地方紙社説(2008年4月)


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新指導要領 前倒しの前に教員増を

授業の時間も内容も大きく増えるのに、教える先生の数はそのまま−。これでは学力の向上はおろか、教育の質が保てるかさえ、疑わしい。

来年春から小学校の各学年で、授業時間が週一時間ずつ多くなる。文部科学省が「ゆとり教育」から転換した小中学校の新学習指導要領を、理数を中心に一部前倒しして実施する方針を示したからだ。中学校の学習内容も増える。

昨年末に公表された経済協力開発機構(OECD)の学習到達度調査(PISA)で、理数系の課目が落ち込んだことに対する強化策だ。新しい教科書ができるまで、文科省が補助の教材を作って配るという。

だが、これに伴う人材と財源の手当ての話は、なぜか国から出てこない。中央教育審議会が先日答申した教育振興基本計画にも、教員の定数増など具体的な数値目標は盛り込まれなかった。

少子化で児童、生徒の数は減っているのだから、実質的には教職員や予算は手厚くなっている−。財務省内には、そんな声があるという。

だが、ことはそう単純ではない。少子化により、人と交わる体験が少ないためにうまくかかわりが結べなかったり、友だちや親との関係にストレスを抱える子どもが少なくない。一人一人にきめ細かく対応しないと、集団としてもまとまらない現実がある。

「特別な支援が必要な子どもが増えていて、ほかの子どもたちへの指導が思うようにできず苦しんでいる」「保護者が抱える子育ての悩みが深刻化している」−。県内の教師たちの声だ。

学校現場では、いまでも教師の超過勤務や家への仕事の持ち帰りが常態化している。そこへさらなる負担を強いるだけでは、現場は疲れ果ててしまう。教育は足元から崩壊するだろう。

異なる個性と能力をもつ子どもたちが、自分なりの疑問を追究し、深く考える。そうした力をはぐくむには、力量のある教師を手厚く配置する必要がある。

小泉政権下の2006年に成立した行政改革推進法は、教職員定数の純減を定めている。本年度予算では約1200人の増員が認められたが、管理職の新設に伴う補充が中心。教室には回ってきそうにない。

日本の教育に対する公費支出は、先進国のなかでも最低レベルだ。行革推進法の見直しも含めて、子どもたちに最も近いところから、学ぶ環境を整えるべきだ。

秋田魁新報 2008年4月28日

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新指導要領前倒し 教育現場への対応をしっかり

「ゆとり教育」を見直す新学習指導要領が、来年度から一部先行実施されることになった。学力向上が目的ではあるが、来年度から急に授業時間数が増えて現場がしっかり対応できるのかとの不安も払しょくできない。

新要領の全面実施は小学校で2011年度、中学校で12年度である。文部科学省はこれを一部先行実施することとし、24日に新要領の移行措置案を発表した。

それによると、来年度は数学・算数と理科を強化する。このため小学校で1、2年の算数と体育、3年から6年で算数と理科、中学校で1年の数学、3年の理科の授業数が、それぞれ増えることになる。

小3では算数と理科が合わせて年45時間拡大するという、教育現場にとっては大きな変化である。特に小学校では全学年で週1時間授業が増えるという状況になるのだが、果たして、この先行実施に全学校が歩調を合わせて対応できるのだろうか。

移行期間中は検定教科書がないために、文部科学省は補充教材を作って配布する予定だ。だが、現場に行き渡るまでには相当の時間が必要となるだろう。それでは現場の教員が指導内容や方法について、十分な準備ができないまま本番を迎えるという状況にもなりかねない。

数学(算数)や理科という特定の教科の時間が増えることで、現状のままでは担当教員の負担だけが増加することも考えられる。文部科学省はそれも考慮し、来年度予算の概算要求で教員増を求める方針だというが、それも確実に担保された話ではない。国による具体的な増員計画が示されないのでは、現場でも具体的な対応ができないのではないか。

児童、生徒の数が減少するという状況下、厳しい財政運営を強いられている地方では、学校の統廃合問題も取りざたされている。そうした現実と突き合わせて考えると、新要領の前倒しに対する不安がどうしても拭(ぬぐ)えないのである。

「ゆとり教育」を見直すといっても、現実にはその「ゆとり教育」を受けて育った子供が教員となり、教壇に立っている時代でもある。自分たちが習っていない内容を子供たちに教えるのだから、研修も必要になるだろう。その時間が現場で確保できるのか。

「ゆとり教育」から脱却し学力向上を目指すのはいいが、国にはその態勢をしっかりと整えてほしい。その責任が国にはあるはずだ。

新要領をスムーズに移行したい、前倒しはそのとっかかりになるということなのだろうが、現場の状況をしっかり把握した上でないと現場が混乱するだけである。学校によって新要領への対応が異なるということだけはくれぐれもないよう国に求めておきたい。

陸奥新報 2008年4月26日

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全国一斉学力テスト 習熟度別指導の導入を

去る22日に第2回目の全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)が実施された。全国の国公私立の児童生徒223万人が参加した。

■結果を生かせないままに
文科省は、全国学力テスト(以下、学テ)を毎年実施する意向のようだ。これが地域間の競争に発展し、学校選択の拡大という教育の市場原理主義に陥らないか気掛かりだ。やはり、ここは「調査」と銘打つならその性格を生かすべきだ。

昨年度、学テは本年同様4月に実施された。だが、正答率等の結果発表は10月であった。さらに、正答率と、学習環境や生活習慣との相関関係等の分析結果報告は1月と大幅に遅れた。そして、今回の学テである。てこ入れの準備期間もないままに実施―の感は否めない。
県教育委員会は、学テを受けて、それへの対応として「事例集」と「手引き」を作成した。その公表は学テ前日であった。もっと早く学校や父母に知らせることはできなかったか。つまり、県民総ぐるみの中で今回の学テに臨みたかった。

学力不振や低下の因果関係、原因究明、それへの対応なくしての学テ実施は単なる競争にしかならない。

幸い、県教委は「家庭学習の手引き」を4月中に小中学校の全家庭に配布するとしている。それの活用により家庭学習を充実させたい。「家庭教育を見直し、各家庭の事情に合わせたー」(仲村教育長)ものになるよう県民運動レベルまで持っていきたいものだ。

■習熟度別学級の勧め
習熟度別指導が学力の低い子ども、高い子どものいずれにとっても学力向上に効果がうかがえる―と学テ分析結果を受けて文科省有識者会議は報告している。この報告を生かせないものか。

児童生徒は、これまでの学習や生活経験の度合いにより獲得した知識の量に多寡が生じている。また、思考力にも差異がある。このことを受容し、効果的な指導を施せないものだろうか。

ところが、このことに異をとなえる父母が多く習熟度別指導や学級設置は難しいと聞く。

習熟度別指導と能力別指導は異なる。前者は変動で柔軟な形態だが、後者は固定で頑迷。児童生徒の知力は日々変容していると言っても過言ではない。このことを父母は受け入れ、学校は、学習の効率性を考えた指導形態を導入したい。

知識・技能の習得が遅れている児童生徒に特別な学習を注入することにより、その知力を回復してやることが賢明ではないか。劣っているものをそのままにして置くことほど愚かなことはない。親の面子や外聞へのこだわりは、我が子の未来を狭隘(きょうあい)にするということを知りたい。

■教育は調整問題
親が教育や学校に期待するもの、好ましいと考えるイメージは多種多様である。そのイメージがそのまま親の「教育(学校)の目的」になってくる。

例えば、若く明るい歌声の聞こえる牧歌的な学校を理想とする親。将来の職業生活にすぐさま直結する学習を重視する親。規律と秩序で規範意識の旺盛な学校生活を好ましいと考える親―いろいろである。

角度を変えて考えてみよう。高校受験は、競争をあおり真の学習を妨げる無用のものと見る親。学習の動機付けに有力な源泉と考える親。現実が競争社会であるゆえ、受験競争は有益なものと見る親―などと、どの見方に与するかによって親の教育像、学校像、学習像が違ってくる。従って、学校は、我が校の理想像を親に示し、親に理解を求め一緒に前進しなければならない。つまり、教育は調整問題である。

理想像の根幹にあるものは子どもの学習の保証である。ひらたく言えば、確かな学力を子どもに身に付けさせ卒業させることである。この視点に立って習熟度別学習を説いたらどうだろうか。

八重山毎日新聞 2008年4月26日

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教育振興基本計画 今後に不安増すばかり

今後の教育に期待を抱かせるどころか、不安を増長させると言わざるを得ない。中央教育審議会が答申した「教育振興基本計画」のことである。

基本計画は「改正教育基本法」に基づき、今回初めて策定された。いわば今後10年を見通すグランドデザイン。問題が山積する中、どんなふうにまとめられるか注目されていた。

