地方紙社説(2007年6月)


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土曜日の授業 根拠ない提言は混乱招く

教育改革関連三法が成立し、昨年末の改正教育基本法の成立からまた一歩、教育に対する国家統制の色彩が強まった。教育の地方分権化を遮る国の権限強化の下で、教育改革の焦点は、学習指導要領改定での「ゆとり教育」の見直しなどの各論に移っていく。

文部科学省の中央教育審議会の審議に先行した、教育再生会議の安倍晋三首相への提言(第二次報告)は、国の介入を強めようとする意図の表れといえよう。提言にはゆとり教育の根底を覆す内容が盛り込まれた。「授業時間数の10%増に向け、土曜日の授業を可能にする」という内容である。

国際的な学力テストの結果で日本は低迷したから、その対策として授業時数を増やそうとする一見分かりやすい理屈ではある。しかし、学校現場や教育委員会関係者の中からは、子どもの実情から離れた「乱暴な提言」との声が多い。このまま推し進めれば現場から強い反発を招くのは必至だ。

現行学習指導要領が実施された二〇〇二年度から学校週五日制となり、標準の授業時数確保が課題になった。各校は平日の時数を徐々に増やし、今では小学校高学年、中学校のほとんどが週二十八コマ。週三回が六コマ、残り二日のうち一日は委員会やクラブ活動があるため、五コマの日は実質一日だけという実情である。

校長の中には、土曜日の授業は平日の過密化を緩和するために必要との声はあるが、平日を現状維持にして、10%(週二〜三コマ)増分を土曜日にやることに賛成の声はほとんど聞かない。

カリキュラム編成権は各校の校長にあり、教育再生会議の提言は表面上は強制ではない。だが、これ以上の平日の時数増を限界とみる学校にとって、夏休みを短くしても暑さの中では学習効果は期待できず、結局は土曜日授業を選択せざるを得なくなろう。

しかし、土曜日授業が本当に必要なのだろうか。週五日制での小中学校の年間授業日数は二百日前後で国際的な水準にある。中教審の審議でも五日制は「国の仕組みとして維持すべき」との意見が多かったし、国立教育研究所の調査官も「時数を増やせば学力が向上するという単純な問題ではない」との見解を示していた。

国際学力調査トップのフィンランドは、学校によっては日本より授業時数が少ない。同国の教育が日本と違うのは、一学級十人台後半と少人数学級が保障され、学習の遅れた子をフォローする学力の底上げ策が充実していることである。教師には高い専門性が要求され、尊敬される職業との見方が社会全体で定着している。

教育再生会議の提言には学力の向上につながる根拠がない。国の権限強化の流れで一方的に従わせようとするなら、学校現場に疲労と混乱をもたらすだけだろう。

神奈川新聞 2007年6月28日

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教育3法成立 現場の活力そぐ権限の乱用

安倍晋三首相が「最重要課題」とした教育再生の象徴ともなる教育改革関連3法が成立した。

3法は、学校教育の目標などを定めた学校教育法、国と地方のかかわりを規定した地方教育行政法、新たに免許更新制を盛り込んだ教員免許法で、いずれも公教育の骨格部分を規定するものだ。

今回の改正ではそれぞれ、教育への国の関与に大きな道を開いたのがポイントだが、国が関与を強めれば教育がよくなるというものではない。学校現場の事情を飛び越えて国が権限を振りかざすようなことになれば、現場の活力がそがれることは避けられない。

参院選の目玉づくりという政治的意図優先の審議では、法改正と課題解決がどう結び付くのかという肝心の議論が置き去りにされた。危うい改革との印象を免れない。

学校教育法の改正では、改正教育基本法を受けて目標に「規範意識」「伝統と文化の尊重」「国を愛する態度」などの理念が新たに盛り込まれた。「歴史について正しい理解に導き」「生活を明るく豊かにする音楽」という表現もある。

だが、何が「国を愛する態度」なのか、何が歴史の「正しい理解」であり、「明るく豊かにする」音楽なのか。教科書検定などを通して国の解釈を押しつけるようなことでは、伸びやかな発想など学校現場から消えてしまう。

中央教育審議会の山崎正和会長は「日本の歴史はかくかくしかじかであると国家が決めるべきではない」と学校での歴史教育は不必要との考え方を示す。思想自由の時代に、国が一定の見方や価値判断を押しつけるようなやり方はそぐわない。

学校評価についても「文部科学大臣の定めるところにより評価を行う」との条文が盛り込まれている。文科相の価値観で学校評価となれば、地域の特性や学校の創意工夫が骨抜きとなる事態は避けられない。

地方教育行政法改正では、文部科学相に教育委員会に対する「是正要求」「是正指示」ができる権限を与えている。発動要件として「教育委員会の法令違反や怠り」を前提にしているが、怠りかどうかについては文科相の判断1つということになる。

教員免許法改正も、教員の質確保が狙いというが、30時間の一律の講習でどれだけ実効が挙がるのか。むしろ講習の内容や修了認定などを通して教員の思想チェックに使われない保証はない。

少子化や地域崩壊、貧困家庭の増加と、格差社会が広がる中で困難を抱える子どもが増え、学校現場の悩みは深まるばかりだ。国が権限を振りかざし、現場が委縮するようなことになれば、学校の課題解決などかえって遠くなるだけだ。

福島民友新聞 2007年6月24日

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教育3法改正 教える意欲がそがれる

教える立場にある人は「あこがれを強く持つ必要がある」。教育学者の斎藤孝さんが、著書「教育力」(岩波新書)に書いている。

何かを価値あるものと認め、目指し、心ひかれるからこそ努力する意欲がわく。教育の基本は学ぶ意欲をかき立てることである。教える者があこがれの気持ちを失っている場合には、人はついてこない、と斎藤さんは指摘する。

いまの学校で何かにあこがれ、学ぶ意欲を持ち続けていられる先生がどれくらいいるだろうか。

「教育改革といってさまざまなことが変わろうとしているけれど、じっくり考える時間も心のゆとりもない」。ある小学校教諭の言葉だ。

忙しさに加え、保護者との対応、職場での人間関係などに疲れ果てる教員も増えている。2005年度にうつ病などの精神性疾患で休職した公立校の教員は約4200人に上った。過去最多である。この10年で約3倍になった。

こんな状況下で、さらに学校や教員の負担を増す教育関連3法が改正された。学校に新たな管理職を置ける。教員免許を10年ごとの更新制にする。文部科学相が教育委員会に是正を求める権限を持つ。

いずれも内容が生煮えなまま決まった。運用面での検討を十分に重ねる必要がある。

免許更新制は09年度から始まる。講習の詳しい内容も評価基準もこれからだ。対象者は毎年10万人余に上り、手続きは大変になる。約30時間の講習で、本当に教員の質の向上になるのか、疑問符がつく。

学校教育法の改正では、学校に副校長や主幹などを置けるようになる。校長を補佐したり、他の教員への指導ができるポストだ。ただ、管理職が増えても教員の数が増えるわけではない。安易にポストを増やすと、教員が子どもに向き合う時間を奪う結果になりかねない。

最も大きな問題は、お金も人も増やさず、現場の頑張りだけを期待する“改革”になっていることだ。

3法の審議で教育予算の増額を求める声が与野党から相次いだ。しかし安倍政権初の「骨太の方針」では「効率化を徹底しながら、真に必要な予算は財源を確保する」とあいまいな表現にとどめた。

行政改革の名のもとに、政府は教員定数を減らし、評価に基づいて給与に差を付ける方針だ。授業時間の増加、小学校での英語必修化なども検討課題とされている。

教員の負担を増し、国の管理を強めるだけでは、教員の意欲をそぐ結果になる心配が大きい。これでは、教育はよくならない。

信濃毎日新聞 2007年6月23日

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なぜ今、教育改革か

国の将来を担う子どもを教師は預かる。教育改革関連法が成立し教員は10年に一度、免許更新が義務付けられた。これで問題教師がいなくなると単純には受け止められない。

国公私立の幼稚園から高校までの現職教員の数は約110万人。毎年10万人が受講するが、座学中心の30時間の講習で資質を見分けることができるのだろうか。一人3万円の費用をだれが負担するのかさえ決まっていない。認定試験に落ちたら再受講すればよい。

だいたい「ダメ教師には辞めていただく」という政府首脳の鶴の一声で決まった。都道府県教育委員会が掌握している不適格教員は総数の0・1%。教育委員会で十分に指導できる。命を預かる医師には更新制はなくこの差は何だろう。

新たに校長と教頭の間に「副校長」、教頭と一般教員の間に「主幹教諭」と「指導教諭」を設ける。上意下達しやすい組織構図は、利益追求の会社と変わらない。上役より子どもを向いている教師を保護者は求めている。ベテランが少なくなっては元も子もない。

