全国紙社説(2007年4〜6月)


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教育3法 現場を画一的に縛るな

文部科学省がこれまで以上に教育現場に口をはさみ、画一的な考え方を押しつけることにならないか。

そんな疑問が解消されないまま、教育関連3法が成立した。

安倍首相にとっては、「愛国心」を盛り込んだ半世紀ぶりの教育基本法改正に続く教育改革である。

文科相が教育委員会に是正要求や指示をすることができる。教員の免許を更新制にする。学校に副校長や主幹教諭を置くことができる。こう並べていくと、今回の法改正が上意下達の強化を狙っていたことが改めてわかる。

これが本当に教育の再生につながるのか。学力を引き上げ、不登校やいじめを解決することになるとは思えない。

それどころか、教育委員会や学校、教師が萎縮(いしゅく)し、新たな試みをしなくなるのではないか。それが心配だ。

法律が成立したとはいえ、どのように運用するのか、あいまいなところが多い。文科省は現場の判断を重んじ、創意工夫の芽を摘まないようにしなければならない。

教育委員会に対し、文科相が指導などだけでなく、是正要求や指示までできるよう改正されたのは、いじめ自殺と必修科目の履修漏れがきっかけだった。

しかし、今後、どのようなときに指示などを出すのかははっきりしない。文科相は国会答弁で「私が判断した時」「(どんな状態かは)定義はあらかじめできない」などと答えた。これでは文科省の権限が際限なく広がりかねない。

文科省には慎重な運用を求めたい。万一、発動する場合には、なぜ、是正要求や指示が必要なのかをきちんと説明しなければならない。

講習を条件に教員免許を10年ごとの更新制にしたことも、現場への影響が大きい。だが、どんな講習を受け、免許を取り上げられるのはどういう場合なのか。具体的な内容が示されていない。

これでは教師の不安が増すのも無理はない。優秀な人材が集まらなくなる恐れもある。講習の内容や判定の基準を公開し、透明性を高めてもらいたい。

学校に副校長や主幹教諭を置くことも、画一的に進めない方がいい。中間管理職が増えて、子どもたちに向き合う教師が減るのでは、なんにもならない。この制度を使うことを教育委員会や学校に無理強いしてはいけない。

それにしても、安倍首相の教育改革では、不思議なことがある。教育予算については、何ら手だてが講じられていないことだ。

国会審議でも教育予算の増加について与野党を問わず要求が相次いだが、首相の歯切れは悪かった。骨太の方針に盛り込まれた内容もあいまいだった。教育への公的支出を見ると、日本は先進国の中でも低いレベルにとどまっている。

これで教育が改革の本丸だと胸を張るのは、なんともちぐはぐだ。

朝日新聞 2007年6月22日

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教育3法改正 威圧の法にさせてはいけない

教育関連3法(学校教育法、地方教育行政法、教員免許法)が改められた。教育現場をどう変えるのか。とことん詰めて問題認識や理解、運用基準などを共有するのが当然だ。しかし、迫る参議院選挙で与党の実績として掲げるべく「今国会で成立」を至上とされ、論議未消化の印象を強く残したまま成立してしまった。

改正の骨子は、「我が国と郷土を愛する態度を養う」を義務教育の目標に規定▽副校長、主幹教諭、指導教諭の創設▽国の教育委員会への指示・是正要求権の新設▽私学行政への教委の助言・援助規定▽教員免許の10年更新制と講習義務▽不適切な教員への指導改善研修−−などだ。先の教育基本法改正を受けたもので、安倍晋三首相が唱える「戦後レジームからの脱却」の一環と位置づけられる。

私たちはこれまで、いきなり法改正ありきではなく、教育の現状の何が問題なのか、それをどう変えるのか、現行制度でなぜそれができないのか、などを徹底的に検証し、そこから方策を探るべきだと提起してきた。実際、現行法や制度、学習指導要領が壁になって、今回の改正の目的としていること(教育委員会の責任明確化、教員の資質向上など)が阻害されてきたという実情はない。

しかし、国会では現状を掘り下げた審議が不十分だったばかりか、法改正がどのように現場に適用されるのかも明確にされなかった。例えば、教委への国の介入は限定的、自己抑制的であることが求められるが、どんな場合に「発動」するのか、想定も定義も具体的にできていない。教員免許更新制の「教員の資質向上や不適格教員のチェックという意味でも実効性が乏しいうえに、教員だけ更新制にする合理的根拠もない」という批判にも答えきれていない。

このままでは、教育現場が得心しないまま威圧感のみを与えることになりかねない。そうなると、マイナス評価を恐れ、不祥事や問題を表に出さない傾向がますます強まるだろう。相次いだいじめ自殺や履修ごまかしで露呈した隠ぺい体質や無責任体制が法改正論に追い風となったが、改正が逆効果になっては何にもならない。なのに拙速批判をものともせず通した改正が「首相の指導力」を示す方便というのでは「教育改革は最重要課題」という言葉も泣こう。

改まった法とどう向き合うか。どのようにプラス効果を上げるか。「上」から「下」への監視、締め付けの弊害発生をどう避け、過度の管理に陥らないようにするか。法がそれを決めるのではない。運用し、適用される当事者にそれはかかっている。学校や教委のみならず広く論議し、腐心して共通認識や運用ルールをはぐくむ必要がある。

それでなくても「安倍教育改革」は教育再生会議など各種有識者会議や審議会などで意見、提言が入り乱れ、具体像を結びにくい。首相側が整理と十分な説明の責任を果たすべきである一方、その論議の方向を国民も見据え、身近に引きつけて考えたい。

毎日新聞 2007年6月21日

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教育3法成立 制度の具体化をぬかりなく

安倍首相が掲げる「教育再生」への足がかりが出来たということだろう。教員免許更新制や、「副校長」「主幹教諭」ポストの新設などを盛り込んだ教育改革関連3法が成立した。

教員免許法の改正で、教員の資格制度は一変する。現在は大学の教職課程で所定単位を修得すれば生涯有効な免許がもらえるが、2009年度からは10年の有効期限が設けられ、更新時に30時間の講習が義務づけられる。

問われるのは講習の中身だ。現在ある「10年経験者研修」と似たようなものになっては、実効が上がらない。実際の講習と評価は各地の教員養成系大学で行うが、文部科学省による明確な認定基準の作成は必須である。

教員免許更新制は、当初、指導力不足などの不適格教員を教室から「排除」することを目的に検討された。しかし、中央教育審議会は、教員の知識・技能の定期的な「刷新」のための制度とするよう答申し、その旨法案化された。

不適格教員については教育公務員特例法の改正で対処し、「指導改善研修」の義務づけと、改善の見られない教員の免職などを明文化した。教育委員会には厳正な運用を望みたい。

学校教育法の改正では、校長と教頭の間に「副校長」、校内の教師の取りまとめ役としての「主幹教諭」、他の教員の模範となり、給与面で優遇される「指導教諭」を置くことが可能になった。

学校の組織運営力を強め、教員の意欲を高める効果が期待される。

ただ、教員数を増やすことが難しい現状では、新しいポストに就く教員に過重な負担がかからないよう配慮が必要だ。能力と働きに見合った教員給与体系の再構築も、文科省の喫緊の課題である。

この改正を受け、学習指導要領の改定作業も加速する。小学校英語の必修化の是非、教育再生会議が提言した授業時数10%増の具体化策など課題は多い。拙速を避け、じっくりと議論してほしい。

地方教育行政法の改正で、いじめ自殺や履修漏れの放置など教育委員会に法令違反や著しい怠慢が見られた場合、文科相が「指示」や「是正要求」を出せることになった。

「国の統制が強まる」と批判する声もある。しかし、地方に見過ごせない落ち度があった場合に是正に乗り出すことは、むしろ国の当然の責務だろう。

文科省には、それぞれの制度を具体化する作業をぬかりなく進めてもらいたい。教育再生を実効あるものにするためには財政面での配慮も必要だ。首相の指導力にも注目したい。

讀賣新聞 2007年6月21日

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運用も問われる改正教育3法

教育改革に関連する3つの改正法が成立した。いずれも学校現場に与える影響は大きく、今後は文部科学省がこれらをどう運用するかを注視する必要がある。

3法のなかで最も議論が高まったのは、教育委員会への国の関与を明確にした地方教育行政法の改正だ。教委の法令違反などにより児童・生徒の生命が脅かされたり、教育を受ける権利が侵されたりした場合、文科相は教委に指示や是正要求ができる。改正法はこう定めている。

こうした規定に対しては法案化の段階から、地方分権に逆行し文科省の権限増大を招くとの指摘があった。同省が規定を拡大解釈して教委への画一的統制を強めるのではないかという不安がぬぐえないからだ。

国会審議を通じても、この懸念が十分に解消されたとは言い難い。教委にどんな逸脱や不手際があった場合に指示や是正要求をするのか、その判断基準ははっきりしない。

ただでさえ、教委は文科省の出先機関の役割を負い、その顔色をうかがっている。文科省がこの規定を背景に現場を萎縮させるようなことがあってはならない。あくまでも、万一の場合の「伝家の宝刀」にとどめて慎重に運用してもらいたい。

ほかの2つの改正法にも、運用次第では教育の多様性や柔軟性を制約しかねない側面がある。

教育職員免許法の改正では、教員免許を10年ごとに更新する制度を導入した。これによって本当に教員の質を向上させられるのか、不適格教員の排除につなげられるのかどうか、具体的な設計は今後の課題だ。

一方で、免許更新制は文科省による一元的な教員養成・登用システムの堅持を前提にしており、教壇に幅広い人材を受け入れようとする流れとは必ずしも合致しない。免許更新制には一定の意義があるとしても、これだけが教員制度の改革ではないことを強調しておきたい。

学校教育法の改正は、小中学校などに副校長や主幹教諭など新たな管理職を置くことができるようにしたのが柱だ。学校マネジメントを確立する効果は期待できるが、実際の運用は地域や学校の実情に即して考えればよいのではないか。文科省は画一的な対応は避けるべきである。

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教育3法成立 問われる教委の存在意義

教育再生関連3法が成立した。教師の資質向上や教育委員会改革など、荒廃した公教育を変える重要な制度改革が盛り込まれており、今国会成立の意義は大きい。

教育再生を最重要課題とする安倍晋三首相の意向を強く反映したのが、改正地方教育行政法に盛り込まれた教育委員会の改革だ。

教委の機能不全ぶりについては、いじめ問題でも明らかになった。現状は、問題が起きた際には学校現場を支援し、解決に尽くすという本来の責務を果たしているとは言い難い。むしろ、責任を現場に押しつけ、実態を隠蔽(いんぺい)することさえあるのが実情だ。

一部教職員組合となれ合い、毅然(きぜん)とした指導ができない教委も相変わらずある。教委改革は、こうした戦後の教育界の体質を変える意味がある。

昨年10月に福岡県筑前町で起きた中学2年生のいじめ自殺をめぐる少年審判では、家裁が学校側の責任に言及し、「いじめへの問題意識がはなはだ希薄」と厳しく指摘した。こうした事件のたび、教委や学校には同様の批判が繰り返され不信が募っている。

