地方紙社説(2008年1〜2月)


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日本史必修化 受験対策にしたくない

神奈川の県立高校で日本史が必修化されるという。自治体の独自性では注目すべき試みだ。歓迎する生徒は多いだろうが、授業が受験対策に傾斜しては歴史嫌いが増えるだけになってしまう。

県教委は二〇一三年度をめどに県立高校の日本史の必修化方針を明らかにした。中央教育審議会(中教審)は次の学習指導要領改定では必修化を見送っており、神奈川独自の判断だ。

現行は高校の地理歴史科は世界史が必修で日本史と地理は選択になっている。世界史は国際化重視の視点から、一九八九年の指導要領改定で必修となった。

ところが、一昨年、全国各地の高校で世界史の履修漏れが次々と発覚した。背景の一つに大学受験で世界史が敬遠されている実態がある。センター試験をみても日本史や地理の受験者数は世界史を上回る。

受験生に聞くと「世界史は覚えることが多くて負担だ」という。中教審の議論では日本史必修論が出たものの「法律や経済を学ぶ際など世界史は重要」との声は多く、現行の枠組みを維持することになった。

県教委は世界史に加えて▽日本史Aか日本史Bを履修▽地理を選択する場合は新設する「神奈川の郷土史」か「近現代史」を履修−との方法で日本史の必修化を図るという。

松沢成文知事は「愛国心や郷土愛がはぐくまれることを期待する」と話し、文部科学省は「学習指導要領を逸脱しない」と静観の構えだ。

自治体が教育改革に取り組む姿勢は評価できるし、受験実態からすれば歓迎する生徒も多いだろう。この動きは全国に及ぶ可能性がある。

だが、神奈川方式には問題点がいくつかある。地理を選んだ場合、世界史と日本史を加えた三科目を学ぶことになる。これでは、地理を選ぶ生徒は少なくなるのではないか。

「郷土史」を新設するというが、身近な地域の歴史を学ぶことは小中学校の学習指導要領に書かれている。高校であらためてなぜとの感が否めず、内容の吟味は必要だろう。

肝心なのは、世界史、日本史を問わず、腰を据えた歴史教育ができるかどうかだ。高校の歴史学習が暗記一辺倒になりがちなのは、大学の入試問題、とりわけ、私立大学では奇問が多いことに要因がある。

年号や人物名などの暗記ばかりでは、日本や郷土の過去を知る以前に生徒は歴史嫌いになってしまう。

地理歴史の必修科目問題は高校側での議論ばかりが目立つ。大学入試が関係する以上、大学側も入試の内容を見直す時期にきている。

中日新聞・東京新聞 2008年2月23日

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指導要領改定案 揺れ動きが激し過ぎる

教育の大本がこんなに揺れ動いていいのだろうか。そんな思いにとらわれた人が多かったに違いない。文部科学省が公表した小中学校の学習指導要領改定案のことである。

学習指導要領は、子どもに教えなければならない教科や学習内容、授業時間数など教育課程の最低基準を示している。ほぼ10年サイクルで改定されてきたが、今回は一大転換といえる内容となった。

その筆頭は「ゆとり教育」の全面見直しである。「ゆとり」は1977(昭和52)年の改定で掲げられ、98(平成10)年改定の現行指導要領で明確に打ち出されたばかり。その基本路線を180度転換しようというのである。

教育も時代とともに変わり得る。しかし、教育は「百年の大計」であることを忘れてはならない。その観点に立ち戻れば、ゆとり教育に対する十分な検証・総括がないままの転換は、浅薄のそしりを免れない。

文科省にはどだい、教育行政をつかさどるだけの確固たる「教育哲学」があるのか。そんな疑問さえわき起こってくる。

学力低下批判に何とか応えようという意図は分からないではない。ただ、授業時間数や学習内容の増加を柱とする改定案が「適切な処方せん」であるかどうかといえば、やはり疑問符を付けざるを得ないだろう。

授業時間を増やせば学力が向上する保証はどこにもない。世界的には学力評価の高い国の方がむしろ授業時間が短い傾向にあるのだ。いわば「質」の問題を「量」でカバーしようとしてもうまくいくかどうか。

しかも改定案は、知識の習得と同時に言語力の育成を前面に押し出すなど、以前にも増して高い次元の目標達成を課している。見方によってはかなり欲張りな内容なのである。

目標が高ければ高いほど、実現するには周到さが欠かせない。改定案でいえば、一人一人の子どもに教員の目が行き届き、教材研究の時間も十分取れるような環境が必要だ。

しかし、そんな教育現場は極めてまれ。ないと言ってもいいだろう。忙しさに追われ、「ゆとり教育」に目鼻がついたと思ったら、今度は「ゆとり転換」。戸惑わない方がおかしい。

教育現場に創意工夫が求められるのは言うまでもない。同時に、現場が存分に創意工夫を発揮できるよう、文科省には教員増をはじめとする環境整備が重い宿題として残る。

道徳教育の強化も気になるところだ。子どものモラル低下が顕在化する中、規範意識を身に付けさせるという意味に限れば、理解できなくはない。

しかし、今回の強化は改正教育基本法を背景にしており、場合によっては特定の価値観を押しつけかねない危うさを秘めている。その点は頭に入れておかなければならない。

教育は学校だけでは完結しない。しつけを含めた家庭教育がしっかりしてこそ成り立つ。

学校教育が今後、どう変わっていきそうなのかをにらみつつ、家庭教育という足元をいま一度見つめ直す。学習指導要領の改定をそんなきっかけにするのもいいかもしれない。

秋田魁新報 2008年2月23日

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学習指導要領 「詰め込み学習」復活を恐れる

学校教育の内容を示す学習指導要領の改定案が公表された。

改定の柱は2つある。

1つは、30年ぶりに授業時間数、教育内容を増やし「ゆとり」の教育を見直すこと。

もう1つは、改正教育基本法を受けて道徳教育を強化する、である。

ゆとり見直しは、時間数と内容を減らし、じっくり考える教育を狙った現行要領からの180度の転換だ。

内容削減を批判した学力低下論を丸のみした改定といっていい。

「道徳」も頭をもたげてきた。だが社会の変化を視野に入れない教科導入にどれほど効果があるか、疑問だ。

■欠ける子どもの視点■
小、中学校とも主要教科の時間数を約1割増とし、ゆとりを象徴した「総合的な学習の時間」を減らす。

週当たりで小学校低学年は2時間、中・高学年と中学校は1時間増だ。

授業内容も増える。算数など現行要領で消えた内容の多くが復活した。

文部科学省は「時間数増加ほどは内容を増やしていない」としているが、示した中身は内容増と指導法への踏み込みがあり、見かけ以上に膨らんだとの印象は免れない。

例えば国語。留意事項だった「活動例」を指導内容として格上げし、分量も大幅に増やした。

「読む」指導では「音読や朗読をすること」など指導方法まで指示。算数でも「算数的活動」を列挙した。

思考力・判断力をはぐくむために、知識を活用する学習活動を例示し、探求につなげる狙いだという。

だが、そもそも画一的なマニュアルでは、子どもの多様な発想を生かした探求など望むべくもない。

指導強化の色濃い改定案には、子どもの視点が欠けている。

■「道徳」の強化際立つ■
文科省自ら「法的拘束力」を強調する指導要領である。創意工夫が大切というのなら、指導方法は現場に委ねたらいいではないか。

必要なら、「強制」とは無縁の指導資料を提供すればいい。手取り足取りのマニュアルは、自分の頭で考えない教師を大量に生む。

「道徳」の強化も際立つ。教科化こそ見送ったが、基本的方向を示す総則で道徳教育の目標に「公共の精神」など改正基本法の目標を重ねた。

各教科でも道徳教育を行うことを指導要領に初めて明記。学校に「道徳推進教師」を置くよう求め、「先人の生き方」など偉人伝を念頭に置いた教材活用もうたわれている。

戦前の「修身」をほうふつさせるような手厚さである。だが、国が偉人伝の教材化に関与すべきではない。

道徳の授業がうまくいかないのは、社会の変化で子どもが人と交わる機会が減り、基盤となる道徳的体験が育っていないことに原因がある。

いくら教化を強めても、当の子どもに経験がなくては実効は上がらない。もっと別な回路が必要だろう。

そもそもゆとり教育が結果を出せなかったのは、現場裁量を拡大したのに肝心の現場に教材研究のゆとりもない教育環境の問題が大きい。

改定は、こうした根本の問題に手を付けずに学習量を増やし、手間暇かかる「活用」や小学校英語導入という重い負荷を現場にかけることになる。

「指導の工夫」というだけでは、詰め込み学習がはびこるだけだろう。

宮崎日日新聞 2008年2月19日

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学習指導要領改定案 学校現場を混乱させるな

文部科学省はこのほど、学習内容などを示した小中学校の学習指導要領改定案を公表した。小学校は二〇一一年度、中学校は一二年度から完全実施の予定だ。改定の二本柱は、約三十年ぶりに授業時間数、教育内容を増やし、道徳教育の強化を図ったことだ。授業や教育内容を増やしたことで、これまでの「ゆとり」教育路線は完全に転換された。

ただし、「ゆとり」教育も、子どもに楽をさせようとして導入されたものではない。生活が便利になり一般的な労働の内容も単純化が進むという社会の中で、子どもの思考力や向学心が低下する傾向が見られたために、自らじっくりと考えさせる教育を行おうとしたものだ。

しかし、学力低下や道徳心の希薄化を心配する声が政界、産業界などからやまず、ついに路線転換になったものだ。学力低下を心配する意見の背景では、ITや医学などの理数分野を中心に世界規模での開発競争が激化していることも影響しているだろう。

教育内容を象徴する例では、小学五年生での円周率を「目的に応じて3を用いて処理できる」としていた記述を削除し、「3・14」と限定した。

結局のところ、子どもの自発的な学習意欲の向上を待ちきれず、一定の知識を教え込もうとするのではないだろうか。同時に、教える側についても、創意工夫の充実より指導性の強化を図ったとも言えよう。

教える側も学ぶ側も負担が増えるのは間違いないが、教師不足で疲労が重なっていると言われる現在の学校で、それを消化できるのだろうか。現場が混乱し、「詰め込み学習」がはびこるだけで終わるようだと、低学力の子どもを「落ちこぼす」心配もある。学習指導要領の改定よりも、教師の本格的な増員こそ必要だろう。

道徳教育では、改正教育基本法の目標でもある「公共の精神」などの養成が重要視される。学校には「道徳推進教師」を置くことも求められる。格差社会の進行に伴って、社会のルールを軽視する国民が増えることを心配したのであろう。しかし道徳教育は、特定の価値観を押し付けるだけではなく、人間の「格付け」につながる危険な側面を持つことを忘れてはならない。

全体に、文科省の教育への自信のなさが感じられ、明日への展望を開くような期待はとても持てない。

熊本日日新聞 2008年2月18日

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学習指導要領改定案  子供の視点が欠けている

学習指導要領改定案がまとまった。30年ぶりに授業時間、教育内容を増やし、「ゆとり」教育を見直す。改正教育基本法を受けて道徳教育を強化する。これが改定の2本柱である。

「ゆとり」の見直しは、時間数と内容を減らし、じっくり考える教育という現行要領から180度の転換だ。内容削減を批判した学力低下論を丸のみにした改定といっていい。

小、中学校とも主要教科の時間数を約1割増やし、「ゆとり」の象徴だった「総合的な学習の時間」の時間数を減らす。週当たり、小学校低学年は2時間、中・高学年と中学校は1時間増える。

授業内容も算数などで現行要領で消えた内容の多くが復活した。文部科学省は「時間数増加ほどは、内容を増やしていない」というが、中身は内容増と指導法への踏み込みで、見かけ以上に膨らんだとの印象を免れない。

例えば国語。留意事項だった活動例を指導内容として格上げし、分量も大幅に増やしたほか、例えば「読む」指導では「音読や朗読をすること」などと指導方法まで示した。算数でも「算数的活動」を列挙した。

思考力・判断力をはぐくむために、知識を活用する学習活動を例示し、探究につなげるというが、そもそも画一的なマニュアルでは、子どもの多様な発想を生かした探究など望むべくもない。指導強化の色濃い改定案には、子どもの視点が欠けている。

文科省自ら「法的拘束力」を強調する指導要領。創意工夫が大切というなら指導方法は現場に委ねるのが筋だ。必要なら強制と無縁の指導資料を提供すれば十分ではないか。

手取り、足取りのマニュアルは、自分の頭で考えない教師を大量に生む。そんなことでは現場の足腰は弱まるばかりだ。

道徳の強化も際立っている。教科化こそ見送ったが、基本的方向を示す総則で道徳教育の目標に「公共の精神」など改正基本法の目標を掲げた。

各教科でも道徳指導を行うことを指導要領に初めて明記した。学校に「道徳推進教師」を置くよう求め、「先人の生き方」など偉人伝を念頭に置いた教材活用もうたわれている。

国が偉人伝の教材化に関与するのは好ましいことではない。特定の価値の押しつけになるからだ。

道徳の授業がうまくいかないのは、子どもが人と交わる機会が減り、基盤となる道徳的体験が育っていないことに原因がある。いくら教化を強めても、当の子どもがピンとこないのだから、実効が上がるとも思えない。

「ゆとり」教育が結果を出せなかったのは、現場裁量を拡大したにもかかわらず、肝心の現場に教材研究のゆとりもない、という教育環境の問題が実は大きい。知識を問う入試の改善もないままだ。

理数重視と力こぶを入れたところで、小学校では理系出身の教師が極めて少ないという状況に変わりはない。

こうした根本の問題にメスを入れずに学習量を増やし、手間暇かかる「活用」の活動や小学校英語導入という重い負荷を学校現場にかけるのが今回の改定だ。

「指導の工夫」(文科省)というだけでは、詰め込み学習がはびこりかねない。もっと現場教師の主体性に任せていい。

岐阜新聞 2008年2月17日

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「詰め込み」回帰の危険

文部科学省が、小中学校の学習指導要領を十年ぶりに見直す改定案を公表した。

従来の「ゆとり教育」路線を転換、主要教科と体育の授業時間を約一割増やしたうえで、伝統や文化教育、言語活動の充実を掲げている。

「ゆとり教育」の象徴だった「総合的学習の時間」は、理科と算数・数学の授業時間増と引き換えに、最大百五十時間削減されることになった。

「基礎をしっかり教え、活用力を養って学力向上を図る」という文科省の狙いは間違ってはいない。「脱ゆとり」を前面に打ち出したのは、授業時間削減が原因とされる学力低下への批判に応える意図だろう。

学習指導要領が、時代や社会の要請を受けて一定時期に見直されるのは避けられない。とはいえ、約三十年間も続けてきた教育の基本方向が大転換されれば、学校現場に戸惑いが広がるのは避けられまい。

当初は手探り状態が続いた「総合的学習の時間」が、ようやく軌道に乗ってきた学校は少なくない。ゆとり教育全体の評価は、まだ十分されていないし、学力低下との関係も科学的に裏付けられたわけではなかろう。

今になっての方針転換は、国民にもわかりにくい。文科省は、ゆとり教育をどう総括するのか、何を継承するのか、明確にしてもらいたい。

安倍晋三前首相の教育再生会議が強く要求して、改定案の一つの焦点でもあった「道徳の教科化」は見送られた。

中学校で武道を教えたり、民謡を覚えさせるなど伝統、文化教育に力点を置いたところは、安倍政権が成立させた改正教育基本法の「愛国心条項」を色濃く反映している。

道徳を、教科にして数字で成績をつけるのは慎むべきだ。国家に好ましい人間だけを優秀と認め、自由公正な教育をねじ曲げる結果になりかねない。

今回の改定によって、最も懸念されるのは授業時間増による「詰め込み」教育の復活だ。改定案では、小学校は六年間で二百七十八時間、中学校は百五時間も増えることになる。

現場の不安を解消するためにも、まず教師が余裕をもって指導に当たることができる環境を早急に整備すべきだ。教員の増員は二〇〇八年度の国の予算でも、わずか千人にとどまっている。採用枠を広げる政策努力が欠かせない。

学習指導要領のような教育行政の柱となる方針が、目まぐるしく変わっていては、教育という建物全体がぐらついて安定しない。

分権時代に向け、地方の自由裁量に任せる分野をもっと増やすべきとする指摘は多い。中央教育審議会で素案をつくり文科省でまとめる改定のあり方を、今後も続けていくのが適当か。政治との距離のとり方を含め再検討が欠かせない。

京都新聞 2008年2月17日

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指導要領改定 欠かせぬ教育環境の充実

文部科学省がゆとり教育路線を転換した小中学校の学習指導要領改定案を公表した。一九九八年改定の現行指導要領が大幅に授業時間数と学習内容を削減し、学力低下批判を受けたことが背景にある。

改定案では小学校六年間で総授業時間数が現行から二百七十八時間(一単位時間は四十五分)、中学は三年間で百五時間(同五十分)増える。特に、国内外の学力調査の結果、理数系の応用力に課題が指摘されたことから、算数・数学、理科は大幅に授業時間を増やした。また、現行指導要領で削除された「台形の面積」や「イオン」などの学習内容を復活させた。

学力低下は深刻な問題だが、授業時間を増やせば子どもたちの学力が向上する確証はない。安易な知識偏重の詰め込み教育が行われるようになれば逆効果だ。改定案は、総則で「知識・技能を活用して課題を解決するための思考力、判断力、表現力を育成する」とうたう。理念は納得できるものの、狙い通りの教育効果を挙げることは簡単ではあるまい。

現行指導要領で導入され、ゆとり教育の象徴といえる「総合的な学習の時間」は、改定案で削減される。自ら考え、自らが行動して解決できるように体験的な学習や問題解決的な学習を重視する総合学習だったが、教え方や指導体制が確立せず、全般に教育現場では混乱が目立った。改定案が掲げる知識・技能の活用も、子どもたちに身につけさせる手だてを示さなければ、現場の悩みは深まろう。

安倍政権下の二〇〇六年に成立した改正教育基本法を受け、改定案には伝統と文化の継承・発展や公共の精神を尊ぶ日本人の育成が盛り込まれた。焦点になっていた道徳の教科化について、文科省は「人の心は数値で測れない」と見送ったものの、道徳教育は学校全体で行うとした。どう教えていくのか、議論をしていく必要がある。

