が教育を主導していくという、自己満足にすぎないのではないか。

安倍内閣は改正教育基本法を最重要法案と位置付けていた。数を頼んで強引に成立を図る手法は、郵政民営化関連法案を成立させた小泉前内閣をほうふつさせる。「郵政」の時、自民党は異論を唱える議員を党から締め出した。その後の対応には首をかしげざるを得ないが、極めて強権的な同党の政治姿勢が教育に及ぶことを危惧(きぐ)する。

与党の中に「郵政」の混乱を思い起こし、教育にかかわる自説を封印して内閣の方針に従った議員がいたとすれば、政治にとっても教育にとっても不幸なことだ。現在の自民党には、そんな危うい面がある。

教育は基本的に、一人一人を手塩にかけてはぐくむ営みであるはず。それが「国を愛する態度」などを身につけた国民の育成に重点を置くことになった。教育の目標として、新たに「公共の精神」「伝統と文化の尊重」などの理念が掲げられた。そうした精神の涵養(かんよう)にかかわる部分は、強制されて身につくとは思えない。そう思うのは政治的自己満足だろう。

改正に伴い学習指導要領も改定されるが、一人一人が国や地域に対して抱く思いは異なる。それを法の理念に従って強制しても、表面的な「教育行為」にすぎないだろう。

ひとことで言えば、改正法は「建前」の教育を上塗りしたようなものではないか。理念を掲げても子どもたちが抱えている競争、いじめ、将来への不安などの問題解決にはつながらない。文部科学省は「ゆとり教育」を唱える一方で受験競争にさらされる子どもたちの実態には目を閉じ、いじめ問題にも手をこまねいてきた。タウンミーティングにも示されたように、行政も現場も建前の教育を続けてきたといえる。噴出した未履修問題などは、その最たるものではなかろうか。

大切なのは、どのように子どもたちが育つ土壌を豊かにするか、のびのびとした教育環境をつくるか、個性に応じた教育を行うかということだ。その意味では、ゆとり教育の考え方に同意できる面もあるが、実際には行政の建前であり、それは再三現場を混乱させてきた文科省の方針のぶれに示された。

今度は政治が教育内容に踏み込む道が開かれた。改正法には政府が振興基本計画を定めるという条文がある。国と地方の役割分担と協力もうたう。しかし、政権が変われば教育内容も変わる恐れがある。地方は常に政府の意向を気にしながら、振興基本計画に沿った教育の実施に努めるとなれば、分権の流れに逆行する国家のための教育になりかねない。それは子ども本位の教育ではない。法は改正されても教育の在り方を考えていくのはこれから、の感が強い

秋田魁新報 2006年12月17日

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改正教育基本法成立 教育は国家のものでない

政府、与党が今国会の最重要法案と位置づけた改正教育基本法案が、野党がこぞって反対、内閣不信任決議案などが飛び交う中で成立した。1947年の制定以来、59年ぶりの初めての改正であり、教育の転機を迎えた。

現行法が目的に掲げた「人格の完成」はそのまま改正法にも残ったが、中身は変質した。個人としての完成をまず目指すという意味は薄れ、「国を愛する態度」などを身につけた国民の育成が前面に出た。

教育目標に新たに「公共の精神」、「伝統と文化の尊重」などの理念を掲げたのもそのためだ。

国を愛する「気持ち」は自然ににじみ出るもので、何をその「態度」とするかは人によって異なる。目標に掲げた理念を教育内容に組み込む学習指導要領の改定も行われるが、多義的な理念を行政が一つの形に決め、現場で強制するようでは、憲法で保障する内心の自由を侵すことになる。

子どもの心の中にずかずかと入り込んではならない。そもそもこうした理念を掲げたからといって、いじめによる自殺など、現代の子どもが抱える問題の解決につながるとはいえない。解決すると本気で思っている国民はどれほどいるだろうか。

問題の背後にあるのは、地域社会の崩壊や経済格差の拡大の中で、子どもが育つ条件が失われている現実だ。社会性を育てる集団がなくなり、親子がゆったりしたコミュニケーションを重ねる余裕もなくなっている。

「日本人としての教育が足りない」とイデオロギー先行で条文を書き換えたところで政治的自己満足にすぎず、教育課題の解決には程遠い。いま問われているのは子どもの育つ土壌をどう豊かにするかである。

政治が教育内容に踏み込む道が開かれたのも気になる。これまで歯止めとなってきた「教育は不当な支配に服することなく」との言葉は残ったが、「この法律及び他の法律によって行われるべき」との文言が加わった。「法に基づく命令、指導は不当な支配ではない」と政府が答弁しているように、歯止めは限りなく無力化されている。

政府が振興基本計画を定めるという条文も、国のコントロールを強めることになる。国会で多数派をとれば教育内容に介入できるということだ。政権が変わると教科書記述が変わるようなことでは現場は混乱する。地方分権の流れにも逆行する。

教育は人間の内面的価値にかかわる営みだ。学力テストをめぐる判決(1976年)で最高裁が、憲法原理をもとに、教育内容にかかわる国家的介入はできるだけ抑制的であることが要請される、と判示していることを忘れてはならない。

現行法は、戦前、過度の中央集権の下で画一的な統制に陥り、地方の実情と個性に応じた教育が行われなかったことの反省の上にある。これを受けて学校教育法制定に当たった文部官僚が戦前の教育について書いている。

「国の教育行政に対する態度は、のびのびした教育環境を作り出して教育を豊かに明るく伸ばすと言うより、監督々々で、いじけさせてしまう方が多かった」

この教訓をわれわれは真摯(し)に受け止めなければならない。教育は未来を担う子どものためにある。国家のものではない。

岐阜新聞 2006年12月17日

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改正教育基本法 国の介入に警戒強めよう

改正教育基本法が成立した。終戦間もない一九四七年に制定されて以来、初めての改正だ。「教育の憲法」と位置付けられてきた基本法の改正は、日本の教育の在り方を大きく変える可能性がある。

現行の教基法の前文は「われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである」としたうえで、憲法の精神にのっとって教基法を制定するとうたう。

改正教基法にも「憲法の精神にのっとり」という文言は盛り込まれた。だが、前文や条項を丹念に読んでいくと国家管理に利用される恐れの項目が多くみられる。現行法と改正法の間には、将来的に社会にあつれきをもたらしかねない活断層が横たわる。

「愛」は強制できぬ
最大の焦点だった教育目標の「愛国心」について、押し付けにならないかとの懸念は国会審議の政府答弁で払しょくできなかった。改正法は「我が国と郷土を愛する態度を養う」と明示する。

安倍晋三首相は「国を愛する心情を内面に入り込んで評価することはない」と述べた。しかし「日本がどういう伝統や文化を持っているかを学習する態度を評価する」とも答弁した。

小泉純一郎前首相は、学校現場での愛国心評価には否定的な考えを表明していた。安倍首相は踏み込んだ感じがする。学習する態度を評価するなら、子どもたちの心に圧力がかかると考えるのが自然であろう。伊吹文明文部科学相は「心があるから態度に表れる。教える場合は一体として考えても構わない」と述べている。

「愛」は強制や押し付けではぐくまれるとは思えない。愛国心を教育現場へ持ち込むことで混乱が予想される。

分権の流れに逆行
気掛かりな条項には教育行政に関する規定がある。現行法にもある「教育は、不当な支配に服することなく」に続いて、改正法に書き込まれた「この法律及び他の法律の定めるところにより行われる」との表現だ。

わざわざ付け加えたのは、法律をつくれば、それに基づく命令や指導は不当な支配でなくなるとの狙いが込められているのだろう。伊吹文科相は、教職員組合などを念頭に「特定の団体の考え方が教育を支配することを排除する条項だ」と説明した。

現行法が「不当な支配に服しない」としたのは、戦前の国家による軍国教育の反省に立ち、教育の自主性を尊重したからだ。改正法は国家介入を抑制するどころか介入の手掛かりを与えるといえよう。

改正法は「国は、教育に関する施策を総合的に策定し、実施しなければならない」とも定めた。現行法より国の関与を明確にした。分権の流れに逆行して中央集権的教育行政になりかねない。

息苦しさ招くな
いじめによる自殺が相次ぎ、不登校や校内暴力も後を絶たない。青少年のモラルの低下も見過ごしにできなくなった。学校現場の混乱や、社会全体が抱える教育の深刻な問題を何とかしなければという切実な思いが国民の間に高まっている。たゆまぬ教育改革は必要だろう。

だからといって、国が管理を強めることには慎重でありたい。改正法は、愛国心のほか、行き過ぎた個人主義を是正するために「公共の精神」の重要性を強調したが、押し付けてもしっかり根付くとはいえまい。

日本は阪神大震災を経験して、ボランティア活動やNPO活動が活発化している。互いに助け合い、支え合うとともに、国民一人一人が「公」に主体的にかかわろうとする動きといえる。自主、自発的に公に参画していこうとする機運をさらに高める教育を支援することこそが国の取り組むべき課題であろう。教育の混乱の要因は、現行法がうたう崇高な理念を輝かす努力を怠ってきたことにあるのではないだろうか。

政府は、教基法の改正を受け、授業や指導内容を規定した学習指導要領などの見直しに着手する。教育に国の関与が強まることで、教育現場を締め付け、混乱と息苦しさが広がらないか心配だ。警戒を強めたい。

山陽新聞 2006年12月17日

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教育は法改正より現場

県内のある市議へ先月、市教委の担当課長が要請した。「教育委員長への質問を取り下げませんか。答弁書を作成できません」。この市は本人以外が答弁書をつくるらしい。

この課長は市議にこうも付け加えた。「こんな質問をしたらあなたの見識を疑います」。ここでハイハイと質問を取り下げたら、市議の存在意義など吹き飛んでしまう。それこそ市教委の見識を疑われる“圧力”である。当然、市議会議場で質問と答弁があった。

市議はこう質問する。「小学校にこんな電話が2回あった。『児童がいたずらするので注意してほしい。私の親は教育委員会の要職に就いている』。親の肩書を名乗る圧力ではないか―と相談があった。教育委員長の見解を聞きたい」。

市教委が“作成”した答弁書を教育委員長は読み上げた。「仮に委員の親族が委員との関係を名乗ったとしても教育機関は公平公正な態度を行うことが当然のことと考えております」。学校側が事実関係を認めているのに“仮に”と事実をはぐらかす珍答弁である。