国会審議で伊吹文明文部科学相は、教委の役割を「ときには厳しく、ときにはあたたかくくるむ」ものとし、「それができていなかった」と述べた。教委の機能復活なくして、公教育への信頼は取り戻せないだろう。

改正法では事務方まかせの体制を改め、教委が識見を持って学校活動を点検評価する責務などを明確化した。文科相の是正指示権も盛り込んだ。教委が法令違反を犯したり、対応を怠ったりした場合には国が責任を持つ。いじめをひた隠しにするような教委は今後は厳しく指弾されよう。

教委の指導力で改革を進める事例がある。東京都教委は国旗国歌の指導充実や都立高改革を進め、京都市教委は独自の学力向上策や生徒指導の充実で、公立高の人気を復活させた。茨城県教委は県立高校の道徳を必修化するなど注目を集めている。

地方分権も教委の裁量を問うている。地方の実情に合わせた特色ある教育に力を発揮してほしい。安倍首相は「美しい国」づくりに最も大切なのが教育だと繰り返している。各教委は、日本の教育再生に重大な責任を負っていることを再認識してほしい。

産経新聞 2007年6月21日

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教育再生会議―一から出直したら

21世紀の日本にふさわしい教育体制を構築し、教育の再生を図るため、教育の基本にさかのぼった改革を推進する。

これが、安倍首相によって内閣に設けられた教育再生会議の目的である。

その高らかな宣言と、以下の2次報告書の内容との落差は、どうしたことか。
 ・夏休みや土曜授業を活用して授業時間を1割増やす。
 ・すべての子どもにわかりやすく、魅力ある授業にするため、教科書の分量を増やし、IT化などを推進する。
 ・徳育を教科化する。

昨秋発足した再生会議は、各界の有識者17人が起用された。学力と規範意識を高めるという狙いに、異論は少ないだろう。私たちは社説で、斬新で骨っぽい提言を求めた。

だが、今年初めの1次報告書に続いて、今回もやはり期待はずれだった。

長い議論を経て学校が週休2日制になったのは、ほんの5年前のことだ。学力が低下したから土曜授業で補う、というのは安易すぎないか。

再生会議の席上、陰山英男・立命館小学校副校長は、土曜授業の復活に反対したといい、会議後、「何時間かけてこれをやらせれば、こんな風に学力が上がるとかそんなもんじゃない」と語った。現場を知る人の率直な思いだろう。

学力をめぐる最大の問題は、できる子とできない子の格差が広がっていることだ。授業についていけない子を、時間数を増やすだけで救えるとは思えない。

教科書を厚くしてIT化を進めれば、魅力的な授業になるというのも、いささか的はずれではないか。

「道徳の時間」を徳育として教科化することにも疑問がある。検定教科書を使うことになれば、政府の考える価値観を教室で押しつけることになりかねない。

規範意識で思い起こすのは、光熱水費問題などでの故松岡前農水相の説明と、かばい続けた首相の態度だ。子どもが規範を学ぶのは、教室だけではない。

それにしても、名だたる有識者がそろいながら中身が薄っぺらになってしまったのはなぜだろう。会議の進め方とメンバー構成に問題がありはしないか。

議事録を読む限り、委員は印象論や体験をもとに提言することが多い。だが、その提言の良しあしをデータに基づいて検証し、論議を深めている様子は伝わってこない。

その例が「母乳で育児」を提言しようとした「親学」だろう。きちんと論議を詰めていないので、批判されると、あっさり引っ込めてしまった。

再生会議はさらに論議を重ね、年末に3次報告を出すという。それなら、せめて二つの提案をしたい。

会議を公開する。論議に緊張感が生まれ、国民の関心も呼びやすくなる。

オブザーバーとして教育研究の専門家を置く。教育の歴史の中で、提言の良しあしを検証することができるだろう。

朝日新聞 2007年6月2日

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教育再生会議 第2次報告の論点を深めよ

安倍首相直属の教育再生会議が第2次報告をまとめた。

今年1月の第1次報告に盛り込んだ「ゆとり教育の見直し」について、今回いくつかの具体策を示した。

目玉となるのは、授業時数を10%増やす策として、「土曜授業」を挙げたことだ。夏休みの短縮、朝の15分授業などとともに選択肢の一つとされた。

ただし現行の「学校週5日制」という基本は崩さない。教育委員会や学校の裁量で、必要に応じて土曜授業を可能にするという提言だ。

6日制から5日制への移行の経緯、私立学校の半数が依然6日制を採用している現状、保護者や教員らの意識動向など、掘り下げた議論を進めてほしい。

土曜授業の復活について、再生会議としての検証、評価を示し、現場が責任を持って選択できる体制を作ることが必要だろう。

「徳育」は当初、国語、算数などと同等の教科とする方向だった。だが、中央教育審議会の山崎正和会長が「教科で教えるべきでない」と発言するなど異論も出始め、報告書では「従来の教科とは異なる新たな教科」にとどまった。

数値での成績評価は行わない。教科書はつくるが、副読本などと併用し、担任教師が教える。教員による運用の仕方が今後、問われることになるだろう。

1次報告にはなかったテーマが大学・大学院改革だ。卒業資格の厳格化や、優秀な海外の学生を集めるため9月入学枠を増やし、英語授業を拡充することなど多様な提言をしている。国立大学の大胆な再編統合も打ち出した。

注目されるのは、これら大学改革のため、効率化、成果主義、実効性ある分野への「選択と集中」といった競争原理に基づく教育財政改革案を示した点だ。

財務、文部科学両省の間で論争になっていた国立大学の運営費交付金の配分法についても、報告書は「努力と成果を踏まえた新たな配分の具体的検討」を提唱している。

単純に予算の効率化の観点から競争原理導入を迫る動きに、再生会議が同調することがあってはならない。

公立小中高校の教員給与も、教員評価によるメリハリある支給に改めるよう提言している。ただ、その評価を、だれがどこで、どんな基準で行うのかは示されていない。

過度の競争原理導入は、教育現場に混乱をもたらす。再生会議の今後の検討課題には、「教育バウチャー」制や公立学校への効率的予算配分なども挙げられているが、慎重な議論を望みたい。

讀賣新聞 2007年6月2日

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教育再生2次報告 もっと時間かけ練り上げよう

教育再生会議の第2次報告は、学力向上をうたって「ゆとり教育」の否定的見直しを打ち出した第1次報告を具体化した。規範性を高めるため道徳を新しい教科に昇格させ、「効率化を徹底し、かつメリハリをつける」財政で予算や給与に差異をつけ、世界トップランクの大学・大学院を育て上げようという。

また小学校の英語教育導入や高校の奉仕活動必修化、さらには「親の学びと子育て応援社会」の実現と、提起する諸施策は実に多岐にわたる。1月の1次報告以降わずか4カ月余で十分に論じ尽くしたとは思えない。

再生会議は1次報告で日本の教育状況を「公教育の機能不全」と表現し、矢継ぎ早に多様な問題提起をしてきた。それには現実の問題が背景にあり、根拠なく諸病状を訴える“不定愁訴”ではない。反発が強く大幅にトーンダウンした「親学」にしても、現実に起きている親による事件や給食費不払いなどの実態を契機としている。

しかし、だからといって、現状がひとくくりに短絡的に否定されてよいわけではない。

報告は学校の授業時間を1割増加させる方策として「教育委員会、学校の裁量で、必要に応じ、土曜日に授業を行えるようにする」とした。「学校週5日制を基本としつつ」と前置きはしているが、公立の義務教育で学校選択制が広がる中、引きつけ策として土曜授業再開に弾みがつくのは間違いない。それは学校5日制をなし崩しにまひさせていくことになる。

5日制は、学校・家庭・地域が連携して「生きる力」の育成を目指す「ゆとり教育」の土台であり、その実施には長い論議と試行があった。92年に月1回で始まり、段階を踏み完全5日制に移行するまでに10年をかけた。

必要な修正や改廃はすべきだが、それには、問題点は何か、何が原因か、問題を繰り返さないためにはどうするか−−などを徹底的に論じ合い、ほぼ共通した認識を分かち合うのが前提だ。

また道徳は、全教科学習を通じて学ぶことを戦後の基本的な理念としてきた。これを新教科にするなら、道徳で検定教科書を使うことの意味の重大さなどについて丁寧に論を尽くす必要があるが、報告にその気配は感じられない。

再生会議だけでなく、今の政財界各分野にわたってかまびすしい教育改革論議全体がこうした慌ただしさを帯びている。現場は戸惑うばかりだ。

例えば、教育関連3法改正を審議している参院文教科学委員会で与党推薦参考人が教員免許更新制について「10年に1度の講習で一律に免許を更新することが教員の資質向上策としてどれほど有効性があるのか疑問だ。まだ審議すべき余地は大きい」と指摘したことなどは象徴的だ。

安倍晋三政権が掲げる「最重要政策」だからこそ時間をかける。そう腹を据えよう。再生会議の報告でお墨付きを得たとばかり駆け出すような実施は、長く悔いを残す大失策を招きかねない。

毎日新聞 2007年6月2日

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「道徳」の教科化は短絡的だ

教育再生会議が第2次報告で、道徳教育を「徳育」として教科に格上げするよう求めた。今年度中に学習指導要領を改訂するべきだとしている。教員免許は設けず、点数評価もしない「新たな教科」と位置付けているが、疑問の多い提言である。

2次報告には、教育委員会などの裁量による土曜授業実施や大学9月入学の大幅促進、教員給与体系の見直しなど様々な提案が並ぶ。このうち大きな柱のひとつは道徳教育の充実など規範意識の向上策である。

たしかに戦後の学校教育は知識の詰め込みに追われ、「知徳体」のバランスに欠ける面があった。ルールを守り、他者を思いやり、生命を尊ぶといった道徳観念が揺らいでいる。そんな不安が社会にはある。

しかも、地域や家庭の教育力が低下し、インターネットなどには有害情報があふれている。「心の教育」がこれまで以上に重要になっていると多くの人が考えているだろう。

だからといって、なぜ教科にすることにこだわるのだろうか。

現在でも小中学校には週に1回「道徳の時間」がある。教科ではないから授業に熱が入らないとの指摘もあるが、多くの学校では効果的に教えようと工夫を凝らし、教育全体のなかで道徳に取り組んでいる。

その充実を唱えるならば教科という形に固執するのではなく、現場の創意工夫を助け、授業を興味深くする手立てを探るべきである。教科にすれば文部科学省による統制が強まり、微妙な価値観を含む道徳教育が硬直し、画一化する懸念がある。