それにもかかわらず、肩透かしを食らったような内容にとどまった。中身が通り一遍で、一部を除けば既存の施策の寄せ集めと言っても、あながち的外れではないのである。

もちろん教育ほど地道な取り組みが求められるジャンルもない。教育に対する考え方はさまざまあるにしろ、「人づくり」という根本目標がそんなに大きくブレるはずもない。

計画が目新しさに欠けるとはいえ、教育問題をしっかり見据え、一つ一つこつこつと解決していこうという姿勢で貫かれているとするなら、評価する向きも出てこよう。

何より心配なのは計画の実現性だ。教育予算増額の数値目標や教職員定数改善の具体的な見通しという肝心な部分が盛り込まれなかったのである。

教育現場の多忙化が指摘されて久しい。「人も金も不十分なまま、どうすればいいのか」。悲鳴に近い訴えや悩みを見聞きすることも珍しくない。

これに学習指導要領の改定が追い打ちをかける。「ゆとり教育」を転換する改定は、授業時間数や学習内容の増加が柱。以前にも増して高い次元の目標達成を課しており、教育現場にすれば負担増となるのは間違いのないところなのだ。

あれもこれもと目標を掲げておきながら、人や金といった裏付けがあやふやでは、計画が「絵に描いたもち」に堕する恐れも否定できなくなる。

なぜこんなことが起こるのか。教育が「国家百年の大計」であることは疑問の余地がない。その充実を妨げることなど果たしてあり得るのだろうか。

実は今更指摘するまでもなく、「財政事情」という厚い壁が立ちはだかるのだ。具体的には財務省が予算や教職員の増加を図ろうとする文部科学省に難色を示しているのである。

財政難は今や、国や地方のありとあらゆる分野に及び、最大の懸案事項になっていると言っていい。教育が全く影響を受けないわけにはいかないことも大半の人が分かっている。

しかし、人づくり、つまり教育なくして国も地方も未来につながっていかないこともまた、紛れもない事実なのだ。財政難を言い訳に教育の充実を怠れば、それこそ国や地方の先細りを招きかねない。

今こそ、省庁の枠を超えた「教育哲学」を持つべき時だ。教育の大切さに対する共通理解が深まれば、ほかの予算を回してでも拡充を期すべきだという機運が高まるに違いない。

秋田魁新報 2008年4月24日

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全国学力テスト 結果公表はもっと増えていい

昨年に続いて行われた文部科学省の全国学力テストで、市町村別の結果を公表する自治体が固定化する傾向が見え始めたのは残念なことである。石川県では昨年公表した金沢、白山市を含む五市町、富山県では昨年に続き富山市と南砺市が検討しているものの、他の自治体は公表しない方針だという。

文科省の実施要領は、都道府県が市町村別データ、市町村が学校別データを公表しないよう求める一方で、市町村が保護者や地域住民への説明責任を果たすため、全体の結果を公表することは、それぞれの判断に委ねている。

公表しない理由として「競争をあおる」「序列化を招く」といった声が相変わらず多いが、それは画一的な受け止め方のようにも思われる。正答率が県平均より低ければ、保護者や地域に動揺を与えることを心配する自治体もあるようだが、仮に下回ったとしても、県平均に追いつき、追い越すための改善策をしっかり示せば奮起を促すこともできる。二回目のテストであれば、一回目との比較を含めて検証できる視点はいくつもあるはずだ。結果の公表はもっと積極的に検討されてよいだろう。

石川県では学力テストの結果をもとに各小中学校が学力向上プランを作成し、富山県でも「富山型学力向上プログラム」を策定して各学校の一層の底上げを目指している。昨年は富山県が全国トップクラス、石川県も総じて全国平均を上回ったが、それに満足せず、結果を現場の授業改善に生かそうとする積極性は評価できる。

学力テストの負の側面ばかり取り上げて廃止を唱える声もあるが、全体としてみれば学力向上に取り組む大きな動機付けになったことは確かである。市町村単位の結果公表もそんな視点から考えることができよう。

県全体の取り組みは活発化したように見えても、実際には市町村教委や学校間でテスト結果の活用には温度差も生じている。知識活用型の学力を伸ばす独自の対策を始めた教委もあれば、県教委に従うだけの教委もある。テスト結果よりむしろ、そうした地域差が広がることの方が気がかりである。

北國新聞 2008年4月24日

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教育基本計画 予算の裏付けがなければ

今後五年間にわたる国の教育政策の目標や実施体制を定めた初の「教育振興基本計画」がまとまった。教育の中期的ビジョンと位置づけられ、中央教育審議会が文部科学相に答申、近く閣議決定される。

一昨年末に成立した改正教育基本法は、その理念を反映する実施計画の策定を義務付けており、中教審が審議してきた。

基本計画はまず取り組むべき政策を「生涯教育」「義務教育」「高等教育」「教育環境」の四分野に集約した。合わせて約八十項目の具体的な施策も掲げた。

とりわけ重点項目に挙げたのは、道徳教育用教材の国庫補助▽小中学校校舎約一万棟の耐震化▽海外からの留学生三十万人計画の推進▽幼稚園と保育園を一体化した「認定こども園」の拡大-などだ。

しかし、それらの裏付けとなる予算措置については数値目標を明記せず、「教育投資の充実を図っていくことが必要」とするにとどまった。注目された教職員定数の改善も、中教審で強い要望が出たにもかかわらず、増員数の記載は見送った。

予算の膨張に難色を示す財務省に押し切られた形だろう。予算の裏付けを欠いたまま総花的にプランを並べ立てるのでは、まさに「絵に描いたモチ」である。

かねて指摘されてきたように、日本の教育予算は先進諸国と比べて、かなり低い水準にとどまる。経済協力開発機構(OECD)が昨年発表した加盟国の公的教育支出比較(対国内総生産比率)で、日本は二十六カ国中、二十五位だった。

もちろん、お金をかければいいというものではない。だが、基本計画が「いまこそ教育立国を宣言し、教育の振興に取り組むべきである」とうたうなら、国はそれ相応の「覚悟」を見せるべきである。

数々の施策は必要と判断したからこそ、掲げたものだろう。少なくとも五年の期間中の優先度を十分に精査したうえ、予算目標を示しておくべきではなかったか。

改正教育基本法は、国の基本計画とは別に、地方自治体にも地域の実情に応じた計画の策定に努めるよう求めている。国の鋳型の押しつけだけでない点は前向きにとらえたい。国の予算措置が不明確な中で限界はあるだろうが、地域が独自の取り組みを模索する好機ともいえるからだ。

実際に教育を行うのは、やはり地域である。基本計画の遂行に当たり、国や文科省は地域の自主性尊重と互いの連携重視を心がけ、課題に取り組む必要がある。

神戸新聞 2008年4月24日

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全国学力テスト 問題多く見直しが必要だ

全国の小学六年と中学三年を対象にした全国学力テストが二十二日に実施された。昨年同様、学年全員が対象で、全国で約二百三十二万人、山陰両県では二万五千七百人が参加した。

四十三年ぶりに実施された昨年の結果は同年十月に公表されたが、都道府県と政令市に設けられた検証改善委員会による改善支援プランが公表されたのは年度末ぎりぎり。テストを受けた当の生徒は既に卒業し「個々の生徒への指導の改善」とのお題目は宙に浮いた形だ。

その改善プランも、学力テストの目的とされた「全国的な状況との関係において課題を把握し、改善を図る」との狙いから、「全国平均との比較」に基軸が置かれ、数字が独り歩きしているのが実情だ。学校教育がテスト中心にゆがんでいく懸念は強まるばかりだ。

検証改善委員会では、全国平均より点数が低いことを「課題」とする受け止めが一般的だ。学校ごとの成績を公開している地域でも、全国や地域の平均との比較が前面に出ているとの印象だ。

しかし、塾通いなどで満点に近い子がいる一方で、ほとんど問題に手を付けていない子どももいる。平均という抽象的な数字をもとにした処方せんは、個々の指導という面では大きな意味を持たない。一人一人のつまずきを見定めた丁寧な指導こそ基本である。

今後、各学校で改善計画作成を求める動きが強まりそうだが、全国平均との比較が基軸になるのでは、結局は点数の競い合いになる。

滋賀県教育委員会が今回のテスト前に、第一回テストの類似問題を示して、利用を呼び掛けていたという。どう釈明しても、点数アップが目的の事前対策以外のなにものでもないだろう。

大手教科書会社系教材会社が発行している全国テストへの対応を売り物にした対策教材の表紙には、テストの制度設計に当たった文部科学省専門家会議座長の「推薦のことば」が載っている。

昨年、伊吹文明文部科学相(当時)が「あらかじめ対策を講じるとか問答集を配布するなどということになると、…本来の趣旨に反する」と国会で答弁したばかりなのに、一体どうしたことか。

「序列化や過度の競争をあおらない」との専門家会議報告をまとめた当の座長が点数競争のお先棒を担ぐというのでは、どう考えても理屈が通らない。

全員対象のテストは教師やクラスごとの成績がはっきりするから、回を重ねるごとに教師の責任を問う仕組みがだんだんできてくるだろう。

「測定できるのは学力の特定の一部分」(文科省)にすぎないのに、それで教師を追い込むようなやり方が広がれば、学校でテスト向け勉強が幅を利かせるのは目に見えている。

文科省に調査データを分析するスタッフを備えた専門組織があるわけではない。結果の生かし方も十分練り上げられているわけでもなく、終わってから慌てて検討するというお寒い実態だ。