子息も子息である。学校に圧力ととられる電話をする暇があったら子どもをその場でいさめるのが常識のある大人だろう。担当課長は「委員長と連絡とれません」と言う。いったいどこを、誰を見て教育行政が行われているのだろうか。

大学時代はイタリアの車に乗って通学していた首相の号令のもと、教育の憲法といわれる教育基本法があっさりと改正された。タウンミーティングのやらせにはふたをして。法律より、現場を牛耳る教育委員会改革が先ではなかったのか。

宮崎日日新聞 2006年12月17日

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改正教育基本法が成立

憲法とともに戦後日本の民主主義を支えた教育基本法が改正された。

改正法は「わが国と郷土を愛する態度」などを条文に盛り込んだ。戦後教育の枠組みと理念を根底から変える内容だ。

新しい法律の下で、教育はどう変わるだろう。

「国を愛せ」と教師が子供たちに強く求める場面が起きないか。そんな授業を受ける子供たちの態度が「評価」につながらないか。教育現場の創意工夫はどこまで生かされるだろう。

こうした点の審議が必ずしも十分だったとは思えない。改正に国民の合意ができていたともいえない。

数の力を背景に、今国会で改正法の成立を図った政府・与党のやり方は強引だった。

安倍首相は、占領時代に制定された教育基本法と憲法の改正は、「自民党結党以来の悲願」だとしていた。

それほど重要なら、国民への丁寧な説明と合意形成の真摯(しんし)な努力を重ねる必要があったはずだ。

次の課題は憲法改正ということになるのか。国の基本にかかわる問題で、「数の力」に頼る姿勢は、許されるものではない。

*「国家」重視に軸足を移す

教育基本法は一九四七年、戦前の国家中心教育への深い反省を踏まえて制定された。

前文で「個人の尊厳」を基本とする教育理念を掲げ、憲法の理念の実現を「教育の力」に託した。

これに対し、改正法は「わが国と郷土を愛する態度」や「公共の精神」などの徳目を「教育目標」に掲げた。

教育理念の軸足を「個人」から「国家社会」の重視に移した。

しかし、そもそも法で、内心にかかわる「教育目標」を定めることは、憲法が保障する「思想と良心の自由」にそぐわないのではないか。

中国や旧ソ連のような社会主義国を除けば、多くの先進国では「国を愛する態度」のような内心の問題まで国法では定めていない。

教育目標に徳目を並べ、評価までするという日本の教育は、異質と見られるのではないか。

「わが国や郷土を愛する態度」を自然にはぐくむことは、国民として大切なことだろう。

「公共の精神」を身につけることも、社会生活を営むうえで欠かせない。

それを法律に書き込み、子どもが学ぶ態度まで評価するとなると話は別だ。国による管理や統制が過度に強まる懸念がぬぐえない。

*法の名の下で行政介入も

改正法で見逃せないのは、教育行政のあり方に関する条文の変更だ。

改正前の基本法一○条は、教育は「不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負う」と定めている。

戦前の国家統制への反省を踏まえ、行政の教育への介入を防ぐ役割を果たしてきた。

改正法は、「国民全体に対し直接に責任を負う」という文言を削除し、新たに「法律の定めるところ」によって教育を行うと定めた。

現場の教師はこれまで、「国民全体に直接に責任を負う」という条文があったからこそ、父母や子どもたちとともに、創意工夫のある教育活動を試みることができた。

しかし、法改正によって、時の政府が法律や指導要領を決め、それに基づいて教育内容が厳密に規定されれば、教員は行政の一員としての役割を強いられる。

教育法学者からは、政治や官僚の不当な圧力からの独立と自由を目指した当初の立法の趣旨が、法改正で逆転したという見方が出ている。

文科省は教員評価制度の導入を一部の学校で始めている。制度の運用によっては、教師の仕事が国の決めた教育目標をどこまで実現したかという観点から評価されかねない。

こうした問題をはらんでいたからこそ国民の間に懸念の声は強かった。

東大が十月にまとめた全国アンケートでは、公立小中学校の管理職の三人に二人が「現場の混乱」を理由に改正に反対していた。

ところが安倍首相は国会で「国民的合意は得られた」と繰り返した。

政府のタウンミーティングでは、姑息(こそく)な世論誘導も明らかになった。

*施策の吟味が欠かせない

「教育基本法は個人の価値を重視しすぎている。戦後教育は道徳や公共心が軽視され、教育の荒廃を招いた」

自民党内の改正論者は、このように基本法を批判してきた。

教育現場は、子どもの学力低下やいじめなど多くの課題を抱えている。しかし、教育荒廃の原因は基本法に問題があったからではない。

むしろ、文科省や教育委員会が、基本法の理念を軽視し、実現に向けた努力を怠ってきたのが現実ではないか。

文科省は今後、改正法に基づき具体的な教育政策を網羅した「教育振興基本計画」を策定する。

教育改革の名のもとに打ち出される施策の中身を、学校現場と父母は十分に吟味し、子どもの成長に役立つ施策かどうかを見極める必要がある。

改正法の下での教育現場の変化を、注意深く見守らねばなるまい。

北海道新聞 2006年12月16日

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教育基本法改正/教育再生に向け大きな転機

政府、与党が今国会の最重要法案と位置づけた改正教育基本法が参院本会議で可決、成立した。1947年の制定以来、同法の改正は初めて。教育再生へ向けた大きな転機となる。

これまでの教育基本法は占領軍統治下で制定され、「個性の尊重」などに重点を置いた。戦前、過度の中央集権の下で画一的に教育されたことの反省からだ。

しかし、制定以来59年が過ぎ、子どもの教育力の低下などが問題となってきたため、「教育の理念法」とされた教育基本法の改正が論議されてきた。

とくに安倍首相は新しい教育の理念を強調、改正を悲願としてきた。いじめ自殺問題やタウンミーティングでの「やらせ質問」に審議の大半を費やし、法案そのものに十分な議論を深めたとはいえないが、内閣不信任決議案による野党の抵抗も押し切って成立させた。

改正法は前文と18条から成る。主な改正点は、「国を愛する態度」などを身につけた国民の育成が前面に出たことだ。2条に「我が国と郷土を愛する態度を養う」と明示。前文にも「公共の精神」や「伝統と文化の尊重」などの理念を掲げた。

国を愛する心を持つことは自然なことであり、あえて改正法の理念に掲げなければならない社会であること自体が不自然なことと受け止めたい。

ただ、国を愛する心は人によって異なる。理念は学習指導要領改定を通し教育内容に組み込まれるが、多義的な理念を行政が一つの形に決め、教育現場で強制するような運用があってはならない。

第16条の教育行政については、これまでの「教育は、不当な支配に屈することなく」を残し、続けて「この法律及びほかの法律によつて行われるべき」との文言が加わった。教育行政機関の関与が強まるのでは気になる。

第17条では政府が振興基本計画を定めるとしたことも大きなポイントだ。今後五年間の教育政策目標を決める。地方も計画策定に努めることも規定されたが、国のコントロールが強まりはしないか。高校の未履修科目問題や、いじめ問題などでは学校と教育委員会とで責任の所在があいまいだった。計画で見直しも図るべきだろう。

いじめなどの現代の子どもが抱える問題の背後にあるのは、地域社会の崩壊や経済格差の拡大の中で、子どもが育つ条件が失われていることだ。

社会性を育てる集団がなくなり、親子がゆったりと会話を重ねる余裕もなくなっている。教育基本法の改正だけに問題の解決をゆだねるのでなく、子どもが育つ土壌をどう豊かにするかが問われている。

福島民友新聞 2006年12月16日

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新教育基本法 統制強化の疑念が残る

果たしてこれが国家百年の大計にふさわしい法律だろうか。

安倍内閣が今国会の最重要法案と位置付けていた教育基本法改正案が参院本会議で成立した。現行法をほぼ全面的に書き改めており、改正法というよりは新法と呼ぶべき内容だ。

国民の多くが教育や子育ての現状に不安を感じている。いじめ自殺が頻発しているのに学校には対応能力がない。小学生の校内暴力は三年連続で過去最多を更新中だ。親が子どもを虐待し、子どもが親をあやめる事件も後を絶たない。

大学全入時代を迎えても受験競争は過熱し低年齢化する一方だ。大学受験教育の行き過ぎが高校での必修科目未履修となって現れたのは記憶に新しい。

教育の再生、立て直しが焦眉(しょうび)の急であることは確かだ。だが、改正法をいくら眺めても危機打開の道筋は見えてこない。それどころか、統制と管理の前に立ちすくむ教育の未来図が見えてしまう。

改正法は教育改革の入り口だ。学校教育法や地方教育行政法など関係法令が次々と改正されることになる。運用によっては教育現場が大混乱する事態も想定される。政府は慎重に事を運ぶべきだ。

安倍晋三首相も伊吹文明文部科学相も改正法は「理念法」だという。安倍首相は衆院特別委員会でこう答弁した。「教育の目的は志ある国民を育て、もって品格のある国家をつくることにある」

改正法の狙いが端的に表現されている。現行法一条(教育の目的)にうたう「個人の価値」や「自主的精神」の文言が、新法一条には見当たらない。個々の人格形成より国家有為の人材育成に重きを置いているのが改正法を貫く基調だ。

「我が国と郷土を愛する態度を養う」(二条五項)、「教育はこの法律及び他の法律に定めるところにより行われる」(一六条)などの規定は、国の教育権を強調したものといえよう。

「教育の憲法」とされる基本法の大転換である。改正に当たっては国会での議論を深めるのはもちろん、国民の理解と納得を求めることも欠かせまい。

政府主催の教育改革タウンミーティングで行われた「やらせ質問」問題に決着をつけないまま、与党だけの賛成で改正法を成立させた責任は極めて重い。

法案審議の中で安倍首相らは、規範意識や公共概念の大切さを力説した。国民に呼び掛ける前に、政府自らが姿勢を正すべきだろう。世論を誘導して法改正の機運醸成を図るなど言語道断である。

改正法にはあまりにも問題が多い。成立に至った過程も強引すぎる。教育を政治の力でゆがめてはならない。

新潟日報 2006年12月16日

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改正基本法成立/教育を十分論じたのか

安倍晋三首相が最大の懸案の一つとする改正教育基本法が成立した。現行基本法になかった「国と郷土を愛する態度」を盛り込み、「公共の精神」を強調し、教育は「国民全体に対して直接に責任を負って」ではなく「法律の定めるところによって行われる」とした。