中学体育では男女とも武道が必修となる。音楽では三年間に一種類以上の和楽器を使うことも明記した。指導教員のほか、武具や楽器の整備など課題になる。

新たな指導要領を検討してきた中央教育審議会は、教育効果を高めるには教師一人一人が子どもたちに向き合い、しっかりと指導するための時間のゆとりが大切と強調する。教職員定数を増やし、教材研究や施設改善など教育を支える条件整備の必要を訴える。だが、来年度の教育予算措置は十分ではない。教育に投資を惜しんでは日本の将来を危うくすることは間違いなかろう。

山陽新聞 2008年2月17日

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新学習指導要領 授業「増」より「質」が重要だ

文部科学省は小中学校の学習指導要領改定案を公表した。授業時間数が一九七七年の改定で減らして以来、約三十年ぶりに増える。

従来の「ゆとり教育」路線からの転換だ。

経済協力開発機構(OECD)による学習到達度調査(PISA)での日本の順位下降などを受けた学力低下批判が背景にあるのは間違いない。

その打開策として文科省は授業増へかじを切った。しかし、効果には疑問がある。PISA型学力の正当性はともかく、日本よりも授業時間数が少ないフィンランドがPISAで最高位につけていることからみても、授業増と学力向上が必ずしも直結しないのは明らかだ。

いま必要なのは授業増よりも指導方法など授業の質を高めることではないか。

子どもに学ぶ喜びを気づかせるための自己研鑽(けんさん)が教員に求められるのはいうまでもない。同時に行政には子ども一人一人に目が行き届く教員配置など、学校現場が力量を発揮できる環境整備が求められる。

新指導要領は知識の習得とともに言語力の育成をメーンにするなど学校現場に高い目標を課している。十分なバックアップもしないで、「現場の創意工夫」に頼ってばかりでは、知識偏重の詰め込み教育に戻るだけである。

主要教科の時間増で、現行の指導要領で導入された教科横断的な「総合的な学習の時間」が削減される。

導入の目的は児童、生徒が自ら学び、考える力を身につけさせるためだったはずだ。新指導要領の理念と大きな違いはない。総合学習の検証作業をきちんと行い、今後の授業に生かさなければならない。

新指導要領が「公共の精神」「伝統と文化」の尊重や「わが国と郷土を愛する」態度などを新たに盛り込んだ教育基本法の改正を受けた見直しであることも特徴の一つである

政府の教育再生会議が求めた道徳の教科化を見送ったのは当然だ。その道徳教育は学校全体で行うことを強調し、各校に学校全体の指導計画を担当する「道徳教育推進教師」を配置するという。道徳教育を否定はしないが、画一的な価値観の押し付けにならないよう留意すべきだろう。

伝統や文化の継承・発展、公共の精神の重視なども強調されている。中学校体育で男女とも必修となる「武道」の導入も教育基本法の反映といえる。

小学校で週一時間の外国語活動を新設した。中学の国語では歴史的仮名遣いなど文語のきまりを学習するため、島崎藤村の作品を取り上げるという。国際化から日本回帰まで、何ともちぐはぐな印象をぬぐえない。

心の病を患う教師が増えているという。一方で教室にじっと座っていられない子どもがいる。教育の改革、改善が必要なことはいうまでもない。教育現場や行政にはそのための努力が求められる。そして政治家は教育をもてあそばないことだ。

愛媛新聞 2008年2月17日

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指導要領改訂 教育の画一化が心配だ

授業時間数などを削減して学力低下の批判を受けた「ゆとり教育」を見直す。そして全教科を通じた道徳教育を強化する。文部科学省が公表した小中学校の学習指導要領改定案の大きな改正点である。

「ゆとり教育」の見直しからみてみよう。主要教科の授業時間数を約1割増やし、一方では1998年改定の現行指導要領で導入した「総合的な学習の時間」を削減する。因果関係の不明な学力低下論をそのまま受け入れた格好だ。

授業内容も増加する。特に応用力について課題が指摘される理数系では現行指導要領で削除された小学5年算数の「台形の面積」などが、中学3年理科では高校に移っていた「イオン」が復活する。文科省は「授業時間数ほど内容は増やしていない」と、詰め込み教育への回帰を否定する。だが、内容とともに指導方法などを示す指導項目が増えており、教育の画一化が進む懸念がぬぐえない。

例えば国語の「読む」指導では「音読や朗読をすること」などの指導法を示した。こうした細かい指導項目を増やすことは、子どもの学習到達度や多様な発想に応じた教育とは相反するものだ。

「ゆとり教育」が成果を出せないのは、先進国では考えられない40人学級や教師がゆっくり教材研究をするゆとりのない教育現場を放置している国の教育政策に問題があるからだ。本質から目をそらして指導項目を細分化しても、自分で考えられない教師を増やすだけである。

道徳教育については、教育再生会議が求めた教科化こそ見送ったが、全教科を通じた教育に取り組むことを明記した。「公共の精神」を掲げた改正教育基本法の理念を色濃く反映した内容である。

学校に「道徳推進教師」を配置するとともに、「感動を覚える魅力的な教材」の開発を教育委員会に求め、題材として「先人の生き方」なども示した。

文科省はこうした教材開発に補助金を出す方針だが、支給基準が文科省の意向に左右されるとすれば、特定の価値観の押しつけにつながる可能性も否定はできない。道徳の授業は必要だろうが、国の関与の余地は排除すべきだった。

教育現場の問題を放置したまま授業を増やし、小学校では英語を導入するなど現場の負担を重くしたというのが改定案の印象だ。文科省は現場に「指導の工夫」を求めるが、教育環境整備や知識偏重の入試改革などが手つかずでは、掛け声倒れに終わることは目に見えている。

南日本新聞 2008年2月17日

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新学習指導要領 現場の環境整備を進めよ

小中学校の学習指導要領改定案が公表された。社会的関心の高い学力低下問題に対応するため「ゆとり教育」からの転換を打ち出したこと。二〇〇六年十二月の教育基本法改正を踏まえて道徳教育の強化を盛り込んだこと。この二点が改定の大きな柱だ。

「時代に合わせた微調整。教育理念が根本的に変わるということではない」と中央教育審議会の山崎正和会長は言う。確かに、現行学習指導要領の基本理念ともいえる「生きる力の育成」は、言葉の上では踏襲されている。

生きる力とは、「自ら学び考え、主体的に判断し行動する力」のことである。それをどう実現するかが教育再生の課題だといっていい。

詰め込み教育の弊害を是正し、生きる力をはぐくむため、授業時間数や学習内容を減らし、代わりに「総合的な学習の時間」を取り入れたのが「ゆとり教育」だった。

改定案は、国語・算数・理科などの主要教科の授業時間を増やし、現行指導要領で削除された「台形の面積」など多くの学習内容を復活させた。

逆に、「ゆとり教育」の象徴ともいえる「総合的な学習の時間」は削減され、中学校の選択教科も廃止した。

政府の教育再生会議が求めた道徳の教科化は、中教審の中に慎重意見も多く見送られたが、代わりに、学校全体で道徳教育に取り組むことが明記された。各学校に「道徳教育推進教師」を配置するよう求めている。

ざっと改定の内容を紹介しただけでも、いくつかの疑問がわく。

第一に、授業時間数の増加が直ちに学力向上に結びつくのか、という問題。第二に、「ゆとり教育」からの転換が「詰め込み教育」の復活をもたらすのではないか、という心配。

第三に、道徳教育の強化は、個人の心の問題に国家が手を突っ込み、特定の価値を押し付けることにならないか、という国家統制への不安だ。

「ゆとり教育」の象徴である「総合的な学習の時間」が、全体として期待されたような成果を挙げることができなかったのは確かだ。

総合学習を実り豊かなものにするためには、事前の準備に時間をかけ、教材を工夫し、子どもの学習意欲をかき立てるような取り組みが必要だ。

こうした取り組みを可能にするためには、何よりも教員数を増やすことと、教員の技量の向上、現場の創意工夫を引き出すような学校運営が欠かせない。学校現場の環境整備を後回しにして授業時間数だけ増やしても現場は疲弊するだけで、学力向上に結びつくとは思えない。

沖縄タイムス 2008年2月17日

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学習指導要領改定 現場の条件整備に全力を

「ゆとり教育」が、あっさりと否定されてしまった。導入されてからの10年間は何だったのか。知識偏重の弊害を排除し、「詰め込み教育」への反省から、ゆとり教育という考え方が出てきたのではなかったのか。

文部科学省が公表した小中学校の学習指導要領改定案は、こんな疑問を抱かせるものだ。改定案によると、授業時間数は1977年改定で減らして以来、約30年ぶりに増加に転じた。小学校6年間で現行から278時間(1単位時間は45分)、中学3年間で105時間(同50分)増える。半面、ゆとり教育の象徴だった「総合的な学習の時間」は削減した。

加えて、授業内容も増える。算数などでは、現行要領で消えた内容の多くが復活した。例えば国語では、留意事項だった活動例を指導内容として格上げし、分量も大幅に増やした。「読む」指導では「音読や朗読をすること」などと指導方法まで示す。算数でも「算数的活動」を列挙する、という具合だ。同省は「時間数増ほど内容は増やしてない」とするが、知識偏重、詰め込み教育へ逆戻り、との疑念がぬぐえない。

現行の指導要領が掲げる「生きる力」は、理念として残した。つまり自ら学び自ら考える力の育成を目指す、ということだろう。だが今回の改定案からは、そうした自発的な力を育てる道筋は、残念ながら見えてこない。相変わらず10年前に否定されたはずの知識偏重、詰め込みへの回帰、というのは言い過ぎだろうか。

確かに、このところ内外で実施されたテストで児童生徒の学力低下について指摘する声は多い。問題は、その原因・背景だ。「現行の指導要領で、なぜ駄目なのか」という視点が改定案からはうかがえない。学力低下の原因を授業時間の多寡にのみ求めるのなら、またいつか来た道になりかねない。

教育再生会議が求めていた教科化は見送られたものの、道徳教育の強化も改定の柱の一つ。改正教育基本法で「愛国心」が明記されたのを受けたものだ。「公共の精神」など目標に掲げるが、国が特定の価値観を押し付けるかつての修身のようになってはならない。

指導要領の前提となる学校現場の条件整備はどうなのか。ただでさえ厳しい環境が、現状のままではさらに悪化する懸念もある。教師にゆとりがないままでは、どのような案も成果は得られない。絵に描いたもちとなる。中央教育審議会も答申で「教員定数の改善が必要」と言及したが、文科省はその要望に最大限、応えるべきだ。

さらに、知識偏重の入試改革など、改定指導要領の理念を生かしていく施策を文科省が、いかに実現していくか。むしろ、教育行政はこれからが正念場となる。

琉球新報 2008年2月17日

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学習指導要領改定案 また詰め込み教育なのか

学校教育の学習指導要領改定案が公表された。三十年ぶりに授業時間数、教育内容を増やし「ゆとり」の教育を見直すともに、改正教育基本法を受けて、道徳教育を強化する。

「ゆとり」の見直しについては小、中学校とも主要教科の時間数を約一割増とし「総合的な学習の時間」の時間数を減らす。週当たりでは、小学校低学年は二時間、中・高学年と中学校は一時間増になる。

授業内容も増える。算数などで現行要領で消えた内容の多くが復活した。文部科学省は「時間数増加ほどは、内容を増やしていない」としているが、示した中身は内容増と指導法への踏み込みで、見かけ以上に膨らんだとの印象を免れない。

例えば国語。留意事項だった活動例を指導内容として格上げして分量を大幅に増やしたほか、「読む」指導では「音読や朗読をすること」などと、指導方法まで示した。算数でも「算数的活動」を列挙した。

思考力・判断力をはぐくむために知識を活用する学習活動を例示しているが、画一的なマニュアルでは、子どもの多様な発想を生かした探究などは望めないだろう。改定案には、子どもの視点が欠けているといわざるを得ない。

文科省自ら言うように「法的拘束力」を強調する指導要領である。創意工夫が大切というなら、指導方法は現場に委ねるのが普通だろうし、必要なら指導資料を提供すれば十分ではないか。

手取り、足取りのマニュアルは自分の頭で考えない教師を大量に生むだけ。それでは現場の足腰は弱まるばかりだ。

道徳強化も際立つ。教科化こそ見送ったが、基本的方向を示す総則で道徳教育の目標に「公共の精神」など改正基本法の目標を掲げた。各教科でも道徳指導を行うことを指導要領に初めて明記。学校に「道徳推進教師」を置くよう求め、「先人の生き方」など偉人伝を念頭に置いた教材活用もうたわれている。

戦前の教科構造で筆頭に置かれた修身をほうふつさせるような手厚さである。国が偉人伝の教材化に関与するようなことになれば、特定の価値の押しつけになりはしないか。

道徳の授業がうまくいかないのは、子どもが人と交わる機会が減って基盤となる道徳的体験が育っていないことに一因がある。いくら教化を強めても当の子どもがピンとこないのだから、実効が上がるとも思えない。もっと経験の積める工夫が必要だ。

「ゆとり」教育が結果を出せなかったのは、現場裁量を拡大したのに、肝心の現場に教材研究のゆとりがなかったことも大きい。

理数重視と力こぶを入れたところで、小学校では理系出身の教師が極めて少ないという大状況に変わりはない。

根本の問題にメスを入れずに学習量を増やしも、実効が上がるのかとの疑問が残る。時間と労力のかかる「活用」の活動や小学校への英語導入という重い負荷を学校現場にかけている。それを「指導の工夫」というだけでは、再び詰め込み学習が幅を利かせる結果になりはしないかと危ぐする。

山陰中央新報 2008年2月16日

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学習指導要領 「詰め込み」の復活では

小学校では台形の面積や都道府県名を学び、英語活動も導入される。中学校では武道が必修になる−。文部科学省が、こんな学習指導要領改定案を発表した。

主要教科の授業時間をほぼ三十年ぶりに増やし、歴史や道徳の教育を強く推進する姿勢も打ち出した。

従来の「ゆとり教育」の路線を大きく転換する内容だが、あれも、これもと盛り込んだ印象がぬぐえない。

学習内容の増加に伴い、教育現場の負担は重くなる。教員が子どもに向き合う時間を確保できるような教員配置や学校設備の拡充など、教育活動を幅広く支える政策はあるのだろうか。

文科省が目指しているのは、まず基礎的な知識の習得だ。だが、今の教育現場で深刻なのは、子供たちの学ぶ意欲そのものの低下である。

「できる子」と「そうでない子」の学力格差が広がり、学力の二極化も進んでいる。

文科省が、まず目を向けなければならない問題は、どのようにして「勉強嫌い」を少なくするかではないか。

勉強についていけない子どもの学力を補う対策も欠かせない。

この問題に目をつむり、学ぶ知識の量を増やすだけでは、学力の向上は望めまい。勉強の嫌いな子どもには「押しつけ」と映らないか、心配だ。

文科省はこれまで、「総合的な学習の時間」を使って、子どもの問題意識に応じた実験や観察、調べ学習などを奨励してきた。応用力を養うためだ。

改定案では、総合的学習の時間が削減された。何が問題だったのか。その分析と検証なしに、いきなり時間数を削るのはあまりに乱暴である。

戦後の指導要領改定は七回目だ。今回は、教育基本法が「教育の目標」に掲げた「伝統や文化」を尊重する観点が打ち出された。古典や伝説、和楽器の学習、武道が必修になった。

各学校に「道徳教育の推進」を担当する教員を置くことも定められた。

いずれも政府の教育再生会議が強く求めていた内容だ。

日本の伝統・文化や規範意識を身につけることはもちろん大切だ。問題はそのやり方である。

指導要領を改定して、特定の価値観や歴史観を押しつければ、子どもたちが多様な考え方を身につけることを妨げないだろうか。

小学校の英語活動導入には、一部の父母の間に歓迎する意見がある。

だが、なぜ小学校から英語を学ぶ必要があるのか、文科省の説明は十分とはいえない。学力格差が広がる心配があるという専門家の指摘もある。

指導要領の改定は、かつての「詰め込み型教育」の復活につながるのではないか。文科省は、この疑問に分かりやすくこたえ、子どもの学力をはぐくむ道筋を説明する責任がある。

北海道新聞 2008年2月16日

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新学習指導要領案 授業時間増より質が大事だ

文部科学省が、幼稚園から中学校までの新学習指導要領案を公表した。小中学校の主要教科と体育の授業時間数が約1割増えたほか、伝統文化の継承や規範意識の育成も盛り込んだ。
理数の年間授業時間は小学校197時間増(現行比16%増)、中学校165時間増(同27%増)となる。小学校は2011年度、中学校は12年度から完全実施される。

これまでの授業時間数は、学校週5日制の導入や詰め込み教育への批判などから1980年度以降減少を続けたが、約30年ぶりに増加に転じることになった。総合的な学習の時間が削減され、「ゆとり教育」からの路線転換が図られることになる。

授業時間が一転して増加に転じたのは、国際数学・理科教育動向調査や国際学習到達度調査で日本の児童生徒の学力低下が明らかになり、ゆとり教育の弊害との批判が強まっていることが背景にあるからだ。

総合的学習の時間を削る一方で、新指導要領案では現行の指導要領の「生きる力」を育成するというゆとり教育の理念は一層重要と位置付けている。これでは、どちらの路線を重視しようとしているのか判然とせず、あいまいな改定案は教育現場を混乱させるだけではないか。

文科省の方針転換は拙速すぎはしまいか。ゆとり教育を掲げ、生きる力をはぐくむとした現行の指導要領がスタートしたのは02年度からで、その柱は授業時間数の削減や総合的な学習の時間の創設だった。

学力低下は本当にゆとり教育の弊害なのか、教育現場と家庭の連携は十分だったのか、入試改革など抜本的な教育環境は改善されてきたのかといった問題を含め、ゆとり教育は本当に失敗だったかを十分に検証することなく方針転換した文科省の方針は問題なしとは言えまい。

新指導要領案については、教育現場からも不安や困惑の声が少なからず上がっているようだ。これまでのゆとり教育をきちんと検証し、学校や家庭にくすぶる疑問の声に文科省はもっと明解に答える必要がある。