渡海紀三朗文部科学相は、今後五年は継続するとの考えを示しているが、副作用を伴う全員対象のテストを続けるのはリスクが多すぎる。一から見直すべきだ。

山陰中央新報 2008年4月24日

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全国学力テスト 点数の競い合いだけを助長

現行のまま継続すれば教育の在り方に大きなゆがみを生じる。そんな懸念を抱く。

全国の小学6年と中学3年を対象にした全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)が今年も22日に実施された。参加児童・生徒は232万人。

何のための試みか。はっきりしないまま、これほどの数の子どもたちが2度目のペーパーチェイスに駆り立てられた。弊害ばかりが頭に浮かぶ。

県内でも、対象学年がいない13校を除く、国公立小中学校など398校と私立中6校の約2万4千人が参加した。

■お題目は意味を失う■
昨年の結果が公表されたのは秋風も吹き始めた10月。それを受けて都道府県と政令市に設けられた検証改善委員会による改善支援プランが提示されたのは年度末ぎりぎりだった。

テストを受けた児童・生徒たちは卒業してしまい、「個々の生徒への指導改善」というお題目は意味を失った。

そもそも、こんな大がかりな全員参加型の試験を行い、結果を分析しなければ、個々の児童・生徒への指導に支障を来すのか。

詰まるところ、都道府県対抗ランキングや、全国平均との比較に基軸が置かれて、教育現場にプレッシャーをかける数字が独り歩きするだけだ。

1人1人のつまずきを見定めた丁寧な指導こそが学力の底上げにつながる。

塾通いで満点に近い子がいる一方、問題に手さえ付けていない子もいる。点数を足して、人数で割れば平均点がはじき出される。その数字を「個々」の指導にどう生かすというのか。

県内の教育現場でも「個別の分析がなされていない」と有効性を疑問視する声がある。

このままの形でテストが継続されれば、結局は点数の競い合いになるだけではないか。

■テスト向け勉強優先■
滋賀県教育委員会が今回のテスト前に、第1回テストの類似問題を示して、利用を呼び掛けていたという。

開いた口がふさがらないこともあった。大手教科書会社系教材会社が発行している全国テストへの対応を売り物にした対策教材だ。その表紙にテストの制度設計に当たった文部科学省専門家会議座長の梶田叡一兵庫教育大学長の「推薦のことば」が載っている。

昨年、伊吹文明文部科学相(当時)が「あらかじめ対策を講じるとか問答集を配布するなどということになると、…本来の趣旨に反する」と国会で答弁したばかりなのに、である。

学校間の競争や序列化につながる動きは今のところ、県内では顕在化していない。だが、回を重ねれば、教師や学校の責任を問う仕組みができてくるだろう。測定対象なのは学力のごく限られた領域でも、先行き学校でテスト対策の勉強が優先されるのは目に見えている。

現時点でプラス面が見えてこない。やめるか、見直すか。選択肢は2つに1つしかない。

宮崎日日新聞 2008年4月24日

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全国体力テストに疑問

文部科学省が今年度、小学5年生と中学2年生を対象に初めて実施する「全国体力・運動能力、運動習慣等調査」に、教育現場から戸惑いの声が上がっている。年度末になって各教委に通知が届くという周知期間の短さに加え、調査の必要性への疑問もあるためだ。さらに文科省は当初は全員を対象にするとしていたにもかかわらず、不参加も容認する姿勢に転換した。現時点では混乱をもたらしているだけだと言わざるを得ない。

文科省の正式発表は今月1日。4月から7月末にかけて全国の国公私立の小学5年生と中学2年生の全員を対象に実技と、生活習慣などを尋ねる調査を実施する―との内容。各教委には3月11日付の文書が年度末に送られてきた。通常、「各学校は翌年度の教育課程を11月ごろから編成し、1月下旬ごろには固める」(中通りの教委担当者)という。通知のあった3月には年間予定は決まっている。事情をよく知っているはずの文科省がなぜ唐突に新方針を打ち出したのか。「急に言われても困る」(県北地方の小学校長)との訴えは当然だ。

しかも、調査で実施する実技は握力、上体起こし、長座体前屈、反復横跳び、50メートル走、立ち幅跳びなど8種目。全国の多くの公立小、中学校で既に取り入れている「新体力テスト」と種目がほぼ同じだ。文科省はこれまで各都道府県から抽出した学校の「新体力テスト」の結果を分析し、公表している。抽出調査だけでも傾向は十分把握できると思う。

全員を対象にする理由について、文科省は1日の発表時に「1人1人へのきめ細やかな改善策を検討するため」と説明した。4日には渡海紀三朗大臣が会見の中で「全員調査できちんと状況を把握する必要がある」と述べ、そのために調査の実施時期を秋まで拡大する可能性にも言及した。ところが、7日になって銭谷真美事務次官は「4月から7月のテスト実施が難しい学校は不参加もやむを得ない」と方向を修正した。根幹の部分が揺れている。省内で内容をきちんと論議してまとめ上げたのか、疑わしい限りだ。

福島民報社の調べによると、県内の公立小中学校で「全国体力・運動能力、運動習慣等調査」に参加するのは現段階では全体の15・3%。21市町村では管内すべての小、中学校が不参加の意向だ。この数字が、急ごしらえの感のある新事業への教育現場の困惑を雄弁に物語っている。実施の必要性を含めて文科省は再検討を迫られているのではないか。 (佐藤 研一)

福島民友新聞 2008年4月23日

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全国学力テスト 5年も続けるのか

「少なくとも五年は続けたい」と渡海紀三朗文部科学相は言う。全国学力テストは今年で二回目だが、初回の検証は中途半端だ。学校序列化の懸念はぬぐえず、このまま続ける必要があるのか。

全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)は今年も愛知県犬山市を除く国公立の全校が参加した。小学六年生と中学三年生の全員が対象という大規模調査だ。昨年、四十三年ぶりに復活した背景には、子供の学力が低下しているとの危機感がある。

調査はいくつかの問題を指摘されながら実施された。学校や地域の競争をあおる道具になるのではとの懸念は今年も変わらない。

文部科学省は市町村教委に「個々の学校名を明らかにした公表はしない」といった通知を出した。自治体は結果の公表方法に細心の注意を払わなければならない。

昨年は東京都足立区の独自テストで先生が誤答部分を示唆して好成績を得ようという不正が発覚したが、今年は滋賀県教委が独自の問題を作ってホームページに掲載していた。事前対策とも受け取れる行為だ。公表が都道府県単位でも競争の問題は払拭(ふっしょく)されない。

結果の活用にも問題がある。昨年は公表が十月にずれ込み、現在も自治体の検証作業が続く。一方、テストを受けた子供は卒業した。山梨県は「公表が遅れ、改善策が後手に回った」と反省するが、どの自治体も同じだろう。

文科省は「今年は九月に結果を公表する」というが、一カ月繰り上げただけで自治体の対応が大きく改善されるかは疑問だ。

公表が遅れるのは集計に時間がかかるからだ。ならば調査を全員から抽出に変えてはどうか。対象数が少ないほど集計は早い。

現場で活用できなければ調査の意義は薄まる。公表が夏休み前になれば、子供への学習指導はもっと有効にできるに違いない。

第一回の結果は、過去の抽出調査や国際調査と同様の傾向だった。学校規模と地域を考慮して抽出すれば全校参加の必要はない。

費用面では、昨年は約七十七億円、今年は約五十八億円がかかっている。抽出なら集計費が削減でき、浮いた分を自治体の対策費に回すこともできよう。

私立校の参加は昨年の62%から今年は53%に減った。すでに全員調査の意味は失われつつある。

このまま続けても効果は少なく、現場の負担だけがかさんでいく。文科省はテストのあり方を検証し、改善に取り組むべきだ。

中日新聞・東京新聞 2008年4月23日

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学力テスト 全員調査は今年限りに

今年も小学6年と中学3年を対象に、文部科学省の全国学力・学習状況調査が一斉に行われた。43年ぶりに復活した昨年に続いて、文科省は全員調査にこだわり、今年も58億円をかける。だが、毎年、巨費を投じて続ける必要があるとは思えない。文科省は、調査のあり方を見直すべきだ。

理由は3つある。第1に、このテストが、目的に掲げる児童生徒一人一人の学習改善に役立つとは言い難い。

昨年、結果が公表されたのは、テストから半年後の10月だった。長野県内の多くの学校では、12月の個人面談以降に各家庭に伝えた。子どもはどう答えたか、とっくに忘れたころだ。

しかも、子どもに返却されたのは答案ではなく、全国の正答率の横に、自分の答えが「○」か「×」で記された正誤表。読み取れるのは「できたか、できなかったか」だけで、どこでつまずいているのかが分からない。

