地方紙社説(2007年4月)


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問われる「品格」

統一地方選が終わった。今回の選挙の大きな争点の一つは「政治とカネ」だった。

広島県の藤田雄山知事の後援会問題で明らかになった最初の知事選での二億円とも三億円ともいわれる裏金疑惑、使途が不明で“第二の議員報酬”といわれる政務調査費、知事による官製談合事件。庶民感覚とかけ離れた、政治家とカネにまつわる問題は昔から枚挙にいとまがない。そういえば現職閣僚による「なんとか還元水」の問題もあった。

事務所の家賃も光熱水費も無料のはずなのに、多額の経費を計上していた。五万円以上の経費については領収書を義務付けるかどうかで議論しているが、いまだ結論はでていない。当の大臣は「法にのっとって報告をした」と開き直る始末。全くひどい話だ。

首相は学校での道徳教育の強化を打ち出しているが、こんなことがまかり通るなら、子どもに与える影響は計り知れない。徳育など面はゆいばかりだ。

「国家の品格」(新潮新書)の著者で知られる藤原正彦氏の講演を先ごろ聴く機会があった。教育者の新渡戸稲造の「武士道」精神を元に、氏が展開する論は著書に詳しいが、要は今の日本には「法さえ破らなければ(何をしてもいい)」との考えがまん延している。時代が多少豊かになり、それに反比例するように国や地方、そして人にも「徳」「品格」が無くなっていると嘆く。

首相がいう「美しい国づくり」には当然、徳や品格が含まれているのでしょうね。

山陽新聞 2007年4月30日

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免許更新が有効だろうか 教員の資質向上

政府が今国会の最も重要な課題にしている教育改革に関連する三法案が審議されている。民主党も対案を提出した。

政府案と民主党案の中で、教員の資質向上をめぐる具体策の違いも論点になっている。

学力の低下やいじめ問題など教育現場の混乱の原因が、教員にあると一般的には思われているようだ。そんな雰囲気の中で教員の資質が問題にされる。

確かに教員の中には指導力がなく、職責を遂行するのに適格ではない者がいるだろう。しかし、その割合は、ごくわずかなのではないか。

教員免許を更新制にすれば、教員の能力を格段に高め、資質の向上をおしなべて図ることができると、いえるだろうか。疑問に思わざるを得ない。

政府が国会に提出した教育職員免許法改正案の骨子は、教員免許を現行の終身制から、有効期間十年の更新制に変えるものだ。

更新前に三十時間以上の講習を義務づける。講習を修了しなければ、免許は失効する。専門家や保護者などの意見を聞いて指導が不適切な教員の認定を行う制度を導入する。

一方、民主党の「新教職員免許法案」は、教員の一般免許は修士学位(六年制)を前提とする。実際に教壇に立つ教員に対し、政府案を大幅に上回る百時間程度の講習を十年ごとに義務づける。講習を修了しないと免許は失効する。

二十日に開いた衆院教育再生特別委員会で安倍晋三首相は、十年ごとの免許更新制の意義について「教員が常に変化する世界の価値観や最新の知識を身につけ、自信を持って教壇に立つために必要だ。教員たたきでは全くない」という趣旨の答弁をしている。

文部科学省が都道府県と政令市の各教育委員会を通じて調べた二〇〇五年度の「指導力不足」の教員数は、五百六人と報告されている。

五百六人のうち、〇五年度に新たに認定された教員は二百四十六人で、全体の約半数を占めている。認定を受け百三人が依願退職し、六人が分限免職、二人が職員へ転任している。

児童に暴言を吐いたり、生徒が聞いていなくても一方的に授業を進める、分担する校務を自分の力でこなせない−など問題が多い。

しかし、指導力不足と認定された数は全国の公立小中高校などの教員約八十九万八千人を対象に調べた結果で、およそ千八百人に一人の割合にすぎない。

伊吹文明文科相は免許更新制により教員を「不適格」と判断する基準について「都道府県教委などが策定し、その基礎には校長の評定がある」と答弁。認定基準のガイドラインは文科省が策定することになるようだ。

教育公務員特例法では、教員には研修を受ける機会が与えられ、初任者研修、十年経験者研修が義務づけられている。十年経験者研修は、免許更新制の導入が検討され、見送られた代わりに〇三年度から制度化されたものだ。

教員の資質は、日常の教育活動の中で培っていくものだ。現在ある研修システムの活性化で十分対応できるはずだ。

東奥日報 2007年4月28日

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教育改革法案 丁寧な議論欠かせない

安倍晋三首相が国民投票法案と並んで今国会の最重要課題と位置づける教育改革関連3法案について衆院特別委員会で論戦が交わされている。

政府案の学校教育法改正案は、昨年成立した改正教育基本法を踏まえ、義務教育の目標に「国と郷土を愛する態度」を明示。地方教育行政法改正案では教育委員会に対する文部科学相の是正指示権を新設した。

教員免許法および教育公務員特例法改正案は、教員免許を終身制から10年ごとの更新制とすることを盛り込んでいる。

中央教育審議会(中教審)は通常、数カ月から1年以上の審議時間を取り、全会一致を原則とする。だが3法案はわずか1カ月余という異例のスピードで中教審の答申を受けて国会に提出された。

安倍首相は「教育再生は待ったなしの課題であり、早急に対応することが政治の責任」と強調するものの、論戦の中身からは現在の学校が抱える問題解決策がなぜ今回の3法案なのか、いまひとつ伝わってこない。

色濃い国の権限強化
今回の教育改革の発端は全国で相次いだいじめ自殺の隠ぺいや高校の未履修問題、指導力不足教員などが背景となった。

ところが教育再生会議報告を受けて文科相が当初、中教審に示した地方教育行政法の改正案骨子には国による県教委の教育長任命関与や教委の私学への指導権限など、国の権限強化が色濃い内容だった。

教委の機能不全は国が関与できないから起こっているわけではない。当事者意識の欠如や隠ぺい体質などは文科省を頂点とする上意下達の構造の中で染み付いたものだ。

地方団体や私学の委員から「地方分権に逆行する」「私学の独自性が失われる」などの反論が相次いだのは当然だろう。

答申は結局、文科相による教委の是正指示権が盛り込まれることで、地方分権の流れで失った文科省の権限復活に道を開く結果になった。

教員免許法改正案の免許更新制も疑問が多い。文科省によると国公私立を合わせた幼稚園から高校までの教員は全国で約110万人。免許更新制を導入すると単純計算で毎年約10万人が30時間の講習を受ける。

ただでさえ忙しい教員の更新講習による欠員が、学校現場からさらに余裕を奪う結果になりはしないか懸念される。

改革の方向を誤るな
内閣府がまとめた社会意識に関する世論調査で、現在の日本で悪い方向に向かっている分野(複数回答)として「教育」を挙げた人は36・1%に上った。

いじめ自殺や未履修問題などが影響しているとみられ、教育が大きな曲がり角にきていることは確かだ。だからこそ改革の方向を見定める必要がある。

教育再生会議はまた第1次報告で週5日制導入や教科内容・単位数の削減が学力低下を招いたとして、授業時間10%増などの改革案を提示している。

だが「ゆとり教育」の現行指導要領で学んだ全国の高校3年生を対象に2005年に実施した学力調査結果では、旧指導要領下の前回との同一問題比較で正答率が上がった問題が、下がった問題を大きく上回った。

むしろ学力分布や勉強時間の調査で、猛勉強する生徒と、学校以外では勉強しない生徒の二極化が問題視されている。

今回の法案は提出期限に合わせるスケジュール優先の感が否めない。教育は100年の大計といわれる。だからこそ改革にはもっと丁寧な議論が必要だ。 小笠原裕

岩手日報 2007年4月27日

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全国学力調査 一元的な管理強める懸念

小学六年、中学三年の学年全体に参加を求めた文部科学省の全国学力調査が実施された。全国調査がもたらす不安はいくつかある。学校間の序列化、過度の競争につながりかねないことやプライバシー保護への懸念などは、以前から学校などで問題視されていた。加えて、教育の地域分権化の流れに逆行し、国が調査結果の数字データに偏重、各校への一元的な管理を強めていく恐れもある。

「序列化や過度の競争につながらないように」との指摘は、調査の実施方法を提言した文科省の専門家検討会議が昨年の報告に盛り込み、公表は国全体と都道府県レベルにとどめるよう求めた。

同省は「個々の市町村、学校を明らかにした公表はしない」とした。ところが、各市町村はその市町村域の学校について、学校も自校について、それぞれの判断で平均正答率などを公表できるようにした。市町村や学校が公表を見送っても、例えば市町村の情報公開条例に基づいて公開請求すれば個人データ以外は入手できる可能性が高い。広域的なエリアで各校ごとの平均の成績をランク付けするのは難しいことではない。

個人情報保護については、調査の採点や集計を民間教育業者に委託し、市町村に情報漏れの不安が広がった。県内でも、横浜市、相模原市など十一市町で氏名の代わりに番号を記入する「番号方式」を取り入れた。自己防衛を図る自治体の判断は当然であろう。

また全国学力調査とセットで生活環境などの調査も行った。学力と家庭環境との相関性をみる狙いからだ。文科省は昨年末の予備調査で「家族から必要とされているか」「家に何冊本があるか」なども聞いた。これらの質問は、学校現場からプライバシーへの配慮のなさを指弾されて削除した。それでも「普段の朝食、夕食を家の人と一緒に食べているか」などの質問は盛り込んだ。全国一律の調査で、さまざまな事情もある家庭内のデリケートな問題に簡単に踏み入る文科省の見識を疑う。

二年前の閣議決定を受け、全国学力調査は実施に移された。導入の経緯をみると、学校に競争原理を取り入れるべきだとする経済界の要請を背景に、四十三年前にやめた同調査を復活させた。

国には学習指導要領で全国共通の目標を設定するだけでなく、その結果の検証に役立つ管理システムを築く狙いもあろう。調査結果を「客観的データ」として、実質的に学校の教育内容に介入してくることにもなりかねない。

本来の義務教育は、外圧的な評価で学校間の競争心をあおることではない。学力は学校の指導実践だけでなく、その学区の地域特性や家庭の経済力と密接にかかわっている。全国学力調査が、学力の地域差まで映し出す序列化の資料になったら目も当てられない。

神奈川新聞 2007年4月27日

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全国学力テスト 格差解消に生かせ

文部科学省の全国学力テストが43年ぶりに実施された。小学6年生と中学3年生約233万人がテストに臨んだ。全国テストが過度の競争につながってはならない。各学校は全国的にどの位置にあるかを知り、格差解消に生かしてもらいたい。

昭和30年代には、中学2、3年生に全国規模の学力テストを実施していた。しかし、地域間、学校間の競争をエスカレートさせるとして、中止していた。「教育現場に能力主義による差別を生む」との日本教職員組合(日教組)の激しいボイコット運動も影響した。

全国一律を復活させたのは、国際比較調査などで日本の学力が、低下しているのが分かったからだ。日本の教育は世界でもトップレベルにある、との思い込みが打ち砕かれた。まず現状を知ることで、問題点を探り、底上げを図らねばならない、との理由である。

テストは算数(数学)と国語の2教科。私立は約6割が参加し、公立は愛知県犬山市の小中学校を除いて、全校が参加した。犬山市は「競争と評価で教育は良くならない。豊かな人間関係が失われ、子ども社会に格差が生じる」と主張している。

犬山市は、独自に少人数学級や2学期制、副教本の導入などに取り組み、成果を挙げている。しかし、校内テストや地区テストは良くて、全国テストがだめというのでは、「井の中のかわず」になってしまう。

今回の問題の特徴は、単純な選択問題ではなく、工夫した記述問題が多かったことだ。小学国語Aの「『寿』の字を漢字辞典で調べる方法は?」、中学国語Bでは芥川龍之介の「蜘蛛(くも)の糸」全文を読ませるなど、時間をかけて考えさせる問題が多かった。

小学算数Bでは、町のケーキ屋で水曜の特売日と日曜日の特売日に数種類買ったとき、どちらが安いか。中学数学Bでもファミリーレストランでのメニューの選び方やカロリーの計算方法を問うなど、生活に密接な設問を行っている。

学力を生きる力としてとらえる意図が見える。戸惑った生徒がいたかもしれないが、表現力を身に付けさせるには有効だったのではないか。

問題は、テストの結果を教育改善にどう生かすか、だ。文科省は「個々の学校名を明らかにした公表はしない」としている。学校の序列化や過度の競争につながらないようにとの配慮からだ。

しかし、市町村教委、学校は「結果を保護者に説明できる」としている。教育現場は結果の公表について大きな責任を負うことになる。競争を過熱させるのではなく、成績が悪かった学校の原因がどこにあったか、しっかり分析してほしい。その上で学力を向上させるための授業方法を検討すべきだ。

教育再生会議は「教育の質の高い学校を予算で優遇する」案や学校選択制の導入も考えている。全国学力テストの結果を、そのためのデータに使ってはならない。

むしろ、予算を付けるべきは成績の振るわない学校である。塾や家庭教師に恵まれた子どももいれば、親が教育に対して無関心な家庭もある。地域間の収入の格差が学力格差につながっているなら、正さねばならない。

過度の競争は好ましくないが、負けまいとする適度な競争意識はあったほうがいい。学校や市町村教委は、結果の悪い学校に重点的に教員を投入するなど、成績の底上げにテスト結果を有効利用してほしい。(園田 寛)

佐賀新聞 2007年4月27日

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全国学力テスト 競争あおらぬ冷静な対応望む

「ゆとり教育」批判がこんな形で具体化されてきたとみていい。その実施の姿勢にも性急な印象は否めない。

文部科学省の全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)が行われた。全児童・生徒対象の一斉テストは43年ぶりである。

全国で小学校6年、中学校3年の233万人余がテストに臨んだ。不参加は公立では愛知県犬山市教育委員会、私立は約4割だった。

本県でも小中の約420校、約2万4千人が問題に取り組んだ。

結果を直接に学校評価に結び付けて序列化したり、いたずらに競争をあおらないよう冷静な対応が必要だ。

■序列化過熱する恐れ■
調査目的に挙げられているのは、国の教育施策検証と、学校の教育改善の二つだ。

まず問題なのは、結果を受けて国としてどう対応するのか、基本的な構えが見えてこないのだ。

「結果の悪い学校の底上げにつなげたい」(文科省)という考えの一方で「教育の質の高い学校を予算で優遇」(教育再生会議)などの案や、学校選択制度の全面的導入につなげようという動きもある。

結果を受けてどうするのか。肝心な部分を明らかにしないのは無責任のそしりを免れない。格差解消の手だても示さないまま競争強化に向かう…。それが正直な印象だ。

もう1つある。教委、学校による教育改善も「全国的な状況との関係において自らの教育の結果を把握し改善を図る」という触れ込みだ。

つまりは序列を知り順位を上げる努力をしろ、ということになる。

順位が独り歩きすれば、競争に勝つことが自己目的化するのは避けようがない。

■国の教育介入が進む■
結果公表についても、文科省は「個々の学校名を明らかにした公表はしない」とし、序列化や過度な競争につながらないよう配慮を求めてはいる。

しかし一方で、「市町村教委・学校は結果を保護者に説明することができる」ともしている。リスクの種をまきながら「後は知らない」と言っているようなものではないか。

結局、結果をどう公表するかなど責任はすべて教育現場を預かる教委、学校にのしかかってくる。

一つ対応を誤って競争過熱ということになれば、地域で積み上げた多くの創意工夫などひとたまりもない。

今回のテストで測れるのは、特定の教科のごく一部の学力でしかないことを肝に銘じてほしい。

その結果を過大に扱い、学校選択の道具や教員評価に直結させることにでもなれば、学校に「テストのための勉強」がはびこり、現場主義の教育改革など一気に押し流されてしまう。