小学校は低学年で週2時間、3年生以上は週1時間程度授業時間が増えるほか、英語が5年生から必修となり、6年生とともに年間35時間ずつ割り当てられる。また、中学校では3年間で計155―280時間あった選択教科が事実上廃止され、体育では武道が必修となる。

文科省の方針に納得がいかないのは、授業時間を増やせば学力低下に歯止めが掛けられると考えている節が垣間見えるからだ。

児童生徒に欠けるとされる思考力や表現力などを含めた確かな学力は、授業時間を増やしたから養えるかといえば、そう簡単にはいかないだろう。

文科省は生きる力を身に付けさせるために何をどのように学ばせるのかをさらに詳しく現場に説明する必要があるし、教師の質や授業の中身、児童生徒の学習意欲をいかに高めていくかを詳しく説明し、もっと国民の共通理解を高める必要があると考える。

陸奥新報 2008年2月16日

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学習指導要領改定案 学校現場で消化できるのか

小中学校の学習指導要領改定案が公表された。学力低下批判の高まりを受け、約30年ぶりに授業時間数や学習内容を増加、一方、改正教育基本法を反映して伝統や文化の重視、道徳教育の充実を打ち出している。

渡海紀三朗文部科学相は「ゆとり教育の理念は間違っていなかったが、前回の改定で削りすぎた」と述べているが、これまで続けてきた「ゆとり教育」からの転換にほかならない。

だが、ゆとり教育の理念は間違っていないという大前提を崩さないことと、社会の要請に応えるという二つの基本姿勢から、さまざまなひずみが生じてしまった感が否めない。

学校週5日制は維持したまま主要教科の時間数を増やすため、ゆとり教育の柱だったはずの総合学習の時間が削減されるのはその象徴だろう。

さらに問題なのは、基礎的な学力の向上、応用力や読解力の向上などを掲げた上に、伝統や文化、道徳教育の充実など、あれもこれもと詰め込んだ内容にになっていることだ。

学校現場で内容をしっかり消化し、日常の授業で対応していくことが本当にできるのだろうか。疑問や不安は大きいと言わざるを得ない。しわ寄せが現場に押し付けられては、子どもたちにとっても不幸な結果になりかねない。

基礎知識をしっかり身に付けたり、言語力を育成したりすることは極めて重要なことだ。現行指導要領があまりにも削りすぎたことは否定できない。授業時間を増やせば学力向上に結びつくといった単純なものではないにしても、一定の増加は必要だろう。

だが本当に心配なのは、日本の子どもたちの学習意欲や科学に対する関心の低さだ。経済協力開発機構(OECD)による国際的な調査では、OECD加盟国平均を大きく下回る結果が示されている。

この問題は授業時間数や学習内容を増やせば解決する問題では決してない。子どもたちを取り巻く社会環境全体も大きく関係している。

学校現場の努力や工夫が必要なことは当然だが、社会全体で取り組むべき課題だろう。教員の質と量の確保など教育環境の一層の整備も欠かせない。

小学校5年からの英語活動、中学体育の武道、ダンスの必修化、伝統音楽教育などへの国の対応も心もとない。

伝統や文化を大切にすることは大事だが、学校現場で改定案に示された内容までしっかりと指導することが本当にできるのか。見切り発車で、形だけの導入になってはかえって逆効果になる。

「人の心は数値で測れない」として、道徳教育の教科化が見送られたのは当然の措置だろう。ただ、全教科を通じて道徳教育を行うと明記し、一段と強化する姿勢を鮮明にしたことは、将来は教科化されるのではないかという不安を残す。

公共心や郷土を大切にする心の育成をどのように進めていくか、前のめりにならず慎重に検討していくよう求めたい。

河北新報 2008年2月16日

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新学習指導要領 習得できるか心配する

理数や外国語、伝統・文化の各教育を中心に内容は濃くなった。現行の「ゆとり教育」から方向転換だ。だが、人的・財政的支援がないままでは、現場にしわ寄せがいき、子供の習得にも影響する。

授業時間数の増加はすでに打ち出されていたが、小、中学校の新学習指導要領案で学習内容の改善される部分が示された。主要教科だけでなく、道徳や外国語活動もテコ入れが図られる。指導要領改定は十年ごとに行われているが、増量は四十年ぶりのことだ。

例えば、二次方程式の解の公式は高校から中学三年、対称図形は中学から小学六年、立方体の体積の求め方は小学六年から五年と、学ぶ年齢が下がる。小学校三・四年の社会で習得する知識として「四十七都道府県の名称と位置」が挙げられた。

授業時間を増やし、内容を充実させる理由に学力低下問題がある。経済協力開発機構の学習到達度調査が行われるたびに日本は国際順位を下げる。全国学力テストでは基礎的知識はまずまずの結果だったが、その活用には課題がみられた。

文部科学省は「知識・技能の習得と思考力や表現力などの育成にバランスを重視した」というが、指導要領は学ぶべき事柄を詳細に列挙している。これでは知識偏重にならないか懸念が残る。授業時間増の理科だが、実験に割り当てる時間はというと、実際には学校任せになる。

道徳は各教科を通じて充実させるという。数学や理科でも道徳を取り入れるとされるが、具体的手法が想像できない。教育再生会議が教科化を提案したことへの配慮とみられるが、指導要領に記述すれば現場に余計な気遣いをさせるだけだろう。

実施に向けて現時点で財政的措置が伴っていないことも気掛かりな点だ。小学五、六年では外国語活動が導入される。文科省は教材作りに取りかかっているが、新年度の予算案ではCD費用は削られている。

中学の体育では武道が必修となる。武道場のある学校は半分にも満たない。素人の指導となれば、習得以前に事故の危険も増えるだろう。

全体でどれほどの財政負担になるのか同省は「固まっていない」という。行財政改革も進めなければならないが、
教育は国の将来にかかわる重要政策だ。脱「ゆとり」を図るなら、相応の財政支出は不可欠だ。

人的、財政的支援がないままではしわ寄せが現場にいく。指導要領は最低基準とされている。教師が消化することだけに追われれば、こまやかな指導は二の次になる。行き着く先はついていけない子供の増加だ。

中日新聞・東京新聞 2008年2月16日

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日本史必修 国際人育成にこそ不可欠

重い意味合いを含んでいよう。高校日本史必修化の問題だ。県教育委員会は現行の学習指導要領では選択科目になっている日本史の履修を義務づける方針を明らかにした。改定作業が進められている新学習指導要領が実施される二〇一三年度をめどに開始する。

自国の歴史もろくに知らないで外国人に理解を求めることができるのか。多くの県民が抱いてきた素朴な疑問だろう。教育長は「国際社会で生きていく上で、日本の歴史や文化の理解を深めることは必要なこと」と述べている。

世界史は一九九四年度から必修となった。世界的視野を持った国際人を育てるというのが眼目である。そこには日本史の観点が抜け落ちていまいか。自分の国の歴史の記憶が曖昧模糊(あいまいもこ)としているのに「国際人」もなかろう。海外に出てこそ、自国が見えてくるという話は目新しいものではない。そのとき、若者たちは勉強不足を後悔するのではないだろうか。

これには文部科学省、中央教育審議会の誤認識があるかもしれない。現実と認識が必ずしも一致していない。先月に行われた大学入試センター試験では日本史を選択した受験生は46%、世界史は27%だった。こうした実情も文科省は頭に入れておくことである。

県教委が日本史必修に踏み切った背景の一つに、中教審が答申では引き続き世界史を必修に、日本史を選択にしたことがある。それならば独自に対応を、との思いが県教委にあったはずである。

むろん「上からの押し付けは好ましくない」「高校が持つ教育課程の編成権を侵す」などの批判があるのは分かる。小中学校と違って高校には教育課程での編成権がある。比較的自由、柔軟であって学習指導要領違反でも法律違反でもない。教育内容こそ、その学校が個性を発揮できるものだ。

その意味では、こうした科目の必修化は各校の裁量範囲を狭めるとの見方も出てこよう。しかし、一方では高校は義務教育ではないからこそ教委が独自の必修科目を設定する柔軟性もあろう。そこには分権の流れも認められる。

また「愛国心教育につながりかねない」との心配ももっともだ。県教委が検定もない教科書をいわば勝手に用意できるからだ。行き過ぎのないよう、偏った史観に流れないよう、たゆまない監視も必要となる。だが、そうした点を考え合わせても、「日本史」には目を注いでもらいたいと思う。

若者が近現代史、特に明治維新以降の歴史に暗いことが指摘されてきた。これまでの授業が時間切れで終わってしまうからだ。戦後世代が大多数を占める今日、彼らにとって日本の運命を決した日中戦争や太平洋戦争は、はるかかなたにあろう。戦火の繰り返しの中から何を失い、何を得てきたのかも、よくよく学んでほしい。

神奈川新聞 2008年2月16日

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新指導要領 子どもに目が届くのか

新しい学習指導要領の内容がほぼ固まった。教育基本法が変わって初の改定である。

学力低下の心配を背景に、理科や算数・数学の学習内容の前倒し、小学校での英語導入など、学ぶべき内容は増えている。授業数も増える。「ゆとり教育」からの転換だ。

あれもこれもと盛り込んだ結果、子どもたちの学習にきめ細かな目が届かなくならないか、心配だ。少人数学級の編成など、学ぶ環境を良くしなければ、できる子とできない子の差はさらに広がりかねない。

学習意欲が低いとされる、理科や算数・数学に力を入れたのが特徴の一つだ。5年生で台形の面積を復活させた。二次方程式の解の公式(数学)や、イオン、遺伝(理科)などを高校から中学校に移している。

小学校高学年では週1時間の外国語活動を導入する。英語でコミュニケーションを図る活動が中心で、英語を母語とする講師や地域の人たちの協力を求めている。

教える内容も時間も増やしたのは、基本的な知識や技能の習得を狙ったためだ。しかし、日本の生徒に足りないとされるのは応用力や読解力。知識を詰め込むのではなく、「なぜか」を追究する学びでなければ、生きた学力は育たない。教員が背負う課題はさらに重くなる。

学力向上を目指す以上、教員の数と質のアップは避けられない課題である。新指導要領を検討してきた中央教育審議会自身が、教員の増加や外部の人材の活用など条件整備を求めている。

2008年度予算では、新設の管理職の補充を主に、約1200人の定員増を予定するだけだ。この体制で内容の濃い指導を求めると、教員も子どもも疲れ切ってしまう。

改定案を読むと、気になることはほかにもある。基本法が掲げる復古調の教育の目標を反映し、「道徳」や「伝統と文化」を織り込んだカリキュラムが目につく。

例えば、小学校高学年の国語で、古文や漢文などの音読が入った。音楽は、鑑賞教材に和楽器を含め、わらべ歌や民謡も取り上げることになる。中学の体育では柔道や剣道といった武道を必修とした。

道徳教育は「教科」にはしないものの、学校全体で行うことを強調している。「公共の精神を尊び、主体性のある日本人を育成する基盤」として、充実を求めた。

日本の伝統的な文学や音楽を学ぶこと自体は悪くない。ただ、日本人はこうあるべきだ、といった姿の押しつけになっては、教育はゆがめられ、息苦しいものになる。教える内容や指導法の選択は、弾力的にできるようにしたい。

信濃毎日新聞 2008年2月16日

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新指導要領案 自ら学ぶ意欲が育つのか

戦後の学校教育のありようを大きく変える内容といっていい。だが、これで子どもたちに自ら学ぶ意欲が育つかといえば、疑問を抱かざるを得ない。

文部科学省は小中学校などの学習指導要領の改定案を発表した。ポイントは二つある。一つは主要教科の授業時間増を打ち出したことだ。三十年続いた「ゆとり」教育路線の転換であり、その意味は小さくない。

もう一つは、伝統文化の継承や規範意識の育成を盛り込んだことである。安倍政権下で改正された教育基本法に呼応するものだ。道徳の教科化は見送られたが、全教科を通じて道徳教育を行うことが明記された。

詰め込み教育批判から始まったゆとり路線が学力低下を招き、社会規範の緩みが学級崩壊や少年犯罪の深刻化につながったとの見方がある。主要教科の学習と道徳の「強化」で立て直そうというのが文科省の発想なのだろう。

改定案では基礎的な知識、技能の習得とそれを活用するための思考力、判断力、表現力をはぐくむとしたほか、「知・徳・体の調和」を掲げた。主要教科を中心に基礎、応用学習に力を入れ、道徳と体育を重視する。時計の針が一昔前に巻き戻されたようだ。

問題は、子どもが何をマスターすべきかといった点ばかりが強調されている印象が強いことである。

なぜこの内容を学ぶのか。他人を尊重し、社会のルールを守ることがなぜ必要なのか。子どもたちがそれを考え、感得できる教育をこそ目指したい。「ノルマ」ばかり増えては、詰め込み教育の再来になりかねない。

主要教科は約一割授業時間が増え、とりわけ理数が大幅に増す。小学校で英語も必修化される。週休五日制のまま土曜日などを活用するというが、教師の負担増は必至だ。いまでも授業についていけない子どもは多い。学力格差がますます広がらないか。

日本古来の伝統文化の学習機会も増やす。小学校から和楽器などの鑑賞を楽しみ、中学ではダンスと武道が必修化される。国際化の時代である。自国の歴史や文化を知ることは大切だが、世界史の中での日本の位置付けを学ぶことも欠かせない。

経済が発展し社会が豊かになると、学習意欲が落ちたり、規範が緩んだりするといわれる。子どもが主体的に学ぶ意欲をどう育てるかは、先進諸国共通の課題だ。上からの管理強化が問題の解決になるとは思えない。

現行指導要領に盛られた「生きる力」をどうはぐくむかが、いま最も問われているのではないか。子どもたちが自分で考え、他人とコミュニケーションができる力を身に付けられるような形で「学び」を考えたい。

新潟日報 2008年2月16日

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指導要領改定案 学力向上にどうつなぐ

小中学校の授業時間数を大幅に増やす学習指導要領の改定案を、文部科学省がきのう、発表した。時間数は一九七七年以来、ずっと減り続けている。約三十年ぶりの軌道修正だ。時間数増が真の子どもの学力や生きる力のアップにつながるか、が試される。

「ゆとり教育の見直し」は、安倍晋三前首相が旗を振った教育再生会議が打ち出した。中教審がその方向で答申し、文科省がお墨付きを与えたように見える。

時間数そのものを小中で年間三十五時間増やす。増えた時間を再配分して、算数や英語など主要教科を厚くし、総合的な学習を削る。これが改定案の柱だ。

中学でいえば、ほとんど毎日が六時間授業になるケースも出てこよう。ただ、主要教科をみっちり教えるのだから成績が上がるはず―と思える人はどれぐらいいるだろうか。

子どもたちに欠けているのは学ぶ意欲、と現場で聞く。経済協力開発機構(OECD)の学習到達度調査(PISA)でも、同じ指摘がされている。とすれば子どもを長く縛り、教える量を増やしても効果は薄かろう。

考えるべきは「知りたい」という意欲や「やっぱり学んでおかなければいけないのだ」という認識を子どもたちが抱くよう、どう水を向けていくかである。増えた時間でこうした点に工夫を凝らすことが望まれる。

削減された総合学習をどうするかの課題も残る。失敗例がある一方で、試行錯誤の末に子どもが地域につながったり、テーマを決めた探求の面白さを知ったりしたケースも数知れない。

やっと方法論が定着しかけている。なくすのは惜しい。この蓄積を新体制でどう生かし、引き継ぐかを考えたい。

時間数増であおりを食いそうなのがクラブ活動だ。放課後が短くなる。改定案にはクラブがはっきり位置付けられていない。学習との「両立」が図られるような詰めができないだろうか。

旗振り役が去ったせいか、道徳の教科化などが見送られ、全体のトーンは比較的穏やかになった。コミュニケーション能力など現代的な課題を盛り込んだ点については評価できようか。

改定案は告示後、二〇〇九年から一部実施される。一時的な混乱はあろうが、その時は「真の学力とは」との原点に返って、現場サイドに立った対応が望まれる。

中国新聞 2008年2月16日

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学習指導要領改定 「生きる力」は育つのか

小中学校の学習指導要領改定案は「ゆとり教育」を縮小し、「学力重視」へ方向転換するものだ。

しかし、「子どもたちをどんな人間に育てたいのか」という、肝心のビジョンが見えてこない。

「ゆとり教育」は現行指導要領の理念で、その柱になっているのが「総合的な学習の時間」である。自ら学び、自ら考える力、いわゆる「生きる力」をはぐくむのが狙いだ。

その背景には、知識の詰め込み教育に対する反省があり、授業時間や学習内容を減らした。

改定案では「総合的な学習の時間」を削り、理数など主要教科の授業時間を増やした。「生きる力」の理念は継承し、論理的な思考や言葉で説明する力を身に付けさせるとしている。

学力低下の批判に加え、国内外の学力調査で知識の活用力不足が明らかになったことが、「ゆとり教育」見直しの大きなてこになった。

知識を活用する力や論理的な思考力を養うことは、もちろん大切だ。異論はない。

しかし、そうした力の衰えの原因が、「ゆとり教育」にあるのかどうかは疑問だ。その検証ができているわけでもない。

私たちはこれまで、「ゆとり教育」の考え方は間違っていないと主張してきた。むしろ原因は別のところにあるのではないか。

例えば、知識偏重型の大学入試制度である。大学入試が「脱知識型」へ根本的に変わらなければ、小中高校の教育も変わらない。授業や学習内容を増やすことによって、応用力や思考力がつくとするのは楽観的すぎる。逆に詰め込み教育へ回帰する恐れさえある。

もう一つは教育の現場だ。忙しすぎてじっくり子どもに接する時間がないという教師は少なくない。改定案に現場からは早くも「負担が増えるのではないか」との声が上がっている。

心の通い合うきめ細かな教育を目指すのであれば、教師の数を増やしてもっと少人数の学級にしたい。学習指導要領の改定を答申した中央教育審議会も、教員増など現場への支援が必要だと指摘している。