文科省は「今年は9月には結果を公表したい」とする。それでも、半年後には卒業だ。個々の指導に生かせと言われても、現場も困惑してしまう。

第2に、学校や地域の間に過度な競争を生む心配が消えない。昨年、結果が公表された時、都道府県教委は正答率の「順位」に一喜一憂した。

学校ごとの正答率が、学校の評価に直結するのではないかという重圧が、現場にある。今年は「模擬試験」をして臨んだ学校も県内にある。

加えて、子どもの生活習慣を学力向上に利用することに違和感がある。

文科省は、朝食を毎日食べる子どもや、学校の規則を守る子どもは正答率が高い−などと分析し、有識者から「都合の良い部分だけを抜き出している」と批判された。国が一律に「理想」の子ども像や家庭像を押しつけることにもなりかねない。

1年目の結果の分析は、今も続いている。文科省はまずはそのデータを徹底的に検証し、具体的な支援策へつなげるのが先だ。就学援助を受けている子どもの多い学校は、正答率が低い傾向が出ている。課題が見つかった学校や地域を手厚く支援し、格差の解消を図ることこそ、調査を生かす道だ。

学力の把握はサンプル調査で充分できる。全員を調べるのは今年限りとし、予算は大幅に削り、その分を、教員を増やすなどの教育環境整備に回すべきだ。

信濃毎日新聞 2008年4月23日

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全国学力テスト 指導方法の改善をさらに

文部科学省の全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)が一斉に実施され、全国の小学六年と中学三年の計約二百三十二万三千人がテストを受けた。岡山県内では計約三万七千人が参加した。

学年全員が受けるテストは、昨年四十三年ぶりに復活した。国語と算数・数学の二教科で基礎的知識を問うA問題と、知識の活用力を問うB問題が出題された。併せて子どもの生活習慣などのアンケートや、学校側に授業の状況などを聞く調査も実施した。正答率との相関関係なども調べる。結果は九月をめどに発表の予定だ。

昨年の結果では、基礎的知識での正答率は高く、応用力が相対的に低かったことも分かった。各都道府県別にも公表された。岡山県は教科・問題別で全国平均をやや下回る項目が多く、広島、香川県は全項目で平均以上だった。

各教育委員会は、学力向上へ指導方法改善などの取り組みを始めている。岡山県は、本年度から小中学校の算数・数学で単元ごとの小テスト実施やモデル授業、教員OBの派遣などの対策を打ち出した。広島県は、教員研修に活用するため授業を収録したDVDを作製した。香川県では、家庭学習の習慣づけのための事例集をつくった。

前回テストでは、校長らが試験中に児童の誤答案を指さすなどの不正が起きた。今回も学力テストの類似問題をつくってホームページに掲載した県もあった。点数に一喜一憂して競争激化を招かぬよう注意したい。

むしろテスト結果を客観的なデータとして活用することで、指導に適した学級人数や教員配置など、教育施策の改善、充実に生かさねばならない。継続した改善を怠らないことが重要である。

山陽新聞 2008年4月23日

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教育基本計画 財政裏付け欠き無責任だ

中央教育審議会は初の教育振興基本計画を渡海紀三朗文部科学相に答申したが、実現性を担保する肝心な数値が盛り込まれず物足りない内容となった。

基本計画は二〇〇六年の改正教育基本法で、新たに政府に策定が義務付けられた。十年先を見通し、今後五年間で進める教育の目標を定めるものだ。

答申は日本が発展していく原動力は「人づくりをおいて他にない」とし、あらためて「教育立国」を宣言して教育振興に取り組むよう求め、七十五の施策を示した。このうち重点的に取り組むべき事項には「確かな学力の保証」など九つの目標と二十二施策を挙げている。

しかし、施策の裏付けとなる教育予算の拡充については「欧米主要国と比べて遜色(そんしょく)のない教育水準を確保すべく充実を図っていくことが必要だ」との表現にとどまり、具体的な数値は示されていない。「確かな学力の保証」や、同じく重点に据える「教員が子ども一人一人に向き合う環境づくり」にしても、教職員定数の改善や施設の充実などを指摘しながら、教育投資額や増員目標数は盛り込まれず迫力に乏しい。

財務省と文科省の調整が付かなかったためとされるが、省庁間の協議通りに答申したのでは審議会の意味はなかろう。授業時間や学習内容が増加する中で教育効果を高めるには、教師が子どもたちと向き合い十分に指導できる環境整備が必要だ。

裏付けもなく多様な取り組みを求められたのでは、現場は混乱するばかりで逆効果ともなりかねない。中教審は目指す教育と必要な投資をきちんと示し、実現への強いメッセージを発すべきだった。教育という将来への重要な投資をおろそかにしては、「教育立国」実現は到底おぼつかない。

山陽新聞 2008年4月22日

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検証と成果還元が必要だ 全国学力テスト

文部科学省の全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)がきょう、全国一斉に実施される。小学6年生と中学3年生の全員が対象で、計約232万人の児童生徒が参加する予定だ。

学年全員を対象とした学力テストは昨年、43年ぶりに行われた。復活して2回目となる。

学力テスト復活の背景には、国際比較調査などで明らかになった学力低下傾向に対する危機感がある。

しかし、復活した昨年も賛否が分かれたように、全国一律の学力テストが競争意識をあおり、学校や地域の序列化を招くのではないか‐という懸念は解消されたわけではない。

文科省は、教育委員会への通知で「本調査で測定できるのは学力の特定の一部であることを踏まえ、序列化や過度な競争につながらないように十分配慮」するよう求めている。

この点はあらためて文科省や教委、学校関係者に注意を喚起しておきたい。

テストは算数・数学と国語の2教科で、それぞれ基礎的知識を問う問題と知識の活用力を調べる問題が出題される。

文科省に注文しておきたいのは、調査で得られたデータを的確に分析して、教育現場の課題や指導上の問題点を探り出すとともに、保護者ら国民にきちんと説明してその成果を還元することだ。

そうでなければ、慎重論や反対論を押し切り、膨大な労力と経費をつぎ込んでまで調査を継続実施する意味はない。従来実施していた国の抽出調査や自治体の独自調査でも十分ではないか、という意見が説得力を持つことにもなろう。

昨年は10月に調査結果が公表された。総じて基礎的知識はまずまずだが、その応用力に課題があるという結果だった。だが、これだけなら、過去の国内調査や国際調査でも指摘されてきた傾向であり、全国で学年全員を対象に大規模調査をするまでもない。問題は、きめ細かな分析を通じて改善指針として教育現場で活用されているかどうかだ。

文科省は、都道府県と政令市ごとに設けられた検証改善委員会で、調査結果の分析とそれに基づく学校改善支援プランを作成しているという。

しかし、その成果報告書はまだまとまっていない。昨年の調査結果を基に専門家が分析や活用のあり方を協議している文科省の検討会も継続中で、最終報告の見通しは立っていない。もう2回目の調査が実施されるというのに、だ。

今回も国公立校は愛知県犬山市を除く全学校が参加するが、私立の参加率は昨年より8ポイント減って53%にとどまる見込みだ。私立の離脱は何を意味するのか。文科省は深刻に受け止めるべきだ。

新学年で学校行事も立て込むなか、約58億円の税金を使う学力テストは本当に必要不可欠なのか。文科省はこうした素朴な疑問に応えてもらいたい。

西日本新聞 2008年4月22日

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学力テスト 二度手間は明らかだ

文部科学省による全国一斉の学力テストが今日行われる。

学力テストは昨年、四十三年ぶりに実施された。小学校六年と中学三年を対象とし、国語と算数(数学)の二教科と併せて、児童生徒の生活習慣などを調べた。今年も昨年と同様の形式で行われる。

文科省は昨年、学力テストを実施するにあたってその目的を、全国的な学力と学習状況を把握し、各学校が課題を見つけて指導の材料とするためだと、説明した。

課題を克服するためにデータが必要なことは理解できるが、基礎的データは昨年の学力テストで得られたはずだ。今年も全員参加で同じ形式のテストを続ける意義は見いだしにくい。

昨年の結果から、応用力が弱いことや、大都市と地方の成績に大きな差がないこと、就学援助を受けている学校ほど正答率が低い傾向にあること―などが浮かび上がっている。

しかし、この分析結果の多くはこれまでの国際学力調査や、各都道府県の自治体が独自に実施してきた調査などで指摘されてきたことばかりだ。

それを裏付けたという意味では価値があったかもしれないが、児童生徒の学力状況や講ずべき施策が一年単位で激変するわけはない。二度手間は明らかである。

学テの本質は結果を今後にどう生かすかということだ。結果分析が施策につながらないまま、同じことを繰り返していては、テストが自治体や学校の競争意識をあおり序列化を進める道具として利用されかねない。

中教審が答申した教育振興基本計画は「教育立国」を目指し、今後十年間の目標と五年間の具体的施策を掲げたものだが、教員定数増など根幹部分での数値や具体的投資額などの明記が見送られた。財務省に押し切られた形だが、財政的裏付けがなければ施策も「絵に描いたもち」にすぎない。

学習指導要領改定によって、小中学校の授業時間は増え、教員の負担が増大することは間違いない。そんな中、教員増もままならず、課題克服に取り組めという方がむちゃだろう。