政府の言う義務教育の構造改革は、学習指導要領という計画と学力テストという検証に国が責任を持つものだ。

だが、計画と検証を握れば国のコントロールが強まり、教育の地方分権など絵に描いた餅もちになる。

国の政策検証のためのテストなら全員対象でなく抽出調査で十分であり、現場の検証は教委と学校が自らの責任で行うのが基本ではないか。

「自ら学ぶ力」をどう育てるか。その主役は市町村教委、学校である。全国学力テストという「おばけ」に振り回されてはいけない。

宮ア日日新聞 2007年4月27日

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全国学力テスト 学校の序列化が心配だ

文部科学省の「全国学力テスト」が実施された。すべての小学6年生と中学3年生が対象。限られた学年とはいえ、全員が対象の一斉テストは43年ぶりである。

学力の状況を把握し、指導の改善につなげる?。テストの目的をこう限れば、理解できなくはないし、久々の復活も妥当なように見える。

学力低下が進んでいるのは明らかであり、早急に対策を講じることは、保護者らの願いに応えることでもあるからだ。

実際、テストを終えた県内の学校現場でも、指導や授業の見直しのきっかけになるとの声が上がり始めている。

しかし、全国一斉の学力テストは「両刃(もろは)の剣」であることを指摘しないわけにはいかない。テスト結果の使い方次第では、学校や市町村の序列化を招きかねず、競争を過度にあおる恐れもあるからである。

文部科学省は成績の公表を都道府県別にとどめ、各教育委員会にも個別の市町村名や学校名を公表しないよう要請した。

ただし、首長や校長が住民や保護者への説明として成績を公表することは認めているため、やりようによっては順位づけが不可能ではないのだ。

序列が判明すれば、「頑張れ」「追いつけ、追い越せ」に拍車がかかり、時に激化することも十分考えられる。

テストが実施された以上、保護者らが子どもの通う学校や市町村のレベルを知りたいと思うのは自然な感情でもある。

文科省は各教委任せにせず、競争の過熱対策を含め、9月に予定される成績の公表の仕方をもう一度練り直す必要がある。

学校関係者や保護者らにすれば、冷静な対応が欠かせない。テスト結果をあくまで「一つの参考資料」ととらえ、一喜一憂するのは慎みたい。

文科省は今後も毎年、全国テストを実施する予定だ。テストが定着し、競争が激しくなることによって、「テストのための勉強」が助長されないかという点も見逃せない。

学力とは何か。何をもって向上したといえるのか。これは極めて難しい問題で専門家の間でも意見が分かれる。しかし、少なくともペーパーテストで高得点を取るためだけの勉強が本来の学習であるはずはない。

しかも全国学力テストで測れるのは、国語と算数(数学)という限られた教科のごく一部の学力でしかないのだ。

「ゆとり教育」が十分総括されないまま、学習の力点が「テスト対策の競争」へと押し流されてしまわないか。どうしても懸念がぬぐえないのである。

テストの結果を国としてどう使おうというのか。いまひとつ判然としないことも疑問点として浮上してくる。

文科省はテストの分析結果を現在改定作業中の学習指導要領に反映させる考えを示している。その一方、学校・教師の評価や学校選択制などの材料に利用しないとは決して言い切れない状況も垣間見えるのだ。

教育基本法の改正や審議中の教育改革関連三法案と相まって、国のコントロールが強まれば、教育の地方分権など絵に描いたもちにすぎなくなる。

秋田魁新報 2007年4月26日

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全国学力テスト 学校序列化に利用すべきでない

小学六年と中学三年を対象にした文部科学省の「全国学力・学習状況調査」(全国学力テスト)が実施された。学年全員の調査としては四十三年ぶり。

全国的な学力データを基に学校現場や教育委員会がそれぞれの結果を比較検討し、改善すべき課題を浮き彫りにさせるのが狙いという。

中央教育審議会は二〇〇五年に学校に自己評価を義務づけることを答申した。政府の教育再生会議は教員の給与に差をつけることや、学校選択を可能とする教育バウチャー(利用券)制度の導入などを検討している。

これらは教育の場に競争と評価という市場原理を持ち込もうとするものだ。競争意識の導入を一概に否定はしないが、学力テストと結びつくことで数字だけが独り歩きしてしまう不安がつきまとう。

学力テストでは一人一人の成績だけでなく、学校や市町村、都道府県別の成績がランク付けされる。教育再生会議の論議などを重ね合わせると、学力テストが学校の序列化を推し進め、学校や教師を評価する資料として利用されるのではないかとの危惧(きぐ)がぬぐいきれない。

市町村や学校への予算配分を学力テストの結果で決めることも可能になるのだ。

教員も、学校や自分自身の評価と学力テストが結びつけられては、無視することはできない。問題の傾向が分かり、来年以降は各校で対策が練られることは必至だ。

一九六〇年代の学力テストの際、愛媛ではテストのための過度な指導があったことや、学力テストと教師の勤務評定が結びつき、教育現場を荒廃させたとの批判があったことは記憶に新しい。再び同じ道を歩んではならない。

学力テストの結果を評価の基準には決してすべきではない。いたずらに教育現場に混乱をもたらすだけだ。

九月をめどに公表される結果は、教育委員会や学校が直接関係するものに限定し、全国比較はできても都道府県内や市町村内での順位までは分からない仕組みになっている。

しかし、現に大阪府枚方市が実施した学力テストについて、大阪高裁は今年一月「学校別の結果を市が非公開にしたのは違法」との判断を示している。市町村の意に反して公表を余儀なくされる可能性もある。

結果を公表する市町村や学校が相次げば、市町村や学校の順位は一目瞭然(りょうぜん)となる。文科省も市町村や学校が独自の判断で結果を公表することは妨げていない。保護者の学校選びや受験競争をあおる結果になりはしないかと心配だ。

愛媛など大半の都道府県では独自の学力テストをすでに実施している。学習指導への活用が目的なら、従来のテストで事足りるはずだ。あるいは全員参加という今回のような形でなく、抽出方式でも十分だろう。

約七十七億円の事業費を投入した学力テストが、真に子どもの学力向上に結びつくよう存続の是非を含めて見直すべきだ。

愛媛新聞 2007年4月26日

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全国学力テスト  序列化の心配はないか

小学六年と中学三年に対する国の全国学力テストが四十三年ぶりに実施された。

これまでの抽出テストと違って学年全員が対象で、約三万三千校で二百三十万人以上がテストを受けた。

独自の教育方針を掲げる私学の約四割や、学力テストの意義を認めない愛知県犬山市の公立校は参加を見送ったが、学校の参加率は99%に上った。

テスト結果のデータは、九月をめどに公表の予定で、文部科学省では来年以降も実施するとしている。

テストの狙いが学力向上でも、データ公表の仕方によっては序列化競争をあおりたてかねない。公表には十分な配慮と慎重さを求めたい。

データ処理は外部委託されるが、プライバシー保護の面で不安はないのだろうか。

テストは算数(中学は数学)と国語の二教科で基礎的知識と応用力を調べ、併せて児童・生徒の学習環境や生活習慣なども調査した。

学力テストは一九五〇年代に始まり、六〇年代に全国一律となったが地域、学校間の競争激化で中止された。

学校、学年単位の平均点をアップさせるために、テストから除外される子どもまでが現れたからだ。

今回の復活は、総合学習など新学習指導要領をめぐり学力低下論争が起きるなか、二〇〇二年、当時の文科相が「学力で世界トップを目指す」との方針を打ち出したことがきっかけとなった。

文科省はかつてのてつを踏まないため、テストのデータ公表は序列化につながらないように、都道府県別の正答率データなどの公表にとどめるとした。

だが一方で、市町村や学校が独自の判断でデータ公表するのは容認した。

首長が教育予算がらみで議会質問を受けたり、校長が保護者から説明を求められるケースを想定したのだろう。

融通が利いているようだが、独自にデータ公表する市町村、学校が相次げば都道府県内の市町村順位、市町村内の学校順位なども明らかになる。

全国集計しようとするところも出てくる可能性がある。学校現場で学力テスト再過熱を心配するのもうなずける。

プライバシー保護では、京都府内の児童生徒がテストの中止を求める仮処分を京都地裁に申し立てた。

生活習慣などの調査では家庭事情に踏み込む質問もあり、国や受託業者がそうした個人情報を収集、管理するのは問題だとしたのだ。

都道府県の大半は児童生徒の学力は定期的テストで把握し、向上対策に努めてきた。海外では学力をみるのは抽出調査で十分との指摘もある。

いま日本の児童生徒に求められているのは独創性や創造性といわれる。学力テストは本当の学力を身につけるための一つの指標でしかないと確認したい。

京都新聞 2007年4月25日

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全国学力テスト/結果公表に細心の注意を

文部科学省の「全国学力・学習状況調査」(全国学力テスト)が行われた。全国の小学六年と中学三年の計二百三十三万人、県内では全十五市町村の公立小中学校などの約二万人がテストを受けた。

文科省は今回の調査を「児童生徒の学力・学習状況を把握・分析することにより、教育結果を検証し、改善を図る」ためとし、各教育委員会や学校が「全国的な状況との関係において、自らの教育の結果を把握し、改善を図る」としている。

近年、低下しているといわれる子どもたちの学力傾向を調べることだけが狙いなのではない。各地域や学校に自らのレベルを認識させることによって、学力向上の努力をさせようという意図が込められている。

テストの結果を授業の改善などに役立てるだけならいいが、点数にこだわって子どもたちを競争に駆り立てることにならないか。かつての全国テストの反省からか、文科省は実施要領で「学校間の序列化や過度な競争につながらないよう配慮」するとしてはいる。しかし、結果公表の仕方いかんでは地域間、学校間の序列が表に出てしまう可能性がある。

テスト結果について、県内市町村ではいまのところ「公表する」としているのは南砺市だけだが、公表に当たっては細心の注意を払ってもらいたい。

今、なぜ全国学力テストなのか。文科省は、国際的な学力比較調査で明らかになった日本の子どもたちの学力や学習意欲の低下傾向、義務教育の質を保証する仕組みを構築する必要性などを挙げている。「すべての子どもに高い学力を」(安倍晋三首相)だけなら、公教育が取り組むべき当然の課題である。

しかし、四十三年ぶりに全国学力テストを復活させた背景には「競い合う気持ちが大事と分からせたい」(中山成彬元文科相)という考えがある。現代は「知の大競争時代」といわれる。子どもも、学校も、地域も、もっと競わせて学力向上を図ろうということだ。政府の教育再生会議には、テスト結果を学校評価や学校間で格差をつける予算配分につなげたい思いもあるようだ。

テスト結果について、文科省が公表するのは都道府県別や地域の規模別までで、個々の市町村名や学校名は公表しない。ただし、市町村、学校にはそれぞれの結果を知らせ、市町村や学校は独自の判断で住民や保護者に公表することができるとしている。ここから序列が明らかになる可能性がある。

県内で結果を公表しない方針の市町村は「学校間格差につながりかねない」「現場や児童生徒、保護者に不安と混乱を招きたくない」などとしている。

文科省は来年以降も継続して実施する方針というが、そうなれば市町村や学校が自らの成績を気にするようになり、競争が本格化することが危惧(きぐ)される。テストで測れる学力だけが「確かな学力」ではあるまい。継続実施を打ち出す前に、今回の結果を学力向上にどう生かすかをしっかり検討すべきだ。

北日本新聞 2007年4月25日

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全国学力テスト 市町村単位で結果の公表を

四十三年ぶりに実施された小中学生の全国学力テストで、文部科学省が結果の公表を都道府県単位にとどめるよう要請したのを受け、石川県や富山県では、市町村や学校単位で公表するところが極めて少ない見通しとなった。現時点では、富山県南砺市が教科ごとに点数をまとめ、発表する意向を表明しているのみである。

児童生徒が学習意欲を高め、互いに切磋琢磨して学力を伸ばすためには、具体的で身近に感じられる数字の比較も必要だ。指導に当たる学校や教員のやる気を引き出し、地域一体で教育に取り組むためにも、市町村あるいは学校ごとに結果を公表することが望ましい。

今回の成績については、首長や校長が住民や保護者への説明として公表することは容認されているが、文科省は各教委に個別の市町村名や学校名を公表しないよう“自粛”要請した。これは一九六〇年代に実施された全国一律テストが、地域間および学校間の競争をエスカレートさせたとして中止に至った経緯をふまえてのことであろう。

しかし当時と比べて現在は、児童生徒をめぐる教育環境が大きく変わり、「ゆとり教育」などの影響で各教科の学習量が大幅に減少している。国際的にみても〇四年のOECD学力調査から、日本の子供の数学的応用力や読解力などで著しい基礎学力低下が指摘され、学力向上が喫緊の課題として浮上している。

今回の成績が、都道府県単位のような大づかみな地域的尺度で公表されるだけでは、個々の学校や地域が抱える問題点があいまいになりかねない。絞り込んで公表した結果、学力に地域差が見て取れるなら、それをしっかり見据えて対応することが求められよう。

また、今回の教科の対象外だが金沢市の英語教育特区に見られるように、地域ごとに独自の先進教育を実施しているところも増えてきた。こうした取り組みの成果を検証する意味でも、市町村ごとの成績公表は有益だろう。計算力向上や読書指導の斬新な取り組みにより、際立って優秀な結果を残した市町村や学校の成果は、大いに参考にすればよい。

学力テストの結果を貴重な資料として有効活用するためにも、市町村の一歩踏み込んだ判断を求めたい。

北國新聞 2007年4月25日

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全国学力テスト 振り回されずに慎重に

文部科学省の全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)が行われた。公立の愛知県犬山市教育委員会と私立の約4割が不参加だったが、全国の小中学校約3万3000校で実施。本県では私立の小学1校、中学2校を除く296校で小学6年生、中学3年生の約1万6400人がテストに臨んだ。

全国のすべての児童、生徒を対象にした一斉テストは43年ぶり。学力低下が問題となる中で学力レベルを測り、今後の教育改善につなげようという狙いだが、結果をストレートに学校評価に結びつけて序列化の道具としたり、過当な競争をあおることがないように、慎重な対応を望みたい。

調査の目的は主に国の教育政策の検証と教育委員会、学校の教育改善の2つとされる。しかし、気になるのは、テストの結果を受けて国としてどう対応するのか、基本的な構えが見えていないことだ。

「結果の悪い学校の底上げにつなげたい」(文科省)という考えの一方で、「教育の質の高い学校を予算で優遇する」(教育再生会議)といった案や学校選択制度の全面的導入につなげようという動きもある。

結果を受けてどうするのか。肝心なところが明確にされていない。一斉テストに不安を抱くのはこの辺にあるのだろう。

結果の公表については文科省は「個々の学校名を明らかにした公表はしない」として、序列化や過度な競争につながらないよう配慮を求めている。その一方で「市町村教委や学校は、結果を保護者に説明することができる」としている。

結局、結果をどう公表するかなどの責任はすべて教育現場を預かる教育委員会、学校に委ねられた。独自の判断で結果を公表することができるとすれば、公表の仕方によっては序列化や競争を過熱させることにもなりかねない。教育現場の教師らが懸念するところだ。

今回のテストは国語と算数・数学の2教科に限定された。生活習慣や学習に関する調査も行われた。しかし、このテストで測れるのは特定の教科のごく一部の学力でしかない。学校選択の道具や教員評価に直結させるようなことにでもなれば、学校に「テストのための勉強」がはびこり、現場主義の教育改革は一気に押し流されてしまう。

公立で唯一参加を拒否した犬山市教委は「狙いとしている自ら学ぶ力は、このテストで高めることはできない」という。参加拒否は長年積み上げてきた地域主体の教育改革を大切にした結果だといえる。

1960年代に実施された全国一律テストは地域間、学校間の競争がエスカレートして中止された。この轍(てつ)を踏むことがあってはならない。「自ら学ぶ力」をどう育てるか。その主役は市町村教委、学校である。全国学力テストに振り回されずに、見通しをもった主体的な取り組みを期待したい。

福井新聞 2007年4月25日

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全国学力テスト 学校の序列化には使うな

文部科学省の全国学力テストが実施された。公立の犬山市教育委員会、私立は約4割が不参加だったが、小学6年、中学3年の233万人余が受けた。県内でもすべての小、中学校で行われ、受験者は合わせて約4万人余になる。