提言では点数評価はしないとしているが、教科である以上、何らかの評価は伴うだろう。それでは、道徳心というものをかえって矮小(わいしょう)化するのではないか。

再生会議は検定教科書導入も今後の課題としている。これはさらに問題が大きい。検定教科書となれば、文科省が重箱の隅をつつくように記述をチェックすることになろう。

中央教育審議会の山崎正和会長は個人的見解としたうえで、「道徳を学校で教える必要はない」とまで述べている。この発言には道徳の取り扱いの難しさがにじんでいる。教科にすれば規範意識が向上すると考えるのはあまりにも短絡的である。

日本経済新聞 2007年6月2日

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教育再生会議 評価したい徳育の教科化

政府の教育再生会議が第2次報告で、道徳の授業を見直し、「徳育」を新たな教科とすることなどを提言した。学力とともに規範意識を身につけ、豊かな感性や情操を育(はぐく)むことは、教育再生のため重視すべきで、評価したい。

徳育の教科化については、一部から異論があったが、土曜授業の活用など「ゆとり教育」見直しの具体策とともに提言の柱になった。

小中学校で週1時間ある「道徳の時間」は、思いやりや生き方などを考える貴重な授業のはずだが、進路指導や別の授業に流用されるケースもあった。副読本などを使っておこなっているものの、学校や教師によって授業内容に大きな差がある。

提言では教科書をつくることにも踏み込み、多様な教材の活用が提案された。教科になり教科書をつくるようになれば、教材の工夫や指導法の研究も進むだろう。

教師の力量が問われる授業でもある。子供たちはテレビや雑誌、インターネットなどでさまざまな情報に接しており、「生半可なエピソードでは子供たちはなかなか乗ってこない」という声も聞く。子供の心をとらえ考えさせる教材や授業が欠かせない。

提言では点数による評価はしないとしたが、記述式などの評価は工夫しだいでできる。道徳教育に詳しい昭和女子大の押谷由夫教授(教育学)は「評価を通じて子供たちを見る目が養われる」という。教師の指導力向上にもつながるはずだ。

子供をめぐる問題や事件の多発で、小中学校では外部講師を招くなど道徳教育に力を入れる傾向が出ている。フリーターやニートなど若者の問題を背景に、茨城県では全県立高で今年度から「道徳」が必修化されるなど徳育重視の動きがすでに始まっている。

親学の緊急提言は見送られたが、今回の報告で「親の学びと子育てを応援する社会へ」とし、早寝早起きなど規則正しい生活やあいさつ、礼儀作法などを学校や家庭、地域が連携して身につけさせることも盛り込まれた。

徳育充実と共通する背景には、子供のしつけが満足にできない保護者の問題がある。学校のせいばかりにせず、保護者も提言を受け止め、連携を深めなければ教育再生は実現できない。

産経新聞 2007年6月2日

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学力回復 土曜授業も有効な選択肢

政府の教育再生会議が、学校5日制で休日となっている土曜日の活用などを第2次報告に盛り込むことになった。土曜授業の復活も選択肢にあげており、学力回復に有効だと評価したい。

公立学校の5日制は平成4年9月から月1回で始まり、7年度から月2回、14年度から毎週土曜が休みになった。子供たちが自主的に学ぶ意欲を高めていくねらいだったが、行き過ぎた「ゆとり」で学習量が大幅に減ってしまい、学力低下を招いた。

教育再生会議は1次報告で「ゆとり教育の見直し」を明記し、授業時間の10%増を求めたが、どうやって増やすかが学校現場の悩みとなっている。

再生会議は、授業時間の確保策として、1日7時間授業や夏休み・春休みの短縮のほか、「半ドン復活も必要」との意見が強かったことから、月2回程度の土曜授業実施も選択肢にあげ、教育委員会などが実情に応じて実施できるようにする。

学校5日制では、スタート時から土曜日の過ごし方が課題だった。子供たちが有意義に過ごしているとは言い難い。過去のアンケート調査では土曜休日で「テレビやゲームをする時間が増えた」「家でごろごろしている」という子供も多く、保護者からは土曜に授業をという要望が強い。

学校や地域が協力し、土曜に体験活動や行事を行う例は、各地で行われている。これに対して小学校中、高学年と学年が上になると、遊びやイベント型ではなく補習など勉強をしてほしいという希望も多くなっている。

実際、教育委員会や学校によっては「土曜スクール」や「土曜寺子屋」などの名称で希望者が参加する学習会を行い、学生などボランティアや教員OBらが協力し実質的に授業を行うケースが広がりつつある。高校ではさらに5教科の土曜講習の充実などを進めている学校もある。

学校5日制はすでに定着し、土日を利用した家族旅行を行うケースもあろうが、隔週の土曜午前中の有効活用は保護者の希望にもかなう。7時間授業など詰め込み型より土曜の活用の利点は大きい。

勉強に励むことは子供の本分だろう。塾任せにせず、子供たちがしっかり学べる態勢をつくりたい。

産経新聞 2007年5月28日

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土曜授業復活は生活と学習の得失考えて

公立学校の「完全週5日制」を見直し、土曜日の授業を一部復活させる案が、教育再生会議で浮上している。学力の底上げを進めるための具体策として検討に値するが、様々な副作用が予想され、実現するには解決すべき課題も多い。国民的な議論が欠かせないテーマである。

1992年にまず月に1回の土曜休みで始まった学校の週5日制は、95年から月2回に増え、2002年からは完全週休2日になった。

文部科学省は、週5日制によって子どもたちが家庭や地域で過ごす時間が増え、社会体験や自然体験を充実させられると説明してきた。多くの企業や官公庁で週休2日制が定着し、学校の週2日休みも国際的な流れになっている。

問題は、「ゆとり教育」路線と相まって週5日制の下で授業時間や学習内容が大幅に削られ、学力低下の懸念を招いてきたことだ。

文科省は土曜日に地域で学びの場を提供する「子どもプラン」などを推進しているが、十分機能しているわけではない。むしろ一部では、学習塾が学校の代わりに週末の子どもの受け皿になっている。

教育再生会議は第1次報告で授業時間数を1割増やすよう提言した。土曜の授業はその手立ての一つである。正規の土曜授業を月に2回実施する案や、現行の週5日制を維持しつつ土曜の授業も奨励する案などがあり、再生会議は第2次報告で具体的な方向性を示すという。

とはいえ、学校の完全週5日制はすでに6年目に入り、社会的にもほぼ定着した。多くの家庭では子どもの土曜休みを前提に週末の計画を立てているのが実情だろう。

これを元に戻すとなれば、一般家庭への影響は大きい。家庭や地域での教育の拡充を目指す動きに逆行する要素もある。教員の勤務時間増加への対応策も課題になる。

週休2日制とともに学校の週2日休業が世界の大勢になっているなかで、あえて土曜授業に頼らなければ日本は学力の向上を進められないのかとの指摘もあろう。学習内容を充実させる方法がほかにないのか、検討する余地はある。

各家庭の週末の過ごし方に影響するだけに、この問題への保護者の関心は極めて強い。

「ゆとり」路線修正を目指す教育再生会議は、2次報告の大きな目玉として土曜授業の復活を打ち出す意向とみられる。その際には、まず結論ありきではなく、土曜の授業実施が学力向上に欠かせないという十分な説得材料が必要になるだろう。

日本経済新聞 2007年5月23日

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教育3法改正 問題の掘り下げが足りない

教育改革関連3法案(学校教育法、地方教育行政法、教員免許法の各改正案)の国会審議が参議院に舞台を移した。これまでのペースでいけば今国会で成立する見通しで、7月の参院選挙で安倍晋三政権の「成果」として掲げられることになる。

将来を託す人づくりにかかわる法案審議なのに、教育現場にどのような変化をもたらし、何を目的にそれを推進するのか、具体的な提示や議論があまりに乏しい。

改正案では、義務教育の目標として「国や郷土を愛する」「規範意識や公共の精神」などを明記し、昨年成立した改正教育基本法を裏づける。学校運営に関しては副校長、主幹教諭などの管理・指導的ポストを創設。教員免許を10年の更新制にし、その度に30時間の講習を義務づける。

そして教育委員会に対しては、児童生徒に緊急な保護を要する事態や教育を受ける権利の侵害がある場合に、文部科学相が指示や是正要求の権限を持つ−−。

免許更新制や教育委員会への国の権限については、教員不祥事やいじめ、高校の大量履修漏れなど現実に相次いだ問題が推進論の「追い風」になった。

では、それによって何がどう変わるのか。あるいは、どういう場合が想定の事態にあてはまるのか。これまで政府はまだ十分具体的に示し得たとはいえない。

不祥事やいじめ、受験準備で科目履修をごまかすことは、現行法令や制度に不備があって起きたわけではない。不適格教員のチェック機能は制度上あるし、学校運営に管理職的なポストを増やすことにどれだけ効果があるかにも現場には疑問の声が少なくない。

また、履修漏れは全国の主だった教委にキャリア官僚を配置する文科省が「まったく関知しなかった」といえるはずはなく、教委をにらむことによって解決するような浅い問題ではない。

現行制度で対応や防止ができることなのに、なぜこう次々と問題が起きたのか。社会の価値観や風潮の変化なども踏まえた入念な検証と、そこから得る貴重な教訓や情報を全国の教育現場が共有、活用できるようにすべきだろう。

それを十分しないまま新たなかたち(法)を先行させるのは、無用な不信や反発を生じ、本末転倒になりかねない。政府の教育再生会議や財界も含めた一連の教育改革論議全般にもいえることだ。

参院では、もっと現実に照らし、具体的な想定を示したうえでの審議を望みたい。例えば、教員免許更新は子供の教育にそぐわない教員のチェックや是正にも有効といわれるが、講習では何をやり、どう効果を上げるのか。教委への権限発動についても「最小限にとどめたい」というだけでなく、拡大されないようどう歯止めをかけるか。省令や運用によってというのではなく、細かに想定ケースを挙げ、論議を深めてほしい。

事は教育だ。いうまでもないが、「成果」として選挙のショーウインドーに飾るために法改正するのではないはずだ。

毎日新聞 2007年5月22日

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教育3法案―疑問がいっそう膨らんだ

 安倍首相が力を入れている教育改革の関連3法案が、衆院を通過した。昨年の教育基本法改正に続く第2弾である。

 それにしても、随分と急ぎ足ではないか。通常は1年程度かける中央教育審議会の答申も、わずか1カ月でまとめさせた。「突貫工事は手抜きになる危険がある」との批判が、審議会の委員から上がったのも当然だろう。

 私たちはこれまで社説で、3法案が本当に教育の再生につながるのか、論議を尽くしてほしいと書いた。いずれの法案も地方分権に逆行し、国の権限と管理を強めようとする色彩が濃いからだ。

 ・地方自治体の教育委員会に指示をしたり、是正を要求したりする権限を文部科学相に与える。

 ・教員免許の有効期限を10年に限り、更新するには講習を条件とする。

 ・義務教育の目標に「愛国心」を養うことを盛り込む。

 ・学校に副校長や主幹教諭らを置く。

 それらが法案の内容だが、約60時間の審議で見えてきた疑問がいくつかある。

 教育委員会への指示や是正要求を盛り込んだのは、そもそも、いじめ自殺と必修科目の未履修問題がきっかけだった。こうした問題で教育委員会がきちんと対応しなかった場合に発動する。政府はそう説明してきた。

