全国紙・専門紙社説(2007年7〜12月)


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尻すぼみで終わる「教育再生」

様々な提言を並べてはいるが、どれも「本気度」が低い。教育再生会議の第3次報告は、こう断じざるを得ない内容だ。教育を構造的に改めるための基本理念も具体的な手順も、ここから読み取るのは難しい。

6・3・3・4制の弾力化や社会人教員の採用大幅増、学校選択制の下での児童生徒数に応じた予算配分のモデル事業導入。目を引くのはこのあたりだろう。しかし、それさえも漠然と方向性を示しただけだ。

たとえば6・3制の弾力化とひとくちに言うが、これを本気で見直すなら、戦後ずっと続く単線型の学校体系を複線型に改める道を探らなければならない。ところが3次報告はそこまで突っ込まず、小中一貫教育の拡大などを挙げて弾力化と唱えている。底が浅いのではないか。

公立学校での児童生徒数に応じた予算配分も、議論が分かれる教育バウチャー制度自体には立ち入らず、類似した手法を一部で試みるという場当たり的な提言だ。社会人教員の大幅増加は評価に値するが、これは教員養成や免許制度の改革とセットで取り組まないと実現は難しい。

一方で「徳育」の教科への格上げには強い思い入れがあるようだ。しかし教科にすれば、微妙な倫理観を含む道徳教育にまで文部科学省による画一的な統制を招きかねない。心の教育の重要性は論をまたないが、なぜ教科という形にこだわるのか。

3次にわたる報告に総じて言えるのは、戦後の中央集権的な教育システムの抜本改革が視野に入っていないことだ。沖縄戦の「集団自決」記述をめぐっても限界が露呈した教科書検定制度や、基準が細かすぎる学習指導要領などを見直そうという機運は盛り上がらないままだった。

もともと安倍晋三前首相の肝いりで発足した会議だから、安倍氏の退陣後に存在感が急速に薄まるという不幸はあった。しかし、この会議にはそれ以前から、思いつきを膨らませたような施策案や抽象的なスローガンが散見されたのも事実だ。

再生会議は年明け以降、これまでの提言を総括した最終報告を出すという。しかし最近は委員の熱意が冷め、欠席者も多い。そんな状況のもと、わずかな時間でまとめる最終報告に期待が持てるだろうか。

日本経済新聞 2007年12月28日

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集団自決検定―学んだものは大きかった

日本軍によって集団自決に追い込まれた。そうした表現が沖縄戦をめぐる高校日本史の教科書検定で復活した。

教科書会社から出されていた訂正申請が文部科学省に承認されたのだ。その結果、次のような記述が来年度からの教科書に載ることになった。

・日本軍の関与によって集団自決に追い込まれた住民もいた。

・米軍の捕虜になることを許さないなどの強制的な状況のもとで、住民は集団自害と殺しあいに追い込まれた。

今春の検定では、日本軍に強いられたという記述だけでなく、集団自決への軍の関与そのものも、文科省によって一斉に削られていた。

文科省は今回の修正について、あくまでも教科書会社からの訂正申請に基づくものであり、検定の撤回ではないという。しかし、沖縄などからの激しい批判を浴び、事実上、検定を撤回せざるをえなくなったということだろう。

こんな事態になった発端は当初の検定の異常さである。「すべての集団自決が軍の命令だと誤解される恐れがある」として軍のかかわりを軒並み削らせた。

今回、文科省は訂正申請の是非を検定調査審議会に改めて諮った。審議会は新たに沖縄戦の研究者らの意見を聴いて、審議の基準となる見解をまとめた。

軍の直接的な命令は確認できないとしながらも、集団自決の背景には当時の教育や訓練があり、集団自決が起きた状況をつくり出した主な要因には手投げ弾の配布などがある、と指摘した。

この見解は多くの人が納得できるものだろう。米軍への恐怖心をあおり、住民に捕虜になることを許さないという異常な軍国主義の下で、住民は集団自決に追い込まれたというのだ。

ただ、訂正申請の審議で、「軍が強制した」というような直接的な表現を最後まで許さなかったことには疑問がある。

それにしても、こうした常識的な見解をなぜ今春の検定で示せなかったのか。そうすれば、文科省の教科書調査官の調査意見書をそのまま通すことはなかったはずだ。メンバーの1人は「もう少し慎重に審議すべきだった」と話す。

当時は「戦後レジームからの脱却」を唱える安倍政権だった。時の政権の持つ雰囲気に、専門家らの審議会ものみ込まれたということはなかったか。

その一方で、とんでもない検定をきっかけに、集団自決がこれほど社会の注目を浴びたのは皮肉なことだった。

これまで集団自決が教科書に載るのは2〜3行程度で、簡単な内容だった。それが訂正申請で、当時の社会的な背景なども書き込まれた。結果としては、内容はいっそう充実したかもしれない。

今回の検定問題は、沖縄の県民大会などをはさんで9カ月に及んだ。その間に多くの人たちが沖縄戦の実態を改めて学び、検定制度のいい加減さを知った。その苦い教訓を今後に生かしたい。

朝日新聞 2007年12月27日

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「沖縄」教科書 “政治的訂正”の愚を繰り返すな

検定意見を正面から否定するような記述訂正は認められなかった。とは言え、きわめて疑問の多い“政治的訂正”であることに変わりはない。

来年度から使用される高校日本史教科書の沖縄戦・集団自決の記述について、教科用図書検定調査審議会は、教科書会社6社から提出されていた訂正申請を承認する見解をまとめ、渡海文部科学相に報告した。これを受け、文科省は訂正申請を承認した。

例えば、今春の検定で「集団自決に追い込まれた人々もいた」とされていた記述は、「日本軍の関与のもと、配布された手榴弾(しゅりゅうだん)などを用いた集団自決に追い込まれた人々もいた」と訂正された。捕虜になるよりは自決せよとの教育や宣伝があったことも背景として付記された。

最初の訂正申請では「日本軍の強制によって集団自決に追い込まれた人々もいた」とされていたが、審議会の意向を受け、申請内容が修正された。

今回、9人の専門家から意見聴取した審議会は、集団自決が日本軍の命令で行われたことは「確認できていない」、集団自決の要因には「様々なものがある」などとする見解をまとめている。

集団自決の際の軍命令の有無が裁判で争われていることなどを踏まえて、軍の「関与」はあったが「強制」は明らかでないとした、今春の検定意見の趣旨から逸脱するものではない。

しかし、日本軍が「自決しなさい」と言って住民に手榴弾を手渡したとの記述も訂正申請で認められた。これについては、その根拠となった住民の証言の信頼性を疑問視する研究者もいる。

今回の検定意見の撤回を求める沖縄県議会の意見書が採択されたことを追加記載して、認められた教科書もあった。

検定済み教科書に対するこのような訂正申請がなし崩し的に認められていくのであれば、内外の政治的思惑によって、教科書検定制度そのものが揺らいでいくことにもなりかねない。

政府が異例の訂正申請を認める発端となったのは、9月29日に沖縄県宜野湾市で開かれた検定意見の撤回を求める県民大会だった。

「参加者11万人」という主催者発表の数字が伝えられたが、その後、俯瞰(ふかん)写真に写っている参加者を数えた東京の大手警備会社は、1万8000〜2万人と指摘している。