教育委員会についても根本的な審議はなかった。教育委員は地元有力者の名誉職となっており、教育長は校長退職者であることが多い。教育行政のトップでありながら、予算権限は与えられていない。一方で国の関与は強められている。

改革と言いながら予算や教員を増やす根拠は示されなかった。教育が抱えている問題は教育改革関連法とは別の次元にある。空理空論で法改正ばかり先行し、細部の詰めは後回し。猫の目教育行政で一番被害に遭うのは子どもたちだろう。

宮ア日日新聞 2007年6月23日

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教育改革3法成立 実効性確保へ厳格な運用を

安倍晋三首相肝いりの教育改革関連三法が成立した。教員免許更新制の導入や教育委員会への国の関与強化などが柱で、教育現場に大きな影響を与えることは必至だ。

まず改正教育職員免許法では、現在終身有効の教員免許に10年の期限を設け、全国に約109万人いる教員に2009年4月以降、順次各30時間の更新講習を義務付けた。

「時代に応じた資質の確保」を導入の根拠としているが、社会情勢に即応した教育を実践するための知識や能力は、日々の業務の中で培っていくのが本筋であるはず。医師や看護師、弁護士らに資格の有効期限がない中、教員だけに更新制を適用する合理的な理由付けは見当たらない。

指導力不足の教員を現場から排除、または資質向上への再教育を施すことに主眼を置くなら、併せて成立した教育公務員特例法で、その趣旨は十分に達成できるだろう。

10年に一度、しかも「普通の先生なら普通に合格するレベル」が想定されているとあっては、実効性には疑問を抱かざるを得ない。せめて、講習を行う全国の大学に良質のプログラムを提供してもらい、認定には厳格な基準をもって臨むことを願うしかない。

また現場の混乱は避けられず、身分が不安定になることで教師のなり手が不足する事態も懸念される。

ここ10年間の国公立大教員養成課程志願倍率は、若干の増減はあるものの総じて低下傾向にある。景気回復や団塊世代の大量退職を背景に新卒者の雇用が好転する中、教員確保の足かせになるような法改正では本末転倒のそしりを免れない。

また、改正学校教育法では副校長、主幹教諭の設置を可能にしたが、増員を伴わない限り意味をなさないとの共通認識が欠かせない。このほか、同法には規範意識や「国と郷土を愛する態度」といった理念を盛り込んだ。

規範意識を高めることには、もとより異論はない。が、国への愛情は人によって解釈が違って当然だし、国から押し付ける筋合いのものでは決してないはずだ。政治家は愛を強要するより「愛されるに足る国づくり」に心血を注ぐべきと考える。

一方、改正地方教育行政法では、いじめで教育委員会に「法令違反や怠り」があり、児童生徒の生命・身体を保護する必要が生じた場合、また履修漏れの放置などに文部科学相が是正や改善を指示できる権限が規定された。

ただ、指示権発動の明確な定義や想定されるケースの基準は示されていない。教委への国の介入は、地方の措置に看過できない明らかな落ち度があった場合など極めて限定的であるべき。単に文科相の権限強化にとどまるようなら「地方分権に逆行する」との地方自治体の不満が高まるばかりだ。

このように改正教育関連三法には問題点も多く、これを補い実効性のある法とするためには厳格な運営が不可欠となる。国会での審議も消化不良だった感は否めず、これを与党の拙速と取るのか安倍首相の指導力と見るか、参院選ではっきり判断を示すべきだ。

陸奥新報 2007年6月22日

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教育三法 やはり性急過ぎたのでは

安倍内閣が、今国会の最重要課題と位置付ける教育改革関連三法が成立した。

改正教育三法案は、参院に移ってから年金記録不備問題もあって、審議がかすんでしまった感が否めない。教育は関係者や保護者だけにとどまらない問題だが、国民の目に論議を尽くしたと映っただろうか。

改正三法とは、十年ごとの教員免許更新制を盛り込んだ「教員免許法」と、教育委員会に対する国の権限を強化する「地方教育行政法」、公立学校に副校長などを配置できる「学校教育法」である。

重要な法改正であり、教育現場への影響は極めて大きい。だが、それほど大きな変化を伴うものでありながら、具体的影響や功罪が、いまだによく見通せない。

とりわけ教員免許更新制は大改革といってよい。十年ごとに三十時間の講習を義務付け、修了の可否を判定するが、対象者は毎年十万人規模になる。教員の技量向上を目指すことに異論はないが、この内容では費用や労力の負担が尋常でない。経験十年の教員も、三十年のベテランも、一律に課す必要が本当にあるのだろうか。

教委改革は、いじめ問題などが引き金になった。一連の教委の不手際を見ても、改革の必要を認めないわけにはいかないが、問題は中身だ。国は教委へ改善指示できる権限強化を打ち出したが、地方分権に逆行するとの批判を受け、児童・生徒の生命にかかわる緊急事態に限定した。真の教委改革の青写真を示せず、国の権限に頼る手法と指摘されても仕方ないだろう。

一方、学校教育法の改正で授業以外の校務に携わる「副校長」や、校務、授業を補佐する「主幹教諭」などを置くことが可能になる。先行導入する自治体も増えているが、有効性はまだ未知数といっていい。

新職種を導入し、学校の内外で起きるさまざまな問題に対処する態勢の強化が狙いだろう。理解できないことではないが、「管理職より一般教員こそ強化が要る」という声があることも忘れてはならない。

教育現場は、国の「改革」に振り回され続けてきた印象がぬぐえない。「ゆとり教育」の導入と排除をめぐる近年の目まぐるしい動きは象徴である。問題があれば、改めるのは当然だが、過去の改革の検証が不十分なままでは現場が混乱するだけだ。

改正三法の成立経緯にも、同じことがいえる。教育は経済改革とは異なる。やはり、性急に過ぎたといわざるを得ない。

成立した以上、これからはどう具体化するかが焦点となる。教育現場から課題を見つけて施策を練り上げることだ。

神戸新聞 2007年6月22日

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教育関連3法 統制強化に使うな

成立した教育関連三法は、安倍首相のいう「教育再生」の切り札となり得るのか。

答えは「否」だろう。国による統制強化が学校現場などの委縮や混乱を招き、自由で生き生きとした教育からさらに遠ざかりかねない恐れさえあるといってよい。

「戦後レジーム(体制)からの脱却」を掲げる安倍首相は、戦後教育について「豊かになる中、価値の基準を損得に置くきらいがあった」と総括する。首相流の答えが、義務教育の目標に「愛国心」や規範意識を盛り込んだ改正学校教育法だ。

だが、「損得優先社会」の原因を学校教育だけに求めるのは筋違いだろう。「学校は社会を映す鏡」と受け止めるべきだ。

「愛国心」にせよ、「公の精神」にせよ、どうとらえるかは人によって異なる。教育目標を通じた国による一つの考え方の押し付けは、多様な価値観を否定し、内心の自由を脅かすことにつながりかねない。

国は国会審議などでの厳しい批判を真摯(しんし)に受け止める必要がある。運用に当たっては、価値観の強制を排し、自制的に対応していくよう強く求めたい。

慎重な運用が求められるのは他の二法も同様だ。

改正地方教育行政法には教育委員会に対する文部科学相の是正指示、要求権が盛り込まれた。ただし、どういう場合に権限を行使できるのかは、国会審議を通じても明確になっていない。

運用によっては地方の教育行政に混乱を生じさせる恐れがある。統制強化の手段に使うようなことがあってはならないのは当然だ。

改正教員免許法で導入された免許更新制にも、恣意(しい)的な運用への懸念がつきまとう。管理強化が教員の委縮などを招けば、しわ寄せは子どもたちに及ぶ。

こうした数々の疑念が解消されないのは、安倍流の「教育再生」が参院選向けの目玉として優先されたからだろう。現状分析とそれを踏まえた論議が不十分なままでは、当然の結果ともいえる。

参院文教科学委では二十二項目もの付帯決議が採択されたが、その一つに教育予算の拡充がある。国内総生産(GDP)に対する教育費の公的支出の割合が先進国では最低の水準、というのが日本の現実だ。

教育を「国家百年の大計」と考えるのであれば、安倍首相の最優先課題は明らかだろう。

高知新聞 2007年6月22日

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教育3法成立 見切り発車は現場混乱に

昨年12月の教育基本法の60年ぶりの改正を受け20日、教育改革関連3法が参院本会議で可決、成立した。教員免許更新制の導入や教育委員会への国の関与の強化など、全国約110万人の教員、学校現場に大きな影響を与える。

3法は、学校教育の目標などを定めた学校教育法、国と地方のかかわりを規定した地方教育行政法、新たに免許更新を盛り込んだ教員免許法だ。

安倍晋三首相は「戦後レジーム(体制)からの脱却」の一環として「教育再生」を最重要課題に掲げている。教育は「100年の大計」だ。だが国会審議では、与野党双方が求めた教育関連予算や教職員定数の拡充、免許更新制の実効性への疑念など、論議が不十分なまま採決となった。「現場無視だ」「参院選の目玉づくり」「国会の会期日程をにらんでの政治思惑優先の採決」との批判も当然だ。