学年全員を対象とした全国学力テストは43年ぶりだが、学校を序列化したり、いたずらに競争をあおることのないよう冷静な対応を求めたい。

調査の目的は、国の教育政策検証と教委、学校の教育改善の二つだが、国は結果にどう対応するのか、基本的構えが見えない。

文科省は「結果の悪い学校の底上げにつなげたい」と言うが、「教育の質の高い学校を予算で優遇する」(教育再生会議)などの案や学校選択制度の全面的導入につなげようという動きもある。

結果をどう生かすのか、肝心のところを明らかにしないのは無責任だ。格差解消の手だても示さないまま、競争強化に向かってまっしぐら、というのが正直な感想だ。

教委、学校による教育改善も「全国的な状況との関係において自らの教育の結果を把握し改善を図る」という触れ込みだ。つまりは序列を知り、順位を上げる努力をしろ、ということになる。順位がひとり歩きすれば、競争に勝つことが自己目的化するのは避けられない。

結果の公表では、文科省は「個々の学校名を明らかにした公表はしない」と序列化や過度な競争につながらないよう配慮を求めている。しかし「市区町村教委や学校は、結果を保護者に説明することができる」としている。

リスクの種をまいておきながら「後は知らない」と言っているようなものである。

結果をどう公表するかなど責任はすべて教育現場を預かる教委、学校にのしかかる。一つ対応を誤って競争過熱ということにでもなれば、地域で積み上げたさまざまな創意工夫などひとたまりもない。

今回のテストで測れるのは、特定の教科のごく一部の学力でしかない。結果を過大に扱い、学校選択の道具や教員評価に直結させるようなことになれば、学校に「テストのための勉強」がはびこり、現場主義の教育改革など一気に押し流されてしまう。

公立で唯一参加を拒否した犬山市教委が「狙いとしている自ら学ぶ力は、このテストで高めることはできない」と言うのは、長年積み上げてきた地域主体の教育改革を大切にした結果だろう。

義務教育の構造改革は、学習指導要領という計画と学力テストという検証に国が責任を持つというものだ。責任といえば聞こえはいいが、責任と権限は裏腹だ。

計画と検証を国が握るようなことになれば、国によるコントロールが強まり、教育の地方分権に逆行する。検証はそれぞれの責任範囲でやればいい。

国の政策検証のためなら全員対象でなく、抽出調査で十分だ。現場の検証は教委と学校が自らの責任でやるのが基本だ。

「自ら学ぶ力」をどう育てるか。その主役は市町村教委、学校である。全国学力テストに振り回されてはならない。見通しを持った主体的取り組みが必要だ。

岐阜新聞 2007年4月25日

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全国学力テスト 「序列化」を助長しないか

小学六年と中学三年を対象に、全員参加を原則とした全国学力テストが、一斉に実施された。この種の全国学力調査は、実に四十三年ぶりのことだ。

教科は国語と算数(数学)に絞られた。またテストとは別に、勉強時間や生活習慣などを尋ねる調査も併せて行われた。

受験者数は約二百三十万人で、参加率は99%に上る。国公立は愛知県犬山市を除いてすべて参加したが、私立は六割程度にとどまった。兵庫県でも、およそ千二百校の十万人が受験した。

実施の理由について、文部科学省は「全国的な学力や学習状況をつかみ、各学校がそれと比較して課題を見つけ、指導・改善につなげてもらうため」と説明する。背景には、学力低下の声が高まっていることがある。授業時間数を減らしてきたとして批判がある「ゆとり教育」の見直しの動きとも無関係ではなさそうだ。

だが、全国一律で実施する意味がいまひとつのみ込めない。学習上の問題点や課題の把握なら、すでに国が行っている抽出方式によるテストで事足りるし、近年は自治体が独自に学力テストを行っているところも少なくない。数十億円という国費を使って、屋上屋を架すことにならないか。

むしろ、懸念されるのは、学校ごとの成績による「序列化」だろう。かつて行われた全国テストが学校間競争を過熱させた事実を忘れてはならない。

内閣府が保護者に行った全国テストの意識調査で、「学校ごとの成績を公表すべき」との回答が七割近くあった。多くの保護者が「成績のよい学校」を求めるのは理解できる。だが、あまねく基礎学力をつけさせるという義務教育の理念に照らせば、学校の序列化につながる情報開示には慎重でなければならない。

今回、国が公表する成績は都道府県単位にとどめる。だが、市町村教育委員会や学校による結果公表は自主的判断に委ねるという。これでは、国が形として蛇口を締めてはいるが、末端で漏れ出るかもしれないと言っているようなものではないか。

採点や集計など、ほとんどの業務が民間委託されることにも懸念が残る。成績のみならず、学習・生活上の個人的な回答もある。情報管理の徹底が必要だ。

テスト結果は九月に公表されるが、重ねて慎重な対処を求めておきたい。さらに、自治体教委などによる成績情報の公表などの動きにも注視すべきだろう。

全国テストの功罪を検証し、その後の存廃をあらためて決める必要がある。

神戸新聞 2007年4月25日

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全国学力テスト 競争過熱化は見たくない

文部科学省の全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)が実施され、小学六年と中学三年の計約二百三十三万人がテストを受けた。学校の参加率は99%。岡山県内では計約三万六千人が参加した。

学年全員対象の調査は四十三年ぶりのことだ。国語と算数(数学)、児童生徒の学習環境や生活習慣なども併せて調査した。かつての点数主義に陥るのではなく、真に教育行政や教師の教え方の改善に結び付けたいものだ。

二十数年来、児童生徒の一割程度を抽出した教育課程実施状況調査は行っているし、ここ数年は、都道府県が独自の学力テストを導入する動きも広まっている。その中で今回、文科省が全国一律方式を復活させた背景には学力低下批判の広がりがある。経済協力開発機構(OECD)の調査でも判明している。

全国学力テストの眼目は国の教育政策の検証と教育委員会、学校の指導改善にある。全国的な学力データを学校現場や教育委員会が、それぞれの結果と比較すれば、改善すべき課題が浮き彫りにできよう。それも客観的指標で児童生徒の学力の状況などを知ることができれば確かに、教育行政や教師の指導方法の改善に生かせるだろう。

文科省は九月をめどに結果を公表、来年以降も実施を計画している。ただ、いくつか懸念がある。

学校・地域間の競争、序列化がエスカレートしないか。旧文部省は一九六一年から中学二、三年全員に全国学力調査を行った。当時、テストのための補習や、学校の平均点を上げるため学力不十分な生徒を休ませる学校まで現れるなど弊害が出て、六六年に中止せざるを得なくなった。

失敗を繰り返さないためにと文科省は、成績の公表は都道府県別にとどめ、各教委にも個別の市町村名や学校名を公表しないよう要請している。ただ、首長や校長が住民や保護者への説明として成績を公表することは容認した。共同通信社などのアンケート(昨夏時点)では自治体の半数が公表を予定しており、結局はかつての競争激化を招くとの心配は尽きない。愛知県犬山市教委が全国市町村で唯一不参加を決めたのもそうした理由からだ。私立学校も四割は参加していない。

成績の振るわなかった学校や生徒の底上げをどう図るべきか。国が早く改善策を示さなければ「テストのための勉強」が横行しかねない。

テスト科目がわずか二つで学力が正当に判断できるものだろうか。また、他の科目がないがしろにされるのではないかという恐れも残る。

山陽新聞 2007年4月25日

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全国学力テスト 競争あおることが心配だ

文部科学省の全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)が実施された。小学校六年、中学校三年の二百三十三万人余りがテストに臨んだが、結果をストレートに学校評価に結び付けて序列化の道具としたり、いたずらに競争をあおることのないよう、冷静な対応を求めたい。

実施に当たって問題なのは、結果を受けて国としてどう対応するのかという基本的な考えが見えないことだ。「結果の悪い学校の底上げにつなげたい」(文科省)という考えの一方で、「教育の質の高い学校を予算で優遇」(教育再生会議)するなどの動きもある。これら肝心の点を明らかにしないのは、少し無責任ではないか。「格差解消の手だても示さないまま競争強化に向かって、まっしぐら」というように見える。

テストの狙いの一つである教委、学校による教育改善についても首をかしげたくなる。「全国的な状況との関係において自らの教育の結果を把握し、改善を図る」という触れ込みは序列を知り、順位を上げる努力をしろということに等しい。順位がひとり歩きすれば、競争に勝つことが自己目的化する恐れがある。

結果公表についても文科省は「個々の学校名を明らかにした公表はしない」とし、序列化や過度な競争につながらないよう配慮を求めてはいるが、一方で「市町村教委・学校は、結果を保護者に説明することができる」としている。リスクの種をまいておきながら「後は知らない」と言っているようなものだ。

結局、結果をどう公表するかなど責任はすべて教育現場を預かる教委、学校にのしかかる。一つ対応を誤って競争過熱ということにでもなれば、地域で積み上げたさまざまな創意工夫などは、ひとたまりもない。

今回のテストで測れるのは、特定の教科のごく一部の学力でしかない。その結果を過大に扱い、学校選択の道具や教員評価に直結させるようなことにでもなれば、学校に「テストのための勉強」がはびこり、現場主義の教育改革などは一気に押し流されてしまう。

公立で唯一参加を拒否した愛知県犬山市教委は「狙いとしている自ら学ぶ力は、このテストで高めることはできない」と言う。長年積み上げてきた地域主体の教育改革を大切にした結果だろう。

政府の進める義務教育の構造改革は、学習指導要領という計画と学力テストという検証に国が責任を持つというものだ。責任といえば聞こえはいいが、責任と権限は裏腹の関係にある。

計画と検証を国が握るようなことになれば、国によるコントロールがますます強まり、教育の地方分権など絵に描いたもちになる。検証はそれぞれの責任範囲でやればいいことだ。国の政策検証のためなら全員対象でなく、抽出調査で十分ではないのか。現場の検証は教委と学校が自らの責任でやるのが基本であろう。

教育の基本は「自ら学ぶ力」をどう育てるかである。その主役は市町村教委、学校だ。全国学力テストという大がかりな装置が果たして必要か。約四十年前には競争が過熱し、取りやめた経緯があることも忘れてはならない。

山陰中央新報 2007年4月25日

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国家の強制テスト

小学6年生と中学3年生が全国学力テストの国語と算数(数学)試験に臨んだ。文部科学省の定義する学力とは「読み、書き、そろばん」の思考で停止しているのだろうか。

公立学校に加え、該当学年のある県内六私立中も参加した。学力試験で実施されない英語、社会、理科、音楽や図工も重要で社会に出てから役に立つことも多く、話の糸口となったりする。そもそも全員に課す必然性を感じない。抽出試験で十分という気がする。

テストは各都道府県の学力を把握することを目的にしている。しかし文科省の主眼は各学校の課題をあぶり出し、指導力を強めることにある。結局は競争や格差を生み出すだけだろう。40年前に打ち切られた弊害は生かされていない。

文科省方針に疑問を持った全国の4割の私立学校と愛知県犬山市教委は参加しなかった。首相直属の教育再生会議は教育委員会への国の権限を強めるよう提言した。これに地方は“分権に逆行する”と猛反発したのに、今回のテストにだんまりを決め込んでいる。

皮肉にも、「ゆとり教育」世代の高校3年生を抽出した学力調査では結果も学習意欲も上向きの傾向であることが分かった。社会で求められる学力とは、課題を自ら見つけ、柔軟な発想で協議し論理的に解決していく思考法ではないか。

哲学者のオルテガは「人間はおのれの人格の上にのしかかる国家とかいう無表情な名で呼ばれる集団の、その恒常的な強制から自力でのがれだすことができるほどの自由を持たない」と述べた。児童生徒もその強制から逃れられなかった。

宮ア日日新聞コラム 2007年4月25日

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学力テスト 学校序列化招かないか

小学校6年生と中学3年生を対象にした文部科学省の全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)が実施された。参加したのは小中合わせて約3万3000校で、児童・生徒数は約233万人だった。分析結果は9月をめどに都道府県別に公表する。

学年全員を対象にした全国一斉テストは43年ぶりである。文科省は、子どもの教育水準を把握して、教育施策の実効性などを検証するのが目的という。だが、文科省の思惑通りに事は進むだろうか。結果が独り歩きして学校の序列化につながらないか心配だ。

テストは算数・数学と国語の2教科について、基礎と応用の2種類で実施された。採点は民間業者が行い、国立教育政策研究所が分析する。市町村、学校ごとのデータ公表は避ける方針だが、首長や校長が住民や保護者に成績を公表することは認めている。関係者にはいたずらに競争をあおらない対応を望みたい。

学力テストは1956年に小中高生を対象に抽出方式で始まり、61年から4年間は中2、3年生全員を対象に国数理社英の五教科で実施した。しかし、学校や地域間の競争が激化、批判が高まり66年で中止された。過去の苦い経験を関係者はどう評価しているのだろうか。

今回、全国学力テストが再開されたのは、ここ数年、学力低下を危惧(きぐ)する声が高まってきたからだ。2004年、当時の中山成彬文科相が「競い合い向上することが大切」と全国テスト実施を提案、国際的な学力調査で日本の順位が下がったことで復活の道筋がついた。

このような流れに疑問を持つ教育関係者は少なくない。全国の市町村で唯一参加しなかった愛知県犬山市教育委員会は競争原理に基づく国の方針では教育はよくならないと批判、児童・生徒の個人情報保護にも問題があると指摘した。一つの見識として耳を傾けたい。

問題は結果を受けて文科省が具体的にどう動こうとしているのかはっきりしない点だ。地域や学校間の格差が明確になった場合、施策としてどんなことをやろうというのかみえない。肝心なところを明確にしないのは無責任ではないか。

今回のテストで測れるのは特定の教科のごく一部の学力であることも確かだ。結果を過大に扱ってはなるまい。学校選択や教員評価に直結させるようなことになれば、学校に全国テストのための勉強がはびこることになろう。「自ら学ぶ力」の育成を見失ってほしくない。

南日本新聞 2007年4月25日

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全国学力テスト・過度の競争招いては困る

文部科学省の「全国学力・学習状況調査」(全国学力テスト)が24日、一斉に実施され、算数(中学は数学)と国語の2教科のテストが行われた。県内はすべての国公私立小中学校437校(約3万4000人)が参加した。

文科省は9月をめどに都道府県別の成績にとどめ結果を公表する方針で、個別の市町村名や学校名については公表しないよう各教委に要請している。

ただし、市町村長や校長が保護者らに市町村別、学校別の成績を説明することは容認しており、公表するかどうかの判断は、自治体、学校にげたを預けた格好だ。

学校ごとのデータの公表は過度の競争を招き、序列化を助長する恐れがあるので控えた方がいいだろう。

琉球新報社が4月中旬に実施したアンケート調査によると、県内41市町村のうち結果を公表すると答えたのは4市町村で、11市町村は公表しないと回答。26市町村が調整中と答えていた。

自分の住む地域の児童・生徒の学力は全国平均、県平均と比べて高いのか、それとも低いのか。児童・生徒を持つ親なら誰もが知りたいと思うはずだが、市町村別のデータを公表することによって、地域間の競争に拍車が掛かり、成績が悪かった地域に対する偏見が生まれる可能性も否定できない。

各自治体は、こうした点にも十分配慮すべきだ。弊害が生じない範囲で、可能な限り住民への説明責任を果たす努力が求められる。

学力テストには、個人情報保護の観点からも懸念の声がある。民間企業が、文科省の委託を受けて採点・集計を担当するからだ。

テストでは、基礎的知識に関する問題と応用力を調べる問題の2種類に加え、学習環境、生活習慣なども併せて調査している。

「契約時に目的外使用を厳重に禁じており問題ない」と文科省は説明しているが、万一、成績や子どもの生活調査などの情報が外部に漏れるようなことがあれば取り返しがつかない。