実数を5倍以上も上回っていた主催者発表の数字に、政府が驚いたことで始まった“訂正劇”だった。

政府は、教科書検定に対する政治介入の愚を二度と繰り返してはならない。

讀賣新聞 2007年12月27日

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集団自決記述 「強制」排除になお疑問が残る

沖縄戦の集団自決と旧日本軍のかかわりをめぐる高校日本史教科書の検定問題で、文部科学省は「軍によって追い込まれた」などの表現で軍関与を認めた。しかし「強制した」などの直接的な記述は「軍の命令の有無は断定できない」という従前の理由で退けた。

当初の検定では「強制」表記の排除だけでなく、関与も軍を主語から外すなどしてあいまいにした。そこから見れば今回の修正は一歩踏み込んだともいえようが、軍と住民との間の根底にあった強制的関係、絶対的な上下関係をきちんととらえたものとはいい難い。

本土決戦準備の「時間稼ぎ」とされた沖縄戦で軍は持久戦法を取り、長期地上戦に住民を巻き込んだ。住民は、「捨て石」視された逃げ場のない島で、投降も許されず、しばしば軍に壕(ごう)から追い出されたり、食糧を取り上げられたりした。生き延びる選択を奪われたような状況を強いたのは軍であり、個別の自決命令の有無より、まずそうした基本関係への理解が必要だ。

今春の検定結果発表に沖縄県民や県内各議会が強く反発したのも、「本土は沖縄が戦争で強いられた多大な犠牲を認識していないのではないか」という不信と失望が底にある。

 その意味で、十分とはいえないまでも、今回の訂正検定で沖縄戦の実態や背景の説明を前より増やしたことは歓迎すべきだ。集団自決を不本意に強いられたものという意味で「強制集団死」とする見方がある。それを紹介する記述も認めるなど、さまざまな考え方を反映させようとする姿勢は見える。いいことだ。

この見方をさらに深め、沖縄戦やその戦後を軸にした近現代史、戦争と平和、国際化、文化、風俗などさまざまな分野、テーマで学校教育の中に位置づけてはどうだろうか。

今回の問題を別の角度から見れば、「では学校は沖縄戦をどう教えてきたか」という問いにはね返る。歴史教育は古い時代の暗記物とされがちで、昨年は履修偽装問題も発覚した。毎年、戦争や戦後史などは授業が尻切れになって教科書をめくったこともないという生徒は多いだろう。

また今回、各教科書会社の訂正申請の検定について文科省の教科用図書検定調査審議会が経過を公表した。密室批判の強かった教科書検定では異例で、今後さらにガラス張り化を求めたい。

一方、軍関与をはっきり認めたことで検定の考え方に変化や「調整」があったとみるべきだが、文科省は「一貫している」と言う。それはないはずだ。こうした経緯も公開し、説明する責任もある。

私たちは、高校レベルの教科書なら検定というタガを外すことを検討してはどうかと提言してきた。今回の問題もそれを提起してはいないだろうか。

毎日新聞 2007年12月27日

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教育再生会議 提言を教育の充実に生かせ

やはり道徳教育の充実は欠かせない。首相直属の教育再生会議が第3次報告をまとめた。

近く改定される新学習指導要領や、改正教育基本法で策定が義務づけられた教育振興基本計画に、こうした内容を生かしたい。

再生会議は道徳教育について、第2次報告に続き、「徳育」を教科にするよう改めて求めた。点数による評価はせず、専門の免許も設けない。小中学校とも学級担任が担当するという。

文部科学相の諮問機関、中央教育審議会がまとめた答申案では、道徳教育充実を求めたが、中間報告にあった「引き続き検討する必要がある」との表現は削除され、教科化は見送る方針だ。

正式な教科は通常、専門の免許を持つ教員が検定教科書を使い数値で評価するが、道徳での検定教科書や数値評価の導入には慎重な意見が多かったからだ。

再生会議の報告は、中教審の答申案とズレがみられるが、「徳育の教科化」はあくまで道徳教育充実への強いメッセージと受け止めるべきだろう。

凶悪犯罪の低年齢化、モラルの低下を見れば、誰も道徳教育の拡充に異論はないはずである。政府内で意見調整を図る必要がある。

どんな教材を使うのか。再生会議では、ふるさと、日本・世界の偉人伝、古典・物語を通じて他人や自然を尊び、芸術や文化、スポーツから得られる感動を重視したものとしている。

若い世代に受け入れられやすいスポーツや映画などを題材にしたものも、工夫次第で十分、教材になるだろう。

競争原理の導入をうたった「教育バウチャー(クーポン券)」制は見送られたが、「学校の成果主義」とも言うべき考え方は、報告に残された。学校選択制と児童・生徒数に応じた予算配分を併用し、学校の質を高める仕組みだ。モデル事業として実施するという。

過度の競争に陥る恐れがないか、冷静に見極める必要がある。

再生会議では、国際学力調査の結果、理数系の応用力の低下が判明したことから、小学校高学年に理科専科教員の配置などを進めることも提案した。

来年度予算案では、教員定数の1000人純増や非常勤講師7000人の採用が認められている。行政改革推進法で、教職員の定数は児童・生徒の減少に応じ、削減することが定められている中での異例の措置である。

国の将来を考えれば、教育への投資は怠れないという判断だろう。その一部を理科教員に充てることを検討してもよいのではないか。

讀賣新聞 2007年12月26日

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教育再生会議 改革像がなかなか結べない

教育再生会議の第3次報告が出た。後に1〜3次集約の最終報告があるが、今回で会議の論点はほぼ尽くしたといえる。多方面に急ぎ足でわたり歩いた印象で、改革像が結びにくい。

再生会議は06年10月、安倍晋三前首相の政権発足とともに閣議決定で設けられた。教育改革を最重要課題として掲げた安倍前首相の直属実施部隊のような存在で、実質的に「安倍会議」と呼ぶべき有識者会議といってよい


前首相が描いた教育改革の全体イメージは今では必ずしも判然としない。教育基本法改正に見ることもできるが、これはその前の政権からの継続案件だった。著書で明らかにしているように、学力低下を理由にした「ゆとり教育」の否定、規範意識の育成、学校間競争と成果に対する傾斜的な支援、学校教育の「バウチャー制」導入などがそれだったのだろう。

折しも、いじめ自殺や履修偽装など問題が相次いで表面化し、学校や教育委員会の不手際も露呈して改革機運の追い風になった。

再生会議はそれに沿うように「公教育は今や機能不全」とし、授業時間増、いじめや暴力への厳しい対処、不適格教員の追放、学校や教委の責任明確化、めりはりをつけた財政措置、世界トップランクの大学育成などを提起してきた。

だが、9月、突然安倍氏が退陣すると、会議は当初の勢いを失う。実質上の主宰者が消え、現実の政策に結びつける担保がなくなったのだ。安倍カラーは薄まらざるを得ない。

例えば、安倍教育改革プランで目玉とみられていたバウチャー制。原理は、親子が自由に学校を選び、学校に渡す引換券の数で運営費が決まるという仕組みだ。公立校同士の競争と質向上を狙うものだが、与党内でも反対論が出た。身近な所に多数の選択肢を持つ都市部と、選びようがない過疎地との落差、格差は歴然としているからだ。