改正3法の中身をみると、学校教育法では義務教育の目標として「我が国と郷土を愛する態度」や公共の精神、規範意識の養成を明記している。「歴史について正しい理解に導き」との表現もある。正しい歴史は国が判断するのだろうか。沖縄戦の集団自決をめぐる教科書検定での日本軍の関与が修正・削除されたことに対し、県民から「沖縄戦の実相をゆがめるもの」として、撤回要求が出されている。国の見方や価値判断の押し付けには危うさが伴う。

その上、地方教育行政法では、教育委員会への文部科学相の是正指示、要求権を盛り込み、改正教育基本法では自治体の教育基本計画作りで政府の基本計画を参考にするよう求めている。教育への政府の影響力をかなり強化している。

国の関与が強まれば、教育は良くなるものでもないだろう。むしろ地域の特性や学校の創意工夫が失われないか懸念する。

教育改革は国民に「愛国心」を強制することではない。愛される国造り、そのための教育者と人材育成が基本である。十分な論議も尽くさず、見切り発車での教育3法改正は将来に禍根を残しかねない。

琉球新報 2007年6月22日

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国立大交付金 これでは地方切り捨てだ

国の補助金である国立大学の運営費交付金の配分方法を、各大学の努力と成果に基づくように見直すことが、今年の「骨太の方針」に盛り込まれ、閣議決定された。

教職員数など大学の規模で大枠が決まる現行の画一的な配分をやめ、研究成果に応じて傾斜配分する競争原理を導入しようという狙いだ。

徳島大や鳴門教育大など地方の中小規模の大学は、運営の基礎となる経費が大きく減るとみられ、経営が立ち行かなくなる心配がある。

歳出の削減を「錦の御旗」に、地方の大学の切り捨てにつながるような方針は賛同できない。国は成果主義導入を再考すべきだ。

地方の国立大学が果たしてきた役割は教育と学術研究にとどまらず、地域の医療や経済への貢献、人材育成など幅広い。競争原理や成果主義を前面に出した大学改革は、こうした機能を損なう恐れがある。

国は本年度内に新たな配分の方向性を出すとしているが、慎重な取り組みを求めたい。

徳大は「地域の中核的役割が果たせず、安定的運営が成り立たない」として、学長名で交付金の堅持を求める緊急声明を出した。

徳島県の飯泉嘉門知事も県議会で「徳大や鳴教大の存続が危ぶまれ、県内経済、県民の暮らしに影響を及ぼす」との強い危機感を表明。四国知事会や近畿ブロック知事会で見直しを求める緊急提言を文部科学省に提出した。それぞれ議会や自治体、経済界などと連携し、運動を強力に進めてほしい。

財務省が科学研究費の配分実績に基づいて交付金を試算したところ、増額になるのは東大や京大など十三大学で、徳大など二十四大学は減額率が五割未満、鳴教大や東京芸大など五十大学は五割以上となった。明らかに旧帝大などが優遇され、文科系や単科大学が不利となっている。

文科省は「交付金を25%減額すれば、大学は機能停止し、50%なら即破たんする」と憂慮している。

徳大では二〇〇六年度の予算総額約三百六十七億円のうち、42%の約百五十五億円が交付金で、鳴教大は〇七年度予算約四十三億円のうち、79%の約三十四億円に上る。減らされる金額によっては、大学の運営ができなくなる。

国立大の交付金は〇四年度に独立行政法人化したときから、毎年1%の削減が課せられている。

このため、徳大では産学連携の推進による競争的資金の獲得に力を入れるなど、各大学とも独自の収入源確保に努めている。そうした最中での配分方法の変更は性急すぎる。

地方の景気回復が十分でない中、学ぶ機会が地方に限られる学生も少なくない。また、地場産業への技術支援などに大きな役割を果たす知的機関もほかにない。そうしたことにも、配慮すべきだ。

国立大学協会では「競争が重視されると教育の質が保てない。成果の見えやすい分野ばかりが評価され、基礎研究や自由な発想による研究は軽視されてしまう」と懸念する。

文科省が群馬、弘前、三重、山口の中堅国立大四校をモデルに地域経済への波及効果を試算した結果によると、一校当たり四百億円から七百億円の効果と最大九千人の雇用を生み出している。大学が立ち行かなくなった場合には、地域への悪影響は計り知れない。

安倍内閣は「教育再生」を最重要課題に掲げている。あまりに効率優先の改革では逆に、日本の高等教育を駄目にする。

徳島新聞 2007年6月22日

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教育3法成立 管理の行き過ぎが心配

安倍晋三首相が今国会の最重要法案と位置付ける教育関連三法案が、参院で可決、成立した。

十年ごとに教員免許を更新する。文部科学相に、教育委員会への指示と是正要求権を与える。学校教育法を改正し、学校に副校長などのポストを新設する−。これが改正の柱だ。

文科省は、今年に入ってから各法案を二カ月余りで策定した。急ごしらえの改正法には不備な点が目立つ。国会での審議を尽くさずに、与党が法案成立を強行したことも異常だ。法改正は教育再生につながるのだろうか。

教員免許法改正で、教員は免許更新のために三十時間の講習を受けなければならなくなった。更新の可否は、国が定めた基準で判定される。

国会審議は百十二時間に及んだが、文科省は最後まで、更新の可否を判断する基準と講習内容を明確にしなかった。肝心な点があいまいな法改正と言わざるを得ない。

更新制は、医師や建築士などの職業資格にはない制度だ。教員には心理的負担になる。文科省は、更新制が教員の質の向上につながると言うが根拠をはっきり示してはいない。

免許更新できなければ、教員は失職する。身分が不安定になれば、優秀な人材が教職を敬遠しかねない。教員の日常の活動が萎縮(いしゅく)してしまうことも心配だ。

道内の更新対象者は毎年約五千五百人に上る。文科省は講習の受講費用などは教員の自己負担とする方針だ。負担の軽減も課題だ。

文科省は、更新制の功罪を不断に検証し、害が大きければ制度そのものの廃止も考えるべきだ。

地方教育行政法の改正で、文科相が教育委員会に「指示・是正要求」を出すことができるようになる。しかし、どのような場合に「指示」が出されるのかが不透明だ。

伊吹文明文科相は、参院文教科学委で明確な方針を示さず、「私が必要と判断したときだ」と繰り返した。

文科相の考え一つで「指示」が乱発されれば、地域に根ざした教育委員会の活動まで制限されかねない。文科省は、権限発動の際の合理的な基準を策定し、各教育委員会に示すべきだ。

学校教育法の改正では、小中学校に副校長や主幹などのポストが新設される。教員同士が平等だった学校現場が上意下達のシステムに変わる。教員の創意工夫の努力や、自由に発言する意欲がそがれてしまわないだろうか。

教育三法の改正は、教師、学校、教育委員会を、国を頂点とするピラミッド型に再編し、国の管理を徹底しようという狙いだろう。

法改正によって教育現場は大きく変わる。混乱を招かないよう、文科省は法の運用に慎重を期さねばならない。

北海道新聞 2007年6月21日

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教育3法成立 現場を委縮させるな

教育関連三法改正が今国会で成立したことで、現場の管理体制は一層強まる。公権力が過剰に介入する懸念もあるが、教師は委縮することなく、現場に向き合ってその職責を全うしてほしい。

参院での教育三法の審議をみても参考人や中央公聴会の公述人からは問題点や否定的意見が多く出た。

地方教育行政法の改正では、文部科学相による教育委員会への是正の指示・要求権ができた。地方分権一括法では文科相の是正要求権や教育長任命承認権が削除された経緯があり、国の権限が復活させられた。

いじめ自殺などに教委が適切に対応できなかったことが改正の理由とされているが、主な教委には国からキャリア官僚が出向しており、国の指導や通達にはこれまでも従ってきたはずだ。教委が国の意向に従うだけの組織になりはしないか。

国が教委に指示や要求をしたからといって、いじめ自殺が減るかどうかは疑問だし、地方分権の流れからは逆行する。一方、教委は私学の教育内容に対し、知事から求めがあれば助言できるようになった。私学の自主性は尊重されなければならず、この運用は慎重であってほしい。

教員免許法改正では十年に一度、三十時間以上の講習が教員に義務づけられ、免許が更新制となる。管理強化の手段にされる懸念があり、講習に出る教員の穴埋め問題というなおざりにできない課題もある。

教員に免許更新制が必要かという根本的な疑問はぬぐえない。専門性でいうなら医師や建築士はどうなのか。不適切な人を外すことは現行制度でも十分にできる。教員管理の手段と批判されないよう、手続きの公正さと透明性を確保すべきだ。