現行基本法は国家のためだった戦前の教育を否定し、個人の尊厳を柱にした教育理念をうたい、憲法の理想実現を「教育の力にまつべきもの」と規定した。改正基本法は国による統制が色濃く、これまで抑制的だった教育内容への介入も可能になる。現行法からの大転換である。安倍首相が唱える「戦後レジームからの脱却」が、まず教育分野で形になった。

いじめ、不登校、校内暴力、学力低下…。こうした現状に国民の不満が大きい。北日本新聞社などが加盟する日本世論調査会の九月の調査では、過半数が基本法改正に賛成している。

しかし、いじめ一つとっても、教育だけに起因するものではない。家族の変容、地域社会の崩壊、子どもを取り巻く情報環境などの影響が大きく、日本だけでなく先進各国が同じ悩みを抱えている。基本法を改正し教育の仕組みを変えさえすれば、というのは過剰な期待だろう。

今国会はさながら「教育国会」の観を呈した。折から、いじめによる小中学生の自殺が相次ぎ、高岡南高校に端を発する必修科目の未履修問題が全国で発覚し、さらに教育改革をテーマとする政府主催のタウンミーティングで「やらせ質問」が明るみに出た。国会審議は、これら「三点セット」の追及に多くの時間を割くことになり、基本法改正案そのものは十分に論議されたとは言えない。

教育基本法は理念法である。これを改正したからといって、いじめがなくなったり学力が向上するわけではない。いま、子どもたちや教師、学校はどんな状況に置かれているのか。子どもがのびのびと育つ条件はきちんと整備されているのか。こうした現状を踏まえた教育論議なしに、法案の抽象的な文言ばかり議論しても、教育を良くすることにはつながらない。

今後は下位法の学校教育法、教育免許法などの改正に移る。基本法改正がどう影響するのか、今度こそ地に足の着いた論議をしてほしい。

北日本新聞 2006年12月16日

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改正教基法成立 次の改革は教育の「現場」

成立した改正教育基本法は、戦後教育の不備やゆがみを正すために必要である。ただし、これによって教育の現場がすぐに変わるわけではない。改正教育基本法の理念に沿って、例えば教育委員会や教師のあり方をどう見直すかなど課題は山積しており、新基本法に魂を入れる今後の具体的な改革がむしろ重要である。

現行の教育基本法は「個人の尊厳」を最も重視している。個人の価値を尊んで人格の形成をめざすことが教育の最大目標であるのは、改正基本法も同じである。ただ、戦後の教育が個人の尊厳に重きを置くあまり、それぞれが住む郷土や国のこと、あるいは公共のことに思いをいたす教育が手薄になりがちであったことは否めず、そのことが教育や社会の荒廃の背景にあるという指摘は決して的はずれではない。

今回の基本法改正で「国と郷土を愛する態度を養う」ことや「公共の精神を尊ぶ豊かな人間性の育成」といった新しい理念や価値が盛り込まれたことは評価できる。

今後の課題でまず挙げられるのは、いじめや必修課目未履修問題で法案審議でも焦点になった教育委員会の見直しである。教育委員会は地方教育行政の中心であり、政治的に中立の機関と位置づけられてきた。しかし、実質的な教育行政は文部科学省が主導し、教育委員、教育長らの人事や予算の権限が首長にあることから、教育委員会は形骸化し、教育委員も名誉職の色合いが濃いという批判が絶えない。

こうした実情を考えた場合、教育委員会を、例えば「教育庁」や「教育部」の名称で、首長直属の部局に組み込むことも改革の一案であろう。人事権や予算執行権の実態に即した体制にした方が、教育行政の責任の所在がより明確になるのではないか。もしそうなると、中立であるべき教育行政が、選挙で首長が交代するたびに変わる恐れがあり、好ましくないといった批判がなされる。が、教育の大枠は学習指導要領で決まっているのであり、首長に左右されるという批判は当を得ない。

教育基本法は理念法であり、その改正であたかも戦前の統制国家に戻るかのように大騒ぎした一部マスコミがあったのはいただけない。本当の教育改革はこれからである。

北國新聞 2006年12月16日

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教育基本法 運用の監視が怠れない

教育基本法の改正案が参議院の本会議で可決、成立した。戦後教育の背骨となった重要な法律が全面的に改定された。

個人の尊重より公共の精神を優先し、国を愛する心を求める内容だ。反対が根強い中、論議を尽くさないままに成立したのは残念だ。

今後、関連する法律の見直しが進められる。法律に何が盛り込まれるのか。学校はどう変わるか。国の動きをチェックする必要がある。

何より、子どもたちがより息苦しくならないよう、現場の声を上げ続けることが大切になる。

「伝統と文化を尊重」「わが国と郷土を愛する態度を養う」「公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度」−。改正法にはこういった「教育の目標」がずらりと並ぶ。

憲法の理想を実現するには「教育の力にまつべきもの」として、個人の尊厳を重んじる現行法から、基本的な考え方が大きく変わる。規範意識を植え付け、国が期待するあるべき姿を押しつける方向に教育がねじ曲げられないか、心配になる。

<規律の重視だけでは>

教育をめぐる問題は深刻だ。学ぶ意欲の低下、家庭や地域の教育力の弱体化など山積している。こうした問題を、政府は個の尊重や自由が行き過ぎたゆえに生まれたものだとする。根本的な改革のための、基本法見直しだと説明している。

いまの教育を良くしたいという思いは国民の間に強い。ただ、そのために教育の理念を変える必要性は認め難い。政府の目指す方向と、学校現場や家庭が抱えている問題には大きなずれが感じられる。

例えば、相次いで表面化したいじめにどう対応するかだ。

いじめられた経験を学校などで語る、20代の人たちの話を聞く機会があった。

「学校に行けない自分を悪い人間だと責めながら、行くなら死んでしまいたいと包丁を持った」

「生きるのもつらいが、死ねないつらさにも苦しんだ」

過去を語ることは、死にたいほどのつらさを再び体験することにもなる。それでもいじめをなくしたいと、訴え続けている。

彼らがそろって口にするのは、いじめる側を厳しく指導しても、解決にならないということだ。

「なぜいじめるのか、自分の心に向き合わせる対応が大切」「先生は忙しく、子どもに接する時間が少なすぎる」「親や教師も絡んだ複雑ないじめの実態に、もっと耳を傾けてほしい」。こうした訴えは、どこまで国会に届いているのか。

14日の参議院特別委員会で、安倍晋三首相は「相手をいじめる気持ちを自律の精神で抑え、教室で迷惑をかけてはいけないと公共の精神や道徳心を教える」と述べた。体験者の声とは懸け離れた理屈である。問題を深刻化しかねない。

論議が不十分に終わった一因は、民主党にある。民主党の対案は前文に「日本を愛する心」をうたい、保守的な色合いは政府案よりむしろ強い。政府案が決まれば、どんなマイナスの影響があるのかといった問題追及が足りなかった。

<内心に踏み込む恐れ>

改正法に基づき、政府は5年間の目標を定める「教育振興基本計画」を作る。関連法の改正や、学習指導要領の見直しも始まる。今後の動きに厳しい目を向ける必要がある。

最も心配されるのは、子どもの内面に踏み込む方向が強まることだ。安倍首相は「内心の評価は行わない」としたものの、日本の伝統や文化を学ぶ姿勢や態度を評価することは明言している。

評価の対象は「態度」だとしても、法律などで教育目標となれば、子どもに強制することになりかねない。通知票で「愛国心」を評価することに、どんな意味があるのか。

かつて国旗国歌法の審議でも、日の丸掲揚や君が代斉唱を義務付けるものではないとの答弁はあった。しかし、現実には教職員への指導強化になり、自殺者まで出た。事実上の強制である。二の舞いは避けねばならない。

第二の心配は、地域や学校の自主性が狭められることだ。

教育基本法は、戦前の教育が国家のために奉仕する国民を育てた反省に基づいて生まれた。「不当な支配に服することなく」と、教育の中立性や自由をうたっている。

<改憲への岐路に?>

改正法は教育行政について「この法律及び他の法律の定めるところにより行われる」としている。教育内容への国の関与は、強まると考えねばならない。学校の裁量や自由が狭められる心配が募る。

学校も家庭も余裕がない。そんな中で、例えば「いじめや校内暴力を5年で半減」といった目標が掲げられたらどうなるか。現場はより息苦しくなる。

子どもたちに徳目を押しつけるだけは解決にならない。そういった生の声をこれからも上げ、法の運用に目を光らせていく必要がある。

教育基本法改正は、憲法改正にもつながる。自民党の新憲法草案は個人の自由と権利の乱用を戒めている。このまま、国の関与が強まる道を選ぶのか。岐路に立っていることを自覚しなくてはいけない。

信濃毎日新聞 2006年12月16日

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行く先は未来か過去か 教育基本法59年ぶり改定

教育基本法が五十九年ぶりに改定された。教育は人づくり国づくりの基礎。新しい時代にふさわしい法にとされるが、確かに未来に向かっているのか、懸念がある。

安倍晋三首相が「美しい国」実現のためには教育がすべてとするように、戦後日本の復興を担ってきたのは憲法と教育基本法だった。

「民主的で文化的な国家建設」と「世界の平和と人類の福祉に貢献」を決意した憲法。

その憲法の理想の実現は「根本において教育の力にまつべきものである」とし、教育基本法の前文は「個人の尊厳を重んじ」「真理と平和を希求する人間の育成」「個性ゆたかな文化の創造をめざす」教育の普及徹底を宣言していた。

■普遍原理からの再興

先進国中に教育基本法をもつ国はほとんどなく、法律に理念や価値を語らせるのも異例だが、何より教育勅語の存在が基本法を発案させた。

明治天皇の勅語は皇民の道徳と教育を支配した絶対的原理。日本再生には、その影響力を断ち切らなければならなかったし、敗戦による国民の精神空白を埋める必要もあった。

基本法に込められた「個人の尊厳」「真理と正義への愛」「自主的精神」には、亡国に至った狭隘(きょうあい)な国家主義、軍国主義への深甚な反省がある。より高次の人類普遍の原理からの祖国復興と教育だった。

一部に伝えられる「占領軍による押しつけ」論は誤解とするのが大勢の意見だ。のちに中央教育審議会に引き継がれていく教育刷新委員会に集まった反共自由主義の学者や政治家の熟慮の結実が教育基本法だった。