3次報告は、考え方を反映させた「モデル事業」の試行を提起するにとどめた。また、分数もできないという大学生の低学力対策として高校卒業時に学力を確かめるテスト案もあったが、実施困難は明らかで、事実上棚上げになった。

 会議は多様な問題に提言を図ったが、このように現実にそぐわなかったり、短期間で論議自体が掘り下げ不足に終わったりしたものもある。またかなり以前から中央教育審議会や文部科学省などが取り組んできた課題との重複も少なくない。

今回の6・3・3・4制弾力化や飛び級の促進などもそうだ。だから無意味だとばかりはいえない。長年論じながら実現しないで先送りしてきたことこそ反省すべきなのだ。その点では会議の重複提言も意義があり、受け取る政権が、くむべき内容の実現に真摯(しんし)に取り組むのは当然だ。

毎日新聞 2007年12月26日

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教育改革 徳育の教科化は欠かせぬ

政府の教育再生会議が年明けの最終報告を前に第3次報告を福田康夫首相に提出した。文部科学省と中央教育審議会が見送る姿勢をみせている「徳育」の教科化を改めて提言しており、早急にこれを実現すべきである。

再生会議は、安倍晋三前首相の主導で発足し、昨年10月から1年余りの審議を重ね、「ゆとり教育」見直しやだめ教師排除、教育委員会改革などを提言してきた。いずれも公教育不信の原因になりながら、なかなか改善策が出されなかった課題だ。

教育現場では、学力低下やいじめ問題などが相次ぎ、学校への不安や不満が増している。にもかかわらず、責任を明確にして解決していく姿勢がみられなかった。

文科省、中教審は自らの教育施策をなかなか見直さず、公教育不信を高まらせた。再生会議の提言は、なれ合い体質のある教育界のしがらみから離れて改革を進める意味が大きかった。

徳育充実は、再生会議発足当初からの課題である。

いじめや非行の低年齢化などで規範意識や公共心をはぐくむ必要性は高まっている。だが、家庭の教育力低下に加え、学校では小中学校の道徳の授業が形骸(けいがい)化し、徳育を充実していく態勢とはかけ離れた現状にある。

再生会議は徳育について2次報告に続き、3次報告でも「感動を与える教科書をつくる」と必要性を訴えた。

徳育の教科化に対しては「価値観の押しつけ」などの批判が根強い。

教科化について町村信孝官房長官は「必ずやらせる」としているのに対し、文科省、中教審の反応はいまだ鈍い。学習指導要領改定に向けた答申素案で中教審は教科化の是非を明言せず、渡海紀三朗文科相に判断を委ねた形だ。教科化による教科書検定や評価の仕方への批判に腰が引け、真剣に検討したとは思えない。

公教育の再生は喫緊の課題である。教育刷新を最重要課題とした前首相に比べ、福田首相から教育課題への発言が目立たないことは残念だ。

3次報告では家庭や学校を含め社会全体の連携を改めて訴え、「全ての子供のために公教育を再生する」ことを掲げている。提言を重く受け止め、教育改革を加速させてほしい。

産経新聞 2007年12月26日

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国際学力調査 読解力向上が喫緊の課題

57カ国・地域の15歳を対象にした経済協力開発機構(OECD)の国際学力調査(PISA)で、日本の学力低下がまた裏付けられた。特に読解力不足は深刻な課題だ。

3年ごとに行われるこの調査は、解答理由を記述式で答えさせる問題が多く、「ゆとり教育」で育てようとした考える力や知識を活用する力が試されている。

科学、数学、読解力のうち、前回は、数学が世界トップから陥落するなど、ゆとり教育の弊害が目に見える形で表れ、ゆとり見直しにかじを切るきっかけになった。

日本は高校1年生が対象で、今回は学校現場で学力向上の取り組みが始まるなかで行われた。しかし、前々回、前回からの日本の成績の推移は、科学(2→2→6位)、数学(1→6→10位)、読解力(8→14→15位)と、今回もまた順位を下げた。

なかでも読解力は韓国、フィンランドなど上位と大きな開きがある。

PISAの読解力の試験問題は、文章だけでなく、グラフや図表など資料から情報を読み取り、自分の考えや意見を述べる力を問うものだ。こうした力は、数学など他の教科にも欠かせず、低下傾向が憂慮される。

これまで日本の学校の国語の授業は、小説など文学作品の主人公の気持ちを読み取ることなどに時間が割かれがちで、教師の独り善がりの授業の弊害が指摘されてきた。

別の学力調査でも、感想を自由に書くことはできているものの、説明文を読んで要旨を相手に伝えるなど、条件に沿って書くことは苦手とする傾向がでている。結果を受け止め、国語力や読解力の向上を目指して指導の改善に取り組んでほしい。

韓国や台湾が上位に顔を出す一方、学力の高さを誇っていた日本は胸を張れなくなっている。にもかかわらず文科省は、数学、科学は上位グループだとし、危機感が薄い。OECDがこうした調査を実施するのも、学力が経済力や国力に反映されるからだ。

調査では、科学への興味・関心や楽しさを感じる生徒の割合が他国に比べて低いことも明らかになった。ゲームなどに囲まれ、子供たちの読書量や体験不足が懸念される。考える力を養う教育が真剣に検討されるべきだ。

産経新聞 2007年12月6日

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国際学力調査―考える力を育てるには

二酸化炭素の排出量と地球の平均気温という二つの折れ線グラフを見せ、ここから読み取れることを書かせる。

そんな問題が並んでいるのが、経済協力開発機構(OECD)の学習到達度調査(PISA)である。学校で習った知識をどれぐらい覚えているかではなく、知識の応用力や論理的に考える力を問うのだ。対象は15歳で、日本では高校1年生が参加している。

06年の結果によると、OECD加盟国以外も含めた57カ国・地域の中で、日本は科学的な応用力で6位、数学的な応用力で10位、読解力で15位だった。

最初の00年、前回の03年と比べると、順位はいずれも下がっている。参加国が増えており、単純には比較できないとはいえ、学力低下に歯止めがかかっていないことはまちがいない。

PISA調査といえば、03年に数学と読解力が大幅に順位を下げ、学力低下の論議を一気に高めた。文部科学省は導入して間もないゆとり教育を見直し、国語や理科などの授業時間を増やして総合的な学習を減らすことを決めた。

問題は、このカジの切り方でよかったかどうかである。

今回の結果からは、日本の子どもの特徴について二つのことがいえる。

まず、フィンランドなどの上位の国と比べると、学力の低い層の割合がかなり大きいことだ。この層が全体を引き下げている。これまでも様々な調査で、勉強のできる子とできない子の二極化が深刻な問題と指摘されていたが、底上げの大切さが改めて示されたわけだ。

もうひとつは、科学では、公式をそのままあてはめるような設問には強いが、身の回りのことに疑問を持ち、それを論理的に説明するような力が弱い、ということだ。

併せて実施したアンケートを読むと、その原因は授業のあり方に問題があることがわかる。理科の授業で、身近な疑問に応えるような教え方をしてもらっているかどうか。そう尋ねると、日本は最低レベルだったのだ。