昨年の学テ実施には七十七億円もの予算が投入された。そんな金があれば教員の増員や、就学援助の拡大に回すこともできるはずだ。限られた教育予算を考えれば有効活用とは言い難い。納得のいく説明が求められる。

高知新聞 2008年4月22日

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教職大学院 実践する力をどう育てる

教科教育や学校運営の中核となる教員の養成を目指す教職大学院が四月、全国の十九校でスタートした。県内では上越教育大が創設し、一期生三十二人が門をくぐった。定員の五十人を大きく割り込む船出は、順風満帆とは言いかねる。

教職大学院は中教審が二〇〇六年七月、教員の資質向上を図るため設置を答申した。論議を呼んだ教員免許更新制と並ぶ教育再生策の目玉とされる。

従来の教員養成系大学院は学術研究に比重が置かれ、学校現場が抱える課題への対応や実践的指導力の育成が十分ではないといわれる。

このため高い職業能力を身に付けた人材を送り出そうと、教員養成教育に特化した専門職大学院として設置されたのが教職大学院だ。

上教大の教職大学院は、地域の実習校での実践研究に力点を置く。現場の教師との共同研究も特徴だ。教える力を養うと同時に、研究成果を実習校に還元する狙いだ。

定員割れの教職大学院は約四割に上る。入学者が少なかった背景には、大学生の就職が好調な上、新卒者には教職大学院進学の利点が見えにくかったことがある。現職教員の場合も、修了後の処遇や従来の大学院との違いが明確ではないという問題がある。

文部科学省の設置認可が昨年十二月と遅く、既存の修士課程入試の後だったことも一因だろう。

新潟大では本年度から教育人間科学部を教育学部に改組し、教員養成に力を入れる。同時に大学院も見直し、現職教員の研修に特化した一年制コースを新設した。教職大学院開設も検討したが、設立は見送った。

新大大学院では、教員の授業力向上のための研修システム「マイスター養成塾」を開設する新潟市教育委員会と連携する構想もある。

教員の資質向上は教職大学院を置かなくても可能ではないか。そんな疑問に答えるためにも教職大学院は開設の目的や特色、期待される成果と実現への道筋を分かりやすく示してほしい。

学力問題、いじめ、不登校など学校には課題が山積している。教師の力量が求められているのは確かだ。

分かる授業、楽しい学級は子どもたちの切実な願いである。それには不断の教材研究が必要だ。子どもの心の声を的確に受け止める力も問われる。こうした力や感受性は研究室で机に向かっているだけでは身に付かない。

学校現場と共通の研究テーマを何に定めるか。どのように連携し、指導法を確立していくか。それが教職大学院の成否の鍵を握るといえよう。問題を発見し、解決する。現場も大学院も課題は同じである。

新潟日報 2008年4月21日

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教育基本計画  実現へ財政の裏付けを

中教審が改正教育基本法に基づく初めての教育振興基本計画を答申した。基本法の理念を実現するため取り組むべき施策を盛り込んでいる。

これを受け政府が基本計画を策定するが、中身はもちろん財政的な裏付けをどう確保していくかが課題だ。

基本計画は基本法に新たに設けられた規定で、政府に対して基本方針や施策について策定を義務付けている。新学習指導要領の施行を前にして、いわば教育基本法改正の仕上げであり担保していく意味を持つ。

戦後初めて教育基本法が改正されたのは二〇〇六年十二月だ。

当時の安倍晋三首相の国家主義的な政治姿勢に対する強い反発から衆院は野党欠席のまま採決、参院も野党がこぞって反対する中で成立した。

この混乱が尾を引いて学習指導要領の改定内容についてもさまざまな批判がでた。計画実施にあたって批判に応える姿勢を忘れてはなるまい。

答申は「教育立国」を目指し今後十年間の目標と五年間の具体的な施策を幼児教育から社会人教育に至るまで七十五項目挙げた。着実な実行が伴わないと絵に描いたもちである。

中教審で財源問題が議論になったのは当然で、わが国の公的な教育投資が教育先進国に比べて低いと指摘し増大を求める意見が多かった。

経済協力開発機構(OECD)諸国の投資額が対国内総生産(GDP)比で平均5・0%なのに対して日本は3・5%しかないという。

先進国が教育投資を増額している中で日本は逆に減少傾向が続く。経済格差の拡大もあって家計負担はますます重くなっているのが実情だ。

だが答申は「欧米主要国と比べて遜色(そんしょく)のない教育水準を確保すべく充実を図ることが必要だ」との表現にとどまった。

財務省が数値目標を出すことに反対したためというが、策定段階で政府の熱意を示してほしいものだ。

遜色のない教育水準という目安の一つにOECDの国際学力調査を念頭に置いているのだろう。

二〇〇〇年の初回調査で世界トップだった日本が順位を落とし、昨年は部門別で最高六位、最低十五位になったのは大きなショックを与えた。

これがゆとり教育の見直し論議を高め、十年ぶりの学習指導要領改定につながったのは間違いない。

小中学校で授業時間が増え、教師の負担も増大する。教員増や質の向上など教育現場の充実を抜きにして効果を上げることはできない。ここでも財政の壁が立ちはだかる。

山崎正和中教審会長は「教育は国家百年の大計だ。政府は予算的な配慮をしてほしい」と要望した。いまこそ米百俵の精神が必要だ。

京都新聞 2008年4月20日

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全員の参加が必要なのか 全国体力テスト

「学力」の次は「体力」ということか。文部科学省は昨年度始めた全国学力テストに続いて、全国の小学5年生と中学2年生全員を対象にした体力テストを本年度から実施すると発表した。

なぜ、いま全国体力テストなのか。都道府県教育委員会などへの正式通知は新年度早々の4月1日であり、すでに授業や学校行事など年間計画を作っていた教育現場の多くは戸惑っている。

何より、どうして全員が参加しないといけないのか、疑問が多い。

文科省によると、対象の児童生徒は240万人に上る。握力、50メートル走、立ち幅跳びなど8種目の実技を課すほか、睡眠時間、朝食摂取の有無など生活習慣なども尋ね、体力との相関関係なども分析するのが狙いだ。今月から7月までに実施し、12月に国や都道府県別の平均値などを公表する。各教育委員会に学校別の、学校には児童生徒の結果を渡し、子ども本人にも結果を返すという。

しかし、同じ内容の調査は文科省が例年、全国の6歳から79歳までを対象に抽出で実施し、生活習慣などもしっかり聞いている。小中学生とも各学年一定数のデータが毎年そろっているのだ。

文科省は今回のテストを、各教育委員会、学校が「全国的な状況との関係において」課題を把握し、改善に役立てるためと説明する。平たく言えば「全国平均と比べることで体力向上に役立ててほしい」ということだろうが、それがなぜ全員参加でないとできないのか。

実際、抽出調査の実技は「新体力テスト」の名で結構普及しており、全国約7割の小中学校は自主的に実施している。比較というなら、各校が独自に抽出調査のデータと比べれば済むことである。

さらに、文科省は「国が全国的な状況を把握・分析すること」で施策の課題を検証し、改善を図るとも言うが、これまた抽出調査で十分だろう。

そもそも子どもの成長には差があり、同学年で体力や運動能力を厳密に比較することにどれだけ意味があるのか、疑わしい。データ公表によって都道府県別のランク付けが独り歩きし、平均値を上げようという無用の負荷を現場にかけることにならないか。その方が心配だ。

子どもたちの体力は確かに低下傾向が続いている。近年は運動をする子としない子の二極化も指摘されている。だが、そのためのデータ集めに毎年3億3500万円の国費を使うくらいなら、体育の専科教員や体育授業ボランティア、衰退する部活動の指導者を充実させるなど、ほかにやるべきことがあるだろう。

文科省はその後、7月までのテストには参加せず、秋に実施することを容認した。現場の混乱を回避するためだが、全国テスト自体、全員参加の前提が崩れたのではないか。渡海紀三朗文科相は来年度以降の実施も「状況を見て判断する」と述べた。ぜひ考え直すべきだ。

西日本新聞 2008年4月20日

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中教審が基本計画 教育予算の増額に努めよ

教育は国家100年の大計というが、何ともむなしく聞こえる。学校現場においては失望はむろん、肩透かしを食らった気持ちだろう。中教審(山崎正和会長)が18日、渡海紀三朗文部科学相に答申した「教育振興基本計画」を見ると、こんな感想しか思い浮かばない。

計画は2006年に成立した改正教育基本法に初めて明記されて、政府に策定が義務付けられた。5年ごとの教育政策の推進の青写真となるものだ。答申では「欧米諸国に比べ遜色(そんしょく)のない教育水準を確保すべく予算を充実」「小中学校の授業時間増に対応するため教育定数を改善」との表現にとどめ、立派なお題目だけは並べた。

しかし、肝心の教育予算増額の数値目標をはじめ、教職員定数改善の具体的な数字がまったく見当たらないのだ。これでは、絵に描いたもちに等しい。原因が財源難を理由にした財務省の反対だというから、あきれるほかない。答申には「歳出・歳入一体改革との整合性を取る」との表現もあるが、これではまるで財務省の言い分そのままではないか。教育立国を目指す気概も見えず、財務省の言いなりでは中教審、ひいては文科省の存在意義そのものが問われる。