いかなる反動の時代が来ようとも基本法の精神が書き換えられることはあるまいとの自負もあったようだ。しかし、改正教育基本法は成立した。何が、どう変わったのか。教育行政をめぐっての条文改正と価値転換に意味が集約されている。

■転換された戦後精神

教育が国に奉仕する国民づくりの手段にされてきた戦前の苦い歴史がある。国、行政の教育内容への介入抑制が教育基本法の核心といえ、一〇条一項で「教育は不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきもの」となっていた。

国旗・国歌をめぐる訴訟で、東京地裁が九月、都教育委員会の通達を違法とし、教職員の処分を取り消したのも、基本法一〇条が大きな根拠だった。各学校の裁量の余地がないほど具体的で詳細な通達を「一定の理論や観念を生徒に教え込むことを強制する『不当な支配』」としたのだった。不当な支配をする対象は国や行政が想定されてきた。

これまでの基本法を象徴してきた「不当な支配」の条文は、改正教育基本法では一六条に移され「教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきもの」と改められた。

政令や学習指導要領、通達も法律の一部。国や行政が不当な支配の対象から外され、教育内容に介入することに正当性を得ることになる。この歴史的転換に深刻さがある。

前文と十八条からの改正教育基本法は、新しい基本法といえる内容をもつ。教育基本法の改定とともに安倍首相が政権の最重要課題としているのが憲法改正だが、「新しい」憲法と「新しい」教育基本法に貫かれているのは権力拘束規範から国民の行動拘束規範への価値転換だ。

自民党の新憲法草案にうかがえた国民の行動規範は、改定教育基本法に「公共の精神」「伝統と文化の尊重」など二十項目以上の達成すべき徳目として列挙されている。

権力が腐敗し暴走するのは、歴史と人間性研究からの真理だ。その教訓から憲法と憲法規範を盛り込んだ教育基本法によって権力を縛り、個人の自由と権利を保障しようとした立憲主義の知恵と戦後の基本精神は大きく変えられることになる。

公共の精神や愛国心は大切だし、自然に身につけていくことこそ望ましい。国、行政によって強制されれば、教育勅語の世界へ逆行しかねない。内面への介入は憲法の保障する思想・良心の自由を侵しかねない。新しい憲法や改正教育基本法はそんな危険性を内在させている。

■悔いを残さぬために

今回の教育基本法改定に現場からの切実な声があったわけでも、具体的問題解決のために緊急性があったわけでもない。むしろ公立小中学校長の三分の二が改定に反対したように、教育現場の賛同なき政治主導の改正だった。

現場の教職員の協力と実践、献身と情熱なしに愛国心や公共の精神が習得できるとは思えない。国や行政がこれまで以上に現場を尊重し、その声に耳を傾ける必要がある。

安倍首相のいう「二十一世紀を切り開く国民を育成する教育にふさわしい基本法」は、同時に復古的で過去に向かう危険性をもつ。改定を悔いを残す思い出としないために、時代と教育に関心をもち続けたい。

中日新聞・東京新聞・北陸中日新聞 2006年12月16日

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改正教育基本法成立 教育は国家のものでない

政府、与党が今国会の最重要法案と位置づけた改正教育基本法案が、野党がこぞって反対、内閣不信任決議案などが飛び交う中で成立した。1947年の制定以来、59年ぶりの初めての改正であり、教育の転機を迎えた。

現行法が目的に掲げた「人格の完成」はそのまま改正法にも残ったが、中身は変質した。個人としての完成をまず目指すという意味は薄れ、「国を愛する態度」などを身につけた国民の育成が前面に出た。

教育目標に新たに「公共の精神」、「伝統と文化の尊重」などの理念を掲げたのもそのためだ。

国を愛する「気持ち」は自然ににじみ出るもので、何をその「態度」とするかは人によって異なる。目標に掲げた理念を教育内容に組み込む学習指導要領の改定も行われるが、多義的な理念を行政が一つの形に決め、現場で強制するようでは、憲法で保障する内心の自由を侵すことになる。

子どもの心の中にずかずかと入り込んではならない。そもそもこうした理念を掲げたからといって、いじめによる自殺など、現代の子どもが抱える問題の解決につながるとはいえない。解決すると本気で思っている国民はどれほどいるだろうか。

問題の背後にあるのは、地域社会の崩壊や経済格差の拡大の中で、子どもが育つ条件が失われている現実だ。社会性を育てる集団がなくなり、親子がゆったりしたコミュニケーションを重ねる余裕もなくなっている。

「日本人としての教育が足りない」とイデオロギー先行で条文を書き換えたところで政治的自己満足にすぎず、教育課題の解決には程遠い。いま問われているのは子どもの育つ土壌をどう豊かにするかである。

政治が教育内容に踏み込む道が開かれたのも気になる。これまで歯止めとなってきた「教育は不当な支配に服することなく」との言葉は残ったが、「この法律及び他の法律によって行われるべき」との文言が加わった。「法に基づく命令、指導は不当な支配ではない」と政府が答弁しているように、歯止めは限りなく無力化されている。

政府が振興基本計画を定めるという条文も、国のコントロールを強めることになる。国会で多数派をとれば教育内容に介入できるということだ。政権が変わると教科書記述が変わるようなことでは現場は混乱する。地方分権の流れにも逆行する。

教育は人間の内面的価値にかかわる営みだ。学力テストをめぐる判決(1976年)で最高裁が、憲法原理をもとに、教育内容にかかわる国家的介入はできるだけ抑制的であることが要請される、と判示していることを忘れてはならない。

現行法は、戦前、過度の中央集権の下で画一的な統制に陥り、地方の実情と個性に応じた教育が行われなかったことの反省の上にある。これを受けて学校教育法制定に当たった文部官僚が戦前の教育について書いている。

「国の教育行政に対する態度は、のびのびした教育環境を作り出して教育を豊かに明るく伸ばすと言うより、監督々々で、いじけさせてしまう方が多かった」

この教訓をわれわれは真摯(し)に受け止めなければならない。教育は未来を担う子どものためにある。国家のものではない。

岐阜新聞 2006年12月16日

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国会閉幕へ/首相は説明を尽くしたか

安倍首相にとって初の本格論戦の舞台となった臨時国会が、実質的に終わった。会期末になって、内閣不信任決議案などを提出した野党に、与党は会期を四日間延長して対抗し、押し切った形である。

これにより、安倍内閣の最重要課題になっていた教育基本法改正案と、防衛庁「省」昇格関連法案が成立した。

いずれも、戦後政治で大きな節目を画するものである。「戦後体制からの脱却」を掲げた首相には達成感があるだろう。しかし、そんな重要法案を抱えながら、首相が考えを明確にし、突っ込んだ国会論戦を交わしたという印象はあまりない。

教育基本法の改正には、確かに長い審議時間が費やされた。だが、首相が「新世紀にふさわしい日本の枠組みを」と訴えたにもかかわらず、めざす教育の在り方が見えたとはいい難い。いじめ問題などには「対応に必要な理念、原則は政府案に書いてある」としたが、解決につながるのか。

画一的な教育が押し付けられたり、国の関与が強まったりしないか。そうした疑問や不安に対し、どこまで自分の言葉で説明し、理解を得ようとしただろう。

防衛庁の省昇格も同様だ。問題は名称変更や危機管理の強化にとどまらず、防衛の基本にかかわるのに、肝心の論点で議論が尽くされたとは思えない。重要法案の扱いがこれでは、禍根を残しかねない。

国会の開会後、北朝鮮の核実験があり、政府は対応に追われた。衆院補選や沖縄県知事選など、重要な選挙が続き、自民党内では郵政造反組の復党という難しい問題も抱えていた。

一方で大きな動きが相次いだとはいえ、首相として初の舞台で国民に対する説明責任を十分に果たせたのかどうか。あらためて振り返ってみるべきだろう。

野党の責任も大きい。問題に切り込んで政府に迫るどころか、タウンミーティングのやらせ問題など、攻勢の糸口を生かしきれなかった感がある。

安倍首相は、憲法改正を政治日程にのせる考えを、くり返し表明している。

今回の教基法改正案の成立を受け、その意欲を強めたかもしれないが、憲法はまさに国の根幹にかかわる。拙速な取り組みは決して許されないものだ。そうした意味でも、生煮えの印象が残る国会審議から、早く脱してもらわなければならない。

来月になれば、安倍首相の真価が問われる通常国会が始まる。国民の前で議論を深める努力が、もっと必要だ。首相はもとより、与野党とも肝に銘じてほしい。

神戸新聞 2006年12月16日

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改正教育基本法 政治の現場介入避けよ

憲法に準じるほどの重みを持つ法律の改正が、数の力で押し切られた。参院本会議できのう、改正教育基本法が自民、公明の与党の賛成で可決、成立した。

教基法の改正は一九四七年の制定以来初めてである。戦後社会に定着してきただけに、審議を尽くし合意へ努力を重ねるべきだった。それが衆院で野党欠席のまま採決したのに続いての強引な手法である。子どもたちの未来に責任は持てるのだろうか。

改正教基法は「公共の精神」を前面に打ち出し、教育の目標に「我が国と郷土を愛する態度を養う」と明示した。国の関与を強める表現も盛り込まれた。能力対応の教育、家庭の責任、教員の養成と研修の充実も並ぶ。心の中まで踏み込み、運用次第では圧力が家庭にまで及ぶ可能性さえある。

これで教育現場はどうなるか。学校のランク付けが進み、家庭は子育て状況をチェックされ、教員は「教師塾」へ通わざるを得なくなる…。そんな背筋が寒くなるような未来像が描かれるほどだ。

教育再生に必要なのは、管理強化と競争原理の導入で、現場のストレスをさらに高めることではない。子どもたちの自立心を育てることだ。改正教基法により政府がつくる教育振興基本計画の成立過程を監視しなければならない。国の思惑を地域と自治体ではね返す力を蓄える方法を考えたい。

改正へ向けた実質審議は十月末から始まった。これに合わせるかのように、いじめに絡む子どもや先生の自殺が相次ぎ、高校で必修科目の履修漏れが明るみに出た。教育改革タウンミーティングの「やらせ」質問まで発覚した。荒廃は政府から教育現場まで及んでいることが目の当たりになった。

対応策をめぐり審議は多くの時間をかけた。だが解決する道が教基法改正にどうつながるかは見えなかった。改正の必要性についても十分な説明はないままだ。

臨時国会が会期末を迎え、きのうは与野党が激しい攻防を繰り広げた。選挙対策と絡めた野党の戦術を自民首脳が「邪道」と批判する場面もあった。対立の構図からは、教基法が政争の具におとしめられた姿が浮き彫りになった。