学校教育法改正では、副校長や主幹などが置かれ、学校の運営体制が強化される。東京都はすでに主幹制度を導入しているが、希望者が少なく、うまく機能していないという。任務が過重のためらしく、中間管理職を増やしてマネジメント効果を上げようという企業的な論理だけでは公立学校の運営は難しい。

教育の再生には、管理強化よりも現場への支援ではないのか。人や予算の手当てをしないままの改革で効果はあるのか。

指導力不足や問題を起こす教員は少なくないが、問題が起きた背景を分析し、総合的な対策を講じなくては根本解決はない。教師の一日の残業時間は平均二時間といい、過酷な労働状況から精神的疾患にかかる人もいる。管理強化で現場の士気が低下し、教職に就くことを敬遠する若者が増えはしないか、気になる。

東京新聞・中日新聞 2007年6月21日

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教育3法成立 これで「再生」できるのか

これで教育の将来像を提示したといえるのか。参院本会議で可決、成立した教育関連三法のことである。

安倍晋三首相は「教育再生」を内閣の最重要課題と位置付けている。今回の法改正で再生への方向付けができたとは、とても思えない。

審議もずさん過ぎた。成立を急いだのは、政府、与党が参院選の目玉政策として打ち出したいがためだ。「百年の大計」を政治の都合でいじり回しては、教育の未来はゆがむばかりだ。

三つの法律に共通するのは、教育現場への管理強化と規範意識の強調である。昨年成立した改正教育基本法の「公重視」の理念を踏まえてのことだ。

国が教育委員会に対して是正指示・要求権を持つことや教員免許を十年ごとの更新制にすることが、生き生きとした学校づくりにどう役立つのか。

義務教育の目標として掲げられた「愛国心」や規範意識は、いじめ撲滅とどのような関連を持つのか。文部科学省は、これらの点を丁寧に説明すべきだった。教育や道徳の領域に、法律がどこまで踏み込めるかの論議も深まったとは言い難い。

法律の完成度が低いことは、参院委員会で二十二項目もの付帯決議が付けられたことからも明らかだ。三法だけでは、教育再生の展望が見えないということだろう。

決議に盛られたのは(1)教育予算の拡充(2)少人数教育拡充と教員定数の改善(3)学校評価ガイドラインは序列化を招かないように(4)学校耐震化の促進―など、いずれももっともな内容である。

どれも予算の裏付けが必要だ。しかし、安倍首相は、教育予算の増額について言質を与えず、「真に必要な財源の確保を約束する」と述べただけだ。「真に必要なもの」とは何か。それを明示するのが首相の役割である。

最も残念なのは、教育の混迷を招いている元凶は何かという本質論議が置き去りにされたことだ。学校や子どもは社会を映す鏡である。政界や官界、産業界で続発する不祥事が教育に影を落としてはいないだろうか。

三法が学校現場の管理強化だけをもたらすようでは、教育は委縮し硬直してしまう。求められているのは、教育に力を注ぐ国の姿勢である。大胆な予算措置を講じ、少人数学級の実現や教員の拡充に意を用いるべきだ。

教育とは未来を担う人材を育成することである。本来、党利党略で語るべきテーマではない。それが、参院委員会では強行採決された。基本法や今回の法案に自分の価値観を持ち込んだ安倍首相の責任は重大である。

国民は首相の「本気度」を注目している。「美しい国」を百回繰り返すより、来年度予算で示すことだ。

新潟日報 2007年6月21日

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教育3法成立  「百年の計」見えぬまま

「教育改革関連三法」が、参院本会議で可決され、成立した。今回も衆院と同様、委員会での与党強行採決を経た末の成立だ。

わが国の教育の今後を考える時、今回の法改正が明るい展望を開くかは、疑問符が付く。三法成立で国の管理が強化される中で、教育現場が委縮しないよう、運用には十分な注意が要る。

安倍晋三首相は、今回の三法案について、「すべての子どもに高い水準の学力と規範意識を身につける機会を保障しなければいけない」と提出の目的を語り、法の成立で「教育現場が一新されていくと確信する」と語っている。

だが国会の審議を振り返っても、国際的に見て現在の日本の教育のどこに問題があり、その原因は何で、必要な制度的改善策は何か、といった「百年の計」に資するような議論は乏しかった。

また、改革のため、欧米各国と比べ見劣りする文教予算を増やすのかについても、首相は言葉を濁したままだ。十九日に閣議決定した「骨太の方針二〇〇七」でも玉虫色の表現で逃げている。

昨年の臨時国会で教育基本法改正をなしとげた首相にとって、今回の三法は教育版の「戦後レジームからの脱却」を形づけるものと位置づけられようが、具体策では説得力に欠ける。

たとえば成立した改正地方教育行政法では、都道府県教委や市町村教委に対する文部科学相の指示権限を強めた。緊急性が高い事案に限るとはいえ、地方の教育行政は、そこまで信用できないのか。分権時代に地方への権限移譲を進める全体の政策方針にも逆行している。

教員免許法改正では、教員免許の効力を十年と定め、更新講習を行うことなどを定めたが、一部の人は講習免除も可能とした。免除者選定をめぐり学校現場にあつれきをもたらしかねない。

全国には約五百万人の教員免許保持者がいる。「ペーパー教員」も含めて、原則全員に講習を施すだけの予算と態勢と意味があるかも疑問だ。いったん取得した職業資格を、教職に限って時限制に変える以上、他の資格との違いを国民に納得させ、理解を得る必要がある。

教員免許更新制の導入は、不適格教員の排除などに一定の効果はあろう。だがやり方しだいでは学校現場を委縮させ、自由度を失わせる結果も招きかねない。もろ刃の剣であることをよく自覚して運用しなければならない。

結局、今回の三法改正は国や教委の学校管理を強化するという側面ばかりが目立つ。結果的に学校教師が報告書づくりに追われ、児童生徒に向き合う時間が減ることにならないか。そんな本末転倒の事態を防ぐためにも、人員増を含めた予算的配慮が要る。

法の成立で具体策は今後、文科省が定める政省令などに盛り込まれる。省益がらみの関与には、厳しい監視が必要だ。

京都新聞 2007年6月21日

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教育3法成立 学校現場が委縮しないか

安倍晋三首相が「最重要課題」に位置づけた教育改革関連三法が成立した。

三法は、学校教育の目標などを定めた学校教育法、国と地方のかかわりを規定した地方教育行政法、新たに免許更新制を盛り込んだ教員免許法で、いずれも公教育の骨格部分を規定するものだ。

今改正ではそれぞれ、教育への国の関与に大きな道を開いた。しかし、国が関与を強めれば教育がよくなるというものではない。学校現場の事情を飛び越えて国が権限を振りかざすようなことになれば、現場の活力がそがれることになる。

法案審議そのものが、参院選の目玉づくりという政治的意図を優先したものだった。法改正と課題解決がどう結び付くのかという肝心の議論が置き去りにされ、危うい改革との印象を免れない。

学校教育法の改正では、改正教育基本法を受けて目標に「規範意識」「伝統と文化の尊重」「国を愛する態度」などの理念が新たに盛り込まれた。「歴史について正しい理解に導き」「生活を明るく豊かにする音楽」との表現もある。

だが、何が「国を愛する態度」なのか、何が歴史の「正しい理解」であり、「明るく豊かにする」音楽なのか。教科書検定などを通して国の解釈を押しつけるようなことでは、伸びやかな発想は学校現場から消えてしまう。

中央教育審議会の山崎正和会長は「わが国の歴史はかくかくしかじかであると国家が決めるべきではない」と学校での歴史教育は不必要との考え方を示している。思想自由の時代に、国が一定の見方や価値判断を押しつけるようなやり方はそぐわない。

安倍首相は国に対する愛情などをひいて「損得を超える価値もあることを教える必要がある」としているが、政治家個人の思いを公教育に持ち込むのは慎むべきだ。

学校評価についても「文部科学大臣の定めるところにより評価を行う」との条文が盛り込まれている。全国一律の物差しで学校評価となれば、地域の特性や学校の創意工夫が骨抜きとなる事態は避けられない。

地方教育行政法改正では、文部科学相に教育委員会に対する「是正要求」「是正指示」ができる権限を与えている。発動要件として「教育委員会の法令違反や怠り」を前提にしているが、怠りかどうかについては文科相の判断一つということになる。

教員免許法改正も、教員の質確保が狙いというが、三十時間の一律の講習でどれだけ実効が挙がるのか疑問だ。

国の権限は格段に強くなる。だが政治が変われば教育が変わるようなことでは公教育など成り立たない。少子化や地域崩壊、貧困家庭の増加…。格差社会が広がる中で困難を抱える子どもが増え、学校現場の悩みは深まる一方だ。国が権限を振りかざし、現場が委縮してしまうことになれば、学校の課題解決などかえって遠くなる。