 法案では、指示や是正は、子どもの命が脅かされたり、教育を受ける権利が侵害されたりした場合に限られている。

 ところが、伊吹文科相は答弁の中で、学校が卒業式などで国旗を掲揚せず、国歌も斉唱しなかった場合などを新たに介入する対象として挙げた。

 文科相から見れば、子どもの教育を受ける権利が侵害された場合にあたるということかもしれないが、これでは際限なく国が口をはさむことにならないか。法案が出されたときに私たちが示した心配が、現実のものになってきた。

 教員免許を更新するときに、どんな講習をさせるのか。その内容は法律の成立後に省令などで定めるとして、明らかにされなかった。講習の内容によっては、思想や信条で教師を選別することにならないか。その不安が消えない。

 そもそも、10年ごとの講習にどれだけ意味があるのか疑問だ。現在の研修を充実させる方が効果的ではないか。

 免許の更新制は、指導力に欠ける教師を除く仕組みとしてもそれほど役には立たない。すでに各地の教育委員会にある判定機関をもっと活用した方がいい。

 副校長や主幹教諭らを置くことで、学校に会社のような「中間管理職」が生まれる。「教員同士の和」に乱れが生じるのではないか。そんな声が現場の校長から上がるのももっともだろう。

 教育現場がこのままでいいとは誰も思っていないだろう。だが、だからといって、この法案で学校がよくなるとは思えない。参院では、子どもたちのことを考え、きちんと論議をしてもらいたい。

朝日新聞 2007年5月19日

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教育3法案通過 建設的議論で早期成立を

教育再生関連3法案が衆院で可決され、今国会で成立の見通しとなった。教育再生のための重要な制度改革である。参院での建設的な議論を望みたい。

なかでも今後の議論で注目されるのは、法案に盛り込まれた教員の質向上と、地方の教育委員会の活性化をどう実現していくかだ。

いじめ自殺だけでなく、過去にないような子供をめぐる事件や問題が相次いで起きている。学力低下の不安を解消し、時代の変化や危機にも対応できるように教員の質向上や教委の機能の強化は急務といえるだろう。

教員の質向上策では、教員免許法改正案で、10年ごとの免許更新制とし、30時間以上の講習が義務づけられるが、講習の中身などは今後の検討による。教員はとかく狭い学校現場に閉じこもりがちだ。マンネリ化せず、最新の知見で教壇に立つような講習方法が必要で努力を惜しむべきではない。

審議などでは旧態依然とした大学の教員養成課程の見直しも課題とされた。養成、採用、研修を通し、教育界のしがらみにとらわれず広い視野で子供に向かい合う教員を育てる態勢をつくらなければならない。

教育委員会をめぐっては、地方教育行政法改正案で、教委の活動を点検・評価し、公表することなどが義務づけられている。文部科学大臣の是正指示権などに対し、「国の権限強化」と反対する議論が注目されがちだが、法案は事務方任せの教委の態勢を見直し、改革を促すものだ。

いじめ問題の調査や学力テストを邪魔するような教職員組合の問題は依然として水面下に存在する。是正指示権も、教委がなれ合って自浄できない場合に国の責任を明確化したもので、教委の責任はより重い。

もう一つの学校教育法改正案には、校長を支える副校長など学校経営の態勢強化が盛り込まれた。これも教育再生に欠かせない制度だ。

安倍晋三首相は審議などの過程で「教育現場の刷新」を強く訴えている。民主党も対案を出すなどしたが、教員の質向上や教委改革などで問題意識は共有しているはずだ。

参院の審議では反対論ではなく、教員らが力を発揮できる環境づくりのための議論を戦わせるべきだろう。

産経新聞 2007年5月19日

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教育「井戸端会議」なら全くいらない

この迷走ぶりは目に余る。教育再生会議が発足して7カ月。近く第二次報告をまとめるが、会議では思いつきの発言や印象論、観念論が相次ぐばかりだ。教育の構造改革につながるような本質的議論は影を潜めており、憂うべき状態である。

それを象徴しているのが「親学」をめぐる混乱だ。再生会議は先月から、おもに育児についての保護者向け緊急提言づくりを進めた。「子守歌を歌い、赤ちゃんの瞳を見ながら授乳する」「食事中はテレビを消す」といった項目が並んでいた。

誰もが思いつきそうな手引書を政府の審議会がまとめ、保護者に指南する必要はない。母乳での育児奨励も配慮に欠ける。そんな指摘が政府内からも相次ぎ、結局、緊急提言としての公表は断念した。

当然の結果だが、問題はこうした深みのない論議に時間を費やしていることだ。再生会議に求められるのは親へのおせっかいではあるまい。子育てをしやすくするための政策提言を打ち出すことではないのか。

道徳教育を「徳育」として正式な教科に格上げする問題も混迷の度を深めている。教科に格上げしても数値での評価はせず担当教員の免許も設けないという方向というが、極めてあいまいで場当たり的である。

社会規範が揺らぐなかで、徳育が重要性を増していることは論をまたない。ただし、その中身は学校現場の創意工夫に委ねるべき部分が大きい。いたずらに教科という「形」にこだわっても実は上がるまい。

再生会議は二次報告に、こうした課題のほか学力向上のための土曜授業、大学の9月入学拡大、国立大補助金の見直しなどを盛り込む。

しかしこれまでの流れをみる限り、教育制度の抜本的改革を見据えた提言は期待できそうにない。議論は文部科学省出身の委員や事務局官僚が巧みに制御し、都合のよい意見だけを「つまみ食い」している。さきの教育委員会改革をめぐる経緯にも、それは如実に表れている。

文科省から教委への上意下達システムに基づく画一的な教育は、様々な弊害を生んできた。地方分権と規制緩和の下で、その硬直性を打ち破ろうとする試みも盛んだ。再生会議が文科省とは別の存在である以上、そうした観点からも改革策を探るべきなのに、井戸端会議のような議論に終始しているのが実情である。

再生会議は年末に最終報告を出す予定で、まだ設置期間の折り返し点を過ぎたところだ。今からでも立て直しは遅くない。それができないなら存在価値はない。

日本経済新聞 2007年5月18日

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国立大の研究費―競争ばかりじゃダメだ

国立大学の研究費は、「おかず」だけでなく「ごはん」も競争原理で配る。

たとえて言えば、そんな内容の提言が経済財政諮問会議(議長・安倍首相)の民間議員から出された。

おかずは、研究者が「われこそは」と申請して勝ち取る競争的な資金だ。ごはんは、日常の研究費である。

日常研究費は、大学がやりくりする。国立大の収入は平均すると、約半分が国の運営費交付金だ。その大部分は法人化前の教職員数や学生数などをもとに算定されている。研究を保障する「ごはん」の性格は、ここに由来する。

交付金も大学の努力と成果に応じたルールで配分せよ、というのが提言だ。だが、ちょっと待ってもらいたい。

国立大の支出から人件費などを除くと研究に回るのは、そう多くない。文部科学省の抽出調査では、一つの研究室が自由に使えるのは、在籍する大学院生ら1人当たりで計算して月1万〜2万円程度が多かった。これでは研究室が独自で研究計画を立て、機材を買うのは難しい。

それなのに政府は交付金を抑えつつある。今年度は1兆2044億円で、3年前より約3%減った。

一方で、01〜05年度の第2期科学技術基本計画は競争的な資金の倍増をうたった。00年度の約3000億円が05、06年度は4700億円前後の水準になった。

交付金が競争的になると、日常研究費がふえるところもあるだろうが、減るところも出てくる。減るところでは、最低限の研究すら難しくなる。

たしかに競争は大事だ。だが、競争に勝つためにも、競争的でない研究費が要るのではないか。例を挙げよう。

「高温超伝導」で世界中が沸いたことがある。超伝導は、低温で物質の電気抵抗がなくなることだ。86年、IBMチューリヒ研究所(スイス)で、K・A・ミュラー博士らがそれまでより「高温」で超伝導を示す物質を見つけた。送電線や電磁石の技術革新の芽を秘めた発見で、翌年にノーベル物理学賞を受けた。

同じ研究所で一緒に仕事をした高重正明・いわき明星大学学長によると、このテーマは会社から指示されたものではなかった。「自由な立場で、日常経費を使う研究だった」という。営利企業でさえ、こうした自由を許した。それが20世紀屈指の発見につながった。

見通しの立たない研究には競争的資金がつきにくい。だが、見通しを得るためにも機材が要る。そこに、大発見のタネがあることも少なくない。だから、そんなに多くなくてよいから、好きな研究に使える資金を一定額は確保したい。

自由な資金に条件がつくのは当然だ。不正を防ぐのはもちろん、研究者同士の相互批評を活発にして研究の質を高めるべきだろう。ただし、ねらい通りの結果が出なくても、とがめるべきではない。

自由な資金でタネを見つけ、競争的資金で育てる。そんな役割分担がいい。

朝日新聞 2007年5月13日

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教育再生会議 親学と徳育は喫緊の課題

政府の教育再生会議で検討されている親学や徳育の充実に対し、一部で異論が出されている。親学も徳育もこれからの教育改革に欠かせない課題だ。教育界のしがらみにとらわれない思い切った提言を期待する。

再生会議は当初、親学について連休明けに「保護者は子守歌を歌い、おっぱいをあげ、赤ちゃんの瞳をのぞく」「母乳が十分に出なくても、赤ちゃんを抱きしめる」「授乳中や食事中はテレビをつけない」という内容の緊急提言を行う予定だった。

しかし、これに伊吹文明文部科学相が「人を見下したような訓示や教えは適当ではない」などと苦言を呈し、政府・与党からも、参院選を前に働く母親らの反発を招きかねないとする懸念の声があがった。このため、緊急提言は見送られた。「親学」という言葉への抵抗もあったとされる。

学校現場では、給食費未納問題に見られるような責任感や規範意識の欠如した親が増えている。保護者会を開いても、親同士がおしゃべりに夢中で、学級参観が成立しない。運動会で親が酒盛りをしたまま、あとかたづけをしないで帰る。こうしたケースが増え、「保護者崩壊」ともいわれる。

昨年暮れに成立した改正教育基本法は、家庭教育の充実をうたっている。再生会議でも、子育てに関する具体的な指針を示すべきである。

道徳教育について、中央教育審議会会長の山崎正和氏は先月下旬の講演で「個人の意見」と断りつつ、「教科書を使い、試験をし、採点をするという教科の範囲の中では無理がある」「現在の道徳教育も要らない」などと述べた。さらに、「道徳は教師が身をもって教えることだ」とした。