教基法に合わせて「防衛省」昇格関連法も成立した。「戦後レジーム(体制)からの脱却」を掲げる安倍晋三首相は、次は憲法改正へ向けて走りそうな勢いである。同じような事態を繰り返してはならない。

中国新聞 2006年12月16日

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改正教育基本法成立   「原点」を見失うな

教育基本法改正案が参院本会議で成立した。一九四七年の制定以来、初めて全面改定される。反対する野党は、内閣不信任決議案などを提出して対抗したが、与党が採決に踏み切った。

現行基本法は、個人を犠牲にして戦争に突き進んだ戦前の教育の反省に立ち、戦後教育の理念を定めた「教育の憲法」である。それだけに、多数の国民が改正に慎重審議を求めていた。私たちも「国民的議論として熟していない。今国会にこだわらずに審議を尽くすべきだ」と主張してきた。

政府主催の教育改革タウンミーティングでは「やらせ質問」も判明、不信や反発が広がった。タウンミーティングを一からやり直すなど、じっくり議論を深めるべきだった。「見切り採決」は、極めて遺憾である。

今後、改正基本法に基づく教育振興基本計画が策定され、学校教育法や学習指導要領などの見直しも動き出す。教育の現場が、どう変わるのか。しっかり見据えなければならない。

改正基本法は、前文に「公共の精神」「伝統の継承」を明記。教育の目標として「我が国と郷土を愛する態度を養う」ことを掲げ、「愛国心」を重視する姿勢を打ち出している。現行基本法の前文にある「個性」の文字は消えた。

教育の基軸が「個の尊重」から「公の重視」へと動くことになりそうだ。

「家庭や地域、国を愛する心を教えてこなかったことが教育の荒廃を生んだ」。安倍晋三首相らは、そう考えているようだ。しかし、いじめや不登校などの原因が現行基本法にあるとするのは、あまりにも短絡的だ。改正がどう問題解決に結びつくのか。最後まで納得のいく説明は聞けなかった。

改正によって、国が愛国心や公の精神を学校現場に押し付けることにならないか、気がかりだ。愛国心について、安倍首相は「個人の内面には立ち入らない」と述べているが、評価の対象になったり、指導が強制されたりすることはないと言い切れるだろうか。

大人が家族や地域を大切にし、善悪のけじめを行動で示せば、おのずと子どもの心に愛国心や公共心ははぐくまれるはずだ。押し付けは逆効果でしかない。

教育の原点は「人間教育」である。

「いまの教育を何とかしなければ」と多くの国民が思っている。私たちも同感だ。伝統や規律を教えること、基礎学力を引き上げること、いずれも大切である。しかし、その根っこに人間としてのあり方や生き方をしっかり教える「人間教育」の土台がなくてはならない。

子どもたち一人一人が大切にされ、尊重し合いながら、それぞれの能力を引き出す教育がないがしろにされてはならない。そうした教育は現行基本法の理念でもあった。

教師の役割は一層大きくなる。教師との出会いが、子どもの生き方を変えたという例は数え切れない。

「兎(うさぎ)の眼」などの作品で知られ、先月亡くなった児童文学作家の灰谷健次郎さんは、子どもの心を見つめ続けた。「子どもの心の痛みや涙が分かる先生であってほしい」。度々そう語っていた。

「教育の憲法」が変わる大きな節目にあって、教育の原点をあらためてかみしめたい。そして、教育が真の「再生」に向かうかどうか、見守っていきたい。

徳島新聞 2006年12月16日

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臨時国会「閉幕」 国のこれからに禍根を残した

政府が臨時国会の最重要法案と位置づけていた教育基本法改正と、防衛庁の「省」昇格関連法がきのう参院本会議で可決、成立した。

野党側は内閣不信任決議案などを提出、政府・与党は会期を四日間延長し、会期末ぎりぎりの攻防を繰り広げた。

しかし両法案とも賛成多数で可決された。改正された両法は国の在りようにかかわる法律である。だからこそ拙速を避けて審議を尽くすべきだった。結果的に与党が数の力で押し切ったことは残念でならない。将来に禍根を残したのではないか、そんな懸念も募る。

「教育の憲法」と呼ばれてきた教基法の改正は一九四七年の制定以来、初めてだ。改正教基法は十八条からなり、前文で「公共の精神を尊び」と明記、教育の目標として「我が国と郷土を愛する態度を養う」ことなどを挙げ「愛国心」重視の姿勢をにじませる。「個」の尊重から「公」へと、基本理念の大きな様変わりである。

なぜ、いま改正なのか―。国民の内にある素朴な疑問は脇に追いやられた感はある。政府・与党は審議を十分尽くしたと胸を張る。だが審議時間の多くは、いじめ自殺や必修科目未履修問題、さらには教育改革タウンミーティング(TM)でのやらせ質問に費やされた。本質部分の議論は深まらず、消化不良は否めない。

とりわけ改正教基法により、安倍晋三首相がどのような教育の在り方を目指しているのか、国会審議を通じても見えてこなかった。やらせ質問が批判されたTM問題も併せ、国民の多くは不安、不信を抱いたままだといえる。教基法改正が憲法改正への布石であれば、なおさらである。

防衛庁を「省」に昇格させる関連法も成立し、来月には「防衛省」になる。自衛隊の海外派遣が本来任務に格上げされることで、その性格は大きく変化するとの見方が多い。今後、海外活動は増える可能性があり、随時派遣を容易にする恒久法の議論が加速する懸念をぬぐい去ることはできない。

法案審議の中で、なし崩し的な活動拡大を懸念する意見が続出したことを忘れてはならない。海外で米国などの軍隊と活動する機会が増えれば、憲法解釈で禁じられている集団的自衛権の行使につながる恐れも高まる。専守防衛、文民統制をないがしろにしてはならない。

安倍首相にとって就任後初となった今国会では、通常国会で継続審議となった教基法改正をはじめ、重要法案がめじろ押しだった。国民投票法案、「共謀罪」新設、社会保険庁改革関連法案は来年の通常国会に持ち越しとなったが、二つの重要な法律の成立で安倍政権の面目は際どく保たれたといえる。

しかし安倍内閣の今月上旬の支持率は急落し、50%を割り込んだ。郵政造反組の自民党復党問題などが響いたとみられる。国民の目が厳しく注がれていることを重く受け止めて、政権運営にあたる必要がある。

愛媛新聞 2006年12月16日

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教基法改正 国民がきちんと監視を

改正教育基本法が成立した。国会の内外に反対や慎重審議を求める声が根強くある中、自民、公明両党が採決を強行した。

未来を担う子どもたちをはぐくむための「教育の憲法」に、力任せの手法は最もふさわしくない。極めて残念だ。

国会審議では、現行法のどこに問題があり、なぜ改正が必要か、改正すれば教育の現状がどう変わるのかについて、安倍首相らが明確にすることはなかった。十分な検証なしの「はじめに改正ありき」では、答えようがなかったのだろう。

改正法には、国家を個人より優先させようとする政府や自民党の狙いが色濃く出ている。今後、教育現場がどう変わっていくのか、懸念がつきまとう。

一つは新設の「教育の目標」に盛り込まれた、「国と郷土を愛する態度」「伝統と文化の尊重」などの扱いだ。いずれもが心の問題であり、画一的に教え、評価できるようなものではない。

愛国心について、安倍首相は「内面まで入り込んで評価することは当然ない」とする一方、「学習する態度」の評価は肯定している。心と態度が不可分の関係にあることを考えれば、態度の評価が結局は愛国心の強制につながる恐れは大きい。

政府の「強制しない」を額面通りに受け取ることができないのは、国旗国歌法の先例があるからだ。当時の官房長官は「強制するものではない」と強調したが、文部科学省は学校現場での指導徹底を求め、事実上の強制につながった。

今回も伊吹文科相は、愛国心教育について現場の統制強化を進めるかのような考えを明らかにしている。現場の混乱が心配だし、押し付けは憲法が保障する内心の自由を侵すことにつながりかねない。

国の統制強化

そうした懸念をこれまで以上に抱かざるを得ないのは、改正によって国の権限が強まるからだ。

現行法一〇条は「教育は、不当な支配に屈することなく」と定めている。国家が学校現場に深く関与して軍国主義教育を進めた戦前の反省に基づくもので、現場の独立性や中立性を担保してきた条文だ。

改正法はこの条文の後に、「この法律及び他の法律の定めるところにより行われる」と付け加えた。さらに、新たに国と地方が策定する教育振興基本計画では、地方は国の計画を参考にして、と明記している。

安倍首相は「教育の国家管理を強めることにはならない」とする。だが、伊吹文科相の発言からは、法律や学習指導要領で決めさえすれば、教育を思う方向に進めることができるようになる、という国の考えが透けて見える。

国による統制が強化されれば、現在も色濃い教育行政の「上意下達」の体質はさらに強まっていこう。学校現場では国が決めた目標を達成することに目を奪われるあまり、子どもたちに向ける視線が弱まることになりかねない。

いじめや不登校などの教育の荒廃は、子どもたちを取り巻く家庭や社会を反映したものだ。大きな負担を強いられている学校現場への統制強化で解決できる問題ではない。

逆に、さまざまな不安の中で生きる子どもたちと教員の距離を広げてしまう恐れさえある。そうした事態を招けば、学校現場の危機はさらに深まるのではないか。

教育基本法改正によって教育そして学校現場がどう変わるのか。国民一人一人が監視していかないと、とんでもない方向に進みかねない。

高知新聞 2006年12月16日

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臨時国会 伝わらなかった首相の決意

安倍晋三首相が初めて臨んだ臨時国会が、会期末にきて波乱をみせた。最重要法案と位置付けた教育基本法改正案と防衛庁の「省」昇格関連法案は、会期を四日延長した上で成立したが、野党からは内閣不信任案が出される事態となった。

安倍内閣支持率の下落傾向が続いている。「顔が見えない」「指導力不足」という声が強い。共同通信社が今月初旬に実施した全国緊急電話世論調査では、内閣支持率は48・6%まで落ちた。政権発足後初めて支持と不支持が逆転し、無党派層の離反傾向が明らかになった。九月の内閣発足直後の支持率が65・0%だったことを考えると、予想を上回る急落ぶりだ。