自分で問題を設定し、解決方法を考えるという力に弱い。このことは科学の分野に限らないだろう

学力の底上げと応用力。二つの課題を克服するには、どうすればいいのか。

一人一人の学習の進み具合をつかみ、授業についてこられなくなったら、そのつど手助けする。落ちこぼれをつくらないためには、きめ細かな後押しが要る。

応用力を育てるには、公式の当てはめ方などを機械的に教えるのではなく、その論理を子どもたちに自ら考えさせる。そんな授業が求められる。

いずれも、十分な教員の数とともに、その質を上げることが必要だろう。

単に授業時間を増やしただけでは、どうしようもないことは文科省も承知のはずだ。応用力が問われているのは、文科省もまたしかりである。

朝日新聞 2007年12月5

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国際学力調査 結果を新指導要領に生かさねば

理数系も、もはや世界のトップクラスとは言えない。改めて学力向上への取り組みを迫る結果である。

経済協力開発機構(OECD)が昨年実施した国際学習到達度調査(PISA)の結果が公表された。世界の57の国・地域中、日本は、科学的応用力は前回の2位から6位に、数学的応用力が6位から10位に下がった。14位だった読解力も、15位になった。

数学について、文部科学省は、首位から6位に転落した前回、まだ「1位グループ」と説明していた。今回さらに下がったにもかかわらず、「OECD加盟国の平均と比べれば、高い得点のグループにいる」としている。

科学では、順位だけではなく得点でも水を開けられている。トップのフィンランドの563点に対し、日本は531点で32点も差がある。だが、文科省は参加国が増加したことなどを理由に、依然として「上位グループにいる」と言う。

理数系の落ち込みに対し、危機感が足りないと言わざるを得ない。

科学的応用力の結果を見ると、日本の子どもたちは、現象を科学的に説明したり、問題を科学的に検証したりする力に弱点がある。

科学の価値や楽しさを感じられない。理科の授業で意見発表や討論を重視したり、実生活に密接にかかわっていることを解説したりする授業をしてくれる先生が少ない――。学力調査と同時に行われた意識調査では、多くの生徒はこう感じている。

文科省の学校基本調査によると、大学の工学部系の学生が、全学部生に占める割合は10年前より3ポイント近くも低い約17%に減っている。理数離れは深刻だ。

今回の調査結果も合わせて考えると、技術立国・日本の将来が憂慮される。学校現場には、生徒に科学への関心を持たせる工夫が求められる。

今回の調査に参加した高校1年生約6000人は、「ゆとり教育」を掲げた現行の学習指導要領の下で、小学6年生の時から授業を受けてきた世代だ。

次期学習指導要領を審議している中央教育審議会は、ゆとり教育が学力低下につながったことを反省し、主要教科の授業時間を1割以上増やす一方、総合学習の時間を減らす中間報告をまとめている。来年1月に答申を出す予定だ。

前回の調査で明らかになった読解力の低下が、ゆとり教育の見直しにつながった。さらに、理数系の応用力の低下も浮き彫りになった。指導法の改善などを具体的に盛り込んだ新指導要領の作成を急がねばならない。

讀賣新聞 2007年12月5日

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国際学力調査 順位より「低意欲」こそ問題だ

経済協力開発機構(OECD)の国際学力テスト「学習到達度調査」結果が出た。多くの人はまず日本の順位に注目しただろう。日本はこのところ順位があまりパッとしない。しかし、もっと深刻な現実がのぞいた。学習意欲のあまりの低さ、つまり「やる気」の薄さだ。

2000年に始まった調査は3年に1回、15歳(日本は高校1年生)を対象に「読解力」「数学的活用力」「科学的活用力」の3分野をみる。いたずらに知識の多寡を測るのではなく、理解と応用の力をみようとする。今回は科学的活用力に重点を置いた。

その日本の順位は参加国(OECD加盟30カ国、非加盟27カ国・地域)中6位で、前回の2位からは後退した。だが全体でみれば上位で、見方によっては「誤差の範囲」ともいわれる。この数字に一喜一憂するより、日本の生徒たちの日ごろの理科学習に対する関心や意欲の調査結果を考えたい。

例えば、「30歳くらいでどんな職に」という問いに、科学関連の職業を挙げた生徒は8%という。え?と言いたくなる結果である。OECD加盟国平均では4人に1人が挙げた。また理科の勉強の目的も「自分に役立つので」と挙げた日本の生徒は4割余で、7割近いOECD平均の中で際立って低い。動機づけや学習活動面で日本は最低レベルに位置している。

なぜか。理系の職業や社会的地位は、発展途上国で相対的に恵まれ、子供のあこがれが強いという事情もある。先進国では職業が多様に分化し、選択肢が増えるという側面もある。日本では理系の職種が必ずしも厚遇されていないからという指摘もある。でもそれだけでは日本の子供たちの関心・意欲が「ずば抜けて低い」(文部科学省)調査結果は説明できない。

実は、こうした傾向は理科教育に限らず、既に多くの学校や子供たちの生活の場で指摘されていることだ。経済的な豊かさ、少子化と受験競争の緩和など、さまざまな要因が挙げられる。「生きる力の育成」を強調した「ゆとり教育」も、本来この状況の打開や改善を目指したものだった。

前回のOECD調査で読解力の順位が下がったことで、ゆとり教育批判がにわかに強まり、教科学習を再び増やす学習指導要領の改定決定や、全国学力テスト実施に結びついた。ゆとり教育の手法や成果、OECD調査結果との因果関係について十分な検証が行われないまま、「ゆとりが学力低下の元凶」論が高まった面がある。

今回の結果で、実験を工夫するなど理科教育の改善が進むことは期待したい。しかし、「やる気の薄さ」はこの分野に限ったものではなく、社会全体の問題、これからの日本の幅広い人材育成で避けて通れない問題、ととらえる視点と覚悟が必要ではないだろうか。

単なる授業量増加が即効薬ではない。意欲、動機づけ、興味、関心などは、なかなかつかみどころがなく、これまで本格的に掘り下げて取り組みにくかった問題だが、もう先送りにはできない。

毎日新聞 2007年12月5日

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学力「続落」の原因を洗い出せ

この成績表はいただけない。経済協力開発機構(OECD)が、世界57カ国・地域の15歳の生徒を対象に昨年実施した学習到達度調査(PISA)で、日本の不振がまたも浮かび上がる結果が出た。

平均得点の順位は、科学的応用力が前回(2003年)調査の2位から6位に、読解力が14位から15位に、数学的応用力が6位から10位に、それぞれ落ち込んだ。

前々回(2000年)の調査では日本はトップクラスだった。それが前回大きく下がり、今回も下落が続いている。各回で参加国数が異なり、わずかな得点差で順位が決まるにせよ、長期的、構造的な学力低下が進んでいると考えざるを得ない。

PISAが問うのは単なる知識や計算能力ではない。実生活の様々な場面で課題を解決する力だ。こうした深みのある学力の不足は、文部科学省による全国学力テストでも明らかになっている。その背景をまず徹底的に分析しなければならない。

原因は複雑に絡み合っているだろう。一因としては、学習内容を大幅に減らした「ゆとり教育」が挙げられる。「ゆとり」路線そのものはPISAの学力観とも相通じる。ところが実際には学習の軽量化だけが進み、ものごとを突きつめて考える機会が減ったのではないだろうか。