個人情報の流出防止対策は万全の上にも万全を期す必要がある。

せっかく43年ぶりに学年全員を対象とした全国調査を実施するのだから、結果は最大限有効に活用すべきである。

ただし、学習方法と成果の関連などを調べ改善すべき課題を浮き彫りにするために利用するのであって、テストの実施によって、いたずらに競争心をあおるようなことがあってはならない。

全国一律の学力テストは1960年代に実施されたが、地域間、学校間の過度の競争を招いたため、4年で打ち切られた経緯がある。

40年前の轍(てつ)を踏まないように、慎重に対応すべきだ。

琉球新報 2007年4月25日

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全国学力テスト 序列化につなげるな

文部科学省の全国学力テストが二十四日に行われるが、学校や地域の間で過剰な競争や序列化につながらないか心配が伴う。同時に民間に委託する個人情報の保護には徹底を期してほしい。

小学六年生と中学三年生の全員約二百四十万人が対象だ。文科省が市区町村教委の協力を得て、国語、算数・数学のテストと生活習慣・学習環境の調査を行う。

全員対象の全国学力テストは四十三年ぶりだ。一九六〇年代にはテスト対策用の補習や競争過熱化の問題を生じたため、六六年に廃止された経過がある。

今回は二〇〇三年の国際学力調査で読解力低下が指摘され、授業時間や教科書内容を減らした「ゆとり教育」が原因だとする学力低下批判が起きたことがきっかけとなった。

同省は、全国的に学力や学習状況をきめ細かく把握し、各校や各地域ごとに教育の検証と改善を図るためというが、過去の過ちを繰り返さないようにしてほしい。

主体的な教育には各校・各地域が自前の副教材やテストを使って理解度や学力を把握し、指導に生かすことが望ましい。少人数学級で「自ら学ぶ力」を培う独自教育を進めている愛知県犬山市は、今回のテストでは目指す学力を測れないとして国公立では唯一参加しない。私学の四割も必要性がないとして不参加だ。

全員参加型でなくても抽出調査で十分傾向は分かる。

〇五年に全国の高校三年生に無作為抽出で行われた学力テストの結果が最近公表された。今の「ゆとり教育」の学習指導要領下では初めての調査だ。前回調査と比べて学力改善の兆しがみられ、数学などでは学力に二極分化が認められた。学力低下批判に再考を促す内容だった。

今回の結果はどう使われるか。安倍晋三首相はバウチャー制度の導入を目指していることから、テスト結果が学校評価や学校選択の基礎資料に利用される懸念がある。

文科省は国全体と都道府県単位までの公表にとどめるが、市区町村や学校は自主判断で公表できるという。同省の専門家検討会議は「序列化や過度な競争をあおらないような取り組みが必要」とくぎを刺している。各教委や各校はランク付けに目を奪われず、それぞれの課題の改善につなげていくことが大切だ。

学力テストと同時に児童生徒のプライバシーに関する質問調査も行う。これもどう使われるか。両調査の集計・分析を民間二社に委託しているが、個人情報の漏洩(ろうえい)や目的外使用があってはならないのは当然だ。

中日新聞 2007年4月24日

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全国学力テスト ランク付けは避けたい

小学六年と中学三年の約二百三十万人がきょう、全国一斉の学力テストを受ける。文部科学省の「学力・学習状況調査」である。点数を競うのではなく、教師の教え方の改善や子どもの学習意欲の向上に結び付けたい。

学年全員が対象の一斉テストは四十三年ぶりだ。国語と算数・数学の試験に加え、生活習慣や学習環境の調査もある。全国どこの学校でも一定水準以上の教育が行われているかを多面的に把握し、問題点を改めるのが目的だという。

全国レベルで比較すれば、確かに地域ごと、学校ごとの学習到達度が分かり、課題も見つけやすいだろう。教育委員会や学校がそれぞれの実態に即して具体的な対策を打てる意義は大きい。

だが、気になることも多い。

その一つは、学校の序列化につながらないかだ。一九六一年から全国の中学二、三年全員を対象に行った学力テストは「競争をあおる」と批判され、六四年を最後に四年間で打ち切られた。平均点をつり上げようと試験当日、成績の振るわない生徒を休ませる学校まで現れた。

文科省は今回、各校の結果は明らかにしない。公表するのは都道府県別や地域単位の平均値にとどめる。だが、六〇年代の学力テストは中国地方などのブロック単位でしか公表しなかったのに、あの過熱ぶりだった。点数が独り歩きしてしまうことを裏付けている。

愛知県犬山市教委が参加を見送ったのは、過剰な競争を教育現場に持ち込むとの懸念からだ。私立学校も四割は参加しない。

大阪高裁は今年一月、大阪府枚方市が実施した学力テストについて、「学校がランク付けされる」との市側の主張を退けて公開を命じ、判決が確定している。保護者から開示請求があった場合、非公開を貫けるかは疑問だ。

プライバシーの問題もある。採点と集計を民間業者に委託するためだ。中学生は番号で識別するが、記名式の小学生では不安が強い。先月になって、文科省は小学生も番号方式を認めることに改めた。しかし、教育委員会が採用しなければ、個人情報流出の恐れは残る。

テストの科目は国語と算数・数学に限られ、ほかの教科を軽視する風潮が広がらないかも心配だ。

文科省は毎年続ける考えだが、子どものためを最優先にして改善しなければ、弊害が大きくなる。保護者もテストの成績に一喜一憂するのはやめよう。

中国新聞 2007年4月24日

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個人情報の保護は万全か 全国学力テスト

全国の小学6年と中学3年を対象とする全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)が、きょう一斉に実施される。

43年ぶりとなる全国学力テストの目的について、文部科学省は「義務教育の機会均等の観点から、教育施策の成果と課題を検証し、改善を図る」ためだ‐と説明している。

これに対して、「児童生徒の競争意識を助長し、学校間や地域間の序列化を招く」という不安や懸念も消えていない。日教組は1960年代に実施された全国学力調査で「過度の競争を生み、点数を高めるために教育そのものがゆがめられてしまった経験を2度と繰り返してはならない」と反対している。

文科省は原則として全児童生徒を対象としていたが、公立では全国で唯一、愛知県犬山市が「教育の現場に競争原理を持ち込み、格差を生む」などとして不参加を決めた。私立は約4割が参加を見送っている。

それでも、全国で約230万人を対象に実施される大規模な学力テストだ。ミスやトラブルを防ぐ手だてや態勢は万全か。文科省や教育委員会、学校関係者には細心の注意を払ってもらいたい。

何よりも配慮すべきは、児童生徒の膨大な個人情報をいかに厳重に管理するかだ。自衛隊の機密情報から企業の顧客データまで、最近は保護すべき情報の流出や漏えいの問題が後を絶たない。

学力テストは、国語と算数・数学の2教科で、学習意欲や学習環境などを尋ねる質問紙調査も行われる。問題や採点基準は文科省が作成するが、問題の発送や回収、調査結果の採点・集計などの実務作業は民間企業へ委託された。

文科省は委託先との契約書で個人情報や機密情報の厳重な取り扱いを定め、作業者を最小限にして監督を徹底するなど「万全の対策」を強調しているが、本当に大丈夫なのか。

また、中学3年は個人番号で識別するのに対し、小学6年は解答用紙に氏名を記入する方式のため、1部の教育委員会から「小学6年も番号方式で対応したい」と要望があった。

文科省は急きょ、市町村の個人情報保護審議会から「氏名の記入は支障がある」と指摘された場合などに限って例外的に認めることにしたが、こうした要望は事前に想定できたはずではないか。

個人情報の取り扱いには学校も保護者も敏感になっていることを、文科省は肝に銘じるべきである。

本番を想定した昨年の予備調査では、「家の人に大切にされていると思うか」「家に何冊本があるか」といった設問があり、現場から「プライバシーに配慮すべきだ」と疑問の声が上がった。

本番ではこうした質問項目は削除するというが、児童生徒のプライバシーは十分に尊重すべきだ。あらためて教育的配慮を強く求めておきたい。

西日本新聞 2007年4月24日

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全国学力テスト 序列化の懸念消えない

国公私立の小学六年と中学三年の児童・生徒を対象に、国語と算数・数学の二教科の学力テストが二十四日、全国一斉に行われる。

文部科学省によると、国公私立を合わせた参加校は三万三千百四校中三万二千七百五十六校で、参加率は約99%。国立はすべて参加し、公立が愛知県犬山市を除く全自治体。私立の参加率は62%だ。対象児童・生徒数は約二百三十三万二千人で、そのうち県内からは約三万四千人がテストを受ける。

全国学力テストは、強制ではなく、あくまで自治体や学校の自主参加形式である。だが、「地方の特色ある教育づくりを阻害する」として不参加を決めたのは犬山市だけだ。参加状況を見た限りでは「右へ倣え」の教育委員会が少なくないことをうかがわせる。

テストの狙いが学力の維持、向上を図るため各地域の学力を把握、分析することにあるのは言うまでもない。

しかし、テストや受験に役立つことだけが学びの対象なのかどうか。テストの結果、学校や自治体が序列化されることへの懸念もつきまとう。

文科省は、序列化を避けるため結果の公表は原則として都道府県単位までとしている。保護者への説明責任を果たすため、公立学校全体の結果公表については各市町村教委の判断に委ねているが、十分な論議がなされているのか疑問も残る。

沖縄タイムスが県内四十一市町村教委にアンケート(回答三十九市町村)したところ、テスト結果の公表を考えているのは八教委にとどまる。

それも「地域懇談会などで発表」を予定している一教委のほかは「校長会で公表する」とし、保護者や地域に積極的に公表する方針はないようだ。

ただ、個別に要望があった場合は、校長判断で見せることも検討を迫られており、学校現場では依然、戸惑いは隠せない。

過度の競争や序列化を避けながら、子どもたちの実態を把握し学力向上にどうつなげるのか。この機会に議論を重ねたい。

沖縄タイムス 2007年4月24日

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全国学力調査 学校の序列化が心配だ

小学6年生、中学3年生を対象にした学力・学習状況調査が24日に行われる。約40年ぶりに文部科学省が行う全国学力テストである。

教育の機会均等や水準の向上のため、と文科省は目的を説明している。だが、結果の扱いによっては、学校の序列化につながる心配がある。点数競争を加速させないよう、慎重な対応が求められる。

学力テストは小学校6年に国語と算数、中学3年に国語と数学を行う。家庭環境や学習意欲などの調査もあわせて行う。予算は60億円余り。テストの採点などは民間2業者に委託している。

文科省が全国の教育委員会に参加を呼び掛けた。唯一参加しないのは愛知県犬山市教育委員会である。同市は子どもたちの「学び合い」を取り入れた教育を進めており、「競争で学力向上は図れない」と不参加を選択した。

犬山市教委に限らず、全国学力テストが学校や地域間の競争をあおるのでは、との懸念は現場などで広がっている。

文科省はテストの結果を都道府県ごとに公表する方針だ。ただ、市町村教委や学校が独自の判断で、地域や保護者に向けて結果を明らかにすることは認めている。公表を検討している首長も多く、結果的に開示が進むことも予想される。

学校選択制を導入する地域では、数値で示す学力が選択のものさしになる可能性は高い。政府の教育再生会議は成果や実績に応じた予算配分といった方針を検討しており、テスト結果が「成果」の判断材料にされる懸念もある。

一部の学校では「学力テストに向けた準備」も行われているという。競争が広がれば、テストに役立つことが授業で優先される心配もある。

問題は、同時に行う生活習慣などの調査にもある。昨年の予備調査では「家に本が何冊あるか」「1週間に何日学習塾に通っているか」「朝食をいっしょに食べるか」など、多岐にわたる内容だった。生活習慣や学習環境と学力の相関関係を分析するためだという。

プライバシーにかかわる情報が、学力と結び付けて利用されることには違和感がある。学力向上を掲げて、国が家庭のあり方に踏み込む懸念がぬぐいきれない。

約40年前に行われた学力テストは、競争過熱で成績の悪い生徒を休ませるといった問題も起き、中止に追い込まれている。今回のテストも、現場の動きを慎重に見極めたい。競争を加速させるだけでは、教育の質の向上にならない。

信濃毎日新聞 2007年4月22日

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学力テスト 序列化を招かぬ工夫を

全国学力・学習状況調査(学力テスト)が二十四日に一斉に行われる。全国で約二百四十万人、道内では十万人強の小中学生が、国語と算数(数学)の問題と生活習慣の質問に答える。

ゆとり教育が定着する中で、子どもの学力低下を懸念する父母が増えている。調査を行う文部科学省は、テストを学力向上や指導方法の改善につなげる手がかりとしなければならない。

学校間の序列化を招かないような対策を考えることも不可欠だ。

文科省は、都道府県別の結果や、大都市、市部、町村別のデータなどは公表するが、市町村別や学校別の結果は明らかにしない方針だ。父母からの開示請求があった場合は、市町村教委に判断と対応を委ねるとしている。

何も明らかにしない自治体がある一方、成績を詳細に公表する自治体も出かねない。詳しいデータを求める父母の動きも強まっている。

学校別の成績公表が無制限に広がれば、学校の序列化が加速することは明らかだ。混乱が広がれば、文科省は来年度以降の学力調査の結果の取り扱いについて再検討を迫られよう。

テストは、小中とも記名式で行われる。学習状況の調査項目には家庭生活に関する内容も含まれる。子どものプライバシーを守ることが重要だ。

昨年十二月に先行実施された調査では「親と一緒に美術館に行くか」「家庭に何冊の本があるか」など、個人の生活に立ち入った項目があった。

テストの採点やデータの集計は民間業者二社が請け負う。データ流出や情報の漏えいがないよう、文科省は業者の監督に万全を期さねばならない。

道外では、学力テストの予想問題集が父母の人気になっているという。点数を取ることだけが目標になってはならない。父母の側でも、成績至上主義に陥らない構えが必要だ。

安倍晋三首相は著書「美しい国へ」で、学力テストの調査結果を公表することで「保護者に学校選択の指標を提供できる」と強調している。

首相の意向を受けた政府の教育再生会議は、学校選択が可能になるバウチャー制度導入を視野に入れている。

こうした新制度の導入には、父母の間で賛否両論がある。安倍政権が、学力テストを道具にして教育改革を急ぐならば、今回の学力調査の意義が見失われてしまうのではないか

テスト実施に反対していた北教組は方針を撤回した。道教委は、子どものプライバシーを守る注意事項を道内の市町村教委に連絡した。双方の主体的な取り組みとして評価できよう。

道内教育関係者は、調査結果を日常の学習指導の改善につなげる手だてとしてほしい

北海道新聞 2007年4月22日

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歴史から学ぶ姿勢を 週のはじめに考える

大きな川は水辺ではよどんでいるかのようです。そこから離れて高台から眺めると流れがわかります。「時代の流れ」も歴史の大河から学び取る姿勢が大切です。

「戦前の日本の転換点は満州事変から昭和十年前後。国の“かたち”が戦時体制になりました。現在の日本も状況が似ていませんか」

先月開かれた全国各紙の論説記者の会合で、作家の半藤一利さんが語りかけました。半藤さんは昭和史を中心とした執筆に取り組み、多くの優れた著作で知られています。

昭和十年前後と今の日本を比べると、次の点でよく似ているのだそうです。補足説明して紹介します。

「戦前」とよく似ている
一番目は、教育の国家統制です。昭和八年に教科書が変わり、「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」など忠君愛国が強調されました。

<今は、「愛国心」を盛り込んだ教育基本法改正です>

二番目は、情報の国家統制です。昭和八年に新聞法の強化、出版法の改正があり、マスコミの自主規制も激しくなりました。

<今は、通信傍受法や個人情報保護法です>

三番目は、言論規制の強化。特高警察が昭和七年に設置され、大本教など宗教団体にも弾圧が広がりました。大防空演習を批判した信濃毎日新聞の桐生悠々が迫害され、作家の小林多喜二が拷問死しました。