郵政造反組の自民党復党問題が支持率の大幅下落につながったのは間違いない。共同通信世論調査で約六割の人が復党に反対していたにもかかわらず、結局は復党を許した。造反組に誓約書を書かせるなどそれなりの形はつくったが、国民の目からは「選挙目当て」としか見えなかった。問題の処理を中川秀直幹事長にまる投げした手法にも問題があった。

さらに指導力不足を印象づけたのは、道路特定財源の一般財源化問題だ。首相は復党容認による「改革後退」イメージの一掃を狙い、揮発油税の一般財源化も公言していた。しかし、自民党内の反対論に押し切られる形であえなく妥協した。内閣不支持の理由に「指導力不足」を挙げる人が世論調査のたびに増えてくるのも当然だろう。

安倍首相は所信表明演説で、「美しい国」づくりにかける意気込みを語った。官邸機能を強化して政治のリーダーシップを確立し、たじろぐことなく改革の炎を燃やし続けると断言した。「古い自民党」から脱皮を続けるものと期待して安倍内閣を支持した国民は、裏切られているという思いだろう。

安倍首相は内閣発足直後に中国と韓国を訪問。こう着した対中、対韓関係を一気に打開して評価を得た。自らのタカ派的な歴史認識を封印した無難な船出だったと言える。

ところが、小泉前政権のもう一つの負の遺産である格差社会の解消や、国民の関心が高い年金などの社会保障については一向に改善の具体策が見えてこない。首相の決意も伝わってこない。

経済成長を優先するあまり、国民の安全や安心を確保するセーフティーネットづくりが後回しにされているのではないか。税制改正にとどまらず、再チャレンジプランにしても企業側の意向が反映されたものが少なくない。

成立した改正教育基本法は、「個人の価値」よりも「個人の責任」を求める国家統制色の強いものだ。解釈によっては、政治に利用される恐れもある。首相は憲法改正を視野に「日本の骨組みをつくる」と意気込んでいるが、理念だけが先行している印象がぬぐえない。

支持率の下落はつまり、いま国民が望んでいるものと安倍首相の思いに乖離(かいり)が生じていることを示している。首相は「結果を出していくことによって、国民の評価をいただきたい」と述べている。来年度の予算編成も大詰め。首相の思いが予算にどう具体化されているのか、国民は注視している。

熊本日日新聞 2006年12月16日

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基本法成立 教育の“今ある危機”に対応できるか

安倍晋三内閣が今国会の最重要法案と位置付けていた改正教育基本法が参院本会議で自民、公明の与党の賛成多数で可決、成立した。教育基本法の改正は1947年の制定以来、初めてである。

教育基本法は「教育の憲法」と呼ばれる教育の根本法である。改正には国民的議論の成熟が必要なはずだった。

だが、共同通信社の最新の世論調査では、基本法改正に「賛成」は53%で、「反対」の33%を上回ったものの、賛成と回答した人でも「今国会にこだわるべきでない」とした人が半数を超えた。

必ずしも緊急と思えない基本法改正を、特別委員会で“強行可決”し、野党が内閣不信任決議案などで抵抗するなか押し切ったのは極めて遺憾で、歴史に大きな禍根を残したと言わざるを得ない。

与党が改正を強行した背景には、戦後体制からの脱却を目指す安倍政権の思惑が働いているのは間違いない。「教育の再生」という理由付け以上に、政権が狙う憲法改正への布石と受け取れる。国民的議論の成熟を待たずに強行した対応に、そんな政権戦略が浮き上がる。

だが、基本法を政治的対立の象徴に落とし込んでいいだろうか。改正法が掲げた「公共の精神」「国を愛する態度」「伝統と文化の象徴」などの理念についても、突っ込んだ議論はなかった。

問題は、教育基本法改正について政府主催のタウンミーティング(TM)でやらせ質問があり、政府案に賛成する立場からの世論操作が行われた点だ。

政府の調査報告書によると、「やらせ」は教育改革をテーマにしたのが5回で、発覚の発端となった9月の青森県八戸市のTMでは「新しい基本法には家庭教育の規定があり期待している」と露骨な改正案への賛成意見が出された。議論の成熟を待つどころか、世論をでっち上げるのは言語道断の行為だ。

国会の議論を聞いてもなぜ今、基本法改正なのか説得力ある説明はなかった。国を愛する態度は、例えば国を憂い、反政府運動まですることを含むのか。尊重すべき伝統、文化とは何なのか。それをだれが決めるのかなど、きめ細かい論議は最後まで聞かれなかった。

現在の教育が危機的状況にあるのは間違いない。だが、重要なのはいじめ自殺など現代の子どもが抱える心の問題だ。高校の必修科目未履修に象徴される受験偏重の教育体制も問題である。

基本法改正で、そんな教育の“今そこにある危機”が解決に向かうとは到底、思えない。真に子どものためにあるべき教育を、国家のものにしようという動きには強い憤りを覚える。

南日本新聞 2006年12月16日

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改正教基法成立 政治に翻弄されるな

安倍内閣が今国会の最重要法案と位置付けていた改正教育基本法が自民、公明の与党の賛成多数で可決、成立した。一九四七年の制定以来、野党がこぞって反対する中での改正である。

「世論誘導」と非難されたタウンミーティングに象徴されるように、民意をないがしろにしてきた過去の教育行政の検証もなく、内閣不信任決議案や問責決議案などが飛び交う中での力ずくの成立である。

不信任案の提案理由を説明した民主党の菅直人代表代行は「政府主催タウンミーティング(の運営)を官僚に丸投げする姿勢こそが安倍内閣の改革が偽者であることの証明だ」と厳しく批判した。

これに対して、自民党の石原伸晃幹事長代理は「タウンミーティング問題で給与を国庫返納した首相のけじめは誠に潔い。内閣不信任案は正当性もなく、まったく理不尽だ」と反対した。

国民はどう思っただろうか。国会で多数派をとれば、何でも介入できる道が開かれるという「数の力」への諦念、あるいは無力感ではないのか。

約六十年ぶりの改正審議は、改正教基法の成立を最優先した政府、与党の思惑で事実上閉幕したと言えよう。

それにしても、政治が教育内容に踏み込む道が開かれたのは納得できず、残念でならない。

改正教基法には、これまで歯止めとなってきた「教育は不当な支配に服することなく」との言葉は残ったが、「この法律及び他の法律によって行われるべき」との文言が加わった。

「法に基づく命令、指導は不当な支配ではない」(政府答弁)としているように、歯止めは限りなく無力化されている。

教育が政治に翻弄される宿命を負うことになりかねない。返す返すも歴史に禍根を残したと言わざるを得ない。

安倍晋三首相は「新しい時代にふさわしい基本法の改正が必要」と国会審議で繰り返し、現行法の「個」の尊重から「公」重視へと基本理念を変えた。新たに「公共の精神」「伝統と文化の尊重」などの理念も掲げた。

だが、こうした理念がいじめなど現代の子どもの抱える問題の解決につながるかどうかは極めて疑問だ。

日本人として、国と郷土を愛することは当然である。しかし、「内心の自由にはなにびとも介入できない」ように、法律は行為の在り方を定めるのであって、心の在り方を決めるものではない。

安倍首相の教育改革論議は、現状を打破したいあまりに教育全体をどうするかの哲学に欠けていたと言いたい。

沖縄タイムス 2006年12月16日

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教育基本法改正・懸念は残されたままだ

教育基本法の改正案が参院本会議で与党の賛成多数で可決、成立した。1947年の制定以来、59年目にして初めて改定となった。

教育基本法改正案は、衆院特別委員会、本会議でも与党の単独で採決され、参院でも与党単独での力ずくの採決となった。与党側は、審議は十分尽くしたとするが、果たしてそうだろうか。「成立ありき」の感がぬぐえない。

国会での論議を聴いていても、高校の社会科未履修問題などに時間が割かれた。そのことは重要だが、なぜ教育基本法改正が必要なのか、改正で教育をどう変えていくのかなど、改正の本体を問う論議は少なかった。政府側の説明も不十分だった。

教育が現在、解決すべき問題を抱えていることは、多くの国民の共通の認識だろう。しかし、その解決が教育基本法改正とどうつながるのか、政府、与党から明確な答えを聞くことはできなかった。

教育基本法は、憲法と同じく戦後の日本の進むべき方向性を示してきた重要な法律だ。改正は慎重の上にも慎重を期して当然だ。

教育は「国家100年の大計」といわれる。その理念を定めた基本法が国民合意とはほど遠く、数を頼みの成立では、将来に禍根を残すことになる。

改正する理由について政府、与党は「個人重視で低下した公の意識の修正」や「モラル低下に伴う少年犯罪の増加など教育の危機的状況」などを挙げる。

しかし、教育を取り巻く問題がすべて現行の教育基本法にあるとするのは、無理がある。

安倍晋三首相は、いじめ問題などについて「対応するための理念はすべて政府案に書き込んである」と繰り返した。「公共の精神」や「国を愛する態度」といった精神論を付け加えることで果たして問題が解決できるのか。

むしろ、現行法の最も重要な理念である「個の尊重」が、教育現場で本当に生かせるような枠組みづくりが必要なのではないか。

教育と政治の関係も大きく変わる。現行法では「教育は、不当な支配に服することなく」とされているが、改正法では「この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり」が付け加えられた。

国会で多数をとって法律を制定させれば、教育内容に介入することも容易になる。教育が時の政権の思惑によって変えられることになりはしないか。

改正法が成立したことで、政府は教育振興基本計画を定め、関連法案の改正に着手する。しかし、基本法改正への懸念は残されたままだ。政府は、計画策定などの論議の中で国民の懸念に十分に応える必要がある。

琉球新報 2006年12月16日

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結局最後には「力業」か

教育基本法改正案が、参院特別委員会で可決され、今国会での成立が確実となった。現行法に比べ「公共」に重きを置いた新教基法が誕生する。

先の通常国会からの継続審議だが、10月下旬に衆院で審議入りして以降、深刻の度を増すいじめ問題や高校必修科目の履修逃れ、さらには当の教基法改正問題を含む政府主催の各種タウンミーティング(TM)で、政府側の意をくむ「やらせ」が発覚するなど、法案に集中して審議できたとはとても言えまい。

直面する課題への対応も中途半端なまま、ひたすら理念法である教基法の改正を急いだのは安倍晋三首相の強い意向だ。

安倍政権の最重要課題は「教育再生」。教基法改正は、首相が目指す「再生」の要であるには違いない。しかし、その意図するところが一般国民に十分伝わったかとなると、はなはだ心もとない。