学校現場は多くの課題を抱えているが、とりわけ学力低下の問題は深刻だ。子ども同士の格差はもちろん、世界との比較で見てもその差は広がっている。どうすれば光明が見いだせるか。それには教師を増やし、ゆとりを持って子どもと向き合う時間の確保がまず必要だろう。さらに、教師の資質向上も求められている。そのためにも裏付けとなる予算が必要だ。

そもそも、日本の教育予算は諸外国と比較しても少ない方だ。国民総生産(GDP)に占める教育の公共支出の割合は、経済協力開発機構(OECD)加盟国が平均5・0%に対し3・5%にとどまっている。資源らしい資源のない日本にとって、人材がいかに重要か。言うまでもないが、こうした理念が基本計画からは見えない。

2月に公表された学習指導要領改定案では、これまでの「ゆとり教育」を見直し、授業時間、内容とも大幅に増やした。ただでさえ多忙化が言われる学校現場に大きな負担を課した。ただ、それは中教審も指摘したように「教員定数の改善が前提」でなければならない。ところが、今回の計画では具体的な定数改善を示さないというのだから、現場にとってはとても納得できないものだろう。

厳しい財政状況だからこそ国政で何が優先すべきなのか、考えてほしい。無駄遣いが明らかとなった道路特定財源より教育特定財源こそ必要ではないか。5月中旬に予定されている計画の閣議決定まで、さらに論議を尽くすべきだ。

琉球新報 2008年4月20日

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教育基本計画 後退した印象にみえる

これで将来の人材育成、学力向上が本当に計れると思っているのだろうか。文部科学相の諮問機関である中央教育審議会が答申した「教育振興基本計画」のことだ。

基本計画は二〇〇六年に改正された改正教育基本法で政府に策定が義務づけられた。

今後十年を見通した教育のグランドデザインで、その前半の五年間でやるべき計画を記したものである。

中教審が議論の中心に据えてきたのは、学力の低下に対する学校現場での対応であったはずだ。だが、答申はそうなっていない。

今年一月に中教審が告示した学習指導要領改定で打ち出した授業時間数の増加に対し、私たちは、その取り組みを可能にするにはまず教員数を増やすこと、同時に教員の技量を向上させる学校運営の必要を説いた。

学校現場の環境整備を後回しにして授業時間数だけを増やしても現場が今以上に疲弊するだけで、学力向上には結びつかないと考えるからだ。

今回の答申は、教育界が最大の優先課題としていた教育予算額が提言として盛り込まれていない。

中教審は学習指導要領を改定する際に、教員数を増やすことはその前提になるとしてきたはずなのに、必要とされる教職員の定数改善についての具体的見通しも明記しなかった。

これでは施策として不十分であり、学校現場には後退したとの印象にしか映らないのではないか。

文科省が改正教育基本法に行政目標である基本計画の策定を盛り込んだのは、教育予算を増やすことを確実にしようとの思惑があったからだという。

十八日の中教審総会では安西祐一郎慶応大塾長らが「教育立国を実現するには、教育投資の充実が最低の条件だ」と要望している。

だが、文科省と財務省との事前折衝で「教員定数の改善」に難色を示されたとみられている。

背後に学校現場があり子どもたちがいるのに、答申は現場の要望から大きく外れたものになってはいまいか。同時に、これまで積み上げてきた中教審の議論はどこに行ったのかという思いも禁じ得ない。

基本計画は五月に閣議決定される。財務省などとの調整はそのためだが、それでも抜本的な教育論議はそっちのけで、財源の問題から具体策を盛り込めなかったとしたら残念というしかない。

このままでは何のための審議会なのか、その存在自体が問われていることを忘れてはなるまい。

文科省は「教育投資の充実」や「教職員定数の改善」という文言は盛り込まれたと自賛している。

しかし、学校現場が疑問に思っているのは「歳出・歳入一体改革との整合性を取る」という言葉と横並びにされたことである。

学力低下や学力格差をどう是正していくか。そのためには子どもたちの目線に立った改革が必要なのに、なぜ財政問題でぼかしてしまうのか。人員を確保することが緊急の課題であれば、財政措置は不可欠である。文科省は、教育現場が抱いている危機感の解消に全力を傾けてもらいたい。

沖縄タイムス 2008年4月20日

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教育基本計画 教員増と財政がカギ

中央教育審議会(中教審)が答申した教育振興基本計画は教員増など根幹部分で数値の明記を避けた。財政的裏付けがないからだ。国は財政面も含めて教育政策の明確な方針を示す時期にきている。

「『教育立国』の実現に向けて」との副題が付いた基本計画は、特に取り組むべき重点事項に「確かな学力の保証」や「教員が子ども一人一人に向き合う環境づくり」などを挙げる。

その施策として「必要な教職員定数を措置する」「現場の情報通信技術(ICT)化を進める」などを並べており「教育投資の充実」を訴えているが、増やすべき定員の数や具体的な投資額には触れずじまいだ。

答申は予算額など数値目標を盛り込めるかが焦点だったが、財務省の反発があって断念したらしい。ある委員から「これでは役人の密室協議で日本の教育が決まってしまう」と批判が出たほどだ。

公財政教育支出は経済協力開発機構(OECD)諸国の平均が国内総生産(GDP)比で5%なのに日本は3・5%にとどまる。

この計画に基づき教育政策を進めるのなら、財政支出を講じ、教員増も必要だろう。現時点では計画が実行できるか疑わしい。

教員は、増やしたくてもできない理由がある。経済財政運営の指針「骨太の方針2006」は「五年間で一万人程度の純減」とし、行政改革推進法には「児童生徒の減少に見合う数を上回る数の純減」と明記されているからだ。

二〇〇八年度の予算編成では千人純増が特例的に認められたが、これは「教育再生」を重要政策に掲げた前政権の遺産といえる。

福田政権はというと、教育政策への姿勢がいまだに見えてこない。教員定数について今後はほかの公務員同様に扱うのか、それとも行革推進法を改正してまで増強方針をとるのか不明だ。答申が踏み込めなかったのは、政府の腰が定まらないことにも原因がある。

東京都は低所得世帯に受験生の塾費用を無利子で貸し出す。公教育放棄との批判もあるが、学力対策が塾任せとなっている現実を見ての政策でもある。

大阪府は公立小学校の低学年で実施中の三十五人学級を廃止する案を明らかにした。基本計画で提言する少人数指導には逆行するが、財政状況が苦しいからだ。

現場を抱える自治体は教育でも早急な対応に迫られている。一方で政府は方向を打ち出せない。これでは「教育立国」は難しい。

中日新聞・東京新聞 2008年4月19日

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どうして財政に遠慮する 教育振興計画

「まるで財務省の審議会答申のようだ」。中央教育審議会(中教審)の委員が漏らした感想が、この計画の核心を突いているのではないか。

中教審は、2006年12月に改正された教育基本法に基づく初の教育振興基本計画を文部科学相に答申した。

向こう10年を通じて目指す教育の姿を示し、今後5年で取り組む施策を盛り込んだという。教育行政のいわばマスタープラン(総合計画)と言えるだろう。

振興計画は近く閣議決定され、国会に報告される。また、改正教育基本法は地方自治体に対し、政府の振興計画を参考にして、「地域の実情」に応じた振興計画を作成する努力義務を規定している。そうした重みを持つ計画なのだ。

振興計画には75項目に及ぶ教育振興施策が列挙された。政党のマニフェスト(政権公約)のように、目標年次や数値目標を掲げた施策もある。

「2011年度までに世界的に卓越した教育研究拠点を150程度形成する」「幼稚園と保育所の機能を統合した認定こども園を2000カ所以上にする」「2020年ごろをめどに留学生30万人を目指す」といった項目だ。

しかし、あらゆる施策の裏付けとなる肝心の教育投資については、「欧米主要国と比べて遜色(そんしょく)のない教育水準を確保すべく充実を図っていくことが必要である」と、奥歯に物が挟まったような記述にとどまった。

ご丁寧に「歳出・歳入一体改革と整合性を取り、効率化を徹底し、メリハリを付け…」とも付言している。これでは一体、アクセルを踏んでいるのか、ブレーキをかけているのか分からない。

多様な教育施策を実現するには当然、予算措置が必要なのに、教育予算を増やす‐というたぐいの文言は周到に排除された。「財務省審議会の答申」と見まがう中教審委員がいても不思議ではない。

答申にも示されている通り、わが国の教育に対する公共支出は国内総生産(GDP)比で3.5%にとどまっており、経済協力開発機構(OECD)加盟国平均の5.0%に及ばない。

ところが、教職員の定数増など中長期的な振興計画でこそ踏み込むべきだったテーマには数値目標が盛り込まれず、決定的に迫力を欠いてしまった。

もちろん、国家財政が火の車という現実は無視できない。しかし、教育予算は「未来への投資」とも言われる。政策の優先順位が厳しく問われるなかで、教育予算をどう位置付けるか。その徹底的な論議が、もっとあってよかった。