こうした教育の現状が「ゆとり教育」を中途半端なものにしたともいえる。これらが改善されないまま新しい指導要領に切り替えても、成果が上がるとは思えない。

道徳の教科化は見送られたが、改定案には全教科を通じて道徳教育を行うと明記された。「公共の精神」を掲げた改正教育基本法の理念を反映したものだろう。

いじめや自殺、不登校など子どもたちをめぐる問題は、教育のあり方そのものに深くかかわっている。道徳教育にどんな役割が果たせるのか。過大な期待は禁物だ。

入試制度をはじめ、本質的な教育のあり方にまで踏み込まないのであれば、学力低下批判や改正教育基本法を受けただけの小手先の見直しでしかないだろう。

初めに、子どもをどう育てたいのかが分からないと言ったのも、そうした理由からだ。

さわやか福祉財団理事長の堀田力さんは、子どもたちに何よりも「人間力」をつけさせたいと主張する。

知識を詰め込む教育では「生きる力」がつくはずがないとして、総合的学習の充実を訴え、「学ぶ楽しさを実感できる授業こそが必要だ」と語っている。

改定案で子どもたちの目を輝かせることができるだろうか。

徳島新聞 2008年2月16日

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指導要領改定案 条件整備が大前提だ

文部科学省は、主要教科の授業時間数全体の一割増などを柱とする、小中学校などの学習指導要領改定案を公表した。

学力低下批判のある現行の「ゆとり教育」路線を軌道修正し、ゆとり教育の目玉として導入された「総合的な学習の時間」は大幅に削減される。

現行の「『生きる力』をはぐくむ」という理念は引き継がれるが、変わるのは実現するための手だてだ。

現行要領は、「自ら学び自ら考える力の育成」を前面に掲げてきた。改定案はこれよりも「基礎的な知識や技能の習得」が先行する。

つまり、生きる力を支えるのは何よりも学力だ、という発想である。

そのことは否定しないが、授業時間増と学力向上との因果関係ははっきりしていない。

約三十年ぶりに授業時間増方針が打ち出される契機となったのが、経済協力開発機構(OECD)による学習到達度調査(PISA)だ。

日本の子どもが順位を下げ、学力低下批判が噴出した。ゆとり教育の弊害だとする声に押され、改定が進められた印象だ。

主要教科の時間を確保するため、結果的に犠牲になった総合学習にしても、教員の試行錯誤を経て、ようやく現場に定着した段階である。

現行の総括が不十分なままでの「ゆとり」転換は、「詰め込み教育」への回帰ととられても仕方あるまい。現場は「子ども主体の学び」から事実上、「教師中心の指導の強化」へと転換を余儀なくされるのではないか。

改定案のもう一つの大きな特徴は、「公共の精神」「伝統と文化」の尊重などを掲げた改正教育基本法の理念が、色濃く反映されていることだ。

強まる伝統色
中学体育で武道が必修となったほか、音楽では唱歌、和楽器の内容が増え、道徳教育の項目には「公共の精神を尊び」の記述が見られる。

だが、武道一つとっても、道場が必ずしも整備されているわけではない。未経験者も多い。生徒の安全に十分配慮できる指導者を確保できるのかも不安だ。

音楽の項目で「伝統的な歌唱指導を重視」とまで言及されていることにも違和感を覚える。

改定学習指導要領は、小学校は二〇一一年度、中学校は一二年度に完全実施するが、算数・数学、理科の一部については〇九年度から前倒しされる。

これも、PISAなどで理数系の応用力の低下が指摘されたことを受けたものだ。授業時間も大幅に増える。不得意な子どもへの目配りがこれまで以上に求められる。

教育の「量」が増える一方で、子どもの「生きる力」を育成する―保護者対応の増加などで多忙感を強める教員から見れば、これは極めて厳しい要求だろう。

子どもにも教員にも余裕のない時間割となり、現場の火急の問題となっている学力の「格差」がますます拡大する恐れもある。教え込むだけの授業では、子どもたちは学ぶ喜びなど実感できるはずがない。

新学習指導要領の実施には、子どもと向き合う時間が確保されることが絶対条件だ。渡海文科相は、教員定数など条件整備にも努めるとしているが、必要な教育条件が整備されてこそ、さまざまな可能性が開けてくる。

何よりも、学力の前提となる子どもの意欲を引き出すために、条件整備は大前提だ。

高知新聞 2008年2月16日

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「生きる力」は身に付くか 新学習指導要領

文部科学省が、新たな教育課程の基準となる学習指導要領の改定案を発表した。小中学校で主要教科の授業時間を1割程度増やす一方、現行の指導要領で導入された総合学習の時間は削減される。

移行措置を経た上で、小学校は2011年度から、中学校はその翌年度から全面実施される。

授業時間が増えるのは、実に約30年ぶりだ。国際比較調査などで明らかになった学力低下の批判を踏まえ、いわゆる「ゆとり教育」を事実上、軌道修正する改定案だと言えるだろう。

しかし、「生きる力」を育成するという基本理念は変えない。「生きる力」を支える「確かな学力」「豊かな心」「健やかな体」の調和で、より充実を目指す‐というのが文科省の見解である。

改定案を導いた中央教育審議会(中教審)の審議を基に、文科省は「ゆとりか詰め込みか‐というような二項対立の図式は克服したい」とも言う。授業時間を増やすと言っても、かつて批判を浴びた詰め込み教育への回帰を意図する改定ではない、という主張だ。

確かに、子どもたちの学力低下を心配する保護者は多い。国際競争力の劣化につながると懸念する声は、政界や経済界でも強まっている。その元凶を「ゆとり教育」に求める意見も少なくない。

それにしても、「掲げた看板は間違っていない。だから方法論を見直す」という論法に無理はないか。理解に苦しむ国民も少なくないはずだ。授業時間とともに教える内容も増やし、検定教科書を厚くすれば、文科省や中教審が追い求める「生きる力」が本当に身に付くのか‐という素朴な疑問は依然残る。

「愛国心」条項を盛り込んだ改正教育基本法を受けて、道徳教育に力を入れ、古典の学習や武道の指導も強化する。小学校の高学年には外国語(英語)活動を新たに導入する。科学技術の土台となる理数教育も充実させ、集団宿泊など体験活動も重点的に推進する‐。

文科省は指導要領の内容を「厳選した」と言うが、改定案を一覧すれば、この際だから「あれもこれも」盛り込んだという印象を否めない。

何よりも心配なのは、こうした「盛りだくさん」の指導要領を教育現場が十分に消化した上で、適切に実践できるのか‐ということだ。

机上でカリキュラムの時間割を増やし「教育の充実」を唱えること自体は、そう難しくない。問題は、教える人材や教材を質量ともに充実させ、施設や設備を整え、必要な公費負担にもきちんと筋道を付けることだ。そうした措置を講じない限り、結局は教職員や児童生徒に負担を転嫁することになりはしないか。

大切な日々の授業を規定する学習指導要領の改定案だ。文科省や教育現場任せにせず、私たち国民が、教育改革の方向性や内容を吟味する契機としたい。

西日本新聞 2008年2月16日

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教育再生会議 新機関は現場の直視を

教育再生会議は最終報告をまとめて幕を閉じたが、具体性を欠いた提案ばかりだった。後継の新機関が設置される。再生会議の轍(てつ)を踏まないよう、現場の実情を直視したうえで施策を検討すべきだ。

「国家百年の大計」とされる教育だけに期待していた人も少なくないだろう。だが、最終報告も内容は乏しかった。「この学校で学んで良かったと心から思える学校づくりを目指す」「行政が協力して総合的に青少年の健全育成を図る」などは、いまさらといえる。

臨時教育審議会や教育改革国民会議と比べて、これほど批判を浴びたのはなぜだろう。教育には多種多様な意見があるはずだ。もっと広く活発な議論が行われてもよかった。

最初から結論ありきのテーマがあった。「徳育を『教科』として充実させる」という提案だ。二次報告の段階から訴えられてきたが、中央教育審議会は教科化を見送る姿勢を示し、足並みはそろわなかった。

政府の考える価値観を押しつけることになりうる教科化には慎重意見が根強く、深い議論が必要だった。ところが、途中で安倍晋三氏が政権を投げ出した。旗振り役がこれでは提案に説得力を求めるのは難しい。

会議の委員選定は適切だったのだろうか。各界から人材を求めたのはいいが、提案は徳育や競争原理に偏った。教育がテーマなのに教育研究者は一人もいなかった。委員は日本各地の教育現場を視察したという。それは生かされなかったようだ。

土曜日を補習に使う公立学校は増えている。賛否が分かれるが、東京・杉並区立和田中は夜間に学校で進学塾を開いた。再生会議の提案よりも現場は学力向上などの課題を深刻に受け止め、すでに対応を始めている。教育研究者や現場の意見を取り入れるべきだったのではないか。

提案は本質的といえる問題への言及も乏しかった。座長を務めた野依良治理化学研究所理事長は最終報告を福田康夫首相に手渡した後、記者会見で「経済協力開発機構諸国に比べて日本は教育への財政支出が少ない。倍増すべきだ」と力説した。

しかし、最終報告は「必要な予算について財源を確保し、投資を行う」としか述べていない。「国の財政状態が厳しいから」と尻込みしてしまったかたちだ。財政に触れにくいのであれば、教育の分権や規制緩和にかかわる議論はどうだったのか。具体的な提案は見当たらない。

「提案を実現するために実効性を担保する」新機関がつくられるという。財政と分権の問題にも、次は踏み込んだ議論を展開してほしい。

中日新聞・東京新聞 2008年2月7日

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教研集会拒否 見識を疑うホテルの姿勢

日教組が二日に東京都内のグランドプリンスホテル新高輪で予定していた「教育研究全国集会」の全体集会が、ホテル側からの一方的な契約破棄で、中止に追い込まれた。契約破棄は無効という裁判所の判断が出た後もホテルが使用を拒み、時間切れになってしまった。

教研集会は、教員らが教育の課題について研究を発表し合い、討議する日教組の重要な集まりで、一九五一(昭和二十六)年以来、各地で毎年開かれている。今年は、四日までの分科会が予定通り都内各所で開かれた。しかし、初日の全体集会が中止となったのは初めてである。

いったい、何がどうこじれたのか。

日教組は昨年、ホテルと開催契約をし、費用の半額も払い込んだ。その後、ホテル側は契約解除を通告し、費用も返してきた。ホテルはその理由として、右翼団体による街頭宣伝などの妨害活動を挙げている。

日教組は撤回を求める仮処分を東京地裁に申請して認められた。ホテル側は東京高裁へ抗告したが、「契約時に予測されたこと」として、棄却された。当然の司法判断といえるだろう。

ホテル側の考えや行為には問題が多い。なにより、日教組の仮処分を認めた司法判断を無視したことは、法治国家の下で許されることではない。しかも、民主主義社会で守るべき集会の自由を結果的に妨害したことになる。

ホテルは「お客さまの安全・安心を企業理念、規範、行動指針の第一に掲げており、今回の姿勢はそれに沿った」との見解を出している。しかし、そのために司法判断に従わないというのは、身勝手な「企業理念と規範」というほかない。

企業のさまざまな不祥事が相次ぐが、「司法無視」という行動もまた、見逃せない不祥事といっていいだろう。大手ホテルが果たすべき社会的責任を放棄したと批判されても仕方ない。

教研集会は過去にも、公共施設の使用をめぐって四回訴訟となり、いずれも使用を命じる裁判所の判断で決着してきた。妨害活動にもかかわらず、集会はこれまで開催されてきたのである。民間企業でも契約した以上、警察や日教組と連携してきちんと開催させるべきだったろう。

思想信条や集会の自由という憲法で保障された大切な権利が、妨害で制限されたり委縮させられることがあってはならない。このことを自覚し行動してこそ、いま企業が問われているCSR(企業の社会的責任)を果たしたことになるはずだ。

神戸新聞 2008年2月5日

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教育再生会議 上からの改革の危うさ

政府の教育再生会議が最終報告を出し、一年三カ月におよぶ活動を終えた。これまで発表した提言の域を出ない内容だ。

再生会議は、安倍晋三前首相の肝いりで始まった。昨年九月に安倍氏が退陣すると、急速に存在感を失った。

時の政権をバックにして、「上からの改革」を強引に進めるやり方では、学校現場が混乱するだけだ。公教育の再生も望めまい。

福田康夫首相は、後継組織を発足させる方針を表明した。しかし、今度こそ欠かせないのは、再生会議の未熟さを教訓に、教育再生への道筋を示す努力ではないか。

最終報告には、目新しさはうかがえない。学校の選択に競争原理を持ち込む「教育バウチャー制」導入、第三者機関による学校や教育委員会の評価制度など、安倍カラーを強くにじませた提言も消えた。

バウチャー制は、学校間格差を広げるとして、父母や教員の間だけでなく政府内にも慎重論や反発があった。

学校評価制と共に、安倍前首相の著書「美しい国へ」で示されていた内容だ。これを踏襲しただけの提言では、「素人の思いつき」「権力への追従」と批判されても仕方ないだろう。

最終報告は、義務教育での「飛び級制度」や、「六・三・三・四制」の弾力化について「検討を開始すべきだ」としている。

勉強が「できる子」にとって、「飛び級」は有利な制度かもしれない。しかし、学校は多様な能力と性格を持った子どもたちが集まる場だ。

学力がついていない子や、特別支援を受けている子もいる。

最終報告が子どもの「自立と共生」の大切さを強調していながら、こうした子どもたちへの対策や配慮に触れていないことにも不満が残る。

できる子の能力を伸ばすことは、もちろん大切だ。同時に、そうでない子の支援も大切な公教育の課題だ。

ここを素通りしている提言が、公教育の底上げにつながるだろうか。

最終報告は、「直ちに実施に取りかかるもの」として、「徳育」の教科化や高校での奉仕活動などをあげた。

いずれも安倍前首相がこだわった教育テーマだが、文部科学省や中央教育審議会には反対や慎重意見がある。

奉仕活動や徳育の学習を子どもに強い、特定の価値観を上から押しつけるやり方は危ういのではないか。

それだけで、社会性や規範意識が身につくとも思えない。

公教育は、深刻ないじめや学力の二極化など多くの課題を抱えている。授業の質を高めるため、教員の能力向上策も欠かせない。

これが、再生会議を引き継ぐ新組織の重い課題となるだろう。

北海道新聞 2008年2月5日

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氏名収集の継続 「教職員いじめ」に等しい

県教育委員会が卒業、入学式で君が代斉唱時に起立しなかった県立高校教職員の氏名を収集することを県の二つの諮問機関が認めない答申を出しながらも、県教委はそれに従わず収集継続を決めた。県教委の判断は憲法をはじめとする法令の解釈や、形骸(けいがい)化しかねない県個人情報保護条例の運用上の問題に加え、学校教育上の視点からも憂えるべきものといえよう。

昨年十月、県個人情報保護審査会の答申は、収集について「内面情報ではない」とする県教委の主張を退けて「過去に日の丸、君が代が果たしてきた役割を踏まえた、一定の思想信条に基づく行為と推知できる」と認定した。審査会は「個人の尊厳を保つ上で個人情報保護が重要」とする目的を踏まえ、氏名収集は内心の自由という基本的人権を侵す行為とみなしたのである。

県教委は例外扱いにして収集を続ける意向を示した。県個人情報保護審議会に諮問、審議会は今年一月、諮問自体が「不適当」と答申した。憲法一九条の思想良心の自由に深くかかわり、決着がついていない訴訟上の争点でもあるため「判断できない」との理由からだった。

審議会の会長は「氏名収集は違憲の可能性もある。合憲のお墨付きは与えられない」としており、審議会も事実上、収集に歯止めをかける格好となった。

両諮問機関からの「ノー」の回答を踏まえず、あえて収集を継続することに、どれほどの説得力があるのか。県教委にとって審議会は「意見を聞く」機関であり不服審査の決定権がないため、収集を続けても条例違反に当たらないと主張せざるを得なくなった。条例は執行機関に都合よく運用できる”抜け道”があることを露呈しただけのことである。

二つの答申に基づくと、起立しない教職員を報告するように指示する県教委と、それに従って報告する校長の行為は、個人の尊厳と民主主義の存立の根幹に触れるともいえるものだ。こうした精神的自由を侵害する行為は教職員に対し一方的に心理的攻撃を加えることであり、文部科学省のいじめの定義に該当する。

収集の継続について、県教育長は「起立しない教職員がいることは好ましくない」と述べた。教職員の内心の自由を尊重しない見解は、答申を軽視したばかりか、一刀両断に強者のおごりで教職員いじめを正当化しているのである。

県民には「国旗、国歌の尊重は当然」と氏名収集に抵抗感がない人たちがいる。その一方で「過去の国家主義的な歴史観、世界観につながる」として苦痛を感じる人たちもいるのだ。司法判断も分かれている問題について、排除や強制で一方的な考え方を押しつけること自体、本来の学校教育とは無縁のものになるのではないか。

神奈川新聞 2008年2月5日

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教育再生の意味 ゆとりある現場回復が課題

教育再生会議(座長・野依良治理化学研究所理事長)が、福田康夫首相に最終報告を提出した。しかし、内容は疲弊した教育現場の再生に手をつけず、制度や学力優先という小手先の提案にとどまった。

それは、もろい土台やひびの入った柱をそのままに、家をリフォームするのに似ている。教育の場で基礎となるのは教員と生徒の緊密な関係である。今や、そのベースとなる部分に異変が生じていると考える。

いうまでもなく学問は、知識を詰め込めばいいわけではない。学科に興味を持ち、積極的に学び、考えてみようという気持ちになって初めて、学力や精神力が伸びるものだ。そのためには先生から生徒への一方通行的な教え方ではいけない。

教師は生徒一人ひとりをじっくり見て学力や適性に応じた教え方を工夫する必要がある。そのためには教師自らも学び、資質向上を図る時間がほしい。報告書作成などの雑務に追われているようでは、おざなりな教育しかできず生徒は育たない。

また、1クラスで目配りの行き届く範囲として30―40人学級を基準とするべきだろう。ところが、現実には少人数学級実現は手つかずのままだ。指導要領の掲げる「自ら学び、考える生きる力の育成」という理念にも矛盾している。

再生会議は、直ちに実施すべき事項として、徳育の充実や、ゆとり教育の見直しなど27項目を提言した。本筋を外れた内容が目立つのは、経済人中心の会議の限界なのだろうか。