<今は、共謀罪への動き、そして憲法改正への歩みです>

四番目は、テロです。昭和七年に起きた犬養毅首相暗殺の五・一五事件をはじめ、政財界要人の暗殺、暗殺未遂事件が相次ぎました。

<今は、靖国問題絡みでの日本経済新聞社への火炎瓶投入、加藤紘一・自民党元幹事長の実家放火、そして伊藤一長・長崎市長射殺です>

政治家や論壇、民衆レベルのナショナリズム鼓舞も共通です。昨今では曰(いわ)く、「日本に自信と誇りを持て」「自虐的な歴史観はいけない」。

こうして並べてみると、確かに類似点が見いだせます。

異を唱える声も予想されます。当時と今では政治、経済、国際的な状況がまるで違うのに、こじつけで戦争への不安をかき立てるのは強引すぎる、といった反論です。

「攘夷の精神」の危うさ
論難を承知のうえで、半藤さんはこう言いたかったのでしょう。「あの時と同じ過ちを繰り返してはならない」、そのためにも「歴史を学んで歴史を見る目を磨いて」と。

日本が排外的ナショナリズムに傾いていく「時代の空気」への警告でもあります。半藤さんによると、日本人の精神の奥には外国人を打ち払えという「攘夷(じょうい)」があるそうです。しかし、「攘夷の精神」は日本の孤立、戦争につながりました。

よくいわれるように、「平和」や「反戦」を唱えるだけでは国民の生活は守れません。「平和のための軍事力が必要」という意識を持つ人が増えているのも現実です。

北朝鮮、イランの核開発問題、イラクなど混迷の続く中東情勢、軍事拡大の中国、在日米軍の再編、さらにテロの脅威と、日本を取り巻く安全保障の現状は厳しく、直面する課題は少なくありません。

でも、武力頼みの危険性や国際協調主義の重要性は歴史が証明しています。指導者には、謙虚な歴史認識に立った冷静な現状判断と明敏な将来ビジョンが求められるのです。

米コロンビア大のジェラルド・カーティス教授が本紙寄稿で、近く訪米する安倍晋三首相の歴史認識を質問しています。「日本の戦時責任についての見解」と「戦後日本をどう考えているのか」の二つです。

特に、首相が掲げる「戦後レジーム(体制)からの脱却」に疑問を投げかけます。「敗戦の灰の中から立ち上がり、世界第二の経済を持つ、民主主義と平和の国になった」日本の「戦後レジームの何がそんなにひどいのか」。

安倍首相は憲法改正を夏の参院選の争点にすると言いました。改憲への手続きを定める国民投票法も今国会で成立する見通しです。

日本人は、戦争の悲惨さと愚かさを身をもって知りました。この体験と反省から生まれたのが現憲法に基づく体制、価値観です。それを否定して目指す体制とは何なのか、戦争責任と戦後日本への見解と併せ、国民に語る責務が首相にはあります。

「時代の流れ」はどこに向かっていますか。戦争への再びの道を警戒するのは思い過ごしでしょうか。

歴史を繰り返させるな
世情はどこか重苦しいムードが漂っています。あるアンケートで、太平洋戦争で米国とは戦っていないと答えた学生が二割を超えたそうです。若者たちの間で広がる「体制には逆らわない、政治にはかかわらない」という空気も気になります。

かつては新聞も誤りました。戦争への坂道を転げ落ちたのは、軍部の独走のせいだけではありません。マスコミが民意を煽(あお)ったのです。今の新聞にも厳しい批判があります。

自戒して「繰り返してはいけない歴史がある」とかみしめます。

中日新聞 2007年4月22日

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全国学力テスト 競争あおらない配慮を

小学六年生と中学三年生全員を対象にした文部科学省の「全国学力・学習状況調査」(全国学力テスト)が二十四日、一斉に行われる。

全国で三万三千校・二百四十万人の子どもたちがテストを受ける。徳島県では、対象となる全公立小中学校三百七校・一万五千人、私立から小中学校各二校が参加する。

テストは国語と算数・数学の二教科で、「自治体や学校が学力の状況を把握し、指導改善に役立てるのが目的」としている。

学年全員を対象にした全国テストは四十三年ぶりだ。一九六一年から四年間、全国の中学二・三年生を対象に学力テストが実施されたが、学校や地域間で点数競争が過熱し、中止になった。

このため、学力テストの「復活」が同じような風潮を招きかねない、との声も上がっている。

文科省はそうした懸念を考慮して、九月に予定しているテスト結果の公表は都道府県までとし、市町村や学校ごとのデータは公表しない。ただし、市町村や学校の自主判断による公表は認めている。

点数競争をあおり、学校の序列化を助長することにならないよう、十分に配慮したい。

学力テスト復活の背景には、学習内容を減らして総合的な学習の時間を設けた「ゆとり教育」が学力低下を招いたとする批判がある。これを受ける形で二〇〇四年十一月、当時の中山成彬文科相が「競い合い向上することが大切」と全国テストの実施を提案した。国際学力調査で日本の順位が下がったことも、復活に弾みをつけた。

ゆとり教育が目指したのは「自ら学び、考える力をつける」ことである。その理念は間違ってはいないと思う。しかし、徹底した検証がなされないまま、今、ゆとり教育を見直す教育改革が進められている。

このほど、全国の高校三年生約十五万人を対象にした文科省の学力調査(〇五年実施)の結果が出された。テストを受けたのは、ゆとり教育を掲げた現行の学習指導要領で学んだ高校生たちだったが、学力の低下は見られなかった。

「学力」とは何なのか。この機会に、しっかり考えたい。

各教科の基礎・基本を理解する力、物事を考える力、想像する力、判断する力…。学力はそれらの総合力のはずだ。

テストで試されるのは学力の一部にすぎない。受験に役立つ知識の詰め込みばかりが優先され、学ぶ意欲や考える力を育てる教育が後回しにされていないだろうか。

学力テストを「総合学力」を伸ばすためのきっかけにしたい。

愛知県犬山市は全国の自治体で唯一、今回の学力テストに参加しない。「競争は真の学力育成につながらない。学ぶ喜びこそが大切」というのが理由である。十年ほど前から少人数学級の導入や教師による副教材づくりなど独自の教育改革を進め

子どもたちが互いに教え合う「学び合い」を授業に取り入れていることでも知られる。

子どもたちの学力のうち、特に想像力の衰えが気にかかる。相手の苦しみや痛みが分かるのも、想像力である。それを養うのは知識の詰め込みではなく、例えば、しっかりと本を読むことだろう。

教育は「百年の計」である。十年先、二十年先、いや、もっと先を見据えて、子どもたちの心を耕したい。学力テストが、心を耕すクワの一つであってほしい。

徳島新聞 2007年4月22日

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全国学力テスト 教育の二極化深めるな

文部科学省は二十四日、国公私立の小学六年と中学三年の児童・生徒を対象に、国語と算数・数学の二教科で全国学力テストを実施する。

学年全員を対象にしたテストは四十三年前、全国の中学生を対象に実施した際、学校間競争をあおり、試験当日に成績の悪い生徒を休ませるなど「学力コンテスト化」したことから、数年で廃止された経緯がある。

同テストの復活で「再びテストのための勉強が横行するのではないか」「受験やテストに役立つことだけが学びの対象ではない」といった声や、自治体や学校が序列化されることへの懸念は根強い。

今回は、愛知県犬山市が全国の自治体で唯一同テストへの不参加を決めている。

理由は「国は競争と評価で子どもの学力向上を図る方針だが、教育に競争原理を持ち込むと豊かな人間関係をはぐくむ土壌が失われ、子ども社会に格差が生じる」(同市教育委員会)とし、警鐘を鳴らしている。

その上で、犬山市独自の「自ら学ぶ力」の育成を掲げ、少人数学級の導入や教員による副教材づくりを実施。文科省が推進する習熟度別学習は行わず、子どもたちが互いに教えあう「学び合い」の授業を目指すという。

文科省は「学力テストの結果は学校を評価する指標の一つでしかない」と過度な競争に陥らないよう注意を促しているが、結果を公表するか否かは市町村が判断する余地を残した。

ほとんどの教育委員会は「学校のランク付けになるようなテストであってはいけない」と口をそろえるが、父母や保護者が結果の公表を求めるのは避けられないのではないか。

テストの結果は、「できる子」と「できない子」の二極化をさらに深める。有名校に「学力のある子」が集中する半面、学力レベルが低いと判断された学校は、父母に敬遠され、新入学生の減少にもつながりかねない。

教育の現場に「勝ち組」「負け組」をつくってはならない。

沖縄タイムス 2007年4月21日

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教育改革法案 成立を急ぐ必要はない

学校教育法改正など教育関連三法案の審議が衆議院で始まった。教員免許の更新制や教育委員会への国の関与など、教育現場に大きな影響を与える内容だ。

与党は今国会での成立を目指す。参院選をにらみ、教育分野で実績をつくる狙いだ。学校や教師のあり方にかかわる重要な問題を、短期間で決めようとしている。

三法案のうち、現場に最も影響が大きいのは教員免許法の改正だ。これまで終身制の教員免許を、2009年から有効期間10年の更新制にする。現職教員は約110万人に上る。更新時には30時間以上の講習を受けることになる。

学校教育法の改正案は、義務教育の目標に「国と郷土を愛する態度」などを盛り込む。地方教育行政法の改正は、生徒らの「生命を保護する必要が生じた場合」や「教育を受ける権利が侵害されていることが明らかな場合」に、教育委員会に是正を求める権限を文部科学大臣に与えるものだ。

三法案作りは政治主導で進んできた。政府の教育再生会議の報告を受けて、中央教育審議会に改正を諮問したのが2月上旬だった。中教審は異例の集中審議で、1カ月後に答申を出している。地教行法の改正は反対意見も併記し、最終的な判断は政府にゆだねた。

教育行政ににらみをきかすはずの中教審が、政権の意向を追認する形になった。さらに、今国会での成立を目指し、衆院特別委員会で集中審議する。教育の根幹にかかわる見直しが政治日程に振り回されるようでは、将来に禍根を残す。

中でも地教行法の改正案は、地方の教育行政に国の介入を認めるものだ。地方分権に逆行すると、批判は根強い。

いじめへの対応や高校の未履修問題をきっかけに教委制度の見直しが浮上したが、国の指導を強めれば解決する問題ではないだろう。場当たり的な対応と言わざるを得ない。

教員免許更新制も問題が多い。今でも忙しい現場の負担が増す。レベルアップのため新しい指導法などを学ぶことは必要だが、教員同士の学び合いや必要に応じた研修を受ける時間を作る方が有効なはずだ。教員の身分が不安定になれば、優秀な人材を集めることもままならない。

民主党も教育改革で対案を出している。資質向上のために教員養成課程を4年から6年に延長するといった内容だ。

教育の再生というならば、まずは現場の声を聞くべきだ。その上でじっくり論議するのが国会の責任だ。

2007年4月20日 信濃毎日新聞

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教育改革三法案 学校現場が納得する内容か

政府が今国会の最重要課題とする教育改革関連三法案と民主党が提出した対案の審議が衆院教育再生特別委で始まる。

このうち、政府の地方教育行政法改正案は、児童生徒間のいじめや自殺なども前提にして、「教育委員会の法令違反などで、緊急に生徒らの生命を保護する事態が生じた場合」には、文部科学大臣の教育委員会への指示や是正の要求を認めるほか、教育委員会の自己点検・評価の強化も求める。

学校教育法改正案では、昨年成立した改正教育基本法を踏まえ、義務教育の目標に「規範意識や公共の精神などに基づき社会に参画する態度」を盛り込み、小中学校に副校長、主幹、指導教諭を置いて組織運営の強化を図ることも可能にする。

教員免許法および教育公務員特例法改正案は、現在は終身制の教員免許を有効期間十年間の更新制に移行し、更新前には講習も義務づける。

いずれも、教育委員会、学校、教師に対して上部機関や外部からの管理、評価を強化する内容。安倍晋三首相や教育再生会議の意向を強く反映したものになっている。

一方、民主党の法案では、教育環境整備法案で「国は教職員の数や学級編成などに関する整備指針を定め、予算を確保しなければならない」としたほか、教員免許を一般とさらに高度な専門に分け、一般免許は修士の学位を必要とした。

ただし、政府案のような教育改革を求める声は、国民や学校現場からほとんど聞かれないのも事実だ。安倍内閣が主導する形で「教育危機」が訴えられ、対応を急いだ印象だ。閣僚の政治資金問題などで明解な説明ができない安倍首相に「規範」を語る資格があるのか、という疑問も残ったままだ。

国家の基本となる教育システムの改革があわただしく進むことには危ぐを覚える。参院選に向けて政権の実績を強調しようとする意図も感じられる。特別委では、個々の改正点を論議する前に、学校の現状について安倍首相や文科省の具体的な認識を聞きたい。

現場の教師が直面しているのは、地域社会や家庭の変容、格差化の進行などが教育に及ぼす影響ではないだろうか。給食費を払わない事例の増加が問題となっているが、こうした現象の裏に保護者の養育放棄があり、子どもの怠学や非行化を生んでいるという。また、職業的自立への展望の厳しさは、学習意欲の低下にもつながっている。

学校の中よりも外に改善すべき課題が多いのに、政府案は学校や教師の責任を強化する内容になっている。このため、教師の間には「実情を知らない人の居酒屋談義」(「現代思想」四月号)というさめた反応がある。横浜市の中学教諭、赤田圭亮氏は「教員の人数は、最低でも現在の倍の数は必要」(同)としている。教育環境の整備指針を設けようとする民主党案の方がまだ現場の心情に合っているようだ。

教育再生特別委が、教師や保護者の共感を得る論議ができるのかどうか、厳しく見つめたい。

熊本日日新聞 2007年4月20日

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高3学力調査 二極化は放置できない

文部科学省は2005年に全国の高校3年生約15万人を対象に実施した学力調査の結果を発表した。前回(02−03年実施)と同じ問題で比べると、理数系を除けば、全体的に学力はやや上向いており、学習意欲も向上していることが分かった。

「ゆとり教育」を掲げ「自ら学び、考える力」の育成を目指した現行の学習指導要領で学んだ高校生への初めての大規模調査である。週5日制導入や教科内容の削減が学力低下を招いた、とする「ゆとり教育批判」があるなか、重要な意味を持つ結果であることは間違いない。

政府の教育再生会議は「ゆとり教育批判」を背景にして、授業時間の10%増加などを盛り込んだ改革案を提示している。しかし、今回の調査結果で、その前提は揺らいだようにみえる。「ゆとり教育」については性急な評価は慎み、もっとじっくり検証する必要があろう。

今回調査では地理歴史、公民の各科目で共通問題の正答率が前回と同じか、上回った。英語Iのリスニング問題でも正答率が上昇した。少なくなった授業時間の中で成果を上げていることは評価できる。「自ら学び、考える力」の育成を目指した取り組みの成果とみたい。

学習意欲の調査でも前向きの評価はできる。「勉強は大切」と答えた生徒は84%で02年より5ポイント増えた。「勉強が好き」も2ポイントアップの22%だった。日本の子どもの学習意欲が低いことは国際調査で明らかになっており、多少なりとも数字が上向いたことはいいことだ。

ただ、安心はできない。文科省が正答すると予想した「想定正答率」をみると、数学Iは36問中25問が想定を下回り、上回ったのはわずか3問だった。理科4科目はいずれも約半分の問題が想定を下回った。理数系においては問題を内包していることが見て取れる。

気になるのは学力と勉強時間の二極化だ。数学Iや英語Iなどでは、高得点層と低得点層が多く中間が少ない「二こぶ式」の得点分布になっている。勉強時間も学校以外でゼロの生徒と3時間以上勉強する生徒に二極化してきた。今後、学力格差は拡大する恐れがある。

学力の分析は難しい。今回の調査はあくまで平均的な高校生像を浮かび上がらせたにすぎない。これが指導要領や教師の質などとどう絡み合うのか、冷静な分析が必要なことはいうまでもあるまい。教育論議はそれらの客観的な資料を基に慎重に進められるべきだ。