すべての教師が身をもって子供に道徳を教えられるような大人であれば、道徳教育は要らないかもしれないが、現実はそうではない。

現行の道徳の時間は昭和33年に設けられ、小中学校で週に1時間行わなければならないとされるが、日教組の反対闘争もあり、形骸(けいがい)化している。

再生会議は(1)数値評価をしない(2)教科免許を設けない−でほぼ合意した。通信簿での評価は無理にしても、貴重な道徳の時間を実りある授業にするための有効な方策が急務である。

産経新聞 2007年5月17日

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平和主義を進化させよう 国連中心に国際協力拡大を

憲法は今日、施行60年をむかえた。安倍晋三首相は任期中の改憲を唱える。「占領軍の影響下で制定された」憲法に強い違和感を表明し、愛国心が育たず家族のきずながうすれるなど、改憲しなかった弊害が出てきたという。そして「戦後レジーム(体制)からの脱却」を主張する。

危なっかしい言葉だ。戦後の繁栄は米国の「押し付け憲法」に発する。この皮肉に満ちた戦後史をなんとか修正したい。自前の憲法にしない限り、日本人としての誇りが十全にならない。そういう考えかと思われるが「戦後レジームからの脱却」とはあまりに観念過剰で書生論じみている。もっと落ち着いた言葉で憲法問題は語りたい。

憲法施行からの60年は長い時間だ。人間で言えば還暦。日本と国際社会を取り巻く環境は、憲法制定当時とくらべ激変した。

憲法の拡大解釈はもはや限界で、素直に読んで分かる憲法にしないと、国民自身が憲法を冷笑するようになると心配する声がある。あるいは、憲法の「成功体験」が大きすぎて、日本人の平和観と国際常識がずれてきたと言う人もいる。そうした点を含め、憲法に制度疲労がないか点検するのは時宜にかなっている。

冷戦終結後、国家間の戦争は減ったが、米国は「テロとの戦い」で単独行動主義に傾いている。北朝鮮は核武装に走り日本にとって最大の脅威となった。台湾情勢も不安定。中国はことあるごとにアジアの超大国としての潜在力を誇示しようとする。

日本の進路は難しい。政府は日米同盟の強化しかないという。自衛隊のイラク派遣は国連決議に基づく建前ではあるが、実態は対米協力の意味合いが濃い。数年前には考えられないことが憲法の枠内で実行されている。

それでも、憲法9条の制約は依然強い。自衛力は「必要最小限度」に限定され、他国との「武力行使の一体化」は違憲である。改憲論の側はこれでは日米同盟の強化、とりわけグローバルな展開ができず、北朝鮮の核に対する抑止力にも問題が生じるという。

だが、北朝鮮問題に対処するため、あわてて改憲する必要があるのだろうか。米国に向かうミサイルを日本周辺の自衛艦が撃ち落とせるかなど、集団的自衛権の行使にからむ問題が提起されている。

危機感は常に持っていなければならないが、現行憲法の認める個別的自衛権の範囲はかなり広い。北朝鮮の脅威に対処するのに十分な柔軟性があるのではないか。そして、なにより、6カ国協議の枠組みによる外交努力の問題だ。

私たちは、憲法の原理である国際協調主義をどのように「進化」させるかを、憲法問題を考える出発点としたい。日本は日米同盟を重視しつつも、国連中心主義の原点に立ち返る必要がある。

国連決議で正当性が与えられていれば、国連の承認する集団安全保障活動に、より積極的に協力していくべきだ。国連安全保障理事会の常任理事国入りの主張に対する正当性を高めることにつながる。

それはまた、日米協力に関して日本の選択肢を増やすことになる。より国益に沿った対米協力を可能にする。カナダは米国のイラク派兵の要請を断ったが、対米関係は悪化していない。アフガニスタンの国際治安支援活動に貢献をしているからだ。

国連加盟国が安保理決議に基づき集団で武力行使する「集団安全保障」と、個々の国が同盟国を守るため武力行使する「集団的自衛権」とは、まったく別の概念だ。混同して議論されている。

現行憲法の下でも可能な国際協力は多い。国連平和維持活動(PKO)も「集団的自衛権」とは切り離して考えるべき国連の活動だが、「集団的自衛権」の解釈による制約が課せられている。それもあって、日本の参加人員は昨年2月現在69位。欧米諸国、中国などと比べ貢献度は低い。

非軍事的な協力も十分ではない。世界一だった政府開発援助(ODA)も英国に抜かれ3位に転落、さらに順位を下げそうだ。非政府組織(NGO)への支援や政府との連携強化などもこれからだ。

日本も国際社会の一員として世界をより安全にする責任を分かち持っている。ただ、PKOにしても重火器を用いて平和を強いる「平和強制型」など多様化し、危険の度合いが増している。どこまで国際協力に踏み込むか議論を尽くさなければならない。
そのうえでの改憲論議だろう。改憲するまでもなく一般法の制定で足りるかもしれない。あるいは、憲法解釈の変更で対応するのがよいかもしれない。どうしても必要なら、憲法に修正条項を付け加えるという考え方もあるだろう。

私たちは「論憲」を掲げ憲法の総点検を行ってきた。憲法に不都合があれば改憲も否定しないという立場だが、結論を急ぐ必要はない。改憲手続きを定めた国民投票法案は審議中だが、与党案では改憲の国会発議まで短くとも3年の猶予を置くことになっている。この期間をまさに論憲を深めるときとしたい。

毎日新聞 2007年5月3日

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憲法施行60年 歴史に刻まれる節目の年だ

現在の憲法が1947年に施行されて60年。2007年という年は、憲法が単に還暦を迎えたというにとどまらず、制定以来の戦後の憲法の歴史の中でも、極めて重要な一歩を刻んだ年として記憶されるだろう。

憲法改正の手続きを定める、与党の国民投票法案が、今国会中に成立することが確実になっている。新たな時代の指針となる新憲法制定へ、不可欠な法的環境が整備されることになる。

憲法96条には憲法改正条項がある。だが、これまで、実際に憲法を改正するための手続きに関する法律がなかった。

◆改正手続き法が成立へ◆
国民投票法案は、1953年に、当時の自治庁が法案化に着手したことがあるが、閣議決定にも至らず、その後、提起されることはなかった。保守、革新の政治、イデオロギーの対立が続く中で、政府、自民党も政治争点化するのを避けたためだ。

憲法の付属法である国民投票法は本来、憲法制定の際に作っておくべきものだ。憲法の欠陥を放置してきた長年の立法府の“不作為”がようやく解消されるのは、画期的なことである。

冷戦終結と、その後の国際社会の変容、55年体制の崩壊と護憲勢力の中核だった社会党の衰退、日本社会の急激な変化など、90年代以降の内外の大きな歴史のうねりが、その背景に見える。

国民投票法の成立は、新憲法への具体的な動きを促進するだろう。

国民投票法は、国会法を改正し、衆参両院に、2000年に設けられた憲法調査会に代わって、憲法審査会を設置することも明記している。公布後、早急に憲法審査会を発足させるべきである。

憲法審査会は、憲法改正原案の審査や発議、提出の権限を持つ。だが、昨年暮れの与党と民主党の協議を踏まえ、公布後、法施行までの3年間は、そうした作業はしない、とされている。

◆審査会の論議を進めよ◆
国会の憲法改正発議には衆参両院の総議員の3分の2以上の賛成が必要であることを考えれば、そうした丁寧な手法は大事なことである。

だが、改正原案の提出や審査はともかく、その骨子や要綱の論議は、可能であるし、ぜひとも進めるべきだ。

既に、自民党は条文化した「新憲法草案」を公表し、民主党も改正の基本方向を示す「憲法提言」を提示している。「加憲」を掲げる公明党も、新たな人権の明記などの検討を表明している。

時代の変化が、国、社会の基本法である憲法の改正を迫っているという共通の認識があるからこそだろう。

にもかかわらず、憲法問題で与党と民主党が対立するのは解せない。

安倍首相は、改憲を棚上げしてきた歴代内閣の姿勢から転換し、憲法改正を政権の最重要課題と位置づけている。それには民主党との共同歩調が必要だ。

民主党の小沢代表は、野党選挙協力のために、“護憲”の社民党に配慮しているのだろう。だが、小沢代表は元来、積極的な憲法改正論者のはずだ。

憲法改正の具体的な論点は、既に明確になっている。憲法のどの部分が問題なのか。どう変えればよいのか。改正原案の要綱策定へ、論議を煮詰めることが憲法審査会の責務となる。

憲法制定時には想像もできなかった社会の変化に伴い、環境権、プライバシー権、犯罪被害者の権利など、新たな人権の規定が必要とする考えは、自民、民主両党に、ほぼ共通している。あいまいな「公共の福祉」の再定義や知的財産権の明記なども同様だ。

しかし、憲法改正の核心は、やはり9条にある。

北朝鮮の核兵器開発や中国の軍事大国化による日本の安全保障環境の悪化や、イラク情勢など国際社会の不安定化に対し、現在の9条のままでは、万全の対応ができない。日本の国益にそぐわないことは明らかだ。

自民党の新憲法草案は、自衛軍の保持、自衛軍の国際平和協力活動などを明記している。集団的自衛権については明記していないが、行使できるとしている。民主党も、集団的自衛権の限定的な行使を容認している。

建設的な9条論議が可能な基盤は、ある程度できているのではないか。

◆自衛権解釈変更の時だ◆
集団的自衛権については、「持っているが行使できない」という自己矛盾の政府解釈を変更すべきだ。

日本を守るために活動している米軍が攻撃されているのに、憲法解釈の制約から、近くにいる自衛隊が助けることができないのでは、同盟など成り立たない。日本の安保環境や国際情勢の変化が日米同盟の強化を迫っている現状を見れば、憲法改正を待つことはできない。

安倍首相は先に、有識者による「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」を設置した。同盟国を攻撃するミサイルのミサイル防衛(MD)システムによる撃破など、4類型について、現行憲法の下で可能かどうかを検討する。

いずれも、集団的自衛権の行使に当たる恐れがあるとされてきた事例だ。

重要なのは、首相が、「集団的自衛権の行使も含めて憲法の整理をしなければならない」と明言していることだ。政府の憲法解釈見直しへの意欲をにじませたものだろう。

日米同盟を基盤とする安保政策や国際平和活動の展開の桎梏(しっこく)となってきた集団的自衛権の問題を打開すべき時だ。その観点からも、07年は、戦後憲法史に画期的な1ページを開く年となりうる。