より根深い問題が潜んでいるかもしれない。今回の調査では、科学に対する興味や関心を尋ねた。「科学の本を読むのが好きだ」などと答えた日本の生徒の割合は、OECD平均よりかなり低い。理科の授業で、生徒の発表や観察・実験がおろそかになっていることも分かった。

文科省は学習指導要領の改訂で、主要教科の授業時間数を1割ほど増やす。これ自体は妥当だが、学力低落の原因をしっかり見極めたうえで授業の見直しや制度改革を図らねば意味がない。地域や学校現場での創意工夫の幅を広げる必要もある。

「PISA型」の学力だけが学力ではない。しかし、調査に初参加の台湾はいきなり数学的応用力で首位に立ち、他のアジア勢も健闘した。こうした現実を踏まえれば、社会全体でもっと危機感を共有すべきだ。このままでは、世界の中での日本の地位低下にもつながるだろう。

日本経済新聞 2007年12月5日

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新学習指導要領 「ゆとり教育」の反省を生かせ

「理念は間違っていないが、やり方に問題があった」。中央教育審議会の“反省の弁”を、一言で言うならこうだろう。

次の学習指導要領についての中間まとめは、「ゆとり教育」が行き詰まった原因を自ら分析し、「授業時数が十分でなかった」などと反省点を列挙する異例の内容だ。

現行の指導要領は、「生きる力」の涵養(かんよう)を理念としている。自ら学び、主体的に判断し、問題を解決する能力、豊かな人間性などを指す言葉だという。中教審は「生きる力は知識基盤社会の中で、ますます重要になっている」として、理念を次の指導要領にも引き継ぐ意向だ。

一方で、理念の実現のためにとってきた具体的手だてについては、不十分だったと明確に認めている。

「詰め込み」教育の反省として、教える内容を3割減らし、授業時間を1割削った。総合学習の時間を新設した。

だが、目指した「ゆとり」は「ゆるみ」を生んだ。かえって基礎知識の習得や思考力・表現力の育成を妨げる結果となり、保護者の「教育不信」を招いた。

その反省を踏まえ、総合学習を減らし、主要教科の授業時間を今より1割以上増やすことにした。中でも、小学校の算数と理科は16%増、中学の理科と英語は33%増となる。「脱ゆとり」の姿勢が数字上も鮮明になった。

今後の改善点としては、真っ先に「各教科での言語力育成」を挙げている。

国際学力調査や、今年の全国学力テスト結果でも、読解力や知識の活用力などに課題があることがわかった。文章を書かせたり、論述させたり、本を読ませたり、言語教育の機会を増やして、学力向上につなげたい。

「道徳教育の充実」も挙げた。教科化は今回、見送られたが、規範意識や民主主義社会の法・ルールを学校教育の中で学ばせることの重要性は変わらない。

小学5、6年では、週1コマの英語授業が正式にスタートする。外国人指導助手らを使い、コミュニケーションを重視する。中学のような文法指導も、数値による成績評価もしないという。

これには、なお疑念が残る。正しい日本語の習得が先ではないか、効果以上に負担が大きいのではないか、早い段階で「英語嫌い」が増えないか――。

新しい指導要領は、早くて2011年度からの実施となる。「ゆとり」と決別する一方で、「生きる力」は継承するという曖昧(あいまい)な折衷策に、教育現場の十分な理解が得られるだろうか。

国は具体的な指導法などを示していくことが必要だろう。

讀賣新聞 2007年11月6日

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全国学力調査―これならもう要らない

これほど大がかりなテストをした成果が、この程度のことなのか。

小学6年と中学3年のほぼ全員約220万人が受けた全国学力調査の結果が公表された。出題は国語と算数・数学の2教科。結果は次のようなことだ。
 ・基礎的な知識に比べて、活用する力が低い。
 ・全体として都道府県別の差は少ないが、沖縄など一部に低いところがある。
 ・就学援助を受けている子どもの多い学校の成績が低い傾向がある。

同時に実施した生活習慣調査を重ね合わせると、こんな傾向もみられた。
 ・家で宿題をする方が点数が高い。
 ・朝食を毎日食べる方が点数が高い。

文部科学省は今回の結果を各都道府県に通知し、今後の取り組みに生かしてもらうという。

しかし、これらのデータに新味があるだろうか。ほかの調査ですでにわかっていた傾向が大半ではないか。

文科省が43年ぶりに全員参加型の調査を復活させたのは、学力低下が指摘されたことがきっかけだった。

私たちは社説で、この調査に疑問を投げかけてきた。すでに全国規模の抽出調査や自治体独自の調査があり、学力や学習の状況をつかむには、それらの調査で十分足りると考えたからだ。

それだけではない。全員参加だと、調査結果が都道府県や市町村、学校の序列イメージをさらに鮮明にさせかねない。学校によっては、学力調査向けの勉強をさせるようになる恐れもある。

そうした疑問や心配をかき消すほどの成果を得ることができたのか。結果を見ると、そうとはとても思えない。

都道府県ごとの格差はなぜ生まれたのか。少人数授業の効果はどうか。これらの点について文科省は、一概には言えないので地元自治体の分析を待ちたいという。肝心なところを地域に委ねるのであれば、全国一律に調査する意味はあるまい。狙いをしぼって、自治体ごとに継続的に調査する方が効果的だ。

全員にテストを受けさせたため、どこまで結果を公表するかという難しい問題も生まれている。

文科省は都道府県別のデータを公表しただけだが、データは市町村や学校にも送られる。公表するかどうかは市町村や学校に委ねられる。文科省は過度の競争などの心配があるとして、公表には慎重な扱いを求めている。

しかし、子どもや保護者、住民にとって、自分たちの学校や自治体の成績が気になるのは当然だろう。ほかの学力テストで、学校ごとの成績の公表を求めた住民の訴えが、裁判所で認められた例もある。保護者らから公表を求められた場合、拒み続けることは難しいだろう。

今回の費用は77億円にのぼった。来年度の準備も始まっているというが、もうやめた方がいい。同じ予算なら、教員を増やすことなどに有効に使うべきだ。

朝日新聞 2007年10月25日

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全国学力テスト “宝の持ち腐れ”にしてはならない

子どもたちの学力や学習環境に関する膨大なデータが得られた。これをどう教育の改善と学力向上につなげるか。徹底した分析と、その有効活用が今後の課題となる。

4月の全国学力テストには小学6年と中学3年の222万人が参加した。出題は国語と算数(数学)で、それぞれ知識を問うA問題と、知識の活用力をみるB問題の2種類だった。

知識の問題には、ほぼ合格点がついた。中学数学だけが平均正答率7割台だったが、他の小学国語、算数、中学国語はいずれも8割を超えた。

一方、活用問題では、正答率7割台は中学国語のみで他は6割台前半と振るわなかった。国語の「正しく読み取る」「考えをまとめる」、数学の「考えの過程を明確にし説明する」力が弱かった。

読解力や表現力など、知識応用の力に問題があることは、3年前の国際学力調査などでも指摘されていた。それが今回のテストで再確認された。現在、作業中の学習指導要領改定に反映させる必要がある。各学校でも、授業や指導法の見直し・改善を検討してほしい。