教育の成果が出るのは何十年も先となる。三法成立を参院選に向けた安倍内閣の実績だと誇示したところで、教育の成果とは無縁のものだ。政治という短期的な尺度で未来を準備する教育を語ることに、そもそも無理がある。

山陰中央新報 2007年6月21日

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拙速審議のつけが心配だ 教育三法成立

国民的な怒りが爆発している年金記録問題で苦境に立つ安倍晋三首相としては、「参院選でアピールできる実績ができた」と一安心した心境だろう。

教育改革関連三法が成立した。「教育再生」を内閣の看板に掲げる首相は、今国会の最重要法案と位置付けていた。

学校教育法の改正で、義務教育の目標に「我が国と郷土を愛する態度」などを明記するとともに、副校長や主幹教諭などの管理職ポストを新設する。地方教育行政法の改正は、教育委員会に対する文部科学相の是正指示権を新たに設けた。

教員免許法および教育公務員特例法の改正で、現在は終身制の教員免許を有効期間10年の更新制に改める。

戦後教育を制度の根幹から見直す試みといっていいだろう。しかし、昨年12月に「教育の憲法」と呼ばれた教育基本法を改正してから、まだ半年にすぎない。改革の大風呂敷を広げた割には国会の論議も含めて拙速ではなかったか。

確かに、いじめを苦にした子どもの自殺や必修科目の未履修問題など、教育改革の必要性を痛感させる事例は相次いだ。だが、一連の法改正が教育現場や国民の期待にこたえる教育再生に結び付くのか。疑問は最後まで解消されなかった。

三法案の原案は、中央教育審議会(中教審)がわずか1カ月の突貫審議で答申にまとめた。「今国会で成立させたい」という安倍政権の都合を優先した結果だった。中教審の審議不足を補う使命を担っていたはずの国会も、十分に審議を尽くしたとは言い難い。

「30時間の更新講習で高い効果を期待するのは無理がある」「愛国心が子どもに強制される危険が増す」「教育の中央集権化が進み、教育委員会は『指示待ち機関』になった」。審議も大詰めを迎えた参院文教科学委員会の公聴会では、政府案への疑問や批判が相次いだ。

こうした声に政府は真正面からこたえ、丁寧に説明責任を果たしてきたか。

三法案は衆院を通過する際に「教職員定数と教育予算の拡充に努める」など11項目の付帯決議が付いた。参院で成立したときも、22項目に及ぶ付帯決議が可決された。法案そのものがスピード優先の生煮えであり、与党議員にも少なからぬ不安や不満がくすぶっていることの表れではないか。

今の子どもには規範意識が身に付いていない。指導力不足のダメ教師が教育をむしばんでいる。機能不全の教育委員会には活を入れなければならない‐。三法改正の背景には、政府の教育現場に対する、こんな不信感が透けて見える。

教育現場にも反省すべき点は多々あるだろう。しかし、だからといって国の権限を強め、管理と統制を行き渡らせることが教育改革なのだろうか。

反対論や慎重論を押し切った拙速審議のつけが、教育現場に回るようなことがあってはならない。

西日本新聞 2007年6月21日

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将来に禍根残しかねない

安倍晋三首相が今国会の「最重要法案」と位置付けた教育改革関連三法が参院で与党の賛成多数で可決、成立した。

学校教育の目標などを定めた「学校教育法」、国と地方のかかわりを規定した「地方教育行政法」、新たに免許更新制を盛り込んだ「教員免許法」の三法で、昨年末、約六十年ぶりに改正された「教育基本法」に続き、いずれも公教育の骨格部分に相当する。

三法に基づき今後、学校教育や地方教育行政に対する国の関与の道を大きく開いた、といえよう。

野党は徹底審議を求めて反対した。国会でどれだけ歯止めがかかるのか注目されたが、結局、与党の「数の力」で押し切られた。

有識者からは「教育の管理・統制強化につながる」と指摘され、免許更新制に対しても実効性への不安が教育現場からなお払拭されていない。改革の具体的な効果が不透明だけに、将来に禍根を残しかねないといえる。

学校教育法の改正では、改正教育基本法を踏まえ義務教育の目標に「規範意識」「公共の精神」「わが国と郷土を愛する態度」などの理念が新たに盛り込まれた。「歴史について正しい理解に導き」という表現もある。

だが、国を愛する態度とは一体何なのか。何が歴史の「正しい理解」であるのか。改正教育基本法の審議から積み残されたこうした疑問にはなお答えていない。

沖縄戦の「集団自決(強制集団死)」の記述から「軍命」を削除した文部科学省の教科書検定のように、国の解釈を押し付けるようなことがあっては、公教育に国家や政治家個人の意思を持ち込むようなものである。

「正しい理解」であると、誰が判断するのか。国の考える歴史観を押し付けるつもりだろうか。

地方教育行政法の改正では、教育委員会に対する是正要求を盛り込んだ。「生徒の教育を受ける権利が侵害されていることが明らかな場合」などの要件を示しているが、侵害に当たるかどうかは国の判断一つだ。

教員免許更新制を打ち出した教員免許法改正は、終身制の現在の教員免許を二〇〇九年四月一日から有効期間十年の更新制にする。更新前に三十時間以上の講習を条件とした。

だが、審議の過程で与党側の参考人が「講習が国主導で画一的となれば、自主性や自律性がおかしくなる」と指摘したように、講習の設計次第で画一的な教師づくりにつながる恐れをはらんでいる。

危うい改革との印象は免れない。

沖縄タイムス 2007年6月21日

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「安倍教育改革」 行く末に不安が膨らむ

教育がこれで本当にいい方に向かうのか。どうしても懸念がぬぐえない。

教育改革関連3法案がきょう20日にも参院本会議で成立。昨年末の教育基本法の改正と併せ、「安倍教育改革」が法律的にほぼ整うことになる。

安倍晋三首相の教育改革に懸ける意気込みに異存はない。昨今の教育には問題が多く、改善は急務だからである。しかし、適切な「処方せん」かといえば話は全く違ってくる。

教育基本法と関連3法の眼目はせんじ詰めれば、「愛国心」をうたい上げ、国による教育の管理を強めた点にある。

これが「学力の向上」や「規範意識の育成」とどう結びつくのか。納得できるような説明があったとは言い難い。

それどころか、教育があらぬ方向に進みかねない危うさを秘める。教育の目的が「国家のための国民育成」に傾く恐れが出てきたのである。

安倍首相は憲法の改正を悲願としている。教育関連法の改正はその「前段」と位置づけても構わないだろう。

子供一人一人はもちろん、国の将来も左右しかねない教育関連法の改正が、「突貫工事」で進められたこともあらためて指摘しなければならない。

今回の3法案について、中央教育審議会がわずか1カ月足らずの審議で答申したのは、その最たる例だ。教育基本法を含めて衆参の国会審議も十分尽くされたとは到底いえない。

夏の参院選をにらみ、とにかく成果がほしい安倍政権にすれば「まずスケジュールありき」だった側面が強い。教育が政治に利用されたとすれば、教育の行く末に一層不安が募る。

法律改正と対をなすように、「安倍教育改革」の推進役となるはずの教育再生会議も、心もとない限りだ。

中でも先ごろまとめた第2次報告は教育に対する深い分析や洞察に欠け、改革と称するメニューを並べたにすぎない。

安倍首相がこの報告を「素晴らしい」と絶賛しているとは、にわかに信じ難い。物事を身内中心で進めようとする「お仲間政治」を示す好例であろう。

報告の焦点である「土曜授業」も「徳育(道徳教育)の教科化」も疑問だらけなのだ。

土曜授業は授業時間を増やせば学力がつくとの単純思考に基づく。学習意欲の低下や低学力層の拡大という根本問題まで切り込んでいない。

何より土曜授業の定着は完全学校週5日制の事実上の廃止となる。「ゆとり教育」を総括しないまま、制度だけコロコロ変えるのはあまりに安易であり、教育現場を混乱させるだけだ。

徳育も「国家のための国民育成」と結びつけば、一定の価値観の押しつけにつながる。ある価値観を唯一正しいとする社会を国民は望むだろうか。

教育は法律の文言をいじり、ああしろこうしろと提言を重ねれば、変えられるほど生易しいものではない。教師と子供の生身の営みの上に成り立つ。

「安倍教育改革」とは結局、政治的思惑を背景に、教育現場をないがしろにした理念先行の「机上の改革」とくくることができるかもしれない。

秋田魁新報 2007年6月20日

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国立大学覆う暗雲 「知の拠点」はなくせない

今や大学は、志願者数と入学定員が同じという「全入時代」を迎えている。そこに地方の国立大学を震撼(しんかん)させる事態が進んでいる。国立大学の運営費交付金への成果主義の導入だ。

民間委員が火付け役
運営費交付金は現在、学生数や教員数、設備などに連動して配分されている。本年度予算では九十一法人(国立大学は八十七校)に総額一兆二千億円余りが配分された。旧帝大など大規模校への配分が多く、上位十校で全体の四割を占める。鳥取大学は約百二十億円で、平均(百三十二億円)を少し下回る配分だ。付属病院を除いて考えると、歳入の半額以上だ。