讀賣新聞 2007年5月3日

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還暦の憲法を時代の変化に合う中身に

 施行60周年となる節目の憲法記念日を迎えた。折しも今国会では憲法改正の具体的な手続きを定める国民投票法案の成立が確実な情勢になっている。公布から3年たてば、国会が憲法改正案を発議できるようになる。戦後の民主主義の礎となった現行憲法の意義を改めて確認しながら、英知を集めて、時代の変化に合わせた新しい憲法を考えていくときである。
国民がつくる初の憲法
 日本経済新聞社の世論調査で、憲法を「改正すべきだ」と答えた人は51%となり、「現在のままでよい」の35%を16ポイント上回った。衆参両院の憲法調査会がそれぞれ報告書をまとめた2005年4月に実施した世論調査結果と比べると、「改正すべきだ」が3ポイント低下する一方で「現在のままでよい」は6ポイント上昇した。憲法改正が具体的な政治日程に乗り始めたことの影響だろうか、慎重な意見がやや増えたのが特徴だ。
 悲惨な戦争の記憶が強烈に残っていた施行当時の国民の多くは、現行憲法の平和主義や国民主権、基本的人権の尊重などの基本理念に共感した。この憲法の下で、奇跡的な復興を成し遂げて世界第2位の経済大国となり、平和な国家を築いたことは、戦後の日本の誇りである。その「良き財産」を引き継ぎ、民主主義をより深化させた21世紀にふさわしい憲法をつくることが、今を生きる私たちの責務だろう。
 国民投票法案は本来、憲法制定に合わせて整えておくべき法律だった。しかし改憲派と護憲派が激しく対立した時代には、国民投票法案の議論すら封印されていた。参院選への思惑が絡み、国民投票法案の衆院段階での採決では、自民、公明の与党と民主党の間に亀裂が入ったが、中身は3党間でほぼ共通認識ができていた。国民投票法案の成立は、冷静に憲法改正を議論できるまで政治環境が熟成した証しとも言える。
 国民投票法案が整い、憲法改正案を現実に発議できるようになる意義は計り知れない。明治憲法も現行憲法もその制定プロセスに、国民は直接、かかわれなかった。憲法改正案が発議されれば、私たちは国民投票で意思を示すことができる。日本の歴史上初めて国民が憲法をつくる作業に参加する道が開かれる。
 自民党は結党50周年の2005年に、政党として初めて、条文化した新憲法草案をまとめた。9条を改正して自衛軍の保持と国際貢献を明記するとともに、憲法改正の国会発議の要件を衆参両院の過半数に緩和することなどを盛り込んだ。
 民主党もこの年に憲法提言をまとめたが、前原誠司氏から小沢一郎氏に代表が交代してから、議論が進んでいないのは残念だ。条文を追加する加憲を唱える公明党も具体案づくりが遅れている。憲法改正案の発議には衆参両院で3分の2以上の賛成が必要で、自民、公明、民主3党の協議が不可欠になる。国民投票法案の成立を機に民主、公明両党は精力的に作業を進めてもらいたい。
 憲法施行時と比べると、国際社会での日本の存在感は格段に増した。北朝鮮の核開発やミサイルの脅威に直面するなど安全保障環境も激変している。憲法9条に関しては、政府が憲法解釈で禁じている集団的自衛権の行使を認める場合に、どこまで踏み込むのか。安全保障基本法の検討作業などを通じて、自衛隊の国際貢献のあり方や活動範囲の議論を詰める必要がある。
 中央集権的に運用されている国の姿を改め、地方自治体が競い合うことで活力を生む地方分権型社会への転換も避けて通れない。地方への税源移譲などを進めるには、憲法ではっきり根拠を定めた方がいい。地球温暖化対策が人類共通の課題となり、改めて環境権への関心が高まる。
欠落している参院改革
 私たちはこれまでに憲法改正の方向を提案してきた。主な柱は(1)自衛権ないし自衛の組織保持を明記し、併せて文民統制の原則や海外派遣の際の国会承認を盛り込む(2)地方自治の規定を充実させ、国と地方の役割を明確にする補完性の原理や課税自主権を盛り込む(3)環境権及び環境保全責務、プライバシーの権利、知る権利を明記する――などである。
 各党でもこれらのテーマの検討は進んでいるが、これまでの憲法改正の議論で決定的に欠落しているのは参院改革の視点だ。
 現行憲法の大きな欠陥は、参院が衆院とほぼ同等の強い権限を持っており、下院(衆院)に基礎を置く議院内閣制の原則と矛盾していることである。現在、与党は参院で否決された法案を衆院で再議決できる3分の2以上の多数を占めているが、それが続く保証はない。衆院選でのマニフェスト(政権公約)に基づく政権運営を定着させるには、参院改革が要る。参院の権限と規模を縮小し、衆院優位の原則を確立することの必要性を重ねて強調したい。

日本経済新聞 2007年5月3日

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憲法施行60年 日本守る自前の規範を

新しい国造りへ宿題果たせ
昭和22年のきょう、現行憲法が施行された。“平和憲法”としての側面が強調されてきたが、この60年間、憲法が国や国民の生命、財産を守るという国家の基本的な務めを果たしてきたとは到底言い難い。

この間、日本が直接、戦争に巻き込まれ、憲法と現実の乖離(かいり)が表面化することは幸運にもなかった。しかし、実際には日本の権益や国民の安全が脅かされ続けてきた。

新たに判明した2児拉致事件が示すように、北朝鮮による拉致事件はさらに広がりを見せている。日本国内で公然と工作活動が行われてきたことには、戦慄(せんりつ)をさえ覚える。

戦時でなくても、日本の国民の人権や国家の主権が侵害されてきたことは明らかであるのに、政治や行政はどうしてこのような国家によるテロ、犯罪を防げなかったのか。無為に見過ごしてきたとしか言いようがない。

近年は、東シナ海の石油天然ガスなどの資源権益を中国に脅かされる事態が進行しており、縄張りを守るかのように中国海軍の艦船が出没する。

日本が開発中止を求めていたガス田の一つ「樫」(中国名・天外天)について、中国は昨年の天然ガス・石油の生産量を発表した。そこまでされても、日本側はガス田の試掘権を日本企業に与えながら、権利行使を積極的に促そうとはしていない。

4月24日に開かれた自民党の「新憲法制定推進の集い」でノンフィクション作家の上坂冬子さんが、昨年8月に北海道根室沖で起きたロシア当局による日本のカニ漁船銃撃・拿捕(だほ)事件に言及した。乗組員1人が死亡し、船長ら3人が連行された事件だ。日本政府は当初、領海内で起きた事件だとしてロシア側に抗議したが、結局は漁船に非のある密漁事件として処理した。

≪「国柄」が問われている≫
上坂さんは、「犠牲者側が補償や謝罪を受けたという話は聞いていない」と憤り、「国の姿勢がこんなことでありながら、みんなで新憲法を盛り上げようなんて言えた柄か」と、自民党や政府を痛烈に批判した。

一方、同じ会合で安倍晋三首相は、「私たちの時代にこそ宿題を果たさなければならない」と述べた。憲法改正は教育再生と並ぶ新しい国造りの両輪であり、それを政治日程に乗せる姿勢は重ねて評価したい。

しかし「戦後レジーム(体制)」を脱却した後にやってくる「美しい国」とは、どういう国柄を持つのか。平和と安全について、政府を信頼してもよい国なのか。首相はもっと具体的に説明すべきだ。

今年1月に防衛庁が省への昇格を果たし、自衛隊の海外活動が本来任務に格上げされた。憲法改正手続きを定める国民投票法案も、今国会で成立にこぎつけるところまできた。

≪改正の核心となる9条≫
憲法改正が新たな段階を迎えるわけだが、改正の核心は戦争放棄と戦力不保持、交戦権の否認を明記した9条である。国の防衛は何も考えるな、とさえ読めてしまう内容だ。

北朝鮮による弾道ミサイル開発や核実験は、日本の安全保障環境を一気に悪化させた。日米両国が協力し、ミサイル防衛(MD)システムを構築することが死活的に重要となった。

ここでも、米国向けのミサイルを日本が迎撃することが許されるかという9条の議論が発生する。集団的自衛権を保有しているが行使できない、という政府の憲法解釈があるためだ。

しかし、集団的自衛権は行使を含めて認められると考えるべきである。日米安保体制も、それを前提に構築されている。憲法条文上、あいまいさがあるとするなら、まさに改正により明確にすべきポイントといえる。

日本占領中の連合国側が、日本の弱体化を図った時代に、現憲法は生まれた。当時は、激しいインフレの中で労働争議が頻発し、社会は騒然としていた。悲惨な戦争の経験から、恒久平和を願う国民が、結果的にこの憲法を受け入れたのも事実だ。

しかし、時代は大きく変わった。新しい酒には新しい革袋が必要だ。そこへ自立した国家意思と国や国民を守る気概を込めることも欠かせない。政治家と国民がともに憲法を考えるため、この記念日を好機としたい。

産経新聞 2007年5月3日

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「親学」 親の教育も緊急の課題だ

「親学」という耳慣れない言葉が注目されている。若い親たちに子育ての知恵や楽しさを学んでもらい、家庭教育の重要性を自覚してもらおうというものだ。政府の教育再生会議も親学を進める緊急提言を検討している。

子供をしっかり抱いて子守歌を聞かせたり、早寝早起きを守らせることの大切さなど、昔からの子育てが核家族化のなかで、祖父母から親、子供へと十分に伝わらなくなっている。

逆に学校の参観にきた若い母親が廊下でたばこの吸い殻を捨てる。きまりを守らない子供を廊下に立たせたり携帯電話を取り上げたりすると親が学校に抗議する。給食費を払わない。公共心のない親の問題は目に余る。

家庭の教育力低下は危機的といっていいほどだ。昨年12月に発足した民間の「親学推進協会」の会長を務めるエッセイストの木村治美さんが「学校教育がどんな対策をとっても家庭がまともでなければ解決しない」というように、教育再生には親の教育が先決だという思いは多くの人に共通する。

すでに民間や教育委員会が、親学の講座を開くなど、各地で親学推進の活動が広がりつつある。京都市のように乳幼児の定期健診を利用してボランティアが絵本の読み聞かせをし、親子のふれあいや子育ての楽しみ方を伝授する工夫もある。

子守歌など昔から引き継がれる子育ての知恵は、最新の脳科学などでも子供の心の成長に大きな影響があることが指摘されている。子供の問題行動などは学齢前の親のしつけや対応が鍵となっていることが多い。

再生会議では、高校などで親学を充実することも検討している。家庭科などの教科書では、ジェンダーフリー(性差否定)を背景に、伝統的な父親、母親の役割や家族の絆(きずな)を軽くみるような記述や、女性の社会進出のなかで子育てを負担として描くような記述がある。命の重さや家庭の大切さを実感できる授業をしてほしい。

再生会議の緊急提言は、いじめ問題についてのアピールに続くものだ。家庭教育のマニュアル化につながるなどという異論もあるが、親の責任は重く、緊急性は高いはずだ。地域の人たちも多く参加し、子供や親を見守り支援、協力をしていきたい。