学校ごとの成績状況は、保護者や教員が最も注目していた点だろう。小、中学校とも、全国平均との標準偏差では大きなばらつきはなかった。だが、全体の1割近くの学校が、B問題を中心に正答率が5割に満たないという実態もある。そうした学校のレベルアップのため、早急な支援が必要になろう。

子どもの学習環境や生活習慣と、学力の関連性についても分析した。毎日、本を読む子は国語の正答率が良かった。家できちんと宿題する子、朝食をしっかりとる子も正答率は高い。各家庭で子どもの生活環境を改善することが大事だ。

懸念されるのは、「競争の激化」「学校の序列化」の批判を恐れるあまり、多くの自治体が過剰なほど結果公表に慎重になっていることだ。

このため、自校の平均正答率などを全国や都道府県単位のデータと比べるのがせいぜいで、自校のある市区町村や、県内他地域のデータなどとの違いは検証できない学校も出てくる。これでは全国津々浦々きめ細かい調査をした意味が薄れないか。保護者の関心も強いだろう。

全国学力テストの結果は、子どもの学力の一面を示すものに過ぎない。そう関係者も理解して臨んでいるから、43年前まで実施されていた学力テストのような、試験対策での過熱もなかった。

適度な競争は子どもの学習意欲を高め、学力向上を後押しする。テスト結果を、宝の持ち腐れにしてはならない。

讀賣新聞 2007年10月25日

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学力テスト結果 そして文科省は何をするのか

今春すべての小学6年生、中学3年生を対象に実施された全国学力テストの結果が出た。学力向上施策の柱として77億円もの巨費をかけて行われたが、この空前のデータをどうとらえ、生かすか。全情報を独占する文部科学省は明示しなければならない。

基礎的な知識はまずまずだが、活用する力が足りない。地域間の開きはさほどない−−。そうした傾向を示すものの、中学数学の活用問題で「白紙解答」が目立ったり、地域間でも、例えば沖縄県が正答率が最も低い結果が出るなど分析・検証すべき課題は多い。

そして何より、国(文科省)は結果をどう読み取り、評価し、これまでの学力観と政策に照らして正すべき要点を突き詰め、どう学校教育現場に生かすか。単なる解説ではなく、あるいは学習指導要領の一部の文言をいじるような部分修繕ではなく、これを生かして教育政策の立て直しをするぐらいの気構えでなければ、巨額の税金を投じて毎年続ける意味はない。

実施に際して、そもそも全員参加の悉皆(しっかい)調査方式が必要なのかと私たちは疑問を呈した。全国の平均的傾向を正確につかむなら、サンプル調査でよく、何も今回のような経済的、労力的な負担をかけてまでやる必要はない。

文科省は全校、全児童生徒、全地域の状況を詳細につかむことで教員の重点的配置などきめ細かい支援ができるという。だがその「細かさ」ゆえに悉皆調査は精神的圧迫を現場に与えやすく、学校が子供たちに準備勉強をさせたり、成績の振るわない子を当日休ませるなどのゆがみも生じかねない。昭和の学テでそれがあり、廃止の一因になったが、今年東京都足立区で発覚した「誤答修正指導」などもその陥りやすい落とし穴を如実に物語っているではないか。

これは成績(正答率や傾向)をどう扱うかという問題にからむ。文科省は各校が自校の結果をどうするかは裁量に任せている。保護者らから開示要求されることも予想される。だが、いきなり数字が歩き出しては「序列化」になるだけだろう。開示は、成績を詳細に分析し指導改善にどうつなげるかを示す具体的な計画とセットでなければならない。現場の教員、保護者らがこの共通認識を分かち合えば、有効に生かせるはずだ。

来春も同方式でテストが行われる。しかし、悉皆方式の「単一問題一斉実施」だけがやり方ではないだろう。支援を要する学校の状況把握は教育委員会個別のやり方で可能だし、本来そこがやるべきではないか。文科省が肩代わりして情報を集めたり、独占する必要はない。サンプル調査方式も含め、出題内容、活用方法など改善策を積極的に検討してほしい。

そして「結果を個人の指導に生かす」という文科省の想定とは裏腹に採点や集約作業が予想以上に手間取り、4月のテストの結果が、予定の夏を越えて10月下旬に届く事態になった。小6や中3には在学時間はそう残されていない。「個人の指導」に生かすには作業の円滑、効率化も急務だ。

毎日新聞 2007年10月25日

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テスト結果だけにこだわるな

基礎的な知識については及第点を取った。しかし知識を実際に活用する問題となると心もとない。文部科学省が24日公表した全国学力・学習状況調査(学力テスト)の結果だ。保護者の関心も極めて高い調査内容だが、過剰反応は避け、今後の学力向上にこれをどう生かすかを冷静に考えるべきだろう。

小学校6年生と中学校3年生が対象の今回のテストには、全国のほぼすべての公立校が参加した。平均正答率は、小学校では国語、算数とも「知識」を問う問題では80%強と高いが「活用」は63%ほどだった。中学校でも「知識」に比べ「活用」は10ポイント程度落ち込んでいる。

過去のテストでは例のない「活用」には、長文読解や記述式の問題が多かった。「知識」より成績が劣るのは予想されていたが、この正答率を見ると、考える力や情報を取り出す力をもっと養う必要はあろう。

留意すべきなのは、こうしたテスト結果が学力の全体像を映し出しているわけではない、ということだ。初めて試みた「活用」は問題づくり自体が手探りだったし、「知識」はやさしすぎるとの指摘もある。

しかし、いったん結果が出ると教育現場では短絡的な対応に走りがちだ。文科省は都道府県や市区町村に検証・改善を促し、申請があれば教職員も増やす。地域ごとに結果を分析して弱点を見極め、学力の底上げに取り組むのは当然のことだが、それが単に次回の学力テスト対策のようになるとすれば本末転倒だ。

文科省は全国の教育委員会にそれぞれの結果を提供し、各学校も個々の成績データを受け取る。

同省は序列化や過度な競争につながらないよう求めているが、実際にどこまで、どんな形で開示するかは各教委や学校の裁量に委ねている。この点でも現場の創意工夫が問われよう。目の前の成績だけを独り歩きさせず、なおかつ住民や保護者が納得できる開示方法を探ってもらいたい。横並びではなく、地域事情に合わせた対応が必要だろう。

学力テストは来年以降も続くが、これに振り回されていては意味がない。日常的な学習こそ重要であり、テストはその一環だという当たり前のことを再確認しておくべきだ。

日本経済新聞 2007年10月25日

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全国学力テスト 競争封ぜず学力の向上を

小学6年と中学3年約225万人が参加した43年ぶりの全国学力テストの結果が公表された。地域や学校間の差から目をそらさず、これを指導改善に生かしてほしい。

都道府県別のデータをみると、差が意外に大きい。正答率を100点満点で換算すると、小6の国語で上位の秋田と下位の沖縄では基礎問題(A問題)で9点の差、応用問題(B問題)では16点の差がある。中3の数学では基礎、応用とも上位の福井と下位の沖縄で約20点の開きだ。