少なくとも、文科省や中教審は財政当局に遠慮などせず、堂々と「増額要求」をして国民的な論議を巻き起こすべきではなかったか。

答申の副題にある「教育立国」が、これで本当に実現するのか。率直な疑問を禁じ得ない。

西日本新聞 2008年4月19日

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教科書検定意見 文科省の役割忘れたのか

文部科学省はこの期に及んで、沖縄戦の「集団自決」(強制集団死)が「日本軍の強制」によって生じたという歴史的事実から目をそらし続けている。

「9・29教科書検定意見撤回を求める県民大会」実行委員会の仲里利信実行委員長(県議会議長)らが、高校歴史教科書から「日本軍の強制」を修正・削除した検定意見の撤回と記述復活を文科省に要請したが、池坊保子副大臣は難色を示した。

岩波・大江「集団自決」(強制集団死)訴訟判決で、大阪地裁は「日本軍の戦隊長が住民に自決を命じたとの本の記述は誤り」との原告側主張を退けた。

原告の意見陳述は検定意見の参考資料となっており、判決はそれを否定したとも言える。文科省としては判決に基づいた実行委の要請に沿って検定意見の撤回と記述を復活するのが筋である。

ところが、副大臣は実行委に対して「最終的な(司法の)判断が出ていない。現段階で何も言えない」と述べ、事実上、拒否する姿勢を示した。

原告が控訴したことで今も係争中であり、文科省としては現時点で対応することは適切ではないとの判断なのだろう。

その論理に当てはめれば、結論が出ていない裁判での意見陳述を検定意見の参考資料にしたこと自体、適切ではなかったことを自ら認めたに等しい。

実行委の要請後、副大臣は「司法判断に左右されていいか疑問がある」と述べた。

政治的圧力や事実をねじ曲げるような主張に教育行政が左右されることがあってはならない。教育行政の独立性は当然、確保されなければならない。

しかし、検定意見の根拠の一つを司法が否定したことは重視するべきである。判決は歴史的事実について正当な判断を下しており、それを軽視することは史実に背を向けることにつながるということを文科省は認識するべきだ。

副大臣は「教育は中立でないとならない」とも述べている。当然である。だが、岩波・大江訴訟の一方の当事者の主張だけを重視したことが、果たして「中立」と言えるだろうか。「中立」ならば「集団自決」で生き残った人たちの証言も参考にするべきである。

参考にした意見陳述が、体験者の証言や沖縄戦研究者のこれまでの蓄積を覆すものだったことが証明されない限り、文科省は歴史を改ざんしようとする側に立脚したと疑われても仕方ないだろう。

歴史的事実を教育現場で子どもたちに正しく伝えさせるようにすることが教育行政の在り方である。文科省はその大切な役割を忘れてはいまいか。

琉球新報 2008年4月17日

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文部科学白書 肝心な説明が抜けている

文部科学省は二〇〇七年度版文部科学白書を公表した。「教育基本法改正を踏まえた教育改革の推進/『教育新時代』を拓(ひら)く初等中等教育改革」を特集テーマとしている。

安倍政権下の〇六年十二月、教育の根本的な理念や原則を定める教育基本法が、約六十年ぶりに改正された。教育の目標として、公共の精神や伝統・文化の尊重、我(わ)が国と郷土を愛することなどが新たに盛り込まれた。これを受け、学校教育法など教育三法の改正をはじめ教育改革が相次いで打ち出された。

教育は、明日の日本を担う子どもたちをはぐくむ重要なものである。大きな変化に対し、白書が特集として焦点を当てたことは評価できよう。文科省の判断、今後の具体的な方針、疑問や懸念への対応などが示されるものと期待した。

しかし、白書は事実関係を述べるにとどまった感じが否めない。特集の中で七ページにわたって記された指導要領の改定に関する項も、その一つである。

新指導要領は教基法の改正のほか、「ゆとり教育」路線が学力低下の要因として批判を浴びたことなどを受け、小中学校で「総合的な学習の時間」が削減され、授業時間数や学習内容が増やされる。白書は改定の基本的な考え方について、現指導要領の「生きる力」をはぐくむという理念が、ますます重要になっているとする。

その上で、「ゆとり」か「詰め込みか」の二項対立でなく、基礎的・基本的な知識・技能の確実な定着と、これらを活用する思考力・判断力・表現力の育成を車の両輪とする。相互に関連させながら伸ばしていくために、授業時間数を増やすなどとしている。しかし、知識偏重教育に戻って逆効果にならないかなど指摘される懸念には答えていない。

文科省が三月二十八日付で告示した新指導要領は、二月に公表された改定案を修正して総則に「我が国と郷土を愛し」との文言を加えるなど愛国心教育を強調したものとなった。賛否ある問題を、なぜ土壇場で基本的な方針を示す総則にあえて加えたのか。白書の作成時期もあっただろうが、告示も〇七年度のことである。特集と位置付ける以上、きちんと記す必要があろう。教育現場での混乱が心配されるだけになおさらだ。

特集ではないが、沖縄戦集団自決をめぐる教科書検定問題も「公表後、さまざまな意見が寄せられた」など簡単に事実関係を記しただけ。教育問題には国民への分かりやすい説明が欠かせない。

山陽新聞 2008年4月12日

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教育権の保障 厳しい環境の子も同等に

憲法が保障する「教育を受ける権利」は、どこまで守られているのだろうか。このところ生活困窮世帯を対象にした就学援助制度の運用が後退したり、児童相談所の一時保護所で学習環境が整っていなかったりする例がみられる。これらは「教育の機会均等」という原則が崩れつつある端的な表れではないだろうか。行政の十分な対応をあらためて求めたい。

就学援助制度は、学校教育法で規定した教育権保障を具体化したもので、生活保護世帯や、それに近い困窮世帯に学用品や給食費、修学旅行費などを支給する。この数年来、県内の多くの市町村で就学援助者が急増しており、全児童・生徒に占める就学援助者の割合は、大和市が最高率で二〇〇六年度には27・8%に達している。

しかし、こうした実態と相反して援助対象の基準を厳しくしてしまう自治体が少なくない。〇五年度に同制度が国の補助から使途を特定されない地方交付税措置に移行してのち、自治体の財政事情や首長の考え方に認定基準が左右されるようになったからだ。

その結果、市町村による認定基準に著しい格差が生じる。例えば基準を生活保護水準の一・五倍以下に設定する横須賀市の場合、四人家族(夫婦と小中学生各一人の構成)で年間総所得が約四百三十万円まで認定される。一方で三浦市は〇三年度まで同一・五倍未満だったが、〇六年度からは一・〇倍未満になり、同じ四人家族で総所得が約二百八十万円までの世帯しか認定されなくなった。

認定されると、小学校六年生の場合、年間七万五千円前後が公的に援助される。ところが、認定外の家庭では、費用が工面できずに修学旅行や宿泊を伴う校外学習に子どもを参加させられなくなるケースが多くなってきた。

教育権の保障がなおざりにされているのは、生活困窮家庭の子どもばかりではない。保護者の虐待や養育力の欠如から児童相談所が一時保護し、学校に通えなくなった子どもたちは深刻だ。県内の一時保護所は、受け入れ先の養護施設などが満杯のため入所が長期化する傾向が強まり、数カ月から一年間とどめ置かれる子どもがいるのに、学習環境が劣悪なまま放置されている。

学習時数や担当講師の配置が不十分な実態は〇六年度に明らかになったが、県内で一定の改善が進んだのは午前中三コマ、午後一コマのカリキュラムを組む横浜市だけだ。県は二コマ、川崎市は一コマの学習時間を非常勤の教員OBが教える程度で、両自治体ともに〇八年度も学習時数や講師を増やす予算を計上していない。

厳しい生活、養育環境に置かれた子どもにこそ厚みのある対策が必要だ。誰もが等しく教育を受ける権利を有しながら、それを保障しないのは行政の怠慢である。

神奈川新聞 2008年4月9日

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学習指導要領告示 現場に混乱持ち込ませるな

小、中学校の教育内容を規定した学習指導要領が告示された。その内容を読み、あぜんとさせられた。改定案の公表から一カ月余り。そのわずかな間に、君が代、愛国心、神話などに関する記述がすっかり書き換えられてしまった。政府、自民党内のタカ派の圧力に押し切られた結果というのだから開いた口がふさがらない。

県内にある公立の小学校は268校、中学校は140校。そこで6669人の教員が教えている。教育現場はこの事をどう受け止めたのだろう。新学期を控え、あわただしい時期だ。異動になった人もいる。老婆心ながら大半の先生は書き換えられた部分を読み、考える暇もないのではなかろうか、と心配になる。

■「歌えるよう指導を」■
教育、それも義務教育の話となると国民全体の総意を反映させることが必須である。一部の人間の思惑でねじ曲げられるなど論外である。

まず、基調となる総則の道徳の目標部分に、改定案になかった「我が国と郷土を愛し」という愛国心についてストレートに踏み込んだ表現が新たに盛り込まれた。

拒否反応を踏まえて改正教育基本法で「国と郷土を愛する…態度を養う」と一歩引いた表現にとどめたのと比べると明らかに突出している。

「君が代」の指導についての記述では、改定案では「いずれの学年においても指導すること」としたのを、告示では「いずれの学年においても歌えるよう指導する」と書き換えた。