産経新聞 2007年4月30日

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全国学力調査―格差を広げないように

小学6年生と中学3年生を対象とした全国学力調査が行われた。学年のほぼ全員が参加する調査は43年ぶりである。

各地の学力や学習の状況を調べ、教育施策の良しあしを検証する。教育委員会や学校が教育の成果と課題をつかむ。この二つが文部科学省の掲げる目的だ。

しかし、同じような目的を持つ学力調査は、すでにいくつもある。

全国の小中学生の約45万人、高校生の約15万人を抽出して実施する大規模な調査が数年おきに繰り返されてきた。

教育委員会の独自の調査も広がっている。05年度は38の都道府県と12の政令指定市でテストが実施された。その3分の2は学年全員が対象である。

このうえ、新たなテストが必要なのか。私たちはこれまで社説で、そう疑問を投げかけてきた。

テストの結果がどう使われるか。それも依然として心配だ。

今回の調査にあたり、文科省の専門家会議は、市町村と学校の序列化や過度の競争をあおらないよう配慮を求めた。

文科省は結果を都道府県ごとに公表するのにとどめる。しかし、学校ごとの成績を含む詳しい結果は、市町村の教育委員会と学校に伝えられる。それを市町村や学校が公表するかどうかは、それぞれの判断にゆだねられた。

子どもの通う学校や地元の市町村はほかと比べ、どうだったのか。知りたいと思う保護者や住民は多いに違いない。

大阪府枚方市の学力テストで、大阪高裁は今年1月、学校ごとの成績の公開を求めた住民の訴えを認めた。今回の調査でも公開請求を拒むのは難しかろう。

そもそもテストをした以上、そのデータを役所や学校だけにとどめておくのは無理がある。結果は保護者や住民に知らせるのが筋だ。

とはいえ、公開されれば、成績の良い学校と悪い学校がはっきりする。学校選択制が採用されている地域では、子どもが集まる学校と敬遠される学校に二極化し、学校間の格差が広がる。こんな事態を考えておく必要がある。

安倍首相肝いりの教育再生会議は、学校選択制を拡大し、子どもをたくさん集めた学校には予算を手厚くすることを提言する方針だ。

競争が学校の工夫や努力を引き出す面はある。しかし、学校を競い合わせ、成績のいい学校に予算を配分すれば、それで問題が解決するほど学校や子どもの置かれている状況は生やさしくない。

まず、成績の振るわない学校の原因をきちんと探る必要がある。そのうえで、格差を縮めるために、手を打つことが大切だ。たとえば、優秀な教師を投入したり、教員を増やしたりすることが考えられる。それは各地の教育委員会の仕事だが、本当にできるかどうか

文科省は毎年、全国で学力調査をする方針だ。だが、2度目の調査は、功罪を見きわめてからでも遅くはない。

朝日新聞 2007年4月25日

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学力テスト 序列化の具にしてはいけない

小学6年生と中学3年生の全員を対象とした文部科学省の全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)が24日実施される。全員参加方式は43年ぶり。かつての学力テストは地域、学校の成績競争で混乱を起こし廃止されたが、今回も懸念はぬぐいきれないままの「復活」となる。

対象約240万人、費用77億円という国内最大規模のテストは、学力低下論議を発端に、全国的なデータをとるために行われる。毎年実施の方針だ。

教科は国語、算数(数学)で、「知識」と「活用」の2種類に分け、記述問題も織り込む。参加は任意で、不参加は私立が約4割、公立は愛知県犬山市教育委員会のみの見込みだ。

成績公表について文科省は都道府県レベルにとどめるというが、市町村や学校が通知された自らの成績を公表したり説明することはできる。実際、各自治体などで独自に行われているテストでは学校評価の材料などにするため成績公表を望む声が少なくないという。

1956年に始まったテストは当初一部の子供の抽出方式だったが、61年に中学2、3年全員対象に切り替えた。「差別・選別を生む」と日教組は反発し、反学テ闘争を展開。一方、自治体や学校の競争があおられる結果となり、香川、愛媛県が互いに「学力日本一」を標ぼうしたり、平均点が低い県では「学力向上推進」を掲げたりと過熱した。テスト準備の補習も行われ、成績の悪い子を当日休ませる学校まで現れた。この弊害に、文部省(当時)は全員参加方式は64年をもってやめた。

平均的な学力状況を見るには、抽出調査で足るというのが専門家の見方だ。確かに全員参加方式は、今回目的とする地域や学校独自の細かな改善課題を探れるかもしれないが、かつてのように点数レースにも転化する。防ぐには、文科省や教委は今回なぜ全員参加なのか、結果をどう生かすのか、もっと具体的に説き、社会に共通認識を普及させる必要がある。

教訓はかつての学力テストの失敗ばかりではない。

79〜89年に国公立大学受験生に対して行われた5教科の共通1次学力試験は、広く基礎学力を見ることを目的とした。ところが、受験生の自己採点とその後の合格大学の分析から「偏差値ランキング」を生み出し、大学の「序列化」を進める皮肉な結果になった。

今回のテストをそんな物差しに化けさせてはならない。

学力に今ほど関心や論議が高まったことはない。教科知識の量の問題だけではない。学習意欲の低下や短絡的な言動などに不安な目が向いている。そうした意味で、今回のテストに併せて行われる子供たちの生活習慣や学習環境に関する質問調査は重要だ。教科学力と子供の日常がどうかかわり合っているか、深い分析を望みたい。

毎日新聞 2007年4月23日

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全国学力テスト 学力の向上につなげたい

全国学力テストが43年ぶりに復活し、24日に小学6年と中学3年約240万人を対象に国語と算数・数学が行われる。これを有効に使い、学力向上につなげてほしい。

学校現場では、テスト成績の公表を「競争」や「序列化」につながるとして嫌う雰囲気が根強い。全員参加の学力テストは、昭和30年代に中学2、3年の全生徒を対象に実施されたが、日教組がテストをボイコットするなど「学テ」反対運動が起き、子供たちの学力の実態について全国的な把握が行われなくなった。

文部科学省は、学習指導要領の理解度を調べるため、昭和56年度から「教育課程実施状況調査」として抽出方式による学力テストを再開したが、対象は全体の数%〜10%程度にとどまり、全員参加には遠く及ばなかった。しかし、学力テストは子供たちの学力の実態を知る重要な手がかりだ。

3年前に公表された経済協力開発機構(OECD)の調査など国際比較調査では、世界トップレベルと信じられてきた日本の学力低下が裏付けられ教育界は大きなショックを受けた。

「ゆとり教育」の弊害が懸念されるなか、自治体が独自に学力テストを実施するケースが増えている。子供たちの学力を知り、向上策を探らなければという危機感と要望は強いのだ。今回の参加の判断は教育委員会などに任されたが、地域独自の教育を進める愛知県犬山市教委を除き、すべての国公立と、私立の約6割が参加する。

相変わらず一部からは反対が出ている。しかし、全国学力テストでは全国平均と比べて各学校、クラス、自分の学力がどういう状況にあるのかなど、抽出方式では知ることができない点が把握できる。

東京都では独自の学力テストを行い、区市町村別の成績を公表し、小金井市など上位の学力向上策は他校の参考になっている。文科省は今回の結果の公表を都道府県別成績にとどめるが、成績の良い学校の取り組みなど大いに参考にすべきだろう。

ペーパーテストと合わせて早寝早起きなど子供の生活や学習環境などの調査も行われ分析される。結果の評価を躊躇(ちゅうちょ)せずに行い、成績が悪ければ授業方法を見直すなど、各学校はこれを学力向上の好機とすべきだ。

産経新聞 2007年4月23日

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全国学力テスト 結果を教育改善にどう生かすか

小学6年と中学3年の全員、240万人が対象の大規模調査だ。学力低下に歯止めをかける教育改善策につなげたい。

国の全国学力テスト(全国学力・学習状況調査)が24日、一斉に実施される。

全員参加方式の学力テストは43年ぶりだ。昭和30年代、日本教職員組合は「能力主義による差別・選別だ」と、学力テストのボイコット運動を繰り広げた。教員に多数の逮捕者、処分者が出た。

自治体間でも「学テ日本一」が争われ、テストのための特訓授業が行われるなど過熱ぶりが社会問題になった。11年続いたが、中止された。

“再開”に当たって、文部科学省が調査結果の公表方法に様々な配慮をしたのも、そうした教訓からだろう。

国から調査・分析結果を受け取った都道府県の教育委員会は、具体的に市区町村名を明かして公表してはいけないことになっている。市区町村も、学校名を明示した結果公表はできない。各学校が保護者に結果を説明することは可能だ。

だが、これには、なお検討の余地があるのではないか。過度の競争や学校の序列化を招くのは好ましくないが、適度の競争意識は教育現場を活性化させる。

市区町村別データなどを公表し、上位の地域の教育方法を共有するやり方もあろう。学校ごとの結果についても、昨年の内閣府の保護者アンケートでは68%が「公表すべきだ」と答えていた。

「教育の改善に生かす」という本来の目的につながる公表方法にしたい。

国語と算数・数学で、それぞれ「知識」と「活用」の力を見る問題が出される。国際学力調査などで、読解力や文章表現力の低下が明らかになったため、答えを文章で記述させる問題も導入される。

結果の分析も国が行う。児童生徒の学習上の弱点を探って、改善方法を地域ごとに、具体的に示してやるべきだ。

採点や集計、発送・回収などは民間企業に委託される。同時に実施される勉強時間やテレビ視聴時間といった学習・生活状況調査の結果も民間の手に渡る。

プライバシー、個人情報管理の徹底は当たり前だ。万が一、外部への漏洩(ろうえい)や不適切利用などがあれば、テスト実施そのものへの批判も強まるだろう。

愛知県の犬山市教委は今回、全国で唯一、不参加を決めた。競争激化などを懸念してのことというが、全国との比較で地域の現状を検証するのも、教育行政の役割のひとつではないだろうか。

テストは来年以降も続く。調査する教科や対象学年の拡大が検討課題となる。まず、注目したいのは初回の結果だ。

讀賣新聞 2007年4月22日

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学習改革に学力テスト生かせ

子どもたちの本当の学力はどの程度なのか。「ゆとり教育」の下で学力低下懸念が広がったにもかかわらず、実はきめ細かなデータがなかった。それを求めるための全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)が24日に実施される。小学校6年生と中学校3年生の計240万人が対象だ。国語と算数・数学の問題のほか、生活習慣や学習環境なども尋ね相関関係を割り出す。

全児童・生徒を対象とする同様の学力テストは1964年度を最後に中止された。当時は点数競争の過熱を危ぶむ声があり、日教組も反対運動を展開したからだ。しかし近年は学力への不安が強まり、国際調査でもその一端が浮かび上がっていた。

そうした流れを踏まえれば、大規模調査で学力の実態を診断する必要性は高く、40年以上も昔の経緯にこだわるべきではない。文部科学省の対応はむしろ遅すぎたほどだ。

今後の大きな課題は、結果をどう使うかである。テストでは知識を問うだけでなく、知識を活用する力も測る。現在の指導方法やカリキュラムの問題点が浮かび上がるはずだ。それをまず何よりも学習の量と質両面の改革に生かし、公教育での学力底上げにつなげてほしい。