「脱ゆとり教育」への動きは、1990年代からの学力低下論争がきっかけだった。2002年実施の経済協力開発機構(OECD)による学習到達度調査では、日本が世界のトップから脱落。昨年の調査でも順位を落としたため「脱ゆとり」の機運は高まった。

再生会議と連動する形で中教審は昨秋、学習指導要領改正で小中の主要教科で授業時間を10%程度増やす方針を決めている。

文部科学省の調査によると、06年度中にうつ病などの精神疾患で病気休職した公立学校の教員は、過去最多の4675人に上った。前年度比497人増、10年前の約3.4倍である。保護者や児童、生徒との人間関係の悩みや、多忙によるストレスなどが主な原因だった。

県内は同年度、小中学校、高校、特別支援学校で、うつ病などの精神疾患で休職した教職員は、病気休職者全体の48%に当たる49人だった。

福田首相は、再生会議に代わる教育改革推進機関を今月下旬に発足させる方針だ。そこで再生会議の提言項目の実施状況をチェックするという。

だが、子供たちの理解や習熟度に沿い、きめ細かな指導をするべき現場がゆとりを失い、病んでいる現状で、この提言がどのような意味を持つのだろう。小中9年制一貫校の制度化などの検討課題も空虚にみえてくる。

まず優先すべきは教職員がゆとりを取り戻し、愛情をもって児童、生徒を教えられる現場の再生と考える。

陸奥新報 2008年2月4日

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教研集会拒否 企業は社会的責任果たせ

日教組は東京で開く予定だった「教育研究全国集会」の全体集会を取りやめた。会場にしていたグランドプリンスホテル新高輪(東京都港区)が、右翼団体による妨害行為などを理由に契約を破棄、施設利用を認める裁判所の仮処分が決定した後も使用を拒否したためだ。分科会は都内各地で予定通り実施する。

教研集会は日教組に加入している教職員が学力や指導方法、いじめ、教育格差など教育が抱えるさまざまな問題について研究や実践報告、講演会などを通じて研修する場だ。一九五一年から開いているが、全体集会が中止になったのは初めて。憲法が保障している集会の自由の観点からも、ホテル側の対応は遺憾と言うしかない。また、司法判断を無視した点でも、批判は免れない。

日教組は昨年五月、ホテルと会場の使用契約を交わした。だが、十一月になってホテルが右翼団体による妨害の可能性などを理由に契約破棄を通告。日教組の申し立てで、今年一月には会場使用を認める東京地裁の仮処分が決定、ホテル側が東京高裁に行った抗告も棄却された。

ホテル側はそれでも「宿泊客らの安全が保てない」との主張は変えなかった。これまで教研集会では右翼団体による妨害が繰り返された。だが、契約手続き上も司法判断からも日教組に非はない。これまでも警察が厳重な警戒に当たっており、警察などと十分に打ち合わせをして臨めば混乱は避けられたはずだ。

また、妨害の可能性は当初から分かっていたことであり、なぜ申し込みを受けた段階で断らなかったのか。半年も経っての通告はあまりに遅すぎる。これでは会場を変更することも難しかった。

ホテルは宿泊や会議など不特定多数の人が利用し、公共的な施設の性格も持っている。大阪府泉佐野市の市民会館使用をめぐる裁判で、最高裁は集会の自由を最大限尊重するように求める判決を示している。自治体が管理する施設のケースと民間施設と必ずしも同一に論じることはできないが、この判断は尊重されるべきだろう。

こうしたことが繰り返されては、集会の自由は危うくなる。企業には社会的な責任がある。大手となればなおさらである。憲法の精神を尊重するのは当然のことだろう。

熊本日日新聞 2008年2月3日

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教育再生会議 教師増員への基準を示せ

政府の教育再生会議(座長・野依良治理化学研究所理事長)はこのほど福田康夫首相に最終報告書を提出した。安倍晋三前首相の肝いりで設けられた会議だが、最終報告には新味が乏しく“竜頭蛇尾”の印象もある。

最終報告は「徳育の充実」を求めた上で、「知の大競争がグローバルに進む時代に、日本は国際競争から取り残される恐れがある」として、(1)ゆとり教育の見直し、習熟度別・少人数指導による学力向上(2)小学校での理科、算数、体育、芸術の専科教員配置(3)英語授業の大幅増加や九月入学の促進による大学・大学院改革など二十七項目を列挙した。さらに、最も重要なことは「提言の実現とフォローアップ」と強調。福田首相も再生会議に代わる教育改革推進機関を設置するというが、文部科学省や中央教育審議会などとの関係はあいまいなままだ。

結局、最終報告は、既に知られている社会や教育の課題を羅列しただけとも言える。徳育の充実が必要としたのは、日本の社会の二極化、家庭や地域の崩壊などの影響で、一部の子どもたちに社会のマナーやルールを軽視する言動が目立つ現状を追認したのだろう。同時に、グローバルな経済競争に負けないために、理系科目を中心に習熟度別で学力を伸ばすことを求めた。

ただし、習熟度別の対応をすれば子どもたちの一体感は低下し、問題行動も生みがちだ。それがまた、「徳育の充実」を迫るということにならないだろうか。いずれにしろ、教師の本格的な増員が行われなければ、教育現場の苦悩は深まるばかりだろう。

東京・杉並区立和田中では、学習塾教師が学力上位者を対象に校内で有料の授業を始めた。正規の教師が不足する中で学力向上を図るための試みと思われるが、このようなことが全国に広がれば、公教育の理念は根幹から揺らぐことになろう。

最終報告書も「教育に必要な財源を確保し、投資を行う必要がある」とは述べているものの、抽象的すぎる。教育を充実させるためには、教師やスクールソーシャルワーカーなど学校を支援する人材がどの程度必要なのか、先進国の例も参考に具体的な基準を示してほしかった。

熊本日日新聞 2008年2月3日

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首相のやる気が問われる 教育改革

安倍晋三前首相の肝いりで二〇〇六年十月に発足した教育再生会議が、最終報告を出して役割を終えた。

最も重要なことは、提言の実行とフォローアップだ―と、最終報告は強調した。国や地方公共団体、学校での実施状況を評価し、実効性を担保するための新たな会議を内閣に設けることを求めた。

これを受けて福田康夫首相は新たな教育改革推進機関を設置する意向を表明した。関係閣僚と有識者で構成し、今月下旬にも発足させる方針だという。

再生会議が提言したことの一部は、実現することになった。ただ、提言の多くは実行期限や数値目標、具体的な手段が示されなかった。

学校現場は、さまざまな問題を抱えて苦労している。再生会議の委員たちが、教育に携わっている教師たちの生の声をどれだけ吸い上げたのか、疑問が残る。いろんな考えや意見が出されたが、上滑りに終わったものもある。

「教育は国家百年の大計」といわれる。教育問題に関する国民の関心も高い。再生会議に代わる教育改革推進機関が、提言のフォローアップだけでなく、信頼される公教育の確立を目指した新たな対策を打ち出せるのか。官邸主導で引き続き取り組む姿勢を示した福田首相のやる気が問われる。

再生会議は最終報告で、新機関が実施状況を点検する際に留意すべきチェックリストを明記した。

これまでの提言のうち「直ちに実施に取りかかるべき事項」として教科化を含めた徳育の充実など二十七項目を列挙。「検討を開始すべき事項」としては小中一貫校の制度化などによる「六・三・三・四制」の弾力化など九項目を掲げている。

福田首相は一月の施政方針演説で、「故郷や国を愛し、国際的にも十分通用する、明日の日本を担う若者を育てる環境を整えることは、大人の責任」と表明した。

首相は就任間もないころ、教育問題に必ずしも熱心でないとみられていた。再生会議が第三次報告を出した昨年末、具体化を中央教育審議会に委ねる意向を示した。原案に注文をつけることもなかったという。教育改革に「無関心」だと、いぶかる向きもあった。

施政方針演説で首相は、「学校のみならず、家庭、地域、行政が一体となって教育の再生に取り組んでいく」とも述べて、“熱意”を示した。しかし、再生会議が最終報告で「提言は、すべて具体的に実行されてこそ初めて意味を持つ」と強調したのは、首相の指導力に対しての不信感の表れとも解釈できる。

再生会議は、「戦後レジームからの脱却」を掲げた安倍前政権の象徴の一つだった。言いっぱなしとの批判も多く、提言は総花的だった。しかし、いじめ問題や学力低下など深刻ともいえる教育問題に関し、国民に一定のメッセージは発した。

福田首相は、声高に語るタイプの人ではないようだ。だが、官邸主導で教育改革に乗り出す考えを示したのだから、自らの改革論を具体的に、丁寧に国民に説明する必要がある。

東奥日報 2008年2月3日

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教研会場拒否  脅かされた集会の自由

企業の論理を優先して、司法の決定に従わないばかりか憲法が保障する集会・結社の自由を害した−。

グランドプリンスホテル新高輪(東京都港区)が、日本教職員組合(日教組)に対して今回とった行動は、そう批判されても仕方があるまい。

日教組が毎年開く教育研究全国集会の全体集会が、五十六年の歴史で初めて中止された。会場提供の契約をしたホテル新高輪が、右翼団体による混乱を恐れ、提供を拒否したためだ。

契約は昨年五月に交わされ、半年後にホテル側が一方的に解除を通知。日教組側は、会場使用を求める仮処分を東京地裁に申請して認められた。ホテル側の抗告を先月、東京高裁が棄却して司法の結論は明確に示されていた。

ホテル側は、それでもあくまで会場提供を拒んだ。「安心安全が企業理念。客や周辺の迷惑を考えると、できない」と説明している。

日教組などが開く教研集会に、右翼や政治団体の街宣車が集まり、会場や近隣に騒音が響き渡る光景は、いまや恒常化してしまった。

警察による取り締まりが徹底できないのも一因だ。教研集会だけに限らず、威圧や騒音の暴力に屈し、自由な集会や言論が抑え込まれるようなことがあってはならない。

憲法を死文化させないためにも、警察を先頭に市民や企業、官公庁を含め社会全体で不法、不当な圧力をはね返していくのは当然のことだ。

「企業の社会的責任」を放棄した形のホテル側は、経営判断でも大きな誤りを犯した。いったん交わした契約を守り切れなかったことで、客の信用を得るどころか、逆に失ってしまった。

警察と綿密に打ち合わせ、客にも説明して全体集会を無事に終わらせていたら「客を守れるホテル」として信用と評価が高まっていたかもしれない。

右翼団体の集結を理由にした会場提供拒否に司法は厳しい。「混乱の恐れを理由に断るのは、憲法に反し許されない」(二〇〇二年、広島地裁)など、一貫している。

教研集会のたびに全国で同じような会場拒否の動きが起こるが、裁判になった過去四件の事例を含め、日教組の全体集会は中止されてはいなかった。

今回は、会場に初めて民間企業の施設を選んだという事情はあったにせよ、結果的に中止に追い込まれ、集会、言論の自由にかかわる事態を招いた。

他の企業や民間施設が、これを先例に同じ対応をとるようになれば、法治国家の危機にもつながろう。

政府、公安当局は威迫的な街宣活動の新たな規制や取り締まり策を、検討すべきではないか。威圧に弱い企業や団体は少なくない。警察がバックアップする態勢についても見直しを急ぎたい。

京都新聞 2008年2月3日

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ホテル使用拒否 「集会の自由」は守らねば

日教組が二日から東京のホテルを会場に開催予定だった「教育研究全国集会」の全体集会を中止した。ホテル側が右翼団体による妨害行為などを理由に使用を拒否したからだ。

教研集会は、組合加入の教職員らが全国から集まり、いじめ、学力低下といった教育現場の問題や指導方法などについて報告し、改善に向けて全体集会や分科会で議論を深めている。今年は四日までの日程で、全体集会には約三千人の参加が見込まれた。

全体集会の中止は、一九五一年に始まった教研集会で初めてだ。憲法が保障する集会の自由が侵害されることになり、歴史に汚点を残したと言わざるを得ない。

全国各地で開かれた教研集会をめぐっては、これまで四回、施設側が使用を拒否した例がある。だが、いずれも日教組側の主張を認めた司法判断に基づき、予定通りに全体集会は開催された。

今回、日教組は昨年五月にホテルと使用契約を交わしたが、十一月になって突然契約破棄を通告されたという。日教組は東京地裁に施設使用を求める仮処分を申請し、今年一月十六日に認められた。ホテル側は、仮処分決定を不服とし、二十五日に東京高裁へ抗告したが、高裁は三十日棄却した。

司法判断にもかかわらず、ホテル側は「宿泊客などに影響を与え、使用は認められない」と語り、損害賠償訴訟になっても同じ主張をするとかたくなに使用拒否を貫いた。法を無視する態度は許されることではあるまい。

開催予定日が迫っていただけに、大規模集会会場を急きょ変更することは難しく、日教組は全体集会の中止に追い込まれた。森越康雄委員長が「司法の判断に従うというのは法治国家の基本。それに従う必要はないというホテルの姿勢は自由や民主主義を壊滅させる」と厳しく批判するのは当然だ。

ホテル側は「当社は『お客さまの安全・安心』を企業理念、規範、行動指針の第一に掲げている」と理解を求める。これまで会場周辺では多数の右翼団体の街宣車によって騒然となっていたのは確かだ。過去の会場は自治体や第三セクターの施設が使われ、今回が完全な民間企業の施設を利用する初のケースだったこともホテル側が警戒を強める要因であろう。

しかし、ホテルは多くの人が集まる公共的性格を持っている。日教組や警察当局と打ち合わせ、対策を十分にすれば混乱を回避できたはずだ。集会や言論の自由を守るために、今回の中止を前例にしてはならない。

山陽新聞 2008年2月3日

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教研全体集会中止 法無視のホテルに疑問

きのうから東京で開幕した日教組の教育研究全国集会で、全体集会が中止に追い込まれた。会場のグランドプリンスホテル新高輪が、裁判所の仮処分決定に従わず、施設の使用を拒んだからだ。

右翼団体による妨害行為の可能性があるというのが、一方的な契約破棄の理由である。他の宿泊客もいるホテルとはいえ、社会的に責任の重い大企業が司法判断を公然と無視していいのだろうか。結果的に、憲法が保障する「集会の自由」が損なわれたことからも、疑問が残る。

日教組はホテルと昨年五月、会場の使用契約を交わした。ところが、十一月になってホテル側が契約の解除を通告。これを不服とした日教組の申し立てで東京地裁は今年一月、会場の使用を認める仮処分を決定した。さらにホテル側が、東京高裁に抗告したが棄却された。

なぜ、ホテルはいったん会場を引き受けたのに拒否に転じたか。言い分はこうだ。契約当初は十分な説明を受けておらず、周辺で多数の右翼団体が抗議行動を繰り広げることが十月ごろになって分かった。「宿泊客に影響を与える恐れがあり、施設を貸せない」と判断したという。

しかし、周辺の警備を十分にすれば、混乱は防げるはずだ。集会の妨害を狙う、度を越した示威行動は本来許されるべきではなく、それが拒否の理由にはあたらないだろう。施設使用を認めた東京高裁は「申し込み時点で多くの右翼が集まることは予測できたはず」と指摘している。

会場問題では、大阪府泉佐野市の市民会館使用をめぐり、集会の自由を最大限尊重するよう求めた最高裁の判決もある。もちろん自治体が管理する施設のケースと、今回のような民間ホテルを同列に論じることはできない。ホテルにも憲法が保障する営業の自由があり、拒むことはできるからだ。

ただ二千人規模の参加者が入る施設は都内でも限られる。体育館や武道館などの公共施設がほかに使われていたため、イベント会社を通じてホテルが会場に選ばれた経緯もあるようだ。会議などで不特定多数が利用するホテルは、公共的な性格を持つ施設と受け止められる面があるのも確かだろう。

一九五一年に始まった教研集会の全体集会が中止されるのは初めてだ。他のホテルでもこうした例が続くようだと、言論の自由が危うくならないか心配だ。

中国新聞 2008年2月3日

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教育再生会議  最終報告、出しはしたが

政府の教育再生会議が最終報告を提出した。一年三カ月にわたった会議は、政治の激変にも足を取られた末、文部科学省の意向に配慮した事務局がつくった報告書を出すことで、役割を終えた。

福田康夫首相は二月下旬にも新機関を発足させ、今後の点検や検証にあたるというが、熱意をもって取り組む姿勢は見られない。政治の思惑で揺れた再生会議の悲劇ともいえよう。

最終報告は「直ちに実施に取りかかるべき事項」二十七項目と、「検討を開始すべき事項」九項目を挙げた。「直ちに実施」には、徳育の充実やゆとり教育見直し、教員免許更新制や社会人教員の採用、大学教育充実などが並んだ。

会議発足時の主要議題だった「ゆとり教育の見直し」は、中教審も既にその方向にかじを切った。教員免許更新制度の導入も昨年の通常国会で決まった。道徳教育については、「教科」とすべきと踏み込んだ今回の報告書に対し、中教審は否定的で、実現の可能性は薄い。

再生会議が中教審の審議に影響を及ぼし教育制度改変を加速した側面はある。だが再生会議が現実の検証には不熱心で政治の道具のように運営された点は看過できない。結果として、政治状況が変わるとともに会議自体の存在価値も、報告書の重要性も薄れてしまった。

最終報告では、昨年十二月の第三次報告の目玉だった「六−三−三−四制の弾力化」や、市町村教委への人事権委譲、幼児教育の充実(無償化)などは「検討課題」に後退した。文科省の従来路線や権限を揺るがすような提言は、ここでも体よく先送りされた印象だ。

再生会議の経過を振り返れば、安倍晋三前首相の肝いりで発足したのが二〇〇六年の十月。以来、いじめに関する緊急提言や三次にわたる報告書を出した後、今回の最終報告に至った。

だが一次、二次報告とも言いっ放しの提言が目立ち、現状分析や処方せんに欠けた。その後、安倍政権崩壊と福田政権誕生で会議を取り巻く雰囲気ががらりと変わり、会議そのものが熱を失った。

結局、委員の一人が話したという「文科省に毒気を抜かれた」提言が最終報告に並んだとの印象は否めない。

また、各提言の実施には当然、予算措置が必要だが、最終報告には「真に必要な予算について財源を確保し…」とある程度だ。政府の財政再建路線に遠慮してか、腰が引けている。