南日本新聞 2007年4月19日

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高3の全国学力調査  基本に立ち返って論議を

文部科学省は全国の高校3年生15万人を対象にした2005年の学力調査の結果を公表した。

前回(02―03年)の同一問題で比べると、正答率が上がった問題が下がった問題を大きく上回った。数学と理科はあらかじめ想定した正答率を下回り、前回同様に低迷したままだ。同省は「理数の課題は残るが、全体的には改善傾向にある」と評価する。

前回は旧指導要領で学んだ高校生が対象だったが、今回は「自ら学び、考える力」の育成を掲げた現行の学習指導要領で勉強した高校生への初めての大規模テストだった。

注目したいのは、現行指導要領が重視している関心、意欲や資料活用能力などの指標の改善傾向だ。生徒に対する質問調査で「勉強が大切」と答えたのは84%で、前回(02年)より5ポイントアップ。「勉強が好き」も22%で同じく2ポイントアップした。

各科目の勉強も「好きだ」とする回答が調査した全科目で前回を上回り、「授業が分かる」とする生徒も増えている。こうしたデータからは、指導要領が次第に浸透し始めた結果とも言える。

各科目でも、資料活用や関心・意欲などにかかわる問題の正答率が想定を上回る傾向が目立ち、英語のリスニングも前回より正答率が上昇した。

こうした一方で、数学は36問中25問が想定正答率を下回り、上回ったのはわずか3問。理科4科目はいずれも、約半分の問題が想定を下回った。

改善傾向となった資料活用の力も、資料を読み取った上で自分の言葉で表現する一歩突っ込んだ問題には課題を残した。記述式問題の無回答率は25%と高いままだ。指導要領が狙う「自ら学び考える」状況には程遠いのが実情だ。

今回の結果から見る限り、現行指導要領と学力低下をストレートに結び付けるのは無理がある。

既に教育再生会議では、授業時間10%増などの改革案を提示しているが、問題は、学習の「量」を増やすことでなく「自分で考えたことを表現する」など学習の質改善にあることは明らかだ。

国語の古典では前回と共通する4問中3問で正答率が低下した。文科省は古語などの基本的知識が欠けていた、と分析しており、指導内容を増やす動きが出そうだが、古文や漢文を好きだと思わないとの回答が7割を超えている。量を増やして詰め込む前に、どうしたら古典への興味を引き出せるか考える方が先ではないか。

教育再生会議では、どんな学力を目指すのかという肝心の議論が欠けている。なぜ授業時間増なのか、根拠も示さないまま、定義もはっきりしない「ゆとり教育」の見直しを独り歩きさせている。

学力には、指導要領の在り方だけでなく教員の質、教育方法、教育条件、親の経済力などさまざまな要素が絡み合う。

安倍晋三首相は「教育重視」を掲げるが、実態を検証して課題を見つけ手当てするという基本動作に立ち返ることが必要だ。検証もないまま政治が思い込みでかき回すようなことがあってはならない。今回の調査を、冷静な教育論議に引き戻すきっかけにしたい。

岐阜新聞 2007年4月17日

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高校生学力調査 最大課題は教育の底上げ

文部科学省は全国の高校三年生のうち約十五万人を対象に二〇〇五年に実施した教育課程実施状況調査(学力調査)の結果を公表した。

「ゆとり教育」を掲げる現行学習指導要領の下で学んだ高校生への大規模な学力調査は初めて。週五日制の実施や教科内容・単位数の削減などが学力低下を招いているとの強い批判があるだけに、旧指導要領で学んだ前回調査(〇二―〇三年実施)の生徒との比較が注目された。

だが、今回の調査結果を見る限りでは学力低下はうかがえない。文科省は、前回と同様に同省が正答すると予想した「想定正答率」を大幅に下回った数学と理科などについて「課題が残る」としながらも「全体的に学力低下に歯止めがかかり、改善傾向といえる」とした。

ゆとり教育が本当に学力低下をもたらしたのか。政府の教育再生会議では授業時間の10%増や、薄すぎる教科書の改善といった提言をするなど見直し論が急だ。しかし、調査結果からは単純なこれまでの学力低下の見方を反省する必要があろう。

安堵(あんど)もしてはいられない。中でも懸念されるのが、数学?や英語?などで見られた高得点層と低得点層に分かれ、中間が少ない「二こぶ式」の得点分布だ。学力テストと同時に行った学習に関する意識調査でも、学校以外の勉強時間が「三時間以上」が24%いる一方で「全く、ほとんどしない」も39%だった。

基礎学力や学ぼうとする意欲は、生徒たちが社会に出て生きていく上で大切な財産となる。授業についていけない生徒や学習意欲の乏しい生徒たちに働きかけ、確かな学力を身に付けさせることは公教育の使命である。

原因は、個々の置かれた状況で異なっている。それぞれが、どこでつまずいたのかを分析し、少人数学級や習熟度別授業などのきめ細かな対応で底上げを図ることが求められよう。

今回、文科省は科目別の指導改善例を示したが、全体の数値を基に平均的な高校生像を描いてのもので効果を疑問視する向きも多い。多様な学力のグループの特性や傾向を分析し、それぞれに適した指導を教育現場に提示する必要がある。

要はデータを基に指導方法を検証し、いかに生徒のために生かせるかだ。二十四日には全国の小学六年と中学三年の全員を対象に学力テストが実施される。全国一斉テストは競争の過熱化などで約四十年前に廃止されていた経緯がある。教訓をしっかりと肝に銘じなければならない。

山陽新聞 2007年4月17日

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高校生学力調査 「ゆとり」冷静分析を 

ゆとり教育世代の全国の高校3年生を対象に行った文部科学省の学力調査の結果が公表された。全体として学力低下に歯止めがかかったものの、数学、理科は予想正答率を大幅に下回った。ゆとり教育を冷静に分析し、現場の指導に役立てたい。

調査は、全国の高校3年生約15万人に対して2005年に実施された。「自ら学び、考える力」の育成を掲げたゆとり教育世代の高校生への、初めての大規模テストである。

数学、物理、生物など理数系は総じて、文科省が予測した想定正答率を大きく下回った。英語も含めて、8科目で実際の正答率が予想正答率を下回った。

文科省の想定を上回ったのは、国語、世界史、日本史、地理の4科目のみだった。しかし、生徒に対する質問調査では「勉強が大切」84%、「勉強が好き」22%で前回(02年)の調査よりアップしている。

では、ゆとり教育が学力低下をもたらしたかというと、判断が難しい。確かに想定正答率に対しては低い正答率だったが、旧指導要領の下で行われた前回(02、03年)の調査と比べ、全体として正答率が上がっているのだ。

しかし、外国の子どもたちの学力テストと比べて、近年、日本の子どもたちの学力は落ちている。今回の調査結果は、学力が下げ止まり、改善傾向にあることを示しているが、それでも学力低下が深刻な状況にあることは否定できない。

教育再生会議は、ゆとり教育で授業時間や教える内容が減ったとの批判を受け、10%の授業時間増を提案している。しかし、今回の調査結果は学力低下が、ゆとり教育のせいだけではないことも示している。科目別にゆとり教育がどう影響したか、詳細に分析する必要がある。

数学は最も成績が悪かった。サイン、コサイン、タンゼントなど三角比を含む図形分野が分からない生徒が多かった。数学は基礎を理解していないと、応用問題はさっぱり分からなくなる。時間をかけて基礎を十分理解させて、先に進まねばならない。
物理や化学も同様である。授業時間不足で基礎を教える時間が足りなければ、授業量を増やすことも考えなければならない。

国語は、特に古典の成績がふるわなかった。古文や漢文を「好きだと思わない」生徒が7割を超えている。学習量を増やすよりも、まず「源氏物語」や「平家物語」など物語の面白さに興味を持たせるべきだ。「ロード・オブ・リング」など壮大なファンタジーに親しんでいる子どもたちは、とっかかりがあれば古典も楽しめるだろう。

資料を読み取って自分の言葉で表現する記述式の問題にも課題を残した。無回答が4人に1人もいたのだ。ゆとり教育の目標である「考える力」は育っていないのではないか。表現力を鍛えるためには、どんな総合学習がいいか、再考する必要がある。

大学生や社会人には、文章作成力や理解力、自分を表現する能力が求められる。ゆとり教育が知識偏重からの脱却をうたっていたのに、肝心の表現力を体得していない現実を、文科省は深刻に受け止めなければならない。

今回、学力低下に歯止めがかかったのは、危機感を持った教師が熱心に補習を行ったからだとの見方もある。ゆとり教育の何が良くて何が悪かったか。分析を急ぎ、具体的な指導法を学校現場に提示しなければならない。(園田 寛)

佐賀新聞 2007年4月17日

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全国学力調査 「ゆとり教育」批判覆すデータ

学力低下の元凶と言われてきた「ゆとり教育」だが、どうやらそうでもないらしいことが分かった。

全国の高校3年生15万人を対象に2005年に実施した学力調査結果がまとまった。

旧指導要領の下で行われた前回(02―03年実施)との同一問題で比べると、正答率の上がった問題が、下がった問題を大きく上回ったのだ。

「自ら学び、考える力」の育成を掲げた現行の学習指導要領で学んだ高校生への初めての大規模テスト。

「ゆとり教育」批判は声高な教育再生論の根拠にもなっていただけに、学力低下論議に一石を投じそうだ。

■関心、意欲は改善傾向■

一方で個別の教科・科目では、数学や理科などはあらかじめ想定した正答率を下回り、前回同様に低迷したままという厳しい現実も見せつけた。

文部科学省は「理数などの課題は残るが、全体的には改善傾向」と控えめな評価をしている。

しかし全体としてみれば、現行指導要領が授業時間を減らしたことが学力低下につながる、という批判への実質的な反論になっている。

まず注目されるのは、現行指導要領が重視している関心、意欲や資料活用能力などの指標の改善傾向である。

生徒に対する質問調査の結果では「勉強が大切」としたのは84%で、前回より5ポイントアップ。「勉強が好き」も22%で2ポイント上がった。

各科目の勉強についても「好きだ」とする回答が、調査した全科目で前回より上昇。「授業が分かる」とする生徒も増えている。

各科目でも、資料活用や関心・意欲などにかかわる問題の正答率が想定を上回る傾向が目立ち、英語のリスニングも前回より正答率が上がった。

■「量」より「質」の重視■

この中で、数学は36問中25問が想定正答率を下回り、上回ったのはわずか3問。理科4科目はいずれも約半分の問題が想定を下回った。

改善傾向となった資料活用の力も、資料を読み取った上で自分の言葉で表現する一歩踏み込んだ問題には課題を残している。

全体としてこのデータは、指導要領が次第に浸透し始めた結果ともとれ、現行指導要領と学力低下をストレートに結び付けるのには無理がある。

既に教育再生会議では授業時間10%増などの改革案を提示している。だが問題は、学習の「量」を増やすことではなく、「自分で考えたことを表現する」など学習の「質」改善にあることは明らかだろう。

国語の古典では、前回と共通する4問中3問で正答率が低下した。文科省は古語などの基本的知識が欠けていたと分析している。

この結果から指導内容を増やす動きが出てきそうだが、古文や漢文を好きだと思わないとの回答が7割を超えている。量を増やして詰め込む前に、どうしたら古典への興味を引き出せるか考える方が先ではないか。

教育再生会議には、どんな学力を目指すのかという肝心の議論が欠けている。なぜ授業時間増なのか、根拠も示されないまま「ゆとり教育」見直しが独り歩きしているのだ。

検証もないまま、政治がある種の思惑で現場をかき回すようなことがあってはならない。今回の調査を、冷静な教育論議に引き戻す契機にしたい。

宮崎日日新聞 2007年4月17日

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管理で再生は望めない 教育3法案

国会で教育関連三法案の審議が本格的に始まる。国の地方教育行政への関与や教員免許更新制、義務教育の目標規定など、教育現場への影響が大きい。管理強化にならないよう議論を尽くすべきだ。

与党は野党の反対を押し切って衆院に三法案を集中審議できる特別委員会を設置した。教育再生を最重要課題に挙げる安倍政権が参院選をにらんで今国会での法案成立を急ぐためだが、今後の教育を左右する重要な内容ばかりだ。広く深い意見をくみ上げて丁寧に審議を進めるよう求めたい。

焦点となるのは、文部科学相の教育委員会への指示権を盛り込んだ地方教育行政法改正だ。この点については、二〇〇〇年施行の地方分権一括法で削除された文科相の要求権に代わる権限復活につながり、地方分権に逆行するとの反対論が強く、生徒の生命・身体の保護が緊急に必要な場合に限定された経緯がある。

教育委員会がいじめ自殺や必修漏れ問題に適切に対応できなかったことを口実にした国の関与の正当化だが、文科省の意向に付き従うだけだった教育委員会の自主自立の欠如こそ問題の根源だった。

自主自立を確立し、地域の事情に応じた創意工夫のある教育をするという視点から、教育委員会のあり方をめぐる国会審議を深めてほしい。

次に、教育職員免許法改正による全国一律の免許更新制導入は主要国では米国のほかには例がない。質の高い教員の確保を目的に十年に一度、年間三十時間以上の講習を義務づけるとしているが、学校現場では教員への管理強化の手段にされる心配がでている。現職教員約百十万人のうち毎年約十万人が学校現場から離れる間の穴埋めも課題だ。

同時に指導不適切教員の排除を教育公務員特例法改正で行うというが、現行の地方公務員法の分限処分によっても対応できる。これも上からの恣意(しい)的な判断によらず、公正さと透明性が担保されなければならない問題だ。

また、教育基本法の改正を受けて学校教育法が手直しされる。基本法に盛られた「我が国と郷土を愛する態度を養う」などを義務教育の目標として規定するとしているが、内心の自由を侵すことがあってはならないのは当然だ。

安倍晋三首相の私的諮問機関、教育再生会議は「徳育」を正式教科にすることや、公立学校への予算選別化、教員給与の差別化を提案している。しかし、教育は経済ではない。競争原理・評価主義の導入や管理強化が教育現場を活性化するとは思えない。

東京新聞 2007年4月16日

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家庭にゆとりと支えを

いまの親はあいさつもできない。善悪を教えられない…。こんな批判から、親を「教育」しようといった動きが広がりつつある。

改定された教育基本法に「家庭教育」の条項が加わった。保護者が子どもの教育に責任を持つとし、国や自治体に親支援の施策を求めている。政府の教育再生会議も、子育てを学ぶ「親学」を提唱する。

陰湿ないじめを繰り返す。集団のルールを守れない。こんな子どもの姿を見れば、家庭の教育力を高めねばとの思いは分からないではない。

だが、国が目指している方向は、こんな例えができそうだ。

池の水が干上がってしまったために泳げなくなったコイを見て、近ごろのコイは泳ぐ力さえないと嘆いた飼い主が、コイにひれの振り方を教えている−。

財団法人日本女性学習財団がつくった子育て支援のテキスト「むすんでひらいて編みなおして」の中にある表現だ。コイに泳ぎを教えても、水がなくては話にならない。コイを親、と考えれば水にあたるのは、ゆとりと周囲の支えだろう。

<精神的負担は大きく>
こども未来財団が2005年に行った調査では、子育てで最も負担に感じるのは「しつけや接し方が適切にできているか」で、二番目が「子どもにかかる養育費」だった。

精神的な負担が大きいのは、幼児期ばかりではない。教育や進学にかかわって、“立派な子ども”を育てるパーフェクトマザーを目指す層が広がりつつある。その負担感が少子化にも影響している、と東京大学の本田由紀・助教授が著書「多元化する『能力』と日本社会」(NTT出版)で指摘している。

大学全入時代を迎えても、受験競争は過熱している。中学受験を目指し、小学校から塾通いが広がる。一方で経済的にゆとりがなく、教育には関心が薄い家庭が増えている。

家庭の“教育力”の差が広がりつつある中で、親の責任ばかりを問うとどうなるか−。かえって格差が広がることは想像に難くない。

教育の立て直しで家庭のあり方を問うならば、まず必要なのは、親が家庭で過ごす時間を増やすことだ。

日本の父親は忙しすぎる。2年前に国立女性教育会館が行った調査によると、米国、フランス、タイなど6カ国で、子どもと過ごす時間が最も短いのは韓国。次いで日本だった。食事の世話をする日本の父親は10人に1人で、最も低い割合だ。