安倍首相が官房長官時代に端を発するTMでの「やらせ」では、給与返納という「けじめ」を言明したが、それで世論誘導の既成事実が消え去るわけではあるまい。何とも後味のスッキリしない改正劇だ。

「やらせ」は置き去り

後味の悪さは、政府案の大本となった与党の教育基本法改正検討会にさかのぼる。2003年6月に始まる検討会は、当初から非公開で行われた。

与党側は「自公の隔たりを報道で強調されることを避ける」と説明したが、毎回の討議資料も回収する徹底した密室協議に対しては、当の与党内からも批判の声があった。

議論の「隔たり」を公にしてこそ、改正への国民的関心が高まるものを、優先したのは与党内の対立回避。与党案は、ほぼ政府案に反映されが、さらにさかのぼれば3年前の中央教育審議会の答申が根底にある。

中教審は文科省が事務局を取り仕切る。議員主導というには与党内の議論が淡泊で、官の意向が働いた形跡も色濃いのは、スッキリしない点の一つだ。

そこに降ってわいたTMでの「やらせ」問題は、世論誘導というより、世論軽視といった方がいいだろう。

政府の調査委は、過剰な人員配置などによる税金の無駄遣いも厳しく指摘。首相は自らの責任を含めたけじめでみそぎをする考えだが、「国民の声」をねつ造したという問題の本質から目をそらし、かつ改正を急ぐ姿勢は絶対多数を背景とした「力業」の印象がぬぐえない。

中身より時間を優先

現憲法が議論された1946年6月の第90回帝国議会で、憲法に教育の根本方針を盛り込むべき―と問われた田中耕太郎文部相は、憲法とは別に「教育根本法の制定を考慮している」旨を答弁。これが翌年の教基法成立に至る発端だ。

現行法は、憲法の理念を骨として、教育にかかわる部分を組み立てたものであり、その改正は本来、憲法改正に連動して論じられるべき筋のものだろう。

政府案は現憲法、さらには自民党新憲法草案との整合性も意識されているという。しかし与党協議の過程では、自民側が現行法の前文にある「日本国憲法の精神にのっとり」という部分の削除を求めたことに公明が反発し、改正案に残されたという経緯が伝えられている。

「憲法の精神」の何が削除の理由とされたのか、密室協議の常で詳細は不明だが、戦後憲法との不可分な関係から見直す機運があった節をうかがわせる。

TMの「やらせ」という、およそ「憲法の精神」に反する事態をそのままに、中身より時間で審議が区切られた改正案で、教育の未来を明るく照らすことはできるのだろうか。その姿勢に不安がある。

遠藤泉(2006.12.15)

岩手日報 2006年12月15日

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教育基本法可決/管理強めず、現場の支援を

これで教育をめぐる諸問題にどんな効果があるのか分からない。逆に、国の管理が強まって学校現場が委縮したり、子どもたちが形にばかりこだわったりしないかどうか心配になる。

政府、与党が今国会の最重要法案と位置づける教育基本法改正案が参院特別委員会で採決され、可決された。きょうの参院本会議で成立する見通しだ。1947年制定以来、59年ぶりの初めての改正であり、一大転機となる。

今国会で、未来を担う子どもたちを育てる理念や原則を定める教育基本法の審議が尽くされたと思っている国民はどれほどいるだろうか。

いじめによる子どもの自殺、高校での必修科目の未履修問題、タウンミーティングでの教育基本法についての「やらせ質問」など、教育現場で次々に起きた重い現実を前に、改正案は陰に隠れてしまったからだ。

理念法とはいえ、現場の事実に立脚しないと空念仏にもなりかねない。優先課題は、起きている一つ一つ問題を解決することであり、法案成立を急ぐ必要はないと、社説で繰り返し述べてきた。

改正案は前文と本則十八条で構成。「個」を重視した現行法に対し、改正案は「公」に重きを置いているのが特徴だ。

第二条は、五つの教育目標として、「豊かな情操と道徳心を培う」「公共の精神に基づき、社会発展に寄与する態度を養う」「伝統と文化を尊重し、それをはぐくんできた我が国と郷土を愛する態度を養う」―と、公共の精神、愛国心、道徳心など数多くの徳目を掲げた。

懸念されるのは、目標が定まると、おのずと評価項目が決まり、子どもたちが競争を強いられるのではないかという点だ。例えば、地域や郷土、その延長としての国を愛する心は、生活の場や人々との交流を通じて、自然ににじみ出るもので、学校が基準を作って、点数をつけるたぐいのものではあるまい。

良く評価してもらうために、子どもたちが対応したとしても、肝心の心の形成はかけ離れていたり、逆の方向を向いていたりする恐れさえある。決して、愛国心を押しつけ、競わせるようなことをしてはならない。

第一六条(教育行政)には、現行法の「教育は、不当な支配に服することなく」の文言に続けて、「この法律及び法律の定めるところにより行われる」と付け加えられた。行政側が、教育内容を決めるなど大きな権限を持つことになるのだろう。

しかし、管理主義が前面に出ると、現場は生き生きとしなくなる。管理より、学校、教員への支援の姿勢を保ってほしい。

「教育振興基本計画」を策定し、今後5カ年の政策目標を定めるとした第一七条。財政的な裏付けも得られ、一歩進んだ面もある。地方も計画を作る努力をすることが盛り込まれた。

注意を要するのは、国の基本計画策定で教育の画一化が進むことだ。地域や学校の創意、工夫を阻害してはならない。地方分権の時代は、教育分野にも当てはまる。

河北新報 2006年12月15日

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教育基本法/改正に懸念を残したまま

国民教育の根本理念をうたった教育基本法の改正案が、参院特別委員会で可決された。今国会での成立は確実な見通しとなった。改定されれば、法制定以来、約六十年ぶりとなる。

教育基本法は「教育の憲法」ともいわれる重要な法律である。現行法は前文と十一条から成るが、改正案は「生涯学習の理念」「家庭教育」の条項などが新設され、十八条に膨らんでいる。

最大の特徴は「教育の目標」の条項で「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する態度を養う」と記述し、初めて愛国心に触れたことだ。愛国心重視にこだわる自民党の姿勢を示したといってよい。

改正の是非を問う論議でも、最大の論点はここだった。「国を愛するのは自然な心で、法律の枠で縛る必要があるのか」との声が少なくなかった。戦前、教育勅語を掲げて軍国主義教育に走った苦い歴史がぬぐいきれないからだ。こうした懸念への配慮を決して怠ってはならない。

もう一つの特色は、前文に「公共の精神を尊び」の文言を掲げたことだろう。昨今の世相を見ても、公共心にもとる言動が以前より目立ってきたことは否定できないが、道徳の押しつけにならないよう教育をどう進めていくかが問われる。

改正までには多くの曲折があった。三年前の中央教育審議会の「改正答申」。愛国心をめぐる与党内論議でたどった平行線。改正法案は今年の通常国会に提出され、秋の臨時国会へ継続審議となった。

会期中、高校必修科目の未履修や、いじめ自殺の問題が焦点になり、審議に多くの時間を割いた。しかし、教育論議を尽くしたという実感が伝わって来ないのは肝心要の議論が不十分だったからだろう。なぜ改正を急ぐのか、直面する課題の解決につながるのか、という声も消えていない。

参院特別委が今月初旬、神戸で開いた地方公聴会でも、四人の公述人が審議不足を厳しく批判した。さらに、「教育への国家介入が濃厚だ」「復古的な人間観を感じる」などの声が相次いだ。

こうした懸念、疑問が少なくないことを政府は忘れてはならない。

改正法が成立すると、教育現場にどう具体的に波及するのか。条項で規定されている「教育振興基本計画」の策定を進めることになり、改正法の精神を反映した施策が示されるはずだ。

今後、その策定過程や、それがもたらす影響を注視していく必要がある。

神戸新聞 2006年12月15日

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「禍根を残す」は杞憂だろうか 教育基本法の改正

「戦後」という時代の1つの転換点となるのだろうか。

「教育の憲法」と呼ばれ、戦後教育を理念的に支えてきた教育基本法の改正案が、14日の参院特別委員会で可決された。参院本会議で採決され、成立する運びだ。

1955年に保守合同で誕生した自民党は、この法律の改正を結党以来の悲願としてきた。歴代の首相が改正を志し、模索しては挫折してきた経緯を考えると、大願成就といえるだろう。

「戦後レジーム(体制)からの脱却」を唱え、「戦後生まれの初の総理」を自任する安倍晋三首相の政権下で改正が実現することに、政治的な潮目の変化を読み取ることも、あるいは可能なのかもしれない。

しかし、戦後のわが国にとって「歴史的な」という形容すら過言ではない法律の改正であるはずなのに、国民が沸き立つような期待感や高揚感を一向に共有できないのは、なぜだろう。

「今なぜ、基本法を改正する必要があるのか」「改正すれば、わが国の教育はどう変わるのか」。こうした国民の切実な疑問が、残念ながら最後まで解消されなかったからではないか。

政府や与党は、過去の重要法案に要した審議時間に照らして「審議は尽くした」と主張する。だが、ことは憲法に準じる教育基本法の改正である。

幅広い国民的な合意の形成こそ、不可欠な前提だったはずだ。私たちは、そのことを何度も繰り返し主張してきた。国民の間で改正の賛否はなお分かれている。政府・与党が説明責任を十分に果たしたとも言い難い。

教育は「国家100年の大計」である。その基本法を改めるのに「拙速ではなかったか」という疑義が国民にわだかまるようでは、将来に禍根を残さないか。改正が現実となる今、それが何よりも心配でならない。

現行法は終戦間もない1947年3月に施行された。「われらは、さきに、日本国憲法を確定し」という書き出しの前文で始まり、憲法で定める理想の実現は「根本において教育の力にまつべきものである」と宣言した。

教育勅語に基づく戦前の軍国主義教育に対する痛切な反省と断固たる決別の意識があったことは明らかだ。

だが、「個人の尊厳」や「個人の価値」を重視するあまり、社会規範として身に付けるべき道徳の観念や公共心が軽視され、結果的に自己中心的な考えが広まり、ひいては教育や社会の荒廃を招いたのではないか。そんな改正論者の批判にもさらされてきた。

改正教育基本法は、現行法にない「愛国心」を盛り込み、「公共の精神」に力点を置く。「個」から「公」へ軸足を移す全面改正ともいわれる。

愛国心が大切だという考えは否定しない。公共の精神も大事にしたい。しかし、それらが教育基本法に条文として書き込まれると、国による教育の管理や統制が過度に強まることはないのか。時の政府に都合がいいように拡大解釈される恐れは本当にないのか。