先進諸国と比べて教育予算の貧弱な日本の現状をどう変えるか。大胆な言及なしに「直ちに提言実施を」というのは、ないものねだりに等しい。

政治の思惑で翻弄(ほんろう)された会議の結末が、事務局任せの最終報告書では寂しい限りだ。百年の計を見据え、自ら報告書を書き上げる力量を持った人たちが委員となり、じっくり議論を積み上げる−教育改革では、特にそうあるべきだろう。

京都新聞 2008年2月2日

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日教組大会 集会の自由は守らねば

日教組が集会場に都内のホテルを予定していたが、ホテル側が約束を破って使用を拒み、集会が中止になった。裁判所の命令も無視しての対応だ。「集会の自由」を守れなくて信用が築けるのか。

日教組は毎年、教師や教育研究者が集まって教育の諸課題について研究発表したり討論する「教育研究全国集会」を開いている。ことしは二日から三日間、東京都内での開催を決めていた。

昨年三月、初日に記念講演などを行う全体集会の会場として一流とされる「グランドプリンスホテル新高輪」の大宴会場を申し込んだ。ほかに適当な会場がないためで、夏までに契約、会場費半分を支払った。

ところが、ホテル側は十一月、一方的に契約解除を伝え、費用も返金してきた。日教組は契約解除撤回を求めたが、ホテル側が応じなかったため、十二月に会場使用について東京地裁に仮処分を申請した。

東京地裁は「大宴会場を使用させなければならない」と決定を出した。ホテル側は同地裁に異議を申し立てたが認められず、東京高裁での抗告も先月、棄却された。

ホテルが主張した理由は「右翼団体が集まって街宣活動し、騒音にさらされる。別の顧客や周辺に迷惑がかかる」などだった。しかし、地裁は「ホテルは予約申し込み段階で周辺への影響を分かったはずだ。契約の解除はできない」と判断した。

日教組の教研集会は過去にも四回、会場使用をめぐって訴訟になっている。会場はいずれも公共施設で、裁判所が使用を命じることで集会は開かれた。中止は前代未聞だ。

日教組は警視庁に警備を要請し、承諾を得ていた。ところが、ホテルは一日の最終交渉でも「法令を守らないことになるが、企業としての判断だ。大宴会場は別の企業に貸し出した」と拒否を貫いたという。

三度出された裁判所の命令を無視してまで混乱を避けようとするホテル側のその“企業判断”は正しいのか。社会から支持が得られるとは、とても思えない。

たとえ、主義主張の違いがあったとしても、表現や思想信条、集会の自由は、民主主義社会で守らなければならない最も大切な権利だ。

周囲で右翼が騒ぐおそれがあるからといって、会場の使用を拒んでいたら、民主主義社会が崩れてしまう。法令も守らなければならない。

客側に問題がない以上、警察と協力して妨害者を排除しながら客に集会を開かせることがホテル本来の務めだ。信用とは、その積み重ねによって築かれるのではないか。

中日新聞・東京新聞 2008年2月2日

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教育再生会議 国民の視点が抜け落ちた

「戦後レジーム(体制)からの脱却」を掲げた安倍晋三前首相の意を受け、二〇〇六年十月に発足した教育再生会議が、最終報告を提出し役割を終えた。

「報告が提言に終わることのないよう、新たな会議を内閣に設けることが極めて重要だ」。最後にこう結ばなければならなかったところに、再生会議の限界性が表れている。

福田康夫首相は、今月中にも後継となる教育改革推進機関を発足させる意向だ。だが、再生会議と距離を置いてきた首相がどこまで本気で教育改革に取り組むかは未知数である。

各界各層の論客を集めた再生会議は、大局的な見地から教育論を戦わせる場であったはずだ。ところが、実際に議論を主導したのは事務局の文部科学省だ。報告の内容もしかりである。

委員の間から、「この報告のどこに私の提言が生かされているのか」と詰問する声が上がったほどだ。文科省が方針転換を図るため、再生会議の報告をお墨付きに利用した節もある。

最終報告は徳育の充実から大学院の拡充まで幅広い提言を盛り込んだ。だが、肝心な点が抜け落ちてしまった。

いまの教育に何が欠けているのか。その原因はどこにあるか。子どもたち一人一人の未来を保障する教育とはどのようなものか。こうした骨太の論議こそが求められていたのではないか。

だからといって、再生会議が果たした役割と残したものを軽視してはならない。記憶すべきは前首相の「美しい国」路線に乗って国主導の教育に道を開いたことだ。教育基本法をはじめ教育関連三法の改正も、一連の流れに沿ったものといえよう。

前首相の退陣で後ろ盾を失った再生会議は、文科省依存がさらに強まった。学校週五日制の見直しや小学校からの英語教育導入など「学力重視」の方向性は、文科省や中教審の論議とほとんど変わるところがない。

一体、何のための再生会議か、ということだ。「社会総がかりの教育再生」は、一次報告から最終報告までを貫く基調である。多くの国民が教育の現状を憂慮し、不安を感じている。そうした認識を共有し、未来を切り開く提起があってこそ、社会総がかりの教育論議が期待できるのではないか。

教育は国家百年の大計である。その意味は、教育を重視しない国は衰退するということだろう。教育の重視とは子どもや若者、教育にかかわる人たちを大切にするということにほかなるまい。いまの日本はどうか。

規範意識を強調したり、学力向上をうたったりするだけでは問題は解決しない。教育改革推進機関をつくるよりも、生き生きとした教育現場を取り戻すことの方がはるかに大切だ。

新潟日報 2008年2月2日

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教育再生会議 処方せん示せぬまま

政府の教育再生会議が1年4カ月の活動を終えた。安倍晋三前首相の肝いりでスタートし、突然の政権交代で求心力を失っていた。

再生会議は経済界など幅広い分野から委員を集めた。論議は全体として、教育に競争原理を導入することや、「徳育」など復古調の色彩を持ち込むことにエネルギーが注がれたように見える。

現場が直面する課題に向き合ったうえでの指摘とは言いがたい。親や教育関係者の理解が得られなかったのも当然だ。

再生会議の功績を挙げるとすれば、家庭の子育てから大学・大学院まで、教育が抱える問題に焦点を当て、関心を高めたことだろう。

2006年10月の発足に前後して、いじめ自殺が相次いで明らかになった。高校で必修のはずの世界史未履修も発覚した。

再生会議の論議も世論の批判も、学校や教育委員会の対応に向けられた。その結果、教委のあり方や教員の資質が問われることになった。

ただし、再生会議が改善策について十分検討したとはいえない。第一次報告に盛り込んだ教員免許更新制など教育三法の改正は、中央教育審議会の審議を無理やり短縮してまで結論を出した。

安倍氏が導入を目指した教育バウチャー(利用券)制度や、母乳育児などをうたった子育て提言も、各方面の批判を受けて取り下げざるをえなかった。

会議が迷走した原因として、論議の底の浅さに加えて、政権との距離が近すぎたことが挙げられる。ここまで政治が教育行政に露骨に介入したのは異例なことだ。再生会議と政府のかかわり方が、教育行政の将来に禍根を残さないか心配だ。

最終報告書にも、さまざまな課題が並んでいる。直ちに取り組む事項として、徳育の充実、習熟度別・少人数指導の推進、教員の社会人採用拡大など27項目。検討を始めるべき事項は小中一貫制度や大学入試の改革など9つある。

福田政権が教育改革に力を入れるならば、現場や専門家の声に耳を傾け、優先すべき事項の選択と、思い切った財政支援が鍵になる。再生会議の求めに応じて、提言を実行するための推進機関を置くことには、賛成できない。

国際的な学力テストで、日本の子どもたちは応用力や読解力が低下しているといった結果が出ている。全国学力テストからは、親の経済力により教育格差が広がりつつあることもうかがえる。

公教育の再生を目指すならば、こうした問題にどんな処方せんを描くのか。そこから検討を深めたい。

信濃毎日新聞 2008年2月2日

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学校と塾の連携 頭から拒否してよいのか

東京・杉並区の区立中学校で、保護者らでつくるボランティア団体「地域本部」が主催し、都内の進学塾と提携した有料の特別授業が始まった。放課後とはいえ、公立学校でいわゆる“できる子”を対象に塾の講師による授業を行うとあって賛否両論がおき、都の教育委員会が一時待ったを掛けたことで話題になり、発案者である民間出身の校長が考えを曲げなかったため発足できたという曲折があった。

報道によると、「上位層を伸ばすことに公立学校は関心が薄かったが、教師に何もかも求めるのはムリ。だから塾の力を借りる」というのがその校長の考えだ。好きにやらせるのではなく、教材づくりに学校も関与するという。中学校だから当然、受験対策であろうと考えられる。が、そうだとしても、教師が授業以外の業務に忙殺され、授業研究も十分にできないとの嘆きさえ聞かれるのが公立学校の現状ではないか。それを考慮すると、公立学校が私塾の力を借りるのは絶対に許されないといえるだろうか。

児童生徒を競わせることを否定し、授業についていかれない子を居残りさせるのが「よいこと」であり、できる子をさらに伸ばそうとするのは「よくないこと」とするのはタテマエ主義だ。校長はそのタテマエ主義にホンネをぶつけたのだ。

反対論は「生徒を分断することになる」「私塾の営利活動に公立学校が加担するものだ。学校の否定につながる」「教職員や保護者に批判があるのに、校長が独断で決めた。裁量権の暴走だ」などである。一方、賛成論は校長の考え方に加え、「地域の実情に合わせて民間を活用するのは面白い。公立学校の可能性を広げる第一歩だ」「授業一コマ五百円と格安であり、塾側にほとんど利益はない」等々である。

この問題がきっかけとなって、私塾との連携をすでに行っているケースがいろいろ分かってきた。私塾が引き揚げて行ったため、村が「公営の塾」を開いたところまであるようだ。公立学校が地域の事情にそくして民間の力を活用することがあってよい。子供のためといいながら、教師が自らのためにするようなことこそ批判されねばなるまい。

北國新聞 2008年2月2日

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教育再生会議 役割終えて何を残したか

政府の教育再生会議が最終報告を発表した。さまざまな各論の提言は、すでに三次にわたって済ませており、今回は全体のまとめというべき内容である。その中で、新提案として、会議の提言を実行するために推進機関を設置するよう求めた。

政府も新機関の設置を了承し、二月中の発足を決めた。財界や自治体など有識者数人と首相や関係閣僚で構成するという。

最終報告は「提言は実施されてこそ初めて意味を持つ。今後、最も重要なことは提言の実現」と宣言している。確かにその通りだが、提言すべてを無条件で尊重せよといわんばかりの姿勢には違和感もある。

これまでの報告を振り返ると、一年余りにわたる論議は教育全般の課題に及び、総花的な印象が免れなかった。いじめ対策、教育委員会改革、道徳教育の強化、学校選択制の推進、子育て提言など、枚挙にいとまがない。

一貫しているのは、学力向上をめざす提言だろう。一次報告では「ゆとり教育」の見直しと授業時間数増を掲げ、二次で土曜授業の復活に触れた。昨年末の三次は、小中一貫校の制度化や「飛び級」の推進など学制の弾力化を提言している。

これを受け、最終報告では「直ちに実施に取りかかるべき事項」を二十七項目も列挙した。徳育の充実▽小学校での理科、算数、体育などの専科教員配置▽英語授業の大幅増加▽九月入学の促進による大学改革などである。その上で、新機関がこれらの実施状況を点検するよう求めている。

さらに「今後の検討課題」として、九項目を示した。スポーツ庁の創設や幼児教育の無償化、教員給与体系の見直しのほか、学制の弾力化も重ねて言及しているが、実施を急ぐ前に、再生会議が示した数々の提言についていま一度、広く是非を問う必要がある。

再生会議は、教育を最重要課題に掲げる安倍前首相が発足させた機関である。報告にも安倍色が強くにじんでいる。

特に再生会議がこだわる項目に、徳育の充実がある。確かに社会の規範が緩んでいる面は否めず、教育上の対処も必要だろう。ただ道徳教育のあり方は意見が分かれる問題である。「直ちに実施」といえるほど、意見が出尽くしたといえるだろうか。

教育再生会議は役割を終えた。最後まで国の教育行政を決める中央教育審議会との関係が分からずじまいだった。「屋上屋の組織で素人論議に流れた」と批判もある。本当に教育現場の視点に立った提言だったのか。そんな疑問も残ったままである。

神戸新聞 2008年2月2日

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教育再生会議 後継機関は何をするのか

政府の教育再生会議が、これまでの三次にわたる提言実施を促す新機関を内閣に置くよう求める最終報告を決定し、福田康夫首相に提出した。

これを受けて首相は、再生会議に代わる教育改革推進機関を設置する意向を表明した。政府は今月下旬にも有識者と関係閣僚でつくる新機関を発足させる方針だ。

再生会議が発足したのは一昨年十月である。「戦後レジームからの脱却」を掲げ、教育再生をその象徴としたかった安倍晋三前首相の肝いりだった。官邸主導で安倍色の強い改革を目指す意図がうかがえた。しかし、安倍氏の退陣後は後ろ盾を失い、その存在感は急速に薄れたといえよう。最終報告で教育再生会議の役割は終えたが、尻すぼみの幕切れとなった印象はぬぐえない。

教育改革に「熱意」を見せてきたとは言い難い福田首相の姿勢を見透かすように、最終報告は「最も重要なことは、提言の実行とフォローアップだ」と強調した。

提言は総花的で具体論にまでは十分踏み込んでいない。このうち「直ちに実施に取りかかるべき事項」としては、教科化を含めた徳育の充実や、ゆとり教育の見直し、英語授業の大幅増加や九月入学の促進による大学・大学院改革など二十七項目を列挙した。しかし、徳育の教科化については文部科学相の諮問機関である中央教育審議会は消極的な姿勢を崩していない。

また「検討を開始すべき事項」では、学力向上策として小中九年制一貫校の制度化や飛び級による「六・三・三・四制」の弾力化など九項目を掲げた。戦後続いてきた教育の抜本改革を目指すものだが、論拠は不十分で先送りされた感は否めない。

ただ学校現場ではいじめや学力低下が深刻化しており、教育再生は喫緊の課題だ。首相が新機関設置を明言したのは、国民の関心の高い教育問題について、引き続き「官邸主導」で取り組む姿勢を示すことで政権浮揚につなげたい狙いもあるのだろう。

教育は国家百年の大計だけに政治的思惑から離れて知恵を出し合うことこそ求められよう。長年教育行政の方向性を示す役割を担ってきたのは中教審であり、新機関との関係がはっきりせず、その位置づけが釈然としないのも気がかりだ。

改革や見直しは大切だが、現在の教育体制を根底から変えるようなテーマについては慎重な議論を重ねる必要があろう。拙速に実行に移せば教育現場は混乱し、しわ寄せを受けるのは子どもたちであることを忘れてはなるまい。

山陽新聞 2008年2月2日

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教育再生 議論の練り直しが求められる

政府の教育再生会議はおととい、最終報告を福田康夫首相に提出した。

一年前、第一次報告を受けた安倍晋三前首相は「すばらしい報告をまとめてもらった。今やるべきことすべてを網羅している。百点の案だ」と満足そうに語っていた。最終報告で再生会議、福田首相の双方にかつての高揚感がなかったのはいうまでもない。

再生会議は一昨年十月、「戦後レジーム(体制)からの脱却」を掲げた安倍前首相の肝いりで発足した。しかも前首相の教育改革像を追認する役回りを演じてきた側面が強かった。

特に第一次報告の中にそれは顕著に表れていた。「神話」や「徳目」などの表現が頻出する復古調の強い内容で、まるで「美しい国」の教育版だった。

そのほかにもゆとり教育の見直しや規範意識の強制、教育現場の管理強化、市場原理の導入など前首相の意向に沿った内容が目立った。いずれも国民の間ではさまざまに意見が割れている問題である。これでは政府の会議でなく、まるで私的集まりのようだった。

再生会議の目的は経済人を中心にした「教育素人集団」が、文部科学省が推し進めてきた教育行政に風穴を開けるのが目的だったはずだ。

しかし、この間に教育改革の議論が深まったかというと疑問だ。逆に現場に無用の混乱をもたらしたとの印象である。

例えば学力低下との因果関係を深く追究しないままゆとり教育の見直しだけが独り歩きした。徳育の充実を声高に提唱するが、道徳教育の現状分析はなかった。予定していた母乳育児の励行などを盛り込んだ「子育て提言」は批判を浴びて取りやめた。これでは説得力はなく、「言いっ放し」との批判が出るのも当然だった。

最終報告で再生会議が「最も重要なこと」としたのは、第一次報告から第三次報告までの提言の実現とフォローアップだ。そのための新たな会議を内閣に設置することを求めた。

これほどまでに提言の実効性にこだわったのは、安倍前首相の後ろ盾がなくなったことで、提言が有名無実化することへの懸念があったからだろう。再生会議は前首相の退陣とともに役目を終えたといえる。このため提言の実行には慎重であるべきだ。

福田首相は最終報告を受けて新たな教育改革推進機関を設置する意向を表明した。ただ首相は昨年末に再生会議第三次報告が提出された際、具体化を中教審に委ねる意向を示した経緯もある。関心の高い教育問題に引き続き取り組む姿勢を国民に示そうとの思惑もみえる。ポーズでなく自らの言葉で教育問題を語る必要がある。

学校現場ではいじめや学力低下が問題化している。教育の再生、改革が必要なことはいうまでもない。

一年余りの再生会議の反省を踏まえ、時には子供も含め国民を巻き込んで議論を練り直していくことが必要だ。

愛媛新聞 2008年2月2日

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教育再生会議 中途半端なまま終わった

安倍晋三前首相の肝いりで二〇〇六年十月に発足した教育再生会議は、一年三カ月余りの活動を締めくくる最終報告を福田康夫首相に提出し、役割を終えた。

〇七年一月の第一次、同六月の第二次に次いで今回が三度目の報告になるが、結局、この機関は何だったのだろう。

委員の気負いとは裏腹に、首をかしげてしまうような議論や提言も少なくなかった。

学校選択に競争原理を持ち込む教育バウチャー(利用券)制度は、一時期、教育再生会議が導入に意欲を示していたが、福田康夫首相の下で「市場原理の導入は教育になじまない」(渡海紀三朗文部科学相)として取り下げられた。