運営費交付金の配分の見直しは、今年二月の経済財政諮問会議に御手洗富士夫日本経団連会長ら四人の民間委員が提起した「成長強化のための大学・大学院改革」が発端。このなかで「大学の努力と成果」に応じた配分ルールへの変更を求めた。この意向は四月にとりまとめた「成長力加速プログラム」にも示され、六月に決定される安倍内閣の「骨太の方針2007」に盛り込むよう求めている。

こうした動きを加速するように、財務省がシミュレーション結果を出している。二〇〇五年度の科学研究費補助金の実績に基づき、〇六年度の交付金総額を配分し直すと、八十七大学のうち七十一大学で交付金が減額になる。さらに全体の半数を上回る四十八大学は五割以上の削減となる。鳥取大学、島根大学など多くの地方大学は五割以上削減組に入り、経営基盤そのものを揺さぶられる。

1万人超す集積
これはあくまでシミュレーションで、一定の条件を付した予測である。与件を変えれば結果も異なる。実際、特別教育研究経費を基に試算すると、減少は五十二大学と六割にとどまる。しかし、いずれも大学に競争原理と成果主義を導入すると、何が起こるかを如実に示すものになった。

国立大学も〇四年度に国立大学法人となり、大学としての質を高める努力を続けている。そうした努力や成果を客観的に評価し、さらなる成果の拡大に結び付ける取り組みは必要だろう。

問題は評価の基準だ。科学研究費補助金は全分野を対象にしてはいるものの、実績では理工系と医学系が全体の八割を占める。また、地方大学が国の補助金に頼らず自治体や民間企業と連携して進めている独自の研究などが切り捨てられることになる。

この問題は、五月三十日に開かれた県と鳥取大学の連絡協議会で大学側が提起した。「この方針が貫かれたら地方の国立大学は存続すら危うくなる」と強い危機感を表明。地方国立大学が持続的に発展できるよう、県に知事会などを通じて国に働き掛けるよう要請した。平井伸治知事が理解を示し、国への働きかけを約束したのは当然だ。

鳥取大学には今、大学院を含めて約六千五百人(うち留学生百六十五人)が学んでいる。このうちほぼ二割弱が県内出身者だ。教職員、事務職員を合わせて約千八百人の職場でもある。付属学校生や非常勤職員を加えれば一万人を超すだろう。

そして大学は、現に「知の拠点」として医療者や教師ら地元で活躍する人材を育て送り出している。乾燥地研究や鳥インフルエンザなど世界に誇る研究も行われている。産官学の連携を強め地元企業や自治体との研究を担い、地域産業の発展に寄与している。中国地方の中規模総合大学(山口大学)の存在自体が、県内産業に約六百五十億円余りの生産誘発効果を与えるとの文部科学省の委託調査結果もある。

先の厚生労働省の人口推計にみられるように鳥取県の少子・高齢化は一層進む。こうした社会でもっとも大切なのは人材だ。国立大学だけでなく、鳥取環境大学や鳥取短大を含めた知の拠点である大学を守り育てることは、過疎地域が分権時代を生き抜く生命線だ。

日本海新聞 2007年6月4日

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教育再生報告 競争をあおるだけでは

政府の教育再生会議が、第二次報告をまとめた。公立学校の土曜日授業の再開や、小中学校を父母が選ぶ学校選択制の拡大、道徳の教科化などが柱だ。

「学力向上」と「規範意識の育成」を重視する安倍晋三首相の意向を強く反映した内容ばかりだ。

週休二日制が定着している中で、土曜日授業は時代の流れに即しているのだろうか。生煮えの提案としか思えない。

土曜日授業の再開は、授業時間を増やして学力向上を図る狙いだ。再生会議は先に「授業時間の10%増」を提言している。

だが、土曜日を使ってまで授業を増やす必要は本当にあるのだろうか。

日本の子どもの学力は、国語の読解力は低下しているが、機械的な計算力などは他国に比べて劣ってはいないという国際学力調査がある。

「考える力」を育てることが課題だが、授業時間を増やせば簡単に向上するものでもないだろう。むしろ詰め込み教育に陥る心配がある。

従来の月曜日から金曜日までの授業で、何が足りないのか。土曜日返上でどのような教科の授業を増やす必要があるのか。再生会議が報告に先立って十分に分析したとも思えない。

再生会議は、土曜日授業について、表向きは学校や教育委員会の裁量を認めている。しかし、結果的に父母の競争心をあおり、事実上の強制になる可能性は否めない。

本来は国会の場で審議するべき問題だろう。再生会議のような場で簡単に結論を出すような問題ではない。

学校選択制の拡大は、すでに一部の自治体で導入されている。とくに都市部では、人気校に子どもが集中する半面、子どもが集まらない学校もあるなど問題点が指摘されている

再生会議は、人気校に教員を多く配置し、図書の充実などの重点的な予算措置を講じる提言をしている。

学校間の格差が広がることを、多くの父母が望むだろうか。むしろ、「優秀」とは見なされていない学校の子どもを、どのように支援するかが重要なのではないか。

再生会議は、道徳を国の検定教科書を使って教える方針だ。何を、どう教えるのか。内容が不明確のまま、再生会議が「教科化」だけを決める手法も危うさを感じさせる。

官邸に設置された再生会議の本来の役割は、縦割り行政の壁をこえ、官僚の発想にとらわれずに教育再生の道筋を提言することにあるはずだ。

例えば文部科学省と環境省が提携した環境教育プログラム策定など、省庁の枠を超えた発想こそ期待したい。

首相の意向をなぞった提言をまとめるだけでは、多くの父母の共感は得られないだろう。

北海道新聞 2007年6月2日

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教育再生第2次報告/日程優先の拙速な内容だ

政府の教育再生会議(野依良治座長)が1日、1月の第1次報告に続く第2次報告を安倍晋三首相に提出した。

学力向上と規範意識の育成を柱に(1)授業時間数10%増に向け土曜授業の実施(2)徳育(道徳教育)の教科化(3)めりはりのある教員給与体系の実現―などを掲げている。

このほか、保護者や児童が就学先を選べる学校選択制の導入促進、小学校に英語教育の導入、高校での奉仕活動の必修化など、盛りだくさんな内容だ。

だが、第1次報告と同様、徹底した検討を重ねた末にまとめられた報告とはとても言えない。議論が生煮えのまま盛り込んだ内容が多すぎる。

第1次報告は、教育改革関連3法案の提出に向けた通常国会の政治日程に合わせて提出された。今回は政府が今月策定する「骨太の方針」に間に合うようまとめられた。日程を考慮することは必要としても、拙速であっては何にもなるまい。

例えば、土曜授業。報告は学校週5日制を基本とした上で、必要に応じて行えるようにするとしているが、学力向上の強い圧力がかかっている今日、事実上、土曜授業の復活につながるものと言える。

学校が隔週5日制から完全週5日制になった際、減った授業時間数が7%だった。今回の10%増はそれを勘案した数字というが、10%増が必要な根拠はあいまいだ。増やした分を何に充てるのかも明確でない。それでなくても、「ゆとり」のない学校現場で、どのように対応していけるかも不明だ。

授業時間数の増加を強く求めるためには、児童生徒の学力の状況や「ゆとり教育」の功罪について徹底して検証するのが先決だろう。

児童生徒の基礎学力や学習意欲を向上させることが極めて重要なのは言うまでもない。それでも、求められる学力水準をめぐって国民の共通認識はないのが現実だ。その状況のまま授業時間数を増やすのは、児童生徒や学校間の競争を過熱させることにしかなるまい。

再生会議が学力向上とともに強く主張しているのが徳育の充実・強化だ。

当初は正式教科にする方針だったが、既存の教科と同様の扱いをすることは困難として正式教科化を断念し「新たな教科」と位置付けた経緯がある。

現在も、道徳教育は小中学校で教科外活動として「道徳の時間」が設けられ、週1回程度の授業が行われている。現在と何をどう変えるのか、もっと十分説明する必要があるだろう。

再生会議は首相の肝いりで設置されたが、当初から権限や役割があいまいだった。

再生会議の報告について、伊吹文明文部科学相が「実施に移すかどうかは政府側の判断」と述べているように、政府が都合のいいところをつまみ食いして利用しているのが実態だ。

12月には予算編成に合わせて第3次報告が予定されている。日程優先で拙速な報告が続くなら、再生会議の存在意義すら問われるのではないか。

河北新報 2007年6月2日

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教育二次報告 「修身」復活はごめんだ

「徳育」は教科とし、教科書もつくれという。教育再生会議がまとめた第二次報告は、提言の柱の一つに「徳育の充実」を掲げた。教材の例に偉人伝を挙げるが、戦前の「修身」復活ならごめんだ。