「それは杞憂(きゆう)だ」というのであれば、政府は、もっと丁寧に分かりやすく国民に語りかけ、国会も審議を尽くしてもらいたかった。

折しも改正案の国会審議中に、いじめを苦にした子どもの自殺が相次ぎ、高校必修科目の未履修や政府主催の教育改革タウンミーティングで改正論を誘導する「やらせ質問」も発覚した。

一体、何のための教育改革であり、教育基本法の改正なのか。論議の手掛かりには事欠かなかったはずだ。

にもかかわらず、「100年の大計」を見直す国民的な論議は広がらず、深まりもしなかった。

むしろ、教育基本法よりも改めるのに急を要するのは、文部科学省や教育委員会の隠ぺい体質や事なかれ主義であり、目的のためには手段を選ばないような政府の姑息(こそく)な世論誘導の欺まんだった‐といえるのではないか。

現行法は国を愛する心や態度には触れていないが、第1条「教育の目的」で「真理と正義」を愛する国民の育成を掲げている。政府や文科省、教育委員会は、そもそも基本法のこうした普遍的な理念を理解し、率先して体現する不断の努力をしてきたのか、とさえ疑いたくなる。

教育基本法の改正は、安倍首相が公言する憲法改正の一里塚とも、布石ともいわれる。

「連合国軍総司令部の占領統治下で制定された」「制定から約60年も経過し、時代の変化に応じて見直す時期にきた」といった論拠でも共通点が少なくない。

しかし、法律の本体よりむしろ、占領下の制定という過程や背景を問題視するのであれば、最終的に反対論や慎重論を多数決で押し切ろうとする今回の改正もまた、「不幸な生い立ち」を背負うことにはならないのか。

永い歳月が経過して環境も変わったから‐という論法にしても、「100年の大計」という教育の根本法に込められた魂に照らせば、「まだ約60年にすぎない」という別の見方もまた、成り立つのではないか。

教育基本法の改正が性急な憲法改正論議の新たな突破口となることには、強い危惧(きぐ)の念を抱かざるを得ない。

「教育の憲法」の改正は、本当に脱却すべき戦後とは何か‐という重い問いを私たち国民に突きつけてもいる。

西日本新聞 2006年12月15日

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教育基本法改正 論議なお足りず禍根残す

参院教育基本法特別委員会は、戦後教育の基本を大転換させる教育基本法改正案を与党の賛成多数で可決した。十五日にも参院本会議で成立する見通しだ。

だが、そもそもなぜ今改正を急ぐ必要があるのか。これでいじめや自殺、不登校、未履修問題、学力低下などを解決できるのか。疑念がぬぐえない。

法改正では解決できない。個別の問題について議論を重ね、原因を究明した上で教育改革の在り方を論議するのが筋だった。

教育は国家百年の計である。政府、与党は審議は十分尽くされたと強調しているが、論議はなお不十分と言わざるを得ない。国民的論議も尽くされておらず、これでは禍根を残す。

一九四七年制定の教育基本法は憲法とともに戦後教育を支えてきた。制定以来初の改正には、戦後教育を否定する政治的な意味合いがある。

改正案は、前文で「公共の精神を尊び」と明記し、教育の目標として「我が国と郷土を愛する態度を養う」ことなどを掲げ、「愛国心」重視の姿勢をにじませている。

「愛国心」評価について、安倍晋三首相は「子どもの内心に立ち入って評価することはない」と述べた。だが先取りして評価項目に加えていた学校もあり、額面通りには受け取れない。

現行法は、教育行政について「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべき」とする。一方、改正法案は「教育は、不当な支配に服することなく、この法律および他の法律の定めるところにより行われるべき」とした。

従来、国家による教育への介入を抑制すべきだとされてきたが、改正法案によれば公権力による介入に対する歯止めがなくなる恐れがある。

「世論誘導」と指摘された教育改革タウンミーティングでのやらせ質問をめぐる報告書は参院の集中審議後に公表された。処分だけで済む問題ではないし、国民も納得できないはずだ。

安倍首相は「戦後体制からの脱却」を打ち出し、米占領体制下で制定された憲法と教育基本法の改正、自主制定を最重要課題として掲げてきた。

教育基本法案の慎重審議よりも改正ありきである。安倍政権にとっては憲法改正への布石にもなるからだ。

だが政治主導の復古主義的な法改正は子どもたちの可能性を封じ、格差社会、教育格差を固定化しかねない。本末転倒の改正としか言いようがない。

沖縄は本土と異なる歴史を歩んできた。「愛国心」教育が少数派の沖縄の子どもたちに将来どのような影響を及ぼすのかも、危惧せざるを得ない。

沖縄タイムス 2006年12月15日

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教育基本法 国民の声を聴いたのか

教育基本法改正案の審議が大詰めを迎えた。政府・与党は今国会での成立を目指し、野党との駆け引きを続けている。

参議院での審議時間は70時間を超え、地方公聴会も6カ所で開いた。しかし、衆参の特別委員会の審議は、いじめ対策、高校未履修問題などに集中してきた。法案そのものの論議は十分とはいえない。生煮えのまま、採決を急ぐべきではない。

地方公聴会も、実際を見れば法案採決に向けた手続きの色が濃い。

4日に長野市で開いた公聴会では、自民、民主、公明、国民新党の推薦による4人が意見を述べた。

長野市の教育委員長、久保健氏(自民推薦)は、改正案で教育の基本的な責任が家庭にあるとした点を評価した。

元大町市教育長で、前信濃教育会長の牛越充氏(公明推薦)は、生涯学習の理念が盛り込まれたことを支持。生涯学習の中で自由と規律を学ぶべきだと強調した。

「改正案は私的な領域に踏み込むもの」と明確に反対したのは、首都大学東京の大田直子教授(民主推薦)だけだった。

審議は予定の2時間余りで終了。50の傍聴席には空席もあった。

会場となったホテルの外では、いくつかのグループがマイクを握り、「改悪反対」「公聴会は法案を通すためのセレモニーだ」と声を上げた。会場の内と外で、意見の隔たりは大きかった。

公聴会の内容は委員会で報告されるが、それに対する審議はない。法案採決の前提となりがちで、「アリバイ作り」との批判もある。

教育基本法改正をめぐっては、政府主催のタウンミーティングでの「やらせ」発言も明らかになった。

教育の根幹をなす基本法の改正に、国民の声がきちんと反映されたといえるのか。公聴会の様子や、タウンミーティングの調査結果からは、疑問が残る。

6日には、基本法の特別委員会や公聴会で意見を述べた学者ら17人が、指摘した問題点をほとんど論議せずに採決に進むのは問題だとして、徹底審議を求める声明を出している。これも、実のある審議がされていないことを裏書きする。

山梨県で開いた公聴会で早稲田大の喜多明人教授は「大人だけの論議に終始せず、子どもたちから意見を聴取すべきだ」と指摘している。こうした視点も尊重したい。

公聴会やタウンミーティングは民主主義の手続きの一つだ。ただ、時間も手間もかけなければ、本当に国民の声を聴いたことにはならない。

信濃毎日新聞 2006年12月10日

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教育基本法公聴会   反対意見にも耳傾けよ

教育基本法の改正について、参院教育基本法特別委員会が地方の有識者から意見を聴く地方公聴会が、徳島市など全国四カ所で開かれた。

政府与党が重要法案と位置付ける改正案の今国会成立は、確実とみられている。早期成立を目指す与党と成立阻止を図る野党の攻防はヤマ場を迎え、激しさを増している。

徳島市の公聴会では、政府案への賛否両論が相次ぎ、「拙速は避けるべきだ」との意見も出た。与党は衆院で行ったような強引な採決に持ち込むのではなく、反対意見に真摯(しんし)に耳を傾け、慎重に審議してもらいたい。

公聴会の席上、自民、民主、公明、共産の各党からそれぞれ推薦された元旧上那賀町教育長の白川剛久氏、龍谷大法科大学院の戸塚悦朗教授、徳島文理大短期大学部の富澤彰雄教授、徳島大の石躍(いしおどり)胤央(たねひろ)名誉教授の四人が意見を述べた。

政府案について、白川氏は「伝統文化を教えることで国を愛する心、態度はおのずから養われる」と評価した。富澤氏も「生涯学習などの理念が明記されており、社会全体の教育力回復につながる」と賛成意見を述べた。

一方、戸塚氏は「国際人権法上、与野党案ともに不十分だ。外国籍児童の権利が保障されていない」と懸念を表明。石躍氏は「なぜ教育が今のような事態になったのかを整理するのが第一の仕事だ」と反対した。

政府案の焦点である「愛国心」については「国会で決めるものではない」「国家が心の中に踏み込むことは許されない」などの意見が出され、依然反対が根強いことをうかがわせた。

「個の尊重」を前面に出している現行法に比べ、政府案は「公共の精神」を強く打ち出している。国家による教育の統制、介入が進むのではないかとの懸念もある。国民の理解も広がっているとは思えない。

一九四七年に制定された教育基本法は、すべての教育関係法の根本となる「教育の憲法」として戦後教育を支えてきた。「教育再生」を重要課題に掲げる安倍晋三首相は、改正案を早期に成立させ、教育の抜本改革を急ぎたい考えだ。

衆院で与党は「審議は尽くされた」として与党単独で採決した。だが、教育改革タウンミーティングでの「やらせ質問」や、いじめによる自殺、高校の必修科目未履修問題などに多くの時間を取られたのが実情で、改正案についての論議が尽くされたとは言い難い。

できる限り多くの国民の理解が得られるまで、じっくりと練り上げるべきだ。政治日程を優先させ、採決を急ぐようなことがあってはならない。

いじめ自殺、学級崩壊、家庭や地域の教育力低下など「教育の荒廃」が指摘されている。教育現場は多くの問題を抱え、教育委員会の在り方も問われている。地方公聴会では、そうした現状を踏まえて多岐にわたる提言があった。

教育が今のままでいいはずはない。しかし、教育基本法を改正しても問題が解決するわけではない。政府案を数の力で押し切れば、将来に禍根を残すことになるだろう。教育現場に混乱の火種を持ち込むことにもなりかねない。

地方公聴会の意見を参院の審議に反映させ、十分に時間をかけて論議することが必要だ。

2006年12月5日 徳島新聞

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