第三者機関による学校などの外部評価制度についても「中央統制につながる」との指摘を受けて見送られ、最終報告書には盛り込まれなかった。

議論の中では、母乳育児、子守唄の励行、テレビ視聴の時間制限など、余計なお世話だといいたくなるような話も飛び出した。

十分に練られたとは思えない、思いつきのような案は、文部科学省や自民党の中からも冷ややかな反応を受け、安倍首相が退陣して後からは、後ろ盾を失って抜け殻のような会議になった。

教育再生会議とは何だったのか。

再生会議は「ゆとり教育」の転換を促すとともに、保守色、国家統制色の強い教育基本法改正と教育関連三法改正の推進役を務めた。

「戦後レジーム(体制)からの脱却」という安倍前首相が掲げた政策目標を教育改革という側面からサポートしたのが再生会議だった、といえよう。

福田康夫首相は、最終報告を受け、新たな教育改革推進機関を二月中に設置する意向を明らかにした。

だが、福田首相が教育改革に対してどのような考えを持っているのか、まだはっきりしない。

再生会議の最終報告が「重要なのは提言の実行とフォローアップ」だとくぎを刺したのは、福田首相の指導力発揮を強く求めたものだ。

最終報告は「直ちに実施に取りかかるべき事項」として(1)徳育の教科化(2)英語教育の大幅増加(3)大学の九月入学の促進―など二十七項目を列挙した。「検討を開始すべき事項」として「六・三・三・四制」の弾力化など九項目を挙げている。

再生会議は、安倍首相の退陣で中途半端な形で役割を終えた。同会議の置き土産をどう料理するか。教育改革は待ったなしの重要課題だ。

沖縄タイムス 2008年2月2日

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教育再生最終報告 一体どこへ向かうのか

政府の教育再生会議は1月31日の総会で、三次にわたる提言実行を促す新機関を内閣に置くよう求める最終報告を決定し、福田康夫首相に提出した。これにより安倍晋三前首相の強い意欲によって2006年10月に設置された同会議は役割を終えた。教育の再生は待ったなしのところまで来ているはずだ。しかし再生会議が最終報告を決定するまでの経過を見ていると、政治に翻弄(ほんろう)されたと言わざるを得ない。結局、1年4カ月の論議は、ちぐはぐで、上滑りとなってしまった。

最終報告のポイントは(1)提言の内容を着実に実行する(2)実効性を担保する新たな会議を内閣に設ける(3)徳育の充実、ゆとり教育見直しなど27項目を直ちに取り掛かる(4)「6・3・3・4制」の弾力化など9項目の検討を開始すべき―などである。

福田首相は31日の総会で、再生会議に代わる教育改革推進機関を設置する意向を表明した。有識者と関係閣僚で構成され、2月下旬に発足させる方針である。再生会議の最終報告の要請に応えた形ではあるが、内実はどうも前向きではないように見える。

再生会議は安倍前首相の肝いりによって置かれたが、後を継いだ福田首相や与党、文部科学省には、同会議の提言を尊重するような空気は感じられない。与党議員の中から「報告書を生かすつもりはない。教育問題の重要性をゼロから議論する」といった声まで漏れたと言われるぐらいだから、再生会議がどれほど軽視されているか推察できよう。

再生会議も発足当初、社会に大きなメッセージを発すると意気込んだが結局、国民を納得させる骨太の提言は残せなかった。それどころか、山谷えり子首相補佐官がまとめた母乳育児の励行の「子育て提言」が配慮に欠けると批判を浴び、見送られた事例もあった。現場や当事者の立場と懸け離れた提言と指摘されても仕方ない。

さらに安倍前政権の求心力低下も会議の存在感を弱めた。

しかし、そもそも政権の交代によって再生会議が空回りすること自体がおかしい。教育は国家「100年の大計」である。決して思いつきや政治に翻弄されてはならないはずだ。

教育が危機に瀕(ひん)し、再生しなければならない重要なときに、この1年余の年月は一体何だったのだろうか。本来なら再生会議が、教育現場の実態を踏まえた説得力のある提言をし、政権を引き継いだ福田首相が真摯(しんし)に提言をフォローアップし、教育の再生につなげていかなければならないはずだ。

教育制度が政治に翻弄されれば、直接影響を受けるのは子どもたちなのである。そのことを肝に銘じるべきである。

琉球新報 2008年2月2日

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「博士」の教員採用 明確な位置付けが必要

県教育委員会が2008年度から博士号取得者を正規教員として採用することになり、2月1日に選考試験の書類受け付けを開始する。専門的知識を有する最高学位の「博士」に絞って公教育の教員を募集するのは、全国的にもユニークな試み。初年度の採用枠は若干名というが、本県の教育現場にどのような刺激と効果をもたらすことができるのか注視したい。

博士号取得者の教員採用が具体化したのは、昨年9月の外部専門家による知事の補佐機関「県発展戦略会議」で、委員から提言があったのがきっかけ。提言を受け、寺田典城知事は「本県の教員は皆同じタイプの人が集まっているのではないかと心配している」とし、「新しい血を吹き込むために全国から公募して配置してはどうか」と実現に前向きな姿勢を示した。

これに対し、根岸均県教育長は「必ずしも名選手は名監督ではなく、リスクがある」などと難色を示したが、同11月の戦略会議では知事の強い意向に押し切られる形で08年度からの採用方針を表明。いくらスピード感が必要とはいえ、教育現場の意向を十分把握する時間もあまりないまま採用方針が決まったことには唐突さも残る。

今月10日に公表された博士号取得者の特別選考実施要項によると、「高度な専門知識や技能を持った優れた人材を教員として迎え入れることにより、学校教育の多様性への対応や活性化を図る」のが採用目的。職務内容としては「地区の拠点校や県総合教育センターなどに所属し、小中学校、高校において高い専門性に裏付けられた知的世界に触れる機会を提供する」など5点を挙げている。

「高度な専門知識」によって子どもたちの知的好奇心や学習意欲を喚起し、授業の改善にもつなげようという狙いは分からないでもない。だが、目的も職務もやや抽象的で、公教育になぜ博士号取得者が必要なのか明確なビジョンがよく見えない。「高度な専門知識」を有するのは何も博士号取得者だけに限らないし、それを義務教育という段階でどう生かせるのか具体策を検討する必要もあろう。

ただ、採用方針決定の経緯や目的などの抽象性はともかく、現在の教育現場が閉鎖的という批判があるのも事実。全国的には広く教員の人材を求めて学校を活性化させようと、教員免許を持たない人に「特別免許」を与え、正規の教員として採用する制度を活用している教委が急増中だ。今回の博士号取得者の採用は、本県としては初の特別免許制度の活用となる。そうした従来の殻を破り、教育現場に刺激を与えるという意味では注目される事業といえよう。

昨年4月に文部科学省が実施した全国学力テストで、本県の小学生、中学生はいずれもトップレベルの成績を収めた。課題は高校教育でいかに能力を伸ばすかにあるとされ、今回の博士号取得者の採用もそうした事情が背景にあるとの指摘も聞かれる。だが、公教育の基本は知識の詰め込みではなく、子どもたちが自主的に考え、適切に判断し行動することを身に付けさせることである。基本を再認識して「専門性」を生かしたい。

秋田魁新報 2008年1月30日

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センター試験こそ生かせ 大学入試改革

大学入試センター試験が終わり、本格的な受験シーズンを迎えたこの時期、中教審大学分科会の作業グループが大学入試への提言案をまとめた。

推薦入試や面接・論文中心のアドミッション・オフィス(AO)入試に際して、何らかの学力試験も課すべきだというのだ。大学が独自に学力試験をするか、センター試験の成績を合否判定に使う。高校と大学が協力して実施する「高大接続テスト(仮称)」も有効だという。

推薦・AO入試で合格した受験生はセンター試験や入学する大学の一般試験を原則、受ける必要がない。その結果、中教審分科会は「学生の基礎学力維持が期待しづらくなっている」と説明する。

大学志願者数と定員の総数がほぼ同じになるという「全入時代」を迎えるなか、大学進学者の学力確保が課題になっていることは理解できる。

2007年度でみると、推薦入試は国公私立のほぼ全大学で、AO入試は全大学の約6割に当たる454大学で実施した。全大学入学者の約4割を両入試の合格者で占めているという。

日本の大学は淘汰(とうた)の時代に入ったといわれる。少子化のなか、とくに私大は学生の確保が経営に直結する。推薦入試やAO入試の名を借りて、学力試験なしで学生の囲い込みに走る「青田買い」もささやかれ、そうした傾向が学力不足の学生を増やしているというのだろう。

だが、そうであっても、それは各大学の判断である。「推薦・AO入試の受験生にも学力試験を」と呼び掛けて、果たして大学がどの程度応じるだろうか。

また、推薦・AO入試が学力試験偏重への反省から生まれたことを忘れてはなるまい。とくにAO入試は点数にとらわれず、個性や適性、能力を多面的に見極める方法として導入されたはずだ。

肝心なのは、大学進学者に高校卒業の基礎学力がどのくらい身に付いているかを、どうやって確かめるかだろう。

私たちは社説で以前、センター試験の受験科目を増やし、基礎的な問題を大学志願者全員に受けさせてはどうか、と提案した。受験生の適性や能力は、その後、各大学が独自の選抜を実施すれば評価できると考えるからだ。実施時期や基礎的な学力を問うにふさわしい問題作成など検討すべきことはあろうが、推薦・AO入試の受験生にも、こうしたセンター試験を受けさせればいい。

提言案も一手法としてセンター試験の活用を挙げている。しかし、高大接続テストなど新たな仕組みまで入れて制度を複雑にする必要はない。重要なのは、いまあるセンター試験を生かす視点だ。

1990年に始まったセンター試験は、もともと志願者の高校段階での学習達成度を測る狙いもあった。まず共通の試験で基礎学力を確かめた上で、各大学が自前で求める人材を見いだす。センター試験の意義を再考すべきだ。

西日本新聞 2008年1月29日

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教員定数増 現場にゆとりを生みたい

新年度から公立小中学校の教師が増員される。全国でわずか千人にすぎず、全三万校からすれば焼け石に水かもしれない。だが別枠で教員OBら七千人にのぼる非常勤講師の採用が決まったのは朗報だろう。

いま教育現場では、教師が忙しすぎるといわれている。今回の増員策で、少しでも緩和できるようにしたい。

文部科学省が昨年公表した公立学校の勤務実態調査結果で、小中学校教員の残業時間が平均二時間に及ぶことが分かった。また、日教組による最近の調査でも、先進国と比べて授業以外の業務が際立って多いことが明らかになっている。

現実に、教員は本来の学習指導以外に、いじめ問題や親への対応などに追われている。多忙で厳しい状況にさらされて心を病む教師も後を絶たない。「教師にゆとりを」との声も高まっている。

そのためには、教職員の定数増が有効な解消策に違いない。ただ「子どもの数は減り続けているのに」「数より、質の向上こそ」といった疑問を呈する声があるのも事実である。

もとより、小泉政権以降、教職員を含む公務員改革が大きな課題となってきた。行政改革推進法にも、教職員の削減は児童・生徒数の減少を上回る割合で減らすことが盛り込まれている。増員には大きな壁が立ちはだかっていたといってよい。

ところが、教育再生を最重要課題と位置付けた安倍政権になってから、やや風向きが変わったことは確かだ。現実に教育予算の増額方針が打ち出された。

この機に、文科省は二〇〇八年度から三年間に毎年約七千人の教職員の定数増を求めた。折から、中央教育審議会が学習指導要領改定の答申に向けて、「ゆとり教育」を転換して授業時間増を打ち出し、教員増を掲げた。

しかし財務省は、財政難を盾に強く反対してきた。その妥協点となったのが、〇八年度の定数増である。

教職員の定数は、国が都道府県ごとに児童・生徒数に基づいて定めているが、数年前から都道府県が自らの負担で独自に増員することもできるようになってはいる。だが、地方の財政難もあって、容易に増やせる状況にはないのが現実だ。

十分な数ではないかもしれないが、せっかくの増員である。有効な配置が求められるのはいうまでもない。各教育委員会は、その効果もしっかりと検証すべきだろう。今後、教育改革を進めるうえで、現状を動かすテコにしなければならない。

神戸新聞 2008年1月28日

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AO入試改革 新たなルールは疑問だ

多くの大学が導入しているAO(アドミッション・オフィス)入試や推薦入試では入学者の学力担保に課題があるとして、中教審大学分科会の作業グループが学力検査を課すべきだとの提言案をまとめた。

学力試験を課さないAO・推薦入試による入学者の拡大で、大学現場からは学力不足の学生が増加したとの声が強まっている。

だが、これはAO・推薦入試の趣旨をはき違え、学生確保のために安易な運用に走った大学自身の責任であろう。中教審が新たなルールを課すことに違和感を覚える。

AO・推薦入試は学力試験で合否を決める一般入試とは異なり、高校時代の学業成績や部活動の実績、面接、論文などから学生に対して多面的な評価を加え、選抜する点に特徴がある。

全国的に広まったのは一九九七年の中教審第二次答申が、受験競争緩和を目的として、学力試験偏重の入学者選抜からの転換を掲げ、米国のAO制度を取り上げたことも影響している。

今回示された提言案は作業グループの段階であるとはいえ、知識偏重でない入学者選抜の必要性を訴えた九七年の中教審答申の理念とも食い違ってくる。

確かにAO入試は学生を確保する「青田買い」に変容したものが少なくない。「全入時代」が到来し、学生確保が大学経営の至上命題となるにつれ、私大ではその傾向が強い。

AO入試の現状に問題があるのは確かだが、提言案通りに学力検査を課したり、大学入試センター試験の成績を合否判定に利用したとしても、経営不安の大学は学力不足の学生を受け入れざるを得ないであろう。学力検査の導入が学生の質確保の特効薬になるとは言い難い。

大学の真価は高等教育機関の名に値する教育・研究を提供しているかどうかであり入試制度でないはずだ。ただ、大学淘汰(とうた)の厳しい時代だからこそ、信念をもって入学者選抜を行うことが、結局は信頼を得て生き残りにつながるのではないか。目先の経営にとらわれ、本質に目が向いていない大学は早晩、存在意義を失うであろう。

中教審も小手先の入試改革で大学生の学力が担保されると考えているなら、短絡的すぎる。本来、学力は小中高校の問題である。大学生の学力担保を考えるなら小学校から大学までの体系化された教育システムを見据えて議論するべきだ。

高知新聞 2008年1月28日

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小、中学校で別々の議論を/青森市の学区問題

青森市教育委員会は市内の小中学校七十四校を四十五校に統廃合する計画案を修正。当面は複式学級のある小学校と全学年一学級の中学校の統廃合を優先するとした。

県内では町村部を中心に小中学校の統廃合が進んでいるが、青森市では保護者や住民が反対し、統廃合案が白紙撤回されるということを繰り返してきた。

同市教委は今回、市内全域を対象にした統廃合案は撤回したが、小中学校とも十二−二十四学級が適正規模であり、統廃合が必要との考えは変わらないとしている。

一方の保護者らは統廃合案に「小規模校には小規模校のよさがある」「小さいころから競い合わなくてもいい」「通学距離の長さや通学バスの利用が不安」などと反対の声が多い。

昨年、青森地区の廃校対象二十五校で開いた説明会でも、話し合いは平行線だった。

一連の動きを見ていると、小学校と中学校を一緒にして議論するところに無理があるのではないだろうか。

小学校は、地区のコミュニティーの核としての役割を担い、地域住民には愛着がある。「小学校がなくなれば地域が衰退する」「スクールバスで通学するようになると、住民に子どもの姿が見えなくなる」との意見には、切実なものがある。あくまでも協議次第だが、地域で存続を強く望むならば、どうしても統廃合が必要な学校を除いて、小学校はできるだけ残すという選択肢もある。

一方の中学校は、全教科の担当教員を配置するためには十二学級以上が必要で、通学方法などの課題を解決、保護者の理解を得るという条件付きだが、教育の機会均等や学力向上のために、統廃合を進めるという考え方もできる。

小規模の小学校では、子どもたちの競争がなく、序列が固定化されるとの批判がある。また部活動をしようにも人数が少なすぎるとの不満もあるようだ。

しかし、やり方次第では随分変わってくるだろう。

岩手県宮古市の旧新里村地区の四小学校では、週に一回、いずれかの小学校に集まって合同授業を行う「四つ葉の学校」を結成。小規模校ではできない活動を行うことで、小さな学校を存続させながら、学習成果を挙げているという。

青森市内の小学校も二校か三校が一緒になって体育や音楽の合同授業を実施。また野球やバスケットの合同チームを結成して大会に出るということをすれば、小規模校のマイナス面も解消されるはずだ。

小規模な小学校から人数の多い中学校に進学し、なじめなかったり、いじめられたりする例がある。しかし小学校で合同授業や部活動を通じ他校の児童と友達になれば、中学生になってからもスムーズに運ぶだろう。

青森市の学区再編計画がうまくいかなかったのは、市教委が計画をつくり、上から計画を地域に押し付けてきたからともいえる。地域ごとに事情も違うし、保護者や住民の考え方も異なる。今後学区再編を進めるに当たってはまず、地域の意見を吸い上げ、計画をまとめるような姿勢とシステムが必要だ。

東奥日報 2008年1月26日

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学力テスト 課題克服の手掛かりに

高知県教委は、昨年四月に文部科学省が四十三年ぶりに実施した全国学力テストの分析結果をまとめた。

小中学校ともに正答率が高かった秋田県と比較し、「家庭学習が不十分な上、学校の授業改善も進んでいない」ことが本県の学力低迷の要因とした。

秋田は前回の学力テストで本県同様全国最下位レベルだったが、今回トップクラスへ躍進を果たし、注目を集めている。

家庭での学習習慣において、本県は秋田に大きく差をつけられており、課題克服への手掛かりとなりそうだ。

高知県の学力テストの正答率は、小学校は全国平均をやや下回る程度だったものの、中学は正答率、授業への関心度ともに全国を大きく下回った。

高知県の課題があらためて浮き彫りになったことから、県教委の担当者らが秋田県教委を訪れ、学習状況について聞き取り調査を行った。

そのうち、両県の中学生で最も違いがあった家庭での学習をみると、秋田は「家で学習の宿題をしている」が88%(本県71%)、「家で学校の授業の復習をしている」は63%(同44%)に上り、それぞれ20ポイント近い開きがあった。