二次報告は「学力向上」「心と体−調和の取れた人間形成」「大学・大学院の再生」「財政基盤のあり方」を四大テーマとし、「心と体」の冒頭の提言で「徳育の充実」をうたっている。

社会の規範意識や公共心を身につけさせる教科に道徳があるが、再生会議の議論ではいまの道徳教育は十分ではないとし、さらに発展させた教科として徳育を位置づける。国語や社会科、体育、総合学習の時間なども関連付けて充実させるとしており、重要視している姿勢がわかる。

ことし一月の一次報告は子どもの規範意識を高める方策として「民話や神話・おとぎ話、茶道・華道・書道・武道などを通じて徳目や礼儀作法、形式美・様式美」を掲げた。復古調が目立ち、諮問した安倍晋三首相が絶賛した内容だった。

この具体的手段が徳育の教科化だが、教材には「教科書と副教材を使う」という。「その際、ふるさと、日本、世界の偉人伝や古典などを通じ、他者や自然を尊ぶこと、感動などに十分配慮したものが使用されるようにする」と補足説明も付く。

教科書とは文部科学省の検定を受けたものを指す。すでに小学校では副教材「心のノート」が使われているが、これには一定の考え方や感じ方を教え込むものではないかとの批判が出ている。検定を受け、一定の枠にはめられた教科書で徳育を教えることはその傾向がさらに強まる。ましてや、偉人伝などとくると、戦前の教科書を思い浮かべてしまう。

徳育の評価方法に報告は「点数」を外した。規範意識の習得度を数値化するのは困難であり、当然だ。ただ、教科である以上は評価が伴う。記述式も検討されたという。

具体的には中央教育審議会でも議論されるだろうが、教科化そのものをもっと慎重に吟味すべきだ。徳育が昔の「修身」のような授業として復活を目指すのなら、批判は相次ぐだろう。

徳育の教科化に会議メンバーの間では意見が分かれていた。まとまらない段階で座長と座長代理に結論が一任された。七月の参院選を前にして出てきた二次報告は、これを「美しい国」の土台にしたい首相の意向に再び沿う内容だ。会議は公開されておらず、結論までのプロセスが見えにくい。子どもの将来にかかわる重要なことをこんな手順で進めていっていいものだろうか。

 中日新聞・東京新聞 2007年6月2日

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教育再生会議 徳育で何を教えるのか

政府の教育再生会議が第二次報告を出した。ゆとり教育を見直し、土曜日も授業ができるようにする。「徳育」を新たな教科にする。評価を反映して教員の給与に差を付ける−。内容は盛りだくさんだ。

競争により学力を向上させ、子どもに規範意識を教え込む。そんな安倍晋三首相の教育観を反映した提案が並ぶ。学校の「実績」をもとに予算配分に差をつけるともいう。これでは、子どもが楽しく通える学校になるとは思えない。

第二次報告の主な柱は、授業時間増などによる学力向上、心と体の育ちの充実、大学・大学院の改革、教育予算の配分、になる。

気になる項目の一つは、現在の道徳に代わり、「徳育」を新たな教科にしようとの提案だ。

現在は年間35時間の道徳の時間を設けているが、学校や教師によって取り組みに差がある。それを国語や算数と同じ「教科」に位置付けて指導する。ただし、専門の免許や検定教科書は作らない、評価もしないといった内容だ。

いまの子どもたちに社会のルールをきちんと教えたいという狙いは分かる。しかし、これまでの道徳教育で成果が挙がらない理由について分析がないまま、「徳育」へ転換するのは説得力がない。

さらに何を教えるかが問題だ。教科となれば、昨年の改定で教育基本法に盛り込まれた「愛国心」や「公共の精神」を求める方向になることは予想できる。2002年に文科省が配った教材「心のノート」のように、教育が子どもの内心に踏み込むおそれがある。社会のルールは「勉強」するものではなく、日常的な体験から身に付くものだ。

学校を競わせて学力を上げるという狙いも心配だ。予算配分に反映する「学校の実績」はどう評価するのか。選択肢が一つしかない地域はどうするのか。教員の評価も、給与に影響するのでは息苦しくなる。

メリハリを付けた重点的な投資と言えば聞こえはいいが、要は予算枠は増やさずに配分に差を付けるということだ。これでは競争による全体の底上げより、格差の拡大になる心配の方が大きい。

大学の9月入学促進や、公立学校の土曜授業の復活など、生活の変化に直結する提案もある。あわてて変えて、子どもを振り回す結果にしてはいけない。

最も心配なのは、第一次報告に盛り込まれた教員免許更新制のように、政府に都合のいい部分を急いで法案化しようとすることだ。報告はあくまでも提案として、内容を慎重に検討すべきである。

信濃毎日新聞 2007年6月2日

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教育再生会議2次報告 言葉先行、予算は二の足

教育再生会議の2次報告は、さまざまな改革の処方せんも丁寧な説明に欠け、「教育新時代」という言葉だけが浮いている。徳育の教科化や「親の学び」など心構えの強調が目立つが、教育財政は、教育投資の拡充や財政計画を伴う長期展望など肝心の教育条件整備への踏み込みがない。 

日本の公教育支出は経済協力開発機構(OECD)諸国の中でも最低レベルだ。今回、再生会議がどこまで踏み込むか注目されていた。だが報告は「効率化を徹底しながらメリハリをつけて」としながら、予算の裏づけは見られない。

安倍首相が教育改革のモデルとして持ち上げる英国のブレア首相が、在任中に児童生徒1人当たりの教育予算を1・5倍近くに増額させ、小学校低学年の少人数学級を打ち出したのと大違いだ。

安倍首相は「日本の政府総支出の国内総生産(GDP)比は小さく、単純比較はできない」というが、日本の1学級当たりの児童数はOECD諸国で最も多い国の一つだ。

教育は人と人の営みである。「教育重視」というなら、まず子どもの目線に焦点を当て、ここに切り込むべきではなかったのか。決意と覚悟が見えてこない。

1次報告で提起した授業時間数10%増を具体化した土曜授業の復活が目玉の一つだが、授業時間と学力との相関関係は実証されていない。なぜ時間増なのか、肝心の説明が抜けている。

学力低下批判を受け、ゆとり教育見直しを打ち出したが、現行学習指導要領の下で、それ以前より学力が下がったというデータはない。文部科学省が実施した教育課程実施状況調査によれば、共通問題の比較では成績は上がっている。

ゆとり教育見直しというなら、学力のどこにどんな問題があるのか、現状認識を明確にすべきだ。それもないまま「見直し」という結論だけを示しても説得力に欠ける。

気になるのは、目玉とした土曜授業が、実質的ななし崩しの学校週5日制見直しとなりかねないことだ。

5日制は、過度の学校教育への依存を解消し、社会総がかりの教育を目指して踏み切ったものだ。見直すならきちんとした総括があってしかるべきなのに、それもない。無責任のそしりは免れない。

報告は、放課後子どもプランや土曜授業で子どもを学校に抱え込む方向を打ち出す一方で、「社会総がかり」を理念に掲げているが、どうなっているのか。

規範意識の強調も気になる。徳育を教科化するというが、教科となれば検定教科書が必要だ。改正教育基本法の教育目標の「国を愛する態度」や「公共心」に関する記述を、検定で正しいかどうか国がチェックするなどということは許されない。

子育ての心構えを説いた親学指南がひんしゅくを買って報告に盛り込めなかったように、心構えを改めれば直ちに教育がよくなるなどという安直な理屈は通らない。

規範意識は人とかかわる中で培われる。地域社会の崩壊などで人間関係が希薄化、育つ条件が失われている。人とかかわる体験をどう豊かにするか、カネと人をかけ、腰を据えて取り組まなければならないときだ。 

岐阜新聞 2007年6月2日

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「再生会議」報告 教育現場の声聞きたい

はしを出したいものもあり、消化に悪そうなものもあり。教育再生会議が安倍晋三首相に提出した第二次報告のメニューである。

再生会議は既に「ゆとり教育の見直し」「規律ある教室」などの柱を、第一次報告で示している。今回は、その具体論や積み残しテーマを盛った内容だ。

中途半端な形で出されたのが、「従来の教科と異なる新たな教科」として新設された「徳育」といえようか。

安倍首相が「愛国心」や「規範意識」に熱心なこともあり、最初は正式教科にする案があった。そうなると検定教科書が使われ、五段階評価の対象になる。さすがに押しつけがましさへの抵抗があり妥協に至ったのだろうが、今の道徳よりは充実させるという。

「人のあるべき姿」を説く徳目は聞こえがいい。しかしいつの間にか「国にとってのあるべき姿」にすり替えられやすい。危うさがぬぐえない。

いい意味で注目すべきは「底入れ」ともいえる政策だ。例えば教委がつくる学校問題解決支援チーム。問題を抱える子どもや親の支援に、弁護士や臨床心理士、精神科医らが一緒に当たる。