母親も忙しい。子どもが成長すれば教育費のために働きに出る人が増える。パートや派遣など労働形態は多様化し、深夜や早朝に女性が働く姿も珍しくなくなった。

家にいる時間が短ければ、しつけや教育に向ける余裕はない。いま必要なのは、企業も巻き込んで仕事と生活のバランスが取れる働き方を進めることだ。即効性を求めて「親学」を振りかざしても、いい結果は期待できないだろう。

<親を責めるだけでなく>
加えて、子育て中の親を支える仕組みがほしい。これだけ少子化が社会問題となっても、子どもに向けられる目は冷たいと感じる親は少なくない。どこにも相談できず、孤立感を強める親も増えている。

親子を支えるにはどうしたらいいのか。参考になるのは、昨年6月に発足したNPO法人「軽井沢教育ネットワーク」の取り組みだ。

メンバーは小中学校、高校のPTA役員を務めた親や、教育関係者ら約30人。子どもが学校を離れても、地域で教育にかかわりたいと集まった。

中学校の校門前で生徒たちの声を聞いたり、親を対象にしたアンケート調査を行って、どういったかかわりが求められているかを探る。教育相談や、希望する生徒に補習を行うといった構想もある。

「この地域は家業に忙しい家庭が多い。何でも学校任せでは、先生の負担が多すぎる。地域でサポートする必要がある」と、理事長の土屋好生さんは思っている。

かつて日本の農村では、親が農作業に忙しく、子どもは祖父母に育てられたり、地域の人の支えで一人前になった。主婦として子どもの教育に専念する母親が増えたのは、戦後の高度経済成長期を迎えてからのことだ。

<地域の力も使って>
女性の働く環境や家族を取り巻く社会が変容したいま、あらたな子どもを支える地域の仕組みを作る時期に来ているのではないか。何よりも、子どもを温かく見守り、時には説教する大人が増えてほしい。

もちろん、親が今のままでいいというわけではない。コミュニケーションがうまく取れない、基本的な生活習慣を教えられないといった批判を受けて、あらためて親はわが身を正す必要がある。わが子さえ良ければいい、といった姿勢も見直すべきだろう。

このまま安倍政権の教育改革が進むと、国が望むしつけ、あるべき家庭の姿が強要されかねない。そんな息苦しさの中では、子どもを産みたい人は減る。教育の立て直しもおぼつかない。

信濃毎日新聞 2007年4月16日

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高校生の学力  「ゆとり」悪者論を覆す

「諸悪の根源は、ゆとり教育」と信じる人たちには意外な結果だったのではないか。

文部科学省による全国高校三年生学力調査で、現行学習指導要領で学んだ「ゆとり世代」の学力が、以前とほぼ変わらないことが分かった。

ゆとり教育がめざしてきた「学ぶ意欲を高める」試みが奏功した面も一部で見られ、学校現場の努力がそれなりに反映した結果とも読み取れる。

今回の結果は、教育の諸課題を「ゆとり悪者論」に一元化させずに、現実に即して多面的に検討する必要性を示しているといえよう。

調査は二〇〇五年に全国の十五万人を対象に行われた。結果を前回(〇二−〇三年実施)と比較すると「全体的には学力低下に歯止めがかかり、改善傾向といえる」(文科省)ことが判明した。

とはいえ課題は山積している。全体の特徴として、学力の「二極化」が顕著なままだ。学習に関する意識調査でも、家庭での学習時間が二時間を超す生徒が約35%いる半面、全くを含めほとんどしない生徒も約39%いる。この比率は前回とも、ほとんど変わっていない。

結局、今回の結果は下位層の下げ止まりで、全体的には学力低下に歯止めがかかったものの、日本の教育が抱える構造的な問題は変わっていないことを示しているといえよう。

指導要領から文科省が期待する正答率(想定正答率)はどうだったか。数学と理科四教科、政治経済では、問題のほぼ五割以上で解答結果が想定正答率を下回っていた。受験に出さない大学が増えたせいか古典(国語)の正答率が大幅に低かった。他教科も含め記述式問題が苦手なのも変わっていない。

ゆとり教育が学力低下をもたらしたともいえない代わりに、ゆとり教育の柱である総合学習が特段の効果をあげた、ともいえそうにない。

文科省が教科別に出した改善例には、現実社会との関連を重視して生徒の関心を引き出せ、との指摘も目立つ。

こうした指摘は、総合学習の趣旨と重なるし、政府の教育再生会議が検討中の「指導要領を大綱化し学校の裁量範囲を広げて創意工夫を促そう」という考え方とも共通点が感じられる。

今回の結果もふまえ、文科省や教育再生会議は、教育の全体像と個別の課題を見据えながら、ていねいに議論を行う必要がある。教科書の中身と授業時間の問題も、その一環で検討すればいい。

その上で、対象と目標を明確にした改革案を打ち出すことだ。未履修問題の背景にある受験中心教育の偏りをどう直すかも検討課題だ。能力別授業や複数担任制、少人数クラスなども、充実には教育予算の拡充が不可欠だ。

二極化の問題では、家庭の事情も関係していよう。不利な環境にいる生徒を支援する社会的仕組みも必要だ。

京都新聞 2007年4月15日

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高校学力調査 十分な検証で改善を

文部科学省が2005年に全国の高校3年生約15万人を対象に実施した学力調査の結果が出た。02年度から始まった「ゆとり教育」の学習指導要領下で学ぶ生徒では初の調査だっただけに、旧指導要領下の調査との比較が注目された。

結果は「全体的に学力低下に歯止めがかかり、改善傾向にある」(文科省)との評価で、前回と大きな差がなかった。中央教育審議会や教育再生会議を中心に進むゆとり見直し論に一石を投じる結果といえよう。

週5日制や教科内容削減が学力低下を招いたとのゆとり批判は03年の経済協力開発機構(OECD)の国際学力調査結果で一気に高まった。再生会議でも「ゆとりはゆるみ」とやり玉に挙げられ、第一次報告で授業時間10%増が明記された。

だが、今調査はゆとり教育でも学力は維持されているという結果だ。文科省が04年に実施した小5―中3の学力調査でも前回調査より全体的な正答率は上昇していた。

ゆとり教育への十分な検証もないまま、拙速な見直し論議が進む中教審、再生会議のあり方が問われる。

そもそも03年の国際学力調査もゆとり導入後1年あまりでの調査であり、学力低下をゆとり教育に押しつけるのは相当に無理があった。

「授業時間数が減ったから学力が落ちた」という実証的な根拠は何もない。OECD調査で「学力世界一」だったフィンランドは、調査参加国では最も授業時間数が少ない。これをどう説明するのか。

確かに学力に対する不安や不満は保護者や経済界に根深いものがある。教育現場からも体感として学力低下を指摘する声がある。

だからといって、ゆとり教育を学力低下と結びつけるのは短絡的すぎる。学力問題は今月実施される全国学力テストなど、あらゆる客観的データを地道に多角的に検証して改善していくしかないのだ。

だが、現状はゆとり見直しありきで先走っている。競争原理導入など現在の教育論には一部政治家や経済人の価値観があまりに持ち込まれすぎている。


根底にあるのは文科省の理念欠如だ。教育改革は猫の目のように変わり、現場の不信感は増すばかりだ。学ぶ意欲を育てなければ、いくら量を増やしても学力向上は期待できない。

教育の主人公は誰か。文科省には現場の声を吸い上げ、揺るぎのない対応を強く求めたい。

高知新聞 2007年4月15日

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全国学力調査 格差解消の方向性を示せ

文部科学省は全国の高校三年生を対象に実施した学力調査の結果を発表し、「理数に課題は残るが、全体的に学力低下に歯止めがかかり、改善傾向といえる」との評価を示した。

国語や地理歴史の正答率が想定を上回ったことや前回調査との同一問題で正答率が上昇した科目が多いことなどを判断の根拠にしているようだが、そう前向きに受け止めてもいいのだろうか。

むしろ、十二科目中の八科目で想定正答率を下回ったことを問題にすべきだろうし、何よりも、学力の二極化がより際立ってきたことを真剣に受け止めるべきではないか。

調査は二〇〇五年十一月、全国の国公私立高校から抽出した十五万人を対象に実施された。「ゆとり教育」を掲げた現行学習指導要領下で学んだ高校生に対する初の大規模学力調査だ。

教育再生会議を中心に、学力低下の原因としてゆとり教育への批判は強まるばかりだが、調査結果を見る限りにおいては、ゆとり世代の学力が大きく下がったとはいい難い。

だが、果たして、高校や大学の教育現場でこの結果を実感としてとらえることができるだろうか。大学生の読解力の不足などを指摘する声は依然として根強いし、生徒の学力水準の維持に苦心している高校教諭は少なくない。

さらに、いわゆる“できる層”が全体の数字を引き上げているとなると、事態はより深刻だ。

今回調査では数学や英語などで中間層がない「二こぶ式」の得点分布になった。勉強時間についても、猛勉強する層とまったくやらない層の二極化が鮮明になった。

中央と地方、学校間や学校内など、このままだと格差はさらに多様化し、拡大するばかりだ。

学習指導要領を改定する方針の文科省は今回の結果を中教審に報告する。だが、数値はあくまで判断材料の一つにすぎない。学力低下を防ぎ、格差を縮小するためにも、現場の実態に即した方向性を示していくことが必要だ。

沖縄タイムス 2007年4月15日

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道徳の教科化 逆にモラル低下の危険性

政府の教育再生会議は先の第一分科会で、道徳教育について小・中学校で正式教科「徳育」を新設することを、五月の第二次報告に盛り込むことに決めた。教科になれば、子どもの内心に優劣をつける評価・評定の対象になる可能性が高い。だが、果たして子どもの心のありようを評価の物差しで測る手法に効果があるのだろうか。むしろモラルの低下、形骸(けいがい)化につながる危険性がある。

道徳教育の教科化は、もともと文部科学省の中央教育審議会(中教審)が進める学習指導要領の次期改定の論議にはなかった。安倍晋三政権の独自色を打ち出す狙いが強い提言である。教科化を推進する考え方はこうだ。「子どもの倫理観、規範意識が低くなって、荒れや問題行動、いじめが多くなっているのに、学校現場は『道徳の時間』を軽んずる傾向がある。だから、評価対象の教科に格上げして、もっと道徳心を教え込んだ方がいい」というものだ。

教科化の理屈は一見分かりやすい。だが、学校の絶対評価で道徳心に一定の「基準」を設け、点数化するやり方で、本当に子どもたちの「公徳心」「公共心」が培われるのか。道徳の成績を上げたい生徒は、本音を隠して先生に気に入られるよう装うことにもなる。特に、中学生は教科の成績が高校入試の内申点になって合否に影響するとなれば、ますます建前の価値観を示すことになろう。

子どもの価値観や規範意識は多様化してきた。違った価値観や考え方を持つ子どもたちが学校という場で出会い、対立や葛藤(かっとう)を経て自分にない価値観に心を揺さぶられたり、受け入れたりする。先生も子どもとの信頼関係をつくり、その考え方を尊重しながら押しつけにならない指導を模索する。そうした過程を大事にしていくのが、多様な教育ニーズに対応する本来の学校の姿だろう。

道徳教育を充実させることは必要だが、道徳心を一律の価値観で縛ってしまえば、子どもは本音を口にしなくなってしまう。いらだってストレスがたまり、陰湿ないじめや問題行動が起きやすい。教育再生会議の狙いはかえって逆効果をもたらしかねないだろう。

教育再生会議の一月の第一次報告では、いじめ対策として出席停止制度の活用、体罰の範囲の見直しなどが盛り込まれた。さらに第二次報告で道徳の教科化を打ち出そうとしている。一連の提言からは、子どもは「未熟」だから罰を与えていい、価値観を制約して従わせていい-という考え方が強いようだ。子どもの人権を積極的に認めた「国連・子どもの権利条約」の理念にも相反する。

道徳心は、大人が考える機会を与え、子ども自身が探り当てるべきものにちがいない。それぞれの心を点数化していく発想は、子どもに対して不(ふ)遜(そん)である。

神奈川新聞 2007年4月10日

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射程 犬山市の「不参加」論

内閣府が行った「社会意識に関する世論調査」で、悪い方向に向かう分野として「教育」を挙げた人が36・1%に上り、設問が設けられた一九九八年以降では最高を記録。初めてトップになった。

教育再生を内閣の最重要課題とする安倍晋三首相は、満足なことであろう。「教育は危機的な状況にある」と、国会でも強調しているからだ。ただし、日本の教育がそれほど悪いとはどうしても思えない。改善すべき課題はあるが、その原因は社会の中にある。学校や教師も予算不足の中で健闘している。国際的な評価も同じだ。

教育再生のために、全国学力テスト(小6と中3対象。四月二十四日実施)を行い、結果を参考に教育や教師養成策を考える、というのが教育再生の戦略だ。テスト実施は民間情報産業が請け負う。

結果公表は都道府県レベルにとどめ、学校や学級の比較はしないという。しかし、やろうと思えば民間の手でやれるシステムが完成した。そのことは、教育現場への有形無形の圧力となるはずだ。口コミ情報が流れれば、親は「高学力の学校」を選ぶだろう。結果的に、低学力の子どもへの対応を軽視し、社会の格差を加速させないだろうか。同様のテストを持つ英国には、そうした現実がある。

「競争原理で学校を活性化しようという国の施策は、うちの教育に逆行する」。愛知県犬山市はこう述べて、テスト不参加を表明した。教育改革に取り組む市として知られる。わずかに一市、それでも一市。き然とした反対論があった意味は大きい。(春木)

熊本日日新聞コラム 2007年4月9日

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「君が代」処分  学校の未来が憂慮される

入学式、卒業式での君が代斉唱の強制をめぐって思想良心の自由が問われ続けている。都教委は先月、卒業式で校長の職務命令に従わず、君が代斉唱時に起立しなかったなどとして、教職員三十五人に停職、減給、戒告の懲戒処分を行った。一人は停職六月もの重い処分で、今後、現職教職員が免職される可能性も否定できない。日の丸・君が代をめぐり、都教委から懲戒処分を受けた教職員は延べ三百八十一人に達した。異常な状況といわざるを得ない。

この問題をめぐっては二つの重要な判決が下されている。一つは昨年九月の東京地裁判決。懲戒処分をしてまで国歌斉唱などをさせるのは、思想良心の自由を侵害する行き過ぎた措置だとし、都教育長の通達や各校長の職務命令を違法と認定した。都教委を真正面から断罪した判決である。

一方、今年二月の最高裁判決では、入学式での君が代のピアノ伴奏について「特定の思想を持つことの強制や禁止ではなく、告白の強要でもない」として、音楽教諭に対する校長の職務命令を合憲とした。ただし同判決はピアノ伴奏についての判断であり、斉唱時の不起立などへの判断は今後の問題ともいえる。また藤田宙靖裁判官が「君が代の評価は国民の中で大きく分かれている。斉唱強制は信念への直接的抑圧」と反対意見を述べたことも注目された。

このような微妙な判例状況の中で、都教委が強硬な態度を取り続けていることには驚かされる。教育現場ならば人権侵害の疑いが持たれるような行為を厳に避けるのが、あるべき姿ではないか。今回の被処分者の一人は、都教委が目指す教育について「都教委のイデオロギーを一方的に注入する、調教・洗脳行為」と評した。教育現場から少数派の教職員を排除した先に何が起こるのだろうか。

日弁連は二月に意見書を発表し「公立学校の現場においては教育上の指導の域を超え、不利益処分をもって国旗・国歌を強制していると評価し得る状況がみられる」と強い危機感を表明。各都道府県と市区町村教育委員会に対し、国歌斉唱などの強制や、不起立などを理由とする不利益処分を行わないよう求めた。重い指摘である。