なぜ学力の差がでるのか。例えば沖縄では、今回同時に行われた学習時間や生活習慣などの意識調査で、宿題を出す学校が少なく家庭学習の時間が少ない傾向があった。

一方で成績がよかった秋田では、夏休みの補習などを行っている学校が多く、地道な学力向上策が効果をあげているともいえる。

もちろん学力差の要因はこれだけではない。教師の指導法や学習環境、学校教育以外の地域状況などさまざまだろう。各市町村や学校にはそれぞれの成績データが送られており、各教委は学力の実態を把握、分析し、課題を明らかにしてほしい。

今回は、昭和30年代の学力テストで自治体間や学校間の競争が過熱した反省から、文部科学省は市町村別や学校別のランキングは公表せず、都道府県のデータ公表にとどめた。

教育界には相変わらず競争や評価を嫌う体質がある。今回の学力テスト実施前にも一部教職員組合が妨害するような動きがあったのにはあきれる。

全国レベルと比べ地域や学校がどの位置にいるかが分かる全国一斉テストの利点を生かし、学力向上策を競ってほしい。成績の良い学校や教委の取り組みも参考になるはずだ。

学力低下が懸念される中、今回は改善もみられる。平均だけみると基礎問題の結果は8割の出来だ。しかし三角形の内角の和(180度)のように相変わらず苦手な問題もある。

さらに「ゆとり教育」が目指した問題解決型の応用問題が苦手な傾向も変わらない。

教師が独り善がりの授業をしていないか、家庭でしっかり勉強しているか、今回の結果を率直に受け止め学力向上につなげたい。

産経新聞 2007年10月25日

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授業時間増 「脱ゆとり」鮮明な指導要領に

学力低下批判の多かった「ゆとり教育」路線から、脱却できるのか。文部科学省が、今年度中を目標に進めている学習指導要領の改定作業では、まさにそこが問われよう。

文科省と中央教育審議会は、小学校と中学校の授業時間について、国語、算数(数学)など主要教科を10%増やす方向で大筋合意した。最近、子どもの体力が落ちて来ていることへの対策として、体育(保健体育)の授業も増やす。

その結果、週の授業時間は今より小学校低学年で2回、中高学年と中学の全学年でそれぞれ1回程度増える。

ゆとり教育の象徴だった「総合的な学習の時間」は週1回減らされる。小学校では週3回から2回へ、中学でも週1〜2回となる。特定期間に集中させたり、土曜に実施したりすることも可能だ。

「詰め込み教育」の反省から、小、中学校の授業時間数は1977年の指導要領改定以来、減少傾向が続いてきた。増えるとなれば30年ぶりのことだ。国の教育路線の転換と言っていいだろう。「脱ゆとり」の方向性には賛成したい。

日本の子どもの学力低下傾向は、2004年暮れ、国際学力調査で明らかになった。衝撃を受けた文科省は直ちに、教える内容を3割削減した02年度からの指導要領見直しなどの検討を始めた。

政府の教育再生会議が今年1月、「ゆとり教育見直し・学力向上」を掲げ、授業時間10%増、薄すぎる教科書の改善などを提言したことも、文科省の方針転換に影響したのだろう。その趣旨を指導要領改定にも生かすべきである。

気がかりなのは、小学校高学年で、総合学習が減る分、新たに「英語活動」が週1回、全国一律実施されることだ。

昨年3月、中教審の専門部会が小学校高学年での英語必修化を提言し、議論を呼んでいた。

文科省は、国際化の流れや、教育の機会均等の確保、中学英語との円滑な接続の必要性などを説き、今回の指導要領改定で必修化を狙う。すでに9割の公立小学校が、総合学習などを利用して英語活動を行っているという実態もある。

だが、本当に、小学生に英語教育は必要なのだろうか。言われているような学習効果の上がる年ごろなのか――そうした疑念が払拭(ふっしょく)しきれない。小学生にとっては正しい日本語、国語の習得こそが先決ではないのか。

英語の指導を不安がる小学校教員も少なくない。文科省は、教員の研修や外国人指導員らの確保、教材開発など条件整備を進めるとしているが、それ以前の疑問が、なお残っている。

讀賣新聞 2007年9月2日

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大学法人化/研究現場の変質を防ぐ

2004年4月に国立大学の法人化がスタートして3年が経過した。自主独立や自らの責任で経営状況を適正化するといった目標を掲げた法人化だが、大学経営の在り方の変化とともに、研究現場も徐々に変質している。「多くの企業がリストラや改革に取り組んでおり、国立大学も例外ではない」という考え方は一般的なのかもしれない。しかし、“稼げない”基礎研究、特に農学の基礎研究がないがしろにされないか心配だ。

最近、日本農業新聞で紹介される大学の研究報告は、これまでとは少し様相が違ってきている。以前は農業関係の研究は、農学系の学部の研究がほとんどだった。しかし最近は、工学、医学、理学部などの他学部からの“進出”が目立つようになった。

だが、それは一方的な流れだ。非農学系の学部からは“進出”されているが、「逆の流れは少ない」と嘆く声が聞こえてくる。さらに、そうした研究が、多くの特許を申請しており、産業界との連携が強まっているというのも新しい流れだ。農学系の研究者が奥ゆかしいのかもしれないが、“相互”の交流にならないのが歯がゆい。

産業界と連携を強めつつ、非農学系の“進出”が活発なことの背景には「大学の財政状況がある」とみられる。というのは、国立大学法人化の狙いの一つに、国に頼らず、「学長のリーダーシップのもとに自ら資産を運用、資金を獲得し、個性豊かな大学をつくる」というものがある。ところが、大学の財政が厳しく「もうかる研究への傾斜」が強まっている。

国立大学の収入源は学生からの授業料や入学金、委託研究費、科学研究費補助金、運営費交付金などがある。このうち、運営費交付金は国から支払われ、07年度は総額1兆2000億円。大学の収入のうち約4割を占めるという。この運営費交付金が毎年1%減額される。関東地方のある国立大学では教授の退任後も後任の教授を置かず、研究室を統合するなど、人件費や研究室の経費切り詰めに躍起だ。多くの大学の予算は研究室の「成果」によって評価され、配分される。

昨年成立した新たな教育基本法の第7条で、大学は「新たな知見を創造し、これらの成果を広く社会に提供する」とされているように「産学協同」は時代の流れだ。大学の知的財産を世の中に出して、社会の役に立てるというのは価値がある。しかし、「特許等で稼げない」研究が、ないがしろにされてはならない。

研究の評価方法は慎重であるべきだ。今日の稼ぎも大切だが、明日のための種子である基礎研究はもっと重要だ。今すぐに利益の挙がらない研究をすることにも、国公立大学の役割があったはずだ。「たとえ飢え死にしても、種もみには手をつけない」という「種子を大切にする」農家の知恵に学んでほしい。

日本農業新聞 2007年8月1日

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教育と参院選―安倍流改革を見極めよう

参院選で教育問題の影が薄い。あれほど鳴り物入りで教育改革を進めた安倍首相も、遊説では年金問題に時間を奪われがちだ。

だが、自民党は公約で安倍流の教育改革をさらに発展させることをめざしている。安倍政権の下で法律が矢継ぎ早に成立したとはいえ、法律をどのように実際に運用するかはこれからだ。