学校は非行やいじめ、親からのクレームの対応に追われている。経済的・心理的な余裕のなさから親にも子にもストレスがたまり、それが学校で放出されているかのようだ。

そこにプロの人たちが入って子や親に向き合い、本音をじっくり聞くことでコミュニケーションが成立すれば、解決の糸口が見つかり、学校のしんどさは軽減されよう。親も含めてサポートする姿勢は現場の感覚に即している。

ただ大部の報告全体は、現場を知る人が、しっかり論議を交わして積み上げたという印象は薄い。「授業時数の10%増量」も、学力がアップするとの根拠は示されないまま、ゆとり教育バッシングを踏襲した感じだ。教員給与に格差をつけることにしても、自由競争の価値観が検証もされずに持ち込まれた気がする。

報告はこれから法律や政令、学習指導要領の改正などによって確定されていく。もし「これでは子どもにプラスにならない」という懸念があれば、現場からも声をどんどん挙げていきたい。

文部科学省はそれに耳を傾けなければならない。現場との突き合わせのない内容では、子どもにとっていい結果にならないだろう。

中国新聞 2007年6月2日

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教育再生2次報告 首相の持論の追認では困る

教育再生会議が第二次報告をまとめた。

第一次報告にある授業時間の10%増のため土曜授業を可能にし、学校週五日制を事実上廃止する。徳育を点数で評価しない「新たな教科」にする。大学・大学院の九月入学を促す。教員評価を踏まえメリハリのある給与体系とする。それらが柱だ。

再生会議は安倍晋三首相の肝いりで発足した。それを反映して、ゆとり教育見直しや規範意識の植えつけ、市場原理導入といった首相の持論に沿う内容が今回もずらりと並ぶ。賛否の分かれるものばかりだろう。

一方、国内総生産(GDP)比で先進国中、最低水準にある教育費の公的支出の拡大には触れていない。口は出すが金は出さないとは都合のいい話で、首相の意気込みも問われる。

いずれであれ、いまの仕組みを大きく転換する以上、客観的に現状分析し、有効な方策を理論的に練り上げていく作業は不可欠となる。ところが提言は結論ありきの印象で、各委員の言いっ放しを文科省の出向者が占める事務局が恣意(しい)的に拾い上げているとの批判も聞こえる。

今回も、たとえば週五日制への完全移行はまだ五年前だが、功罪についてどれほど議論がなされたのかは不明だ。

第一、当然の事実のように語られる学力低下も見方は一様でない。文科省が二年前、全国の高校三年生を対象に行った学力調査では、数学と理科で想定正答率を大幅に下回った半面、全体的な学力や学習意欲は改善がみられた。この結果をどう考えるのか。四月に行った全国学力テストの分析もこれからだ。

経済協力開発機構(OECD)の国際学力テストで世界一となったフィンランドの授業時間が日本より短い現実もある。学校や自治体への権限移譲、少人数教育、充実した教員養成課程などが要因とされ、これをみても単純に授業時間を増やせば学力が伸びるとはいえない。

徳育は中央教育審議会の山崎正和会長などから異論が相次いだのを受け、正式教科化を断念した。それでも一面的な価値観の押しつけには今後とも厳しく目を光らせないといけない。

教員評価に基づく給与体系は不適格教員の排除手段とされる免許更新制などとともにアメとムチとして作用しよう。現場を委縮させないか心配される。一方では社会人を大量採用するという。これで教える力を高められるのか、展望が見えない。

ちぐはぐさは、わざわざ授業時間を増やしながら英語を必修化する点も同じだろう。

第一次報告からは免許更新制などがすでに法案化され、衆院を通過した。いかにも性急だ。

首相が「物議を醸すのを恐れず議論してほしい」と語ったように大胆な意見はあっていいとして、それを強引に押し通すのは認められない。国民に説得力のある根拠を示し、再生の道筋を描いてみせるべきだ。

再生を要するほど教育は崩壊状態なのかといった根源的問いも聞かれるようになった。地に足のついた論議に努めたい。

愛媛新聞 2007年6月2日

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未来を担う子どもは育つのか 月のはじめに考える 

最近、信じられないような事件が相次いでいます。

福島県会津市では、県立高校3年の男子生徒が母親を殺害、切断した頭部を持って自首し、逮捕されました。

大阪府では、21歳の若い両親が1歳の男児をバイクの収納スペースに入れて死なせ、遺体を捨てたとして逮捕される事件も起きています。

こうした事件にはさまざまな要因が絡んでいるようですが、核家族化による親子関係の変化や、家庭内で人間関係が希薄になっていることを背景に挙げる識者もいます。「教育力」の低下を指摘する声もあります。

「教育改革」を最重要課題の1つに掲げる安倍晋三首相の肝いりで設置された「教育再生会議」が論議を始めて、半年以上が経過しました。

今年1月にまとめた第1次報告は、「ゆとり教育」の見直しなどを求める「4つの緊急対応」と「7つの提言」が柱となっています。

国民の間に子どもの基礎学力低下に対する不安が広がっていることから、公立学校の授業時間数の10%増加など学力強化を前面に打ち出しました。

いじめや校内暴力などに対応できない学校や教育委員会が目立つため、国による権限強化を盛り込んだ「教育委員会の抜本改革」や教員の指導力や適格性をチェックする「教員免許更新制の導入」なども求めています。

■サッチャー改革がモデル
これらの改革は、いずれも教育制度の根幹にかかわるものです。政府の強い意向を受けた中央教育審議会は、教育委員会制度の見直しや教員免許の更新制などを審議しましたが、諮問から答申までわずか1カ月でした。

中教審答申を受け、教員免許法など教育3法改正案が今国会に提出されており、近く成立の見通しです。

教育再生会議では、学校だけでなく、地域や家庭での「教育力」の再生も議論になっています。

核家族化が進み、近隣とのつきあいも希薄化している中で、身近な相談相手がいなくて子育てに悩む親が少なくないようです。「赤ちゃんポスト」でクローズアップされたように、育児放棄に走るケースも出ています。

再生会議では、一時は「早寝・早起き・朝ごはんを習慣化させる」「保護者は子守歌を歌い、赤ちゃんに母乳をあげる」といった子育て指針を提言に盛り込むことも検討されましたが、「家庭教育への押しつけ」という批判が相次ぎ、提言は見送られました。

だが、1日にまとまった第2次報告には、思いやりの心を育てる道徳教育を徹底させるために、「徳育」を教科化し、多様な副教材などを活用することが盛り込まれています。

こうした再生会議の議論を見ていると、どうやら英国のサッチャー政権が1980年代に打ち出した教育改革をモデルにしているようです。

サッチャーの教育改革の特徴は、集団社会における規律や基礎学力を身に付けさせるための「教育水準の向上」と、他者への思いやりや権利だけでなく責任を担うといった「伝統の価値観」を再構築しようとしたことです。

子どもの学習到達度を測るために「全国共通テスト」を実施し、教員養成制度の全面的な見直しも進めています。道徳教育にも力を入れ、「宗教」の必修化に踏み切りました。

安倍首相も「美しい国へ」という著書の中で「サッチャー首相はイギリス人の精神、とりわけ若者の精神を鍛え直す意識改革を行っている」と、この教育改革を高く評価しています。

しかし、政府が号令をかけて規範意識を押しつけるような改革が、果たして真の「教育の再生」につながるのでしょうか。

■評価高いアンビシャス運動
青少年育成の地道な取り組みとして、評価を高めている事例があります。福岡県が2001年から展開している「青少年アンビシャス運動」です。

これは、21世紀を支える青少年を家庭や地域、学校、企業などが連携して育てようという運動で、現在、ボランティア組織など約1100の団体が個々に子どもたちを集めてキャンプなどの自然体験活動やスポーツ活動、国際交流活動などを展開しています。

「ほめて伸ばそう」が運動の合言葉で、子どもたちの可能性を引き出すことに力点が置かれ、強制ではなく「自主的参加」が原則になっています。

毎年、夏休みに高校生を対象に福岡県宗像市で開催されている「日本の次世代リーダー養成塾」(塾長・御手洗冨士夫日本経団連会長)も、ある意味でアンビシャス運動といえます。

この塾では、2週間にわたる合宿形式のサマースクールを通して、あいさつ、掃除、洗濯など生活の基本や、国際社会を生き抜くための知識、知恵を身につけるのです。

こうしたアンビシャス運動で培われるのが、大人になって社会生活を営むための「生きる力」なのです。

再生会議の議論は多岐にわたっていて、迷走気味のようですが、福岡県で成果が上がっているアンビシャス運動などを参考にしてはどうでしょうか。

未来を担う子どもを育てるために、年末の最終報告へ向けてもっと骨太の議論を進めてほしいものです。

西日本新聞 2007年6月2日

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