秋田は〇一年から少人数授業に取り組み、放課後や長期休業中でも補充的な学習支援が行われている。地道な授業改善の積み重ねが、大躍進を導いたといえる。

家族と朝食を食べるといった生活習慣が望ましい傾向にあることも、好成績と無関係ではないだろう。

高知県の中学生に家庭学習が定着しない現状について県教委は「教師が予習や復習の仕方など勉強のやり方を教えきれていない」と指摘する。

「いかに勉強するのか」という手ほどきから始める必要がありそうだ。家庭も早寝・早起きといった生活習慣の定着に心を配りたい。

言うまでもなく、学習意欲を高めるには、分かりやすく、かつ、生徒を引きつける授業への工夫・改善が不可欠だ。

県教委は〇八年度から家庭学習のあり方も含め、公立中の授業改善に取り組む考えだ。

家庭学習の定着の弱さは、さまざまな高知県の課題を象徴しているとみることもできる。

現状への危機感を学校、行政、家庭、地域が共有し、課題克服への取り組みを「県民運動」へ高めていく必要がある。

高知新聞 2008年1月21日

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教科書問題 実行委は超党派を維持せよ

「役割は終わった」と自民党県連(外間盛善会長代行)。しかし、果たしてそうだろうか。むしろ、これからが正念場ではないだろうか。いまだ道半ば、というのが大方の県民の実感だと思う。そういう意味で、今回の同党県連の判断は残念。ぜひとも考え直してほしい。

超党派でつくる「教科書検定意見撤回を求める県民大会」の実行委員会(委員長・仲里利信県議会議長)について、自民党県連が、解散を求める方針を決めたという。

理由として「(実行委は)検定意見撤回と記述回復の2項目を要求してきた。結果は必ずしも満足いくものではないが、県民大会を受けて取るべき行動はすべて取った」とする。その上で「100%満足できる結果ではないが、実行委の役割は終わった」としている。

昨年12月26日、高校歴史教科書の「集団自決」(強制集団死)検定問題に関し、文科省は教科用図書検定調査審議会の訂正申請を、すべて承認した。訂正内容は、実行委が要求してきた検定意見の撤回はむろん「集団自決」について日本軍の「強制・強要・誘導」との記述も教科書本文では一切、認めていない。つまり実行委が求めてきた最低限の要求は一つも実現しなかったことになる。

確かに「集団自決」が発生した背景・要因について、脚注や体験者証言など、本文以外で詳しく書き込まれた教科書もある。ただ、検定意見が残ったままでは、本文でもない脚注は、いつ削除されてもおかしくはない。その可能性は大きいのではないか。

このような現状を考えると「役割を終えた」とはとても言えまい。

自民党県連が昨年来、さまざまな障害を乗り越えて、県議会として実行委に参加。さらに、県議会の二度の意見書可決も、同県連の決断がなければ実現できなかったのは確かだ。超党派の要請行動のおかげで、中央政界、文科省も真剣に対応せざるを得なかったことも、疑いないところだろう。

いまだ体験者が生存する「集団自決」について、日本軍の命令・強制の有無は、県民にとってあらためて論議するまでもない。こういう認識があったからこそ、自民党県連も実行委に加わったのだと私たちは理解している。

ここはやはり、実行委にとどまってほしい。党利党略がらみで判断するのだけは避けるべきだ。

幸い今後の運動について、すべての道を閉ざすわけでもなさそうだ。同県連の伊波常洋政調会長は「必要であれば何らかの組織を立ち上げてもいい」と述べている。

実行委は存続し、今後も要請活動を継続すべきだと私たちは考える。仮に超党派は維持できないにしても、自民県連はせめて実行委のバックアップに努めてほしい。

琉球新報 2008年1月20日

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専門職大学院 期待倒れに終わらすな

高度な専門性が求められる仕事を担う人材の育成を目指す「専門職大学院」で定員割れの多いことが、文部科学省の調査で分かった。

それによると、二〇〇六年四月までに開設された国公私立、株式会社立の専門職大学院四十九校の計六十六専攻(法科大学院を除く)のうち定員を割り込んだのは二十五専攻に及ぶ。

分野別では、ビジネス・技術経営(MOT)が二十八専攻のうち九専攻、会計が十四専攻のうち四専攻、公共政策が七専攻のうち二専攻、知的財産やファッションといった「その他の分野」は十七専攻のうち十専攻に上った。募集人員の半数を下回ったのは七専攻で「その他の分野」が五専攻を占めた。

専門職大学院は、国際的視野を持ち、高度で専門的な職業能力を有する人材の養成という社会ニーズに応えるため中央教育審議会の提言で〇三年度にスタートした。実務経験者を教員として配置することなどが特徴だ。

科学技術の進展や社会・経済・文化のグローバル化、国際競争の激化という状況下で期待が高まり、重要性も増そう。それが約四割もの専攻で定員割れとは残念だ。

大学院側と志望者側の求めるもののずれが何か、十分な検証が必要だ。中には趣旨と異なり、単に資格取得だけを目指すカリキュラムの専門職大学院もあると指摘される。専攻や教育内容を見直し、質を高めなければならない。

企業などの従業員再教育への意識も問われる。大学院に行きやすい環境や高度な専門性を生かす場、処遇など意欲を高める手だてが欠かせない。時代の要請である専門職大学院を、期待倒れに終わらすわけにはいくまい。

山陽新聞 2008年1月16日

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小学校英語の必修化 「格差」増幅を懸念する

公教育として小学生に英語を教えるべきか。中央教育審議会の専門部会が昨年11月に公表した「審議のまとめ」は、推進派にも慎重派にも、議論を残す内容となった。

中教審教育課程部会が公表した「審議のまとめ」は、小学校英語に関し「教科とは異なる位置付け」と明記。その役割を「音声面を中心としたコミュニケーションに対する積極的な態度等の養成」と規定する。

対象は5、6年生。授業時間は地域や学校の実情に応じ、週1回程度。同時に中学校での英語教育についても「小学校での素地を踏まえた」指導を志向する。これらを基に最終答申が出され、年度内には次期学習指導要領が示される見通しだ。

文科省教育課程課によると、数値評価を伴う教科とするには「時間がかかりそう」という。有用、無用をめぐり、さまざまな意見が交錯しているためだ。取りあえず必修とすることで英語教育推進の方向を示しつつ、「国語教育の充実が先決」などの慎重論にもくみした結論といえるだろう。

授業時数も弾力運用
授業は担任教師を中心に、外国語指導助手(ALT)や英語指導に通じる民間人の協力を得て行うことを想定している。

小学校英語の前提は「中学校英語の前倒しではない」ということだ。「外国語体験活動」という建前で、英語を通し外国の文化に触れるのが眼目だ。この辺は、小学校英語に慎重な立場に対する配慮に違いない。

文科省は「一定水準」の確保へ教材の開発や教師に対する研修を検討しているが、授業時数から「学校や地域の事情」とする弾力的な運用では「審議のまとめ」が志向する中学校英語との連動は難しい。学校や地域で小学校英語の取り組みに差異が生じる可能性が高いからだ。

文科省の3年前の調査によると、全国の9割以上の公立小が何らかの形で英語教育を行っている。しかし既に、その取り組みやレベルに大きな違いがあることは同省も認識している。

必修化は「一定水準を確保する」のが眼目というが、基本的に「地域や学校の実情」に依拠する取り組みでは、小学校英語に対する現状の温度差を助長することにならないか。

取り組みは西高東低
小学校の英語教育必修化に関し、親と教師の意識を問うた文科省の2005年調査は、保護者の71%が賛成、教員は54%が反対という対照的な結果だった。

子ども向け英語教育を実践する松香フォニックス研究所(東京)の松香洋子代表は、昨年11月に盛岡市で行った講演で、市民レベルの英語熱は「西高東低」と指摘。あらためて都内の本部でその要因を尋ねると「必要性に対する実感の差でしょうか」という答えが返ってきた。

英語をめぐっては明治維新の昔から種々議論されてきたが、いまだ認識が統一されているとは言い難い。背景には、日本の地理的条件に加え、一時を除きほぼ独立を保ってきた歴史が推察されよう。言語的にも「独立国」だったのである。

小学校英語をめぐる議論は、受験をめぐる公教育と私塾のかつての対立を想起させる。

公教育に純粋な地方が霞が関の議論を見守るうちにも、新たな「格差」が増幅しないか心配だ。

県内に限っても、取り組みはまだら模様。県教委として具体的対応は白紙に近い状態だが、今や公教育も待ちの姿勢に終始しては、全国の「現実」を見失いかねない。

遠藤泉(2008.1.11)

岩手日報 2008年1月11日

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学校SW 「協働」し問題解決を

二〇〇八年度から全都道府県に、公立小中学校で活動する「スクールソーシャルワーカー(SSW)」が配置されることになった。

虐待や育児放棄、経済的困窮などの問題に専門的な見地で対応する。

子どもの問題には虐待など、対応に関係機関との連携が不可欠なケースが増えている。問題解決の条件づくりへ、調整力と専門性が期待される。

スクールソーシャルワーカーの活動は米国が起源で、国内では近年以降、一部の自治体が導入してきた。

二〇〇〇年から導入した兵庫県赤穂市では、学校などからの連絡で家庭を訪れ、話を聞いたり、支援先との橋渡しをするなど、存在感を高めている。

文科省が全都道府県にスクールソーシャルワーカーの配置を決めた背景には、学校だけで解決できない子どもの問題の増加がある。

不登校やいじめ、暴力行為などの問題には、家庭環境が影響しているケースが多い。だが、学校や地域とのつながりを拒んだり、自分の問題に精いっぱいで、精神的余裕を無くしている保護者も少なくない。

スクールソーシャルワーカーに期待される主な役割は「学校と関係機関との仲介役」だ。

深刻な問題を抱えた保護者や子どもの実態を把握した上で、福祉施設や警察、ボランティア団体などに適宜、協力を要請する。

教員との連携次第で、より早期かつスムーズな対応が可能になる。教員にとっても、恒常的に専門家の協力を得られる仕組みが整備されることで、負担が軽減される意義は大きい。

課題は人材の確保だ。文科省は原則各都道府県に三地域ずつ配置する。社会福祉士や臨床心理士など専門家のほか、行政制度に詳しい人や保護者、子どもの相談活動の経験者からも求める考えだ。

人材の絶対数が限られている本県など地方の場合、人材の養成なども欠かせまい。

虐待など深刻な社会問題に対応する際に求められるのは、当事者である児童生徒や保護者を含め、関係者が「協働」し、解決を図るという姿勢である。

学校には、ほかにもスクールカウンセラーら、子どもの問題にかかわる人材がいる。それぞれの役割分担を明確にしながら、スクールソーシャルワーカーという新たな活動領域を、学校内に位置付けることだ。

高知新聞 2008年1月8日

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学校に福祉専門家 適切な支援は社会の責務

教育にかかわる多くの問題をわたしたちの社会はいま抱えている。虐待や育児放棄などが後を絶たない。学校では不登校やいじめ、暴力行為などの問題が起きている。

こうした問題に専門的な立場から対応するため、文部科学省が打ち出したのが「スクールソーシャルワーカー」だ。2008年度から全都道府県の計141地域に配置され、公立小中学校を舞台に活動する。

スクールソーシャルワーカーの主な役割は学校と関係機関の橋渡しである。問題を抱えた保護者や子どもの実態を把握し、個別状況に応じて福祉施設や警察、ボランティアらに協力を求め、連携して問題解決に当たる仕組みだ。

経済的理由で子どもを通学させられずに追い詰められ、親も子も苦悩している家庭がある。生活保護や就学援助の申請、場合によっては福祉施設への入所手続きなど専門的知識が役立つはずだ。蓄積した豊富な経験や人的ネットワークを生かし、ぜひ救いにつなげてほしい。

この制度は大阪府や兵庫県などで先行導入されている。文科省はこれにならった形だが、裏を返せば、問題はそれだけ深刻化し、早急な対応を迫られている証しにほかならない。

省みると、識者らの指摘を待つまでもなく、現代社会は人と人の関係が希薄になった。個人は個人のまま分断され、濃密なつながりをもてなくなっている。他人への関心が淡く、関係は乾き切っている。地域のきずなも弱体化が著しい。

子どもと接触する時間が「ほとんどない」と回答した父親の割合が4分の1を占める時代であることが、内閣府の調査で明らかになっている。子どもを育て、慈しみ、支える社会的基盤がぐらついているのである。

だとすれば虐待や不登校、いじめなどに対し、学校や家庭や地域が効果的な対策を見いだせず、明確な処方せんを示し得ないのは当然の帰結なのかもしれない。

子どもの問題は学校だけでは解決できないことが少なくない。関係者が少し目を配り、協力関係を築いていさえすれば、虐待死やいじめ自殺などの悲劇は防げた。後で悔やまれるケースが何と多いことか。

スクールソーシャルワーカーの配置は、県内に3地域と極めて限定的である。しかし、制度の趣旨を応用した独自の仕組みをつくるのはそれほど難しくない。学校や家庭、行政、地域などが連携し知恵を絞りたい。

適切な支援を必要としている保護者や子どもに対し、温かい手を差し伸べるのは社会全体の責務だと心掛けたい。

琉球新報 2008年1月8日

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年のはじめに考える どこへ向かうか公教育

東京都の教育改革で進学型の都立高校は復活しました。次は中高一貫型学校の増設です。政策の力点は学力増強にあり、私学との競合時代に入ろうとしています。

二〇〇七年度の大学入試で都立日比谷高校から現役、浪人合わせて四十六人が東大、京大、一橋大、東京工大の難関国立四大学に合格しました。〇四年度は七人でしたから急増です。難関私立大合格者数をみても、進学実績は年々、躍進しています。同校は一八七八年に創設され、谷崎潤一郎や小林秀雄などを輩出しています。進学実績をみると、一九六四年には全国トップクラスの百九十三人が東大に合格しました。

復活した都立進学高校
ところが、九〇年以降は一けたに落ち込み、「凋落(ちょうらく)した都立高校」の象徴になりました。都教育庁は九七年から都立高校改革に乗り出し、かつて実績のあった学校を進学指導重点校に指定し、人事と予算両面で力を入れました。とりわけ、進学化にネックとされていた「学区」を撤廃しました。日比谷高の現一年生の出身中学は二百四十二校といい、この数は全国的に類を見ません。

「できる子が集まったから進学実績が伸びた」という意見に対し、長澤直臣校長は「学校として努力を積み重ねてきたからだ」と反論します。通常は一コマ五十分の授業を四十五分にして生徒に集中力を養わせ、浮いた時間で七時限目をつくり出していますし、生徒がつけた授業評価から授業内容の検討も行っています。現場の創意工夫は無視できません。

さらに躍進していくのかというと、長澤校長は「それは厳しい。百人以上が東大に合格した時代とは状況が違う」と言い、私学の存在を挙げます。大学進学率が高まっていくなか、首都圏では公立高校のレベルが低下し、受け皿となった私学が相対的に進学実績を上げました。その私学が売り物の一つにしているのが「中高一貫教育」です。

中高一貫も私学に対抗
高校入試がなく、六年間を通じて同じ環境で学ぶことができるというのは大きな魅力でしょう。大手進学塾によると、首都圏には私立中学が約三百校あり、昨年は小学六年生のうち約18%が受験しました。

公教育も進学型の中高一貫校設置を進めています。都内では都立、区立合わせて五校が誕生しました。いずれも志願倍率が六−九倍と人気があります。進学校のうち、二番手校が中高一貫型になる傾向ですが、千葉県では進学実績が県立トップの千葉高校が〇八年度からは中学校併設の中高一貫校になります。

文部科学省の二〇〇六年度学習費調査では、幼稚園から高校までの学習費総額は「すべて公立」五百七十一万円、「高校のみ私立」七百二十八万円、「小学校のみ公立」千五十五万円、「すべて私立」千六百七十八万円でした。私立への進学は家計に大きく影響します。

経済面から公立に期待する保護者は少なくないでしょう。公立学校は統廃合ができますが、私学はそうはいきません。つぶれる私学が出るのでは、とうわさされます。

杉並区立和田中は今月から塾講師による有料授業を始めます。夜間や土曜日に主要教科のサポート授業を行うことで学力上位の子を伸ばそうという狙いがあります。経済協力開発機構による国際学習到達度調査で日本は成績高位層の割合が減りました。できる子対策を充実させるべきだという声が高まりそうです。

ただ、教育というのは学力対策ばかりではありません。本年度は「特別支援教育元年」とされていますが、その現場では深刻な問題が起きています。

知的障害のある子が急増しているのです。都立養護学校に通う知的障害児は、〇三年度は四千八百八十人でしたが、〇七年度は五千九百二十一人と一・二倍になりました。

特別支援教育への理解が深まったからではないかといった分析がありますが、都教育庁は「はっきりした原因が分からない」と言います。学校の増設や校舎の増改築は、すぐにはできません。教室づくりが喫緊の課題となっています。

本年度、都では特別室を教室に転用しているのが二百四十件、一つの教室をパーテーションで分割して二教室として使っているのが百九十八件にのぼっています。

特別支援教育では学級編成が小・中学部は六人、高等部は八人、重度障害児は三人ですから先生の配置も必要となります。

増えている知的障害児
そんな現状に都立青鳥(せいちょう)養護学校の山口幸一郎校長は「対応が追いつかない」と訴えます。「弱い子に目を向けないと、いい社会はつくれないのではないか」

少子化のなか、公教育と私学の競い合いが始まります。私学には公立がまねできない学校づくりがいま以上に求められます。一方、公教育への評価が「できる子」重視で進んでいいのでしょうか。しわ寄せが及んでいる子供がいないかどうか、私たちは見極めなくてはなりません。

中日新聞・東京新聞 2008年1月5日

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