安倍流改革をこのまま進めさせるのか、ここでブレーキをかけるのか。有権者はじっくり考えるべき時だ。

安倍政権では、まず約60年ぶりに教育基本法が改正された。教育の憲法というべき基本法は戦後、「忠君愛国」の精神や画一的な教育を否定することから生まれた。それが改正法では、教育の目標として「愛国心」が盛り込まれた。政治的な介入を阻む規定も薄められた。

基本法の改正を受けて、教育関連3法が改正された。各地の教育委員会に対し、文部科学相が指示や是正要求をすることができるようになった。教員免許は10年ごとの更新制に変わった。

底流にあるのは、国が教育の管理を強めようということだ。首相にとっては、「戦後レジームからの脱却」ということになるのだろう。

しかし、それは戦前の反省に立って戦後積み上げてきた教育の仕組みを大きく変えることでもある。そのことを有権者がどう判断するのか。

もうひとつ、安倍首相と自民党の政策を貫く特徴は競争原理だ。自民党の公約は抽象的な項目が多いが、それでも「全国学力・学習状況調査の適切な活用」や「学校評価を一層推進」という文言が並ぶ。学力テストで学校同士を競わせ、学力を高めようということだろう。

教育でも競争は否定できない。地域や学校ごとの学力の格差や傾向を調べるために、なんらかのテストは必要だ。

しかし、全国で全員にテストを受けさせ競わせれば、学力が上がるというのは単純すぎないか。むしろ、副作用が心配だ。それが現実になったのが東京都足立区の学力テストだろう。ある小学校で教師が間違った答えを書いている児童に合図をしたりして、成績を上げていた。

野党のマニフェストを見ると、国の管理を強める安倍流改革を批判する色合いが濃い。たとえば、民主党は保護者や住民らが学校運営に参加できる「学校理事会」の設置を提案している。

与党との違いが鮮明なのは、大幅な予算増を打ち出していることだ。民主党は財政支出の5割増、社民党も公費支出を国内総生産(GDP)比6%水準へ引き上げることを掲げる。その数字に力の入れ方は感じられる。だが、どうやって予算をひねり出すかははっきりしない。

教育の現状に問題があるのはだれもがわかっている。そんな中で、安倍流の教育改革を認めるのか、拒んで別の道を探るのか。それが教育のあり方を決める分かれ目だ。

朝日新聞 2007年7月24日

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教育の未来像を示し有権者にこたえよ

教育をめぐる課題が山積しているのに、選挙戦では議論が低調だ。特効薬のない問題だけに下手に争点化したくないとの思惑もあろうが、各党はいま一度論戦を盛り上げ、有権者の関心にこたえてもらいたい。

マニフェスト(政権公約)をみる限り、与野党とも教育を軽視しているわけではない。安倍晋三首相は教育改革を最重要課題と位置付け、これを受けて自民党のマニフェストは「教育再生」を強調している。関連法改正が成った教員免許更新制などの「円滑な実施」や「確かな学力と規範意識の育成」をうたう。

民主党は公立高校の授業料無料化や、教育への財政支出の5割増加などを打ち出した。「義務教育での国の責任を明確にする一方、学校の運営は地方自治体が責任を持つ制度に改める」として、教育行政に対する国と地方の役割分担にも触れた。

残念なのは、こうした公約に具体性が乏しいうえ、両党の間で議論がかみ合っていないことだ。

自民党が「円滑な実施」を約束する教員免許更新制は、実際の制度設計は文部科学省に委ねられており、本当に教師の資質向上に役立つのかどうか不透明だ。学力向上や規範意識の育成も掛け声先行の印象が否めず、具体策がはっきりしない。

民主党が掲げる公立高の授業料無料化は聞こえのよい公約だが、財源をどう手当てするのかあいまいだ。地方自治体が学校運営に責任を持つとした点は注目に値するものの、教育委員会のあり方や国の責任との兼ね合いなどが説明されていない。

互いに漠然とした政策のイメージを並べ、言いっ放しに終わるのであれば有権者は戸惑うばかりだ。選挙戦は残り少なくなったが、それぞれの描く改革の中身をもっと分かりやすく示すことができるはずだ。

そこで求められるのは、学力低下やいじめなど個々の課題への対策だけではない。文科省による護送船団方式の教育制度をどう見直すかといった骨太の議論も期待したい。

官僚の統制を緩めて現場の裁量の幅を広げ、学校運営や教育内容、方法を多様化する――。経済界を含め、そうした分権改革を唱える声は少なくない。その是非を論じ合うことも必要ではないか。

およそ教育問題にすっきりした「解」はない。しかし有権者の審判を仰ぐ各党はそこから逃げることなく、堂々と未来像を示してほしい。

日本経済新聞 2007年7月23日

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教育改革 「国家百年の計」の議論がない

「国家百年の計」と言われる教育である。衆院と違い、大所高所からの議論が期待されている参院議員の選挙でこそ、争点にするにふさわしいテーマではないか。教育改革の論戦が、あまり聞こえてこないのはなぜだろう。

自民党は昨年暮れ、「結党以来の悲願」だった教育基本法改正を実現させた。通常国会では、教員免許更新制の導入など教育改革関連3法を成立させた。

これらの“実績”を背景に自民党は参院選に臨んでいる。「戦後レジームからの脱却」の一環として「教育再生」を掲げてきた安倍首相も、もっと国民にアピールしたいのではないか。

「教員免許更新制や、不適格教員を教壇に立たせないシステムを円滑に実施する」。自民党は教育の公約の第一に、教員の資質・能力の向上を掲げた。更新制など新しい制度が、今後どう具体化されて教育現場に定着していくか。国民はそこに注目している。

「確かな学力」と「規範意識」の育成も公約にある。そのための学習指導要領全体の見直しや、全国学力テストの活用などが、すでに始まっている。

各政党や候補者は、これらの具体的取り組みに関する教育論戦を、活発化させてほしい。

「幼児教育の無償化」など一部を除き、自民党の教育をめぐる公約の多くは、大幅な予算増に直結しないようなものになっている。国の台所事情に配慮したのだろう。公明党も同様だ。

一方、民主党は「先進国で最低水準」にある教育への財政支出について「現行の5割増を目指す」と謳(うた)った。社民党も教育への公費支出を対国内総生産(GDP)比6%に引き上げるとしている。

民主党は、公立高校の授業料を無償にするほか、1人月2万6000円の「子ども手当」を新設し、中学卒業まで支給する、とも述べている。

子育て・教育の責任を親だけに負わせるのではなく、社会全体で支え、併せて「教育格差」も解消していくという。

先進諸国に比べ、日本の教育への公費支出の割合が低いことは確かだ。高等教育分野では半分程度にとどまる。

国際競争力のある研究拠点や人材育成の必要性が叫ばれたり、国際学力比較で子どもたちの「学力低下」が明らかになったりするたびに、教育財政論は話題に上る。だが、根本議論には至らず、改善の機運も起きずじまいだ。

国は教育にどれだけカネをかけるべきか。これは国民の関心も高いテーマだ。国家戦略的視点に立った各党、候補者の主張を選挙戦でも聞いてみたい。

讀賣新聞 2007年7月18日

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