文科省は9月に国全体と都道府県ごとの結果を公表し、市町村や学校には個別のデータを提供する。扱いは現場に任せるわけで、分権尊重の立場からも妥当なやり方だろう。

問題は、現場が詳細をどこまで明らかにするかだ。文科省は学校名を明示した公表は避けるように求めているが、国が統制しすぎるのも地方の教育行政の幅を狭めることになろう。市町村や学校は、「学校ランキング」などが独り歩きしないように配慮しつつ、保護者への説明責任を果たす工夫をしてもらいたい。

テストは来年度以降も行われるが、今回は私立校の参加は約6割にとどまり、公立も愛知県犬山市が不参加だ。無理強いはせず、趣旨を理解してもらう努力を続けるべきだ。

残念なのは、一部でテスト向けのにわか勉強をさせているケースがあることだ。こうした傾向が強まれば、ようやく復活した大規模調査への反発が強まる恐れがある。関係者にはくれぐれも自重を求めたい。

日本経済新聞 2007年4月21日

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教育3法案―学校の再生になるのか

三つの教育関連法の改正案が、衆院で審議入りした。

国が地方自治体の教育委員会に指示できるようにする。教師の免許を更新制にし、不適格な教師を教壇から外す。学校では管理職や校長の補佐役を増やす。それらが改正案の内容だ。

安倍首相は答弁で「公立学校の再生は待ったなしだ」と述べた。

しかし、いまでも国は指導や助言を通じて教育委員会に大きな権限を持つ。国の顔色をうかがう教育委員会は少なくない。文部科学省は学習指導要領や教科書検定で教える内容も決めてきた。

それでも飽きたらず、地域の教育にいっそう口を出し、学校や教師をいままで以上に管理したい。そんな意図が感じられる。「学校の再生」につながるとは、とても思えない

戦後の教育の指針だった旧教育基本法には、時の政権の政治的な介入に歯止めをかける規定があった。安倍内閣のもとで成立した改正基本法で、その歯止めは弱められた。新たに定められた教育振興基本計画も、地方は国の計画を参考にしてつくることになっている

国が前面に出ようという教育基本法改正の方向をさらに固めようというのが、今回の教育3法の改正だろう。

教育委員会に対する指示や是正要求を認めるのは、地方教育行政法の改正案だ。いじめ自殺や必修科目の履修漏れで教育委員会がきちんと対応しなかった場合に発動する、と政府は説明する。

だが、実際には、もっと幅広く適用されるのではないか。それが心配だ。

そもそも、いじめ自殺は文科省の調査で長年「ゼロ」とされてきた。問題が表面化し、あわてて再調査した。履修漏れも文科省は知っていたのに手を打たなかった。自らの責任を棚にあげて教育委員会を悪者にしている面がある。

教員免許の期限を10年とし、講習の修了を更新の条件とするのが、教育職員免許法の改正案である。

教える力のない教師がいるのは事実だ。だが、全員の免許をいったん無効にする必要があるとは思えない。不適格な教師を外すには、すでに各地の教育委員会にある判定機関を活用すればいい。

学校教育法改正案では、新たに副校長や主幹教諭らを置く。学校で、これ以上管理職を増やすことに、どれほどの意味があるのだろうか。学校の教職員定数を増やさなければ、授業を受け持つベテラン教師が減るだけになりかねない。

同法の改正案では、基本法の改正を受けて、義務教育の目標に「愛国心」が明記された。国を愛せと画一的に教えることにならないか。その心配も依然として消えない。

いま教育に必要なのは、少人数学級を実現したり、学校や地域の創意工夫を生かせるようにしたりすることだ。

国が管理を強めるだけで学校がよくなるのか。論議を尽くしてもらいたい。

朝日新聞 2007年4月21日

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学力テスト 「ゆとり」の弊害変わらず

高校3年生約15万人を対象に行われた文部科学省の「教育課程実施状況調査」(学力テスト)の結果が公表され、一部では「ゆとり教育」での学力低下に歯止めがかかったとの報道も見られた。

しかし、果たしてそうなのか。平均点では確かに落ちてはいないが、理数系や古典では「合格ライン」を下回っている。学力低下の不安は依然消えていないとみるのが妥当であろう。

全国規模の学力テストは学力競争などへの批判で長く行われなかった。それが抽出方式で復活し、3年前に公表された前回の旧課程生徒の調査では、学力低下を裏付ける結果が出ていた。今回は学習量がさらに約3割削減された現行の学習指導要領で学んだ生徒たちが対象であり、極端な「ゆとり教育」の影響が注目されていた。

今回の結果については、「学力低下の批判や危機感から勉強した効果がでた」とみる専門家もいるが、学力が改善されたと喜ぶのは早計だ。とりわけ心配なのは、「この程度はできるはず」と合格ラインとして設けた予想正答率を下回った問題が理数系を中心に多かったことである。

数学では、球の体積や相似形の面積の出題で正答率は6〜7割の予想に対し3割にとどまった。どちらも旧課程では中学で教えていたものを「ゆとり」で高校に移した分野である。

国語では、「敬具」に対する頭語として「拝啓」などと答えられた生徒は4人に1人だった。古典では軒並み予想正答率を下回った。出題者側を「日本文化の土台にあると実感させる授業を」と嘆かせる結果にもなった。

記述式の無解答も多い。考える力を問い、学力の根幹といえる理数、国語力の不振は深刻だ。過去の国際比較調査で明らかになった思考力を問う問題など不得意分野はそのままだ。

上位と下位の「格差」も顕著だ。同時に行った意識調査では、塾通いなど学校以外でも勉強している生徒が増えた一方、全く勉強していない生徒も多く、意欲の差が広がった。

全児童・生徒が参加する「全国学力テスト」も、近く43年ぶりに小学6年生と中学3年生を対象に行われる。子供たちの学力の実態、課題を改めて把握し、「ゆとり教育」の見直しを進めなければならない。

産経新聞 2007年4月16日

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学力調査 「平均値」では見えてこない

全国の高校3年生のうち無作為抽出15万人を対象に行われた文部科学省の「高校教育課程実施状況調査」結果が出た。今の「ゆとり」学習指導要領で学ぶ生徒では初の調査で、旧指導要領下の調査との比較が注目された。

盛んな学力低下論議からいえば、大方は「学力は落ちているはず」ということだったかもしれないが、意外というべきか、平均的に見て落ちていないどころかわずかに改善の兆しさえあるという。

私たちは教育再生会議などが学力低下を理由に「ゆとり見直し」を急ぐのに対し、確かな分析や根拠を、と慎重さを求めてきた。その点で今回の調査結果がどのような意味を語るのか関心が集まるところだが、果たしてこのデータだけでは生徒たちの実像をどこまで映し出しているのか心もとない。

1990年代以降、高校は総合学科が登場するなど多様化が推し進められ、それまでにない新しいタイプの学校やコースが各地に設けられた。科目も多彩になった。

一方で、「学力格差」の開きも指摘され、このほど検定結果が公表された来春から使用の教科書でも本によって内容に「難易差」がはっきり出ている。実際、英語に片仮名を振ったり、小学校レベルのおさらいをするなどしないと学習指導が難しい学校もある。

こうして、高校の場合は小中学校に比べて各校の理念や性格、置かれた状況はかなり差異がある。それを無作為に一緒くたにし、統一ペーパーテストの正答率で全体の平均値を出す。統計的意味は確かにあるが、それで個々の学校や現場の先生、生徒にいかほど役立つデータとなりうるのだろうか。

またテストと併せて行われた質問で「勉強が好きだ」が2割を超え、「勉強は大切だ」は8割台でいずれも前回より「増加傾向」といい、報告の調子は明るい。

だが高校の「勉強」とは何か。学校教育法は高校で学ぶ目標を、社会的使命を自覚して個性に応じて将来の進路を決定し、一般的な教養を高め、専門的な技能に習熟する▽社会について広く深い理解と健全な批判力を養い、個性の確立に努める−−などと掲げる。

この理想は横に置くとしても、実際に10代後半の若者たちがそれぞれ持つ価値観や関心、学びの手法、目標はひとくくりにできるものではなく、「勉強が好きか、嫌いか」のように平板な質問は高校の生徒たちの多様な志向をくみとることにはならない。

今年度から全国の小学6年、中学3年の全員を対象に国語、算数・数学の力を測る学力テストが行われることになり、今月24日に実施される。学力低下論を背景に提起されたもので、結果を地域や学校で活用するという。

しかし、学力テストは万能ではない。活用法を誤れば、自治体や学校の成績ランキングや「格付け」が残るだけにもなりかねない。

何のためにするのか。これによって何をくみとり、どう生かして状況を改善するのか。広く、深く論議を詰め、共通認識を分かち合わなければならない。

毎日新聞 2007年4月14日

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道徳を教科に・数値で内面の評価はできない

「道徳」を、国語や算数などと同じ「教科」にする――。安倍首相直属の教育再生会議は5月の第2次報告に、そんな提言を盛り込む方針だ。

今は小、中学校に週1回の「道徳の時間」がある。文部科学省が作った「心のノート」、民間の教材会社や教育委員会作成の副読本、ビデオなどを使って授業をしている。試験はなく、5、4……といった数値評価もしていない。

それを学習指導要領上、小中高校の正式な教科にしよう、というのだ。

「道徳指導に熱心でない教師がいる。教科の意識を持てば、しっかり教えてもらえるだろう」。教科化の理由を、再生会議はこう述べる。すべての児童生徒がきちんとした道徳観、倫理観や規範意識を学ぶことに異論はない。

2000年、小渕―森内閣の「教育改革国民会議」も同様の提言をした。「小学校に『道徳』、中学校に『人間科』、高校に『人生科』などの教科を設け、専門の教師や人生経験豊かな社会人が教えられるようにする」という内容だ。

当時は、新しい学習指導要領の実施が1年半後に迫っていたため、道徳の教科化は具体的には検討されなかった。

ここに来て、再び再生会議が議題にしたことの背景には、安倍首相の提唱する「美しい国」づくりがある。折しも、学習指導要領は改定作業の真っ最中だ。提言内容によっては、そこで道徳の教科化も論議される可能性がある。

教科になったら、成績評価はどうするのか。再生会議では、数値による評価はしないことでメンバーの意見が一致したという。妥当な結論である。

今の道徳教育は、細分化された「徳目」や知識を教え込むものではない。社会生活の基本となる道徳的価値、自分自身のあり方・生き方、他人や社会とのかかわり方、規範意識などを自覚させ、道徳的実践力を身につけさせるものだ。

進み具合は児童生徒一人一人で違うだろうし、内面の価値観を教師が数値で評価すること自体、困難だろう。

「総合学習」や、東京都が今春から高校で必修化した「奉仕」では、記述式評価が採用されている。そうした方法も視野に入れつつ検討してはどうか。

教科書について、再生会議は「多様な教科書を用意して、選べるようにする」方針だ。道徳教員の資格に関しては、今後の議論だが、「地域の人も、保護者らも道徳の教師になりうるのでは」としている。地域の力を、ぜひ活用したい。

道徳の時間が設けられてほぼ半世紀がたつ。より良い道徳教育に向けて、議論を深める好機ではないか。

讀賣新聞 2007年4月11日

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