神奈川では君が代斉唱時の不起立などを理由にした教職員の処分は行われていない。しかし、県教委は各学校長に不起立の教職員の氏名報告を求めるなどしており、今後の動向が懸念される。

日の丸・君が代は、国旗・国歌として多くの国民に受け入れられている。しかし、過去の戦争との関係などを理由に強く反対している人々がいるのも事実だ。そのような少数派の人々の人権を尊重してこそ、自由な民主主義社会である。学校は価値観の異なる人々が互いを尊重し、協力し合う態度を学ぶ場に戻るべきである。

神奈川新聞 2007年4月7日

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教科書検定 沖縄戦の修正意見は乱暴すぎる

二〇〇八年度から使われる高校教科書(主に二、三年生用)の検定で、第二次大戦中の沖縄戦をめぐる記述に不可解と思える検定意見が付いた。

日本史A、Bの教科書で、文部科学省は「日本軍が住民の集団自決を強制した」との記述七カ所に修正を求め、いずれも内容が変更された。

たとえば、こんなふうに変わった。「日本軍に『集団自決』を強いられたり…」は「追いつめられて『集団自決』した人や…」に、「なかには日本軍に集団自決を強制された人もいた」は「なかには集団自決に追い込まれた人々もいた」に、という具合だ。

いずれも「日本軍の強制」の意味合いが消え、住民がなぜ悲惨な集団自決に追い込まれたのか、理由があいまいになった。これは大いに問題だ。

日本軍が「いざという時は自決するように」と、事前に手りゅう弾を配った事実については多くの証言があるという。たとえ軍人が目の前で命令したのではなくても、実質的に強制があったことになる。

当の文科省も「軍の強制は現代史の通説になっている」と認めている。昨年の検定までは軍の強制を明記した教科書も合格しているのだ。

文科省は方針を変更した理由について、当時の指揮官が民事訴訟で命令を否定する動きがあるほか、直接命令は確認されていないとの学説も多いためと説明している。

訴訟は当時の座間味島の守備隊長らが起こしたもので、「日本軍の指揮官の命令で慶良間諸島の住民が集団自決した」とする大江健三郎さんの「沖縄ノート」(岩波書店)などの記述は誤りで、「命令はなく、住民自ら自決した」と訴えている。

しかし、判決も出ておらず、仮に同諸島で命令がなかったとしても、ほかの地域でも同様だったことにはなるまい。実質的な軍の強制を否定する新しい研究が出てきたわけでもない。

沖縄には「命(ぬち)ドゥ宝」という言葉がある。「命こそ宝」の意味だ。「命を大切にし、みんなで仲良くやろう」という文化を持つ人たちが、進んで自決するはずがない。ゆがんだ軍国主義教育や軍の強圧的姿勢などで、ぎりぎりまで追い詰められた結果だ。残酷な実態を覆い隠してはならない。

もし、文科省が軍の強制に否定的な見方もあることを付け加えたいのなら、注釈などで記述する手段もある。問答無用で、ばっさり削ってしまうやり方はあまりに乱暴だ。

自衛隊のイラク派遣についても多くが修正を求められた。「戦闘地域に派遣」とした日本史教科書は「戦闘地域に」が削除され、「非戦闘地域」に派遣したとする政府見解に沿う内容が注に追加された。

政府の見解や方針をそのまま踏襲するように強いるのなら、まるで国定教科書だ。検定に政治を持ち込むべきではない。「著作者の創意工夫に期待する」という検定制度の本来の趣旨に立ち返る必要がある。

愛媛新聞 2007年4月3日

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歴史教科書検定 真実から目をそらすな

文部科学省は二〇〇八年度から使われる高校教科書の検定結果を公表した。日本史では沖縄戦で日本軍が住民の集団自決を強制したとする記述に初めて検定意見が付き、修正が求められた。

その結果、「日本軍は(中略)くばった手りゅう弾で集団自害と殺しあいをさせ…」は「日本軍のくばった手りゅう弾で集団自害と殺しあいがおこった」に、また「日本軍に『集団自決』を強いられたり…」は「追いつめられて『集団自決』した人や…」に修正された。

これら「日本軍」が強制したとする計七カ所が改めさせられた。

これまで検定意見が付かなかったのに、なぜ今回、修正を求めたのか。文科省は「軍の強制は通説になっているが」としながらも、当時の指揮官が民事訴訟で命令を否定したこと、指揮官の直接命令は確認されていないとの学説も多いことから断定的表現を避けたという。

だが、軍の強制があったとする証言は数多く存在する。文科省が一方の意見だけを重視して方針転換したのは、軍の関与を薄めようとしたためだろう。これでは真実から目をそらすことになる。

太平洋戦争末期、米軍の上陸で国内唯一の地上戦となった沖縄戦では約二十万人が死亡した。集団自決や、スパイ視された住民が軍に殺害される事件が多発したとされる。

中でも、集団自決は沖縄戦の悲劇の象徴として語り継がれてきた。沖縄の戦争体験者らが「教科書があいまいな言葉で表現をぼかしてしまうと、真実は消えていく」などと批判したのは当然である。

集団自決を目撃した住民の中には「軍は集まった島民の前で『全員玉砕あるのみ』と訓示した。それは島民にとって軍命だったが、軍は責任逃れのために自らは手を下さず、静観した」との証言もある。

一方、作家の大江健三郎さんらの著書について「『軍の命令で集団自決した』との記述は誤り」として、出版差し止めなどを求めて裁判で争っている沖縄戦の元指揮官らは修正を歓迎している。

文科省が修正を求めた根拠としているのは、こうした元指揮官の裁判での証言や、軍の命令を否定した出版物などだ。

しかし、決定的な学説や研究が新たに出されたわけではなく、子供たちに事実をどう伝えるかという教育的配慮よりも、政府見解に沿わせようとする思惑が透けてみえる。

集団自決の問題以外に、自衛隊のイラク派遣でも「戦時中のイラクに」という表現が「主要な戦闘終結後も武力衝突がつづくイラクに」に修正された。

さらに、従軍慰安婦問題では、過去に検定意見が付いた「日本軍の関与」についての記述が申請段階からなくなった。教科書会社が政府見解に配慮し、自粛したようだ。

軍や国への批判が封じ込められ、現実を直視しない記述が増えれば、事実をしっかりと踏まえた歴史教育ができなくなる。

「著作者の創意工夫に期待する」というのが本来の検定制度の趣旨なのに、現在のやり方では、著作者や教科書会社を委縮させるだけだ。

歴史認識など、議論が分かれる問題について国が画一的な物差しで修正を求めれば、教育に対する国民の多様なニーズを奪いかねない。

表現の細部にわたって国が口出しする検定制度が必要なのかどうか、あらためて考える機会にすべきである。

徳島新聞 2007年4月2日

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教科書検定  歴史に目を閉ざすまい

来春から使われる高校教科書「日本史」の検定で、第二次世界大戦中の沖縄戦(一九四五年)について「日本軍が住民の集団自決を強制した」とする記述に、文部科学省が初めて修正を求める意見を付けた。

「強制」の記述がある教科書はこれまで、すべて合格していた。今回は計七冊に検定意見が付き、発行元の教科書会社は集団自決を「強いられた」から「追い込まれた」などへ修正した。

文科省は、方針転換の理由を「軍命令を否定する動きもみられ、断定的表現は避けた」としている。沖縄戦に参加した旧軍人が「強制はなかった」と、大阪地裁に出版差し止めなどを求める訴訟を起こしたのも影響したらしい。

沖縄戦で、米軍に追われた住民の集団自決があったのは紛れもない事実だ。各地で、幼い子どもを含め五百人以上が命を失ったとされる。

「軍から、捕虜になるくらいならば自決せよといわれ、手りゅう弾を手渡された」。生き残った多数の住民が、そう証言している。

自決の軍命令があったかどうかについて、住民や元軍人の話、研究者らの解釈は食い違う。とはいえ、逃げ場のない島で、軍は民間人を保護するどころか自殺用の手りゅう弾を握らせたのだ。

死を強要したといわれても、言い逃れはできまい。足手まといになり、米軍の目標になりやすい住民を、邪魔者扱いしたとする指摘もある。

文科省が当時の全体状況を見ずに「資料がない」「生徒の誤解を招く」などの理由で、強制や命令の記述を修正させたのは到底、納得できない。

生徒に、多様な知識を身につけさせ自由に考えさせるには、教科書の内容も多様でなければならない。意見を付け、教科書を一律の内容に変えさせる現行の検定のあり方は見直されるべきだ。

沖縄戦だけに限らない。今回の検定では、戦闘が続くイラクへの自衛隊派遣について「戦闘地域へ」が削除され、「主要な戦闘終結後も武力衝突の続くイラクへ」と書き換えさせられた。

「派遣先は非戦闘地域」とする政府解釈に沿って、文科省が検定作業を進めたのは明らかだろう。政権にすり寄ったり個人の訴訟に影響され、一度定めた方針を簡単に変える検定に公正さが保たれるわけがない。

検定意見をやすやすと受け入れる教科書会社の体質も見逃せない。競争激化やコスト増大で、「とりあえず合格」するため、文科省の顔色ばかりうかがうようになっていないか。

外国から日本政府の対応に批判が集まっている従軍慰安婦問題では、今回も軍の関与を記述した社はなかった。「権力に迎合せず、歴史に目を閉ざさず」。文科省と教科書会社へ、国民からの検定意見をつけておきたい。

京都新聞 2007年4月1日

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教育改革3法案  焼け太りに徹底論議を

政府は、教育再生をかかげる安倍晋三首相が最重要法案と位置づける教育改革関連三法案を国会に提出した。

学校教育法、地方教育行政法、教員免許法および教育公務員特例法の、三つの改正案だ。

学校教育法改正案では、昨年末に成立した新教育基本法を受け、義務教育の目標に、「公共の精神」や「国と郷土を愛する態度」などを明示した。

自民、公明の与党は、衆院に設置する特別委員会で集中審議し、今国会の成立を目指している。

三法案の成立は、今夏の参院選に向けて安倍政権の実績をアピールする狙いもあるようだが、法案作成までの超スピードぶりが気になる。

中央教育審議会はわずか一カ月の審議で答申したが、教育委員会に対する文科相の権限強化に強い異論があった。

反対意見併記となった答申の最終的な判断は首相に委ねられたが、拙速だったことはいなめないだろう。

教育のあり方は国の将来を左右する。野党民主党は対案を準備するが、国会では悔いの残らないように、十二分に議論を闘わせてもらいたい。

三法案づくりで安倍首相の私的諮問機関である教育再生会議の第一次報告がまとまったのは今年一月下旬だった。

その後、中教審の答申を得て、閣議決定されるまで、わずか二カ月という速さだった。

課題が山積する教育現場の実態を踏まえた本質的な論議より、政府、与党の思惑が優先されたと疑いたくなる。

地方教育行政法改革案では、文科相が教委に是正指示権を発動する要件に、いじめなど「生徒らの生命を保護する必要が生じた場合」とした。

しかし文科相のこうした強い指導権限は、地方分権一括推進法の制定で廃止されたものだ。

それが復活するのでは中教審審議で強い反対論が出るのも不思議ではない。

安倍首相の“鶴の一声”で法案への盛り込みが決まったが、首相は地方分権の推進も唱える。国会審議では整合性を明確に説明する責任があるだろう。

さらに、いじめ問題への対応遅れは一部教委だけの問題ではない。文科省にも責任があるのに、それが地方分権に逆行する権限の強化となったのでは、“焼け太り”との批判も出てくるだろう。

教員免許法・教育公務員特例法の改正案は、終身制の教員免許が有効期間十年になり、更新では講習が義務化される。

だが勤務実績などで講習を受ける必要がないとする者もあるという。これでは不公平感と不信感を広げかねない。

指導力不足教員の管理厳格化の制度も法案からは具体像が見えてこない。

三法案はいずれも教育現場に大きな影響を与える。審議はどんなに時間をかけていねいにしてもし過ぎることはない。

京都新聞 2007年04月1日

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「集団自決」検定 歴史の事実を踏まえよ

日本軍関与の有無めぐり論争
文部科学省は、二〇〇八年度から使用される高校教科書(主に二、三年生用)の検定結果を公表した。

そのうち、日本史A、Bでは第二次世界大戦中の沖縄戦で、日本軍が住民の「集団自決」を強制したとの記述七カ所(五社七冊)に修正を求める検定意見が初めて付いた。

太平洋戦争末期に米軍が上陸した沖縄の島々で、捕虜になることを恐れた住民同士が無残に殺しあった「集団自決」については日本軍の関与の有無が長年の論争の的である。

国は一九八〇年代に「日本軍による住民殺害」の記述に「集団自決」を書き加えさせたが、昨年の検定までは、軍の強制を明記した教科書すべてが合格していた。

しかし、今回から「日本軍は(中略)くばった手りゅう弾で集団自害と殺し合いをさせ…」と記述した教科書には「日本軍のくばった手りゅう弾で集団自害と殺し合いが起こった」と修正させている。

「日本軍に『集団自決』を強いられたり…」との記述は、「追いつめられて『集団自決』した人や…」に。「日本軍がスパイ容疑で虐殺した一般住民や、集団で『自決』を強いられたものもあった」との記述は、「集団自決に追い込まれたり、日本軍がスパイ容疑で虐殺した一般住民もあった」に、それぞれ変更された。

また、「日本軍によって壕を追い出され、あるいは集団自決に追い込まれた住民もあった」との記述は、「日本軍に壕から追い出されたり、自決した住民もいた」と書き直された。

さらに、「なかには日本軍に集団自決を強制された人もいた」との記述を「なかには集団自決に追い込まれた人々もいた」に修正されるなど、集団自決については日本軍の強制という意味合いを消し去る表現に変わっている。

これでは、政府による集団自決への「日本軍の関与」隠しと言われても当然だろう。日本軍による加害性を教科書から排除しようとの意図が透けて見えるからだ。

「強制ない」と言えるのか
検定意見を付けた理由として文科省は「強いられて、という表現は沖縄戦の実態について誤解する恐れがある。高校生には命令があったように誤解される」と指摘している。

さらに「軍の強制は現代史の通説になっているが、当時の指揮官が民事訴訟で命令を否定する動きがある上、指揮官の直接命令は確認されていないとの学説も多く、断定的な表現を避けるようにした」と説明した。

確かに、日本軍の命令があったかどうかについては、大阪地裁で係争中の訴訟で元戦隊長から軍命を否定する意見陳述がなされている。

しかし、軍命の証拠がないからといって「強制はなかった」と言い切れるかどうか。

同訴訟は、集団自決の事実認定と証人尋問がこれからという段階であり、判決はまだ先である。

国自身が当事者ではなく、判決も出ていない訴訟での(元戦隊長の)証言という不確定要素に加え、原告、被告双方の意見ではなく、原告だけの主張を取り入れ、検定意見に反映させたのはバランスを欠くと言わざるを得ない。

一方で、慶良間諸島では「集団自決」現場を目撃した住民の証言もあり、米国の公文書には米軍上陸後、日本兵から自決するよう指導されていたとの住民からの聞き取り調査報告もある。

政治的思惑は除くべきだ
日本軍が住民に「米軍に捕まるな」と厳命し、「いざという時は自決するように」と手りゅう弾を配ったことは多くの住民の証言がある。

集団自決の記述から「日本軍」という主語がぼかされては、執筆者の意図も玉虫色にぼかされかねない。

大事なことは、政治的な思惑ではなく「子どもたちに何を教えるのか」という教科書の原点をおろそかにしてはならないことだろう。

「強いられて」という表現が誤解を招く恐れがあり、軍命の有無をめぐり

どちらが真実なのかはっきりしないのなら、いろいろな意見、多様な見方があることを教科書にもストレートに反映させればいいのではないか。

「どちらが真実なのか」。子どもたちに関心を持たせ、調べる意欲をわかせるのも教育である。

さらに言えば、「歴史の事実」をしっかりと踏まえた教育を行うことだ。国の一つの考え方を押し付けるようなことがあってはならない。

沖縄タイムス 2007年4月1日

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