文部科学省は、積極的な働き掛けにとどまり「強制ではない」というが、歌わせることなく、歌えるよう指導することが可能とでもいうのだろうか。

「法的拘束力がある」(文科省)とする指導要領にここまで書き込むのは行き過ぎだろう。

■政治的中立が不可欠■
国を愛することに異論はない。だが、その心にはさまざまな形がある。押しつけられた愛国心にいかほどの価値があろうか。郷土愛も同じだ。

 将来を担う子どもたちが誇りに思える国にすることが政治家や官僚を含む大人たちの役目であって、教育で愛国心をはぐくむことは本末転倒ではないか。

入学、卒業式など式典での国旗掲揚と「君が代」斉唱は県内の小中学校では当たり前に実施されている。その意味では、告示された学習指導要領のもとで公教育が行われるようになっても、私たちが目にする範囲では、大きな変化はないかもしれない。

だが、歌の習熟度や歌う態度が教職員評価制度の「職務行動評価」や「役割達成度評価」の対象になるとしたら…。教育現場の深部に新たな病巣を抱え込むことになりかねない。

政治的中立は公教育の絶対条件である。政権が変われば教育内容も変わる、そんなことがあってはならない。文科省の存在意義は子どもと学校現場に立脚するところにある。部外者の顔色をうかがい、下請けに甘んじているようでは存在する意味はない。

宮崎日日新聞 2008年4月6日

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教育的意味は何なのか

文部科学省は、競争依存症にかかっているのではなかろうか。

昨年、43年ぶりに行った全国学力テスト(全国学力・学習状況調査)の「体力版」とも言える、全国体力テスト(全国体力・運動能力、運動習慣等調査)の実施を発表した。

事前説明もなく唐突だったうえ、教育現場の負担増や自治体別の序列化を招く恐れもある。教育的意味に疑問を抱かざるを得ない。

握力や50メートル走、立ち幅跳びなど8種目の実技と、朝食摂取の有無など生活習慣を尋ねる質問紙調査を、4月から7月にかけて、小学5年と中学2年のすべての子どもたちに実施する。事業費は3億3千5百万円に上る。

国は目的を「子どもの体力が低下しており、一人一人へのきめ細やかな改善策を検討するため」と説明する。

しかし、施策の検討なら抽出調査で十分ではないか。国は1964年から6−79歳を対象に、ほぼ同じ内容で抽出調査を行っている。多くの学校が自主的に調査している実態もある。

文科省は財務省の反発で教員増を望めない現状を考慮し、多忙な教員の事務負担を減らす方針を決めたはずだ。全員参加の体力テストの新設は逆行することにもなりかねない。

結果は子どもに返されるほか、国や都道府県別データが公表される。地域や学校間競争につながる心配もある。

子どもの発達には個人差がある。平均以下の子どもと親を心理的に追い込むようなことは望ましくない。

ゲーム機の普及や受験の低年齢化などを背景に、「日常的に運動している子とそうでない子に二極化している」(京都市の小学教員)という。後者の増加によって、子どもの体力・運動能力の低下傾向が続いている。

「全国レベルのサッカー部に泳げない子が数人いる」(中学教員)など、運動能力の偏りも指摘されている。

塾通いが増え、集団で遊ぶ習慣がなくなった。子どもを巻き込む事件や公園の遊具事故が相次ぎ、親も野外で遊ばせたくない。日常から子どもが遊ぶ時間と空間、仲間が失われている。

一方、スポーツ少年団や水泳教室などの場は増え、体育専門の塾が人気を呼ぶ。通える子とそうでない子の「機会格差」が体力格差を広げている現実もある。体力テストが、格差に拍車をかけることにならないだろうか。

学校現場では、子どもの体力の二極化を受け、体を動かす楽しさに主眼を置いた授業へとシフトしている。速く走れる子を評価しながら、たとえ遅くても0・1秒でも記録を伸ばした子の意欲を見逃さないよう努めている。

体力テストで平均値が独り歩きすれば、子どもの実態に寄り添おうとする現場の熱意に水を差す。テスト結果の公表や活用には慎重さを求めたい。

京都新聞 2008年4月5日

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学校長の力量が問われる 教員評価制度

県教育委員会は、県内の公立学校で試行してきた教職員の評価制度を本年度から本格実施へ移行した。

二〇〇七年十二月に行ったアンケートで、制度の趣旨について理解が得られたと判断したからだ。

評価制度は〇五年度に一部で試行を始め、〇六年度にはすべての小・中・県立学校に拡大した。

当初は〇七年度からの本格実施を見込んでいたが、〇六年度に行ったアンケートでは制度に対する理解が十分でなかったため、試行期間を延長していた。

本格実施に当たって、一部で懸念されていた給与など処遇への反映について、県教委は否定した。当然のことと思う。

それぞれの学校には立てている目標がある。教員たちはそれを踏まえ年度当初に、教科指導や学級経営など職務に関する自己の目標を職務分類ごとに決める。

取り組みや達成状況を三段階で自己評価した結果を基に、校長などが本人と面談し、年度末に五段階で評価して通知する。これが制度の概略だ。

学校の目標と教師の目標がうまくかみ合うことが肝心だ。運用に当たっては、職員室から元気が失われないよう配慮してほしい。

そのためには評価する側が「教師を育てる」という目的意識をきちんと持つことだ。何よりも、学校長のしっかりした理念と力量、指導力が問われている。

昨年十二月に実施したアンケートには、教職員三千六百五十六人を含む四千百九十七人が回答した。

制度の趣旨を理解できたかとの問いには、教職員の9.8%が「十分理解できた」、81.3%が「ある程度理解できた」と答えた。前年のアンケートでは「理解できた」が55.6%しかなかったから、理解度が大幅に高まったと県教委はみたようだ。

ただ、本旨ともいえる制度と組織の活性化や人材育成との相関については、管理者と一般教職員の間に依然として落差がある。

教育長や校長はおおむね八−九割は肯定的に答えている。しかし、教職員は、55.6%が学校組織の活性化につながらないとみている。教職員の資質能力の向上についても、つながらないと考える人が45.5%に上っている。

教員評価の狙いは、教員の職務能力を高めることのほかに、学校教育そのものの質を保証することにあるのではないか。

その観点からみれば、評価は教科指導を主眼にすべきだ。学校運営上の職務をうまくこなすことも大切だが、「授業の力量」こそが重要だといえる。

授業については、ある学校や学級でうまくいったことが、そのまま他の学校、学級で通用するとは限らないという難しさがある。

一定のマニュアルはあるだろうが、教師個々の努力が最も要求されることだ。授業の進め方や内容について、教師がじっくり考える時間が確保されなければならない。同僚と意見を交わす時間もほしい。

子どもたちと真剣に向き合うためには、職場に余裕が必要だ。学校全体のチーム力を高めることも大切になる。そのような環境を整えていくのが、校長の大きな責務の一つだ。

東奥日報 2008年4月4日

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時代遅れの体質断ち切れ

公立大学法人化されて三年。前医学部長が医学博士の学位を取得した大学院生らから謝礼金を受け取っていた問題で、横浜市大が大きく揺れている。市大コンプライアンス委員会の調査結果でもその金額や件数は明らかにされず、真相はほとんどベールに包まれたまま。これでは不満である。

市大は弁護士や外部有識者らで構成する「学位審査等にかかわる対策委員会」を設け、学内の現状を調べる。二〇〇四〜〇六年度の博士号学位審査について、退職者を含む教員に聞き取りを行い、学位申請者の大学院生らには無記名のアンケートを実施する。

対策委にはもちろん警察のような捜査権があるわけではない。だが、そのために詳しい内情にまでは迫れないというのではなく、徹底的な調査を尽くして全容を解明し、再発防止を図るよう求めたい。市大の信頼回復につながる一歩としなければいけない。

学位取得にかかわって現金がやりとりされる。そんな旧弊に対して一九六二年にも当時の文部省が全国の大学に注意を呼び掛ける通知を出している。市大医学部では一部の教授らが長年、その通知すら守っていなかったようだ。関係者の話によると、前医学部長は謝礼を一人三十万円ほど受け取っていたという。学究たちの、一般常識とは懸け離れた対応に、いまさらながら驚かされる。

「個人として受け取ったものではなく、教室員の研究などに充てるため医局で積み立てて使った」などと釈明しているが、そもそも受け取ること自体が倫理違反なのだ。前医学部長だけでなく、複数の教授も同様だったという。謝礼金の授受が学位審査に影響を及ぼすことはなかったのだろうか。なかったとしても許されることではない。時代遅れの「ごっつぁん体質」に猛省を促したい。

博士号の学位論文審査でも不適正な実態が分かっている。医学部教授の前副学長が大学院医学研究科に在籍していた娘の論文審査で、自ら筆頭委員に当たる主査を務めていた。誰だって「親が手心を加えた」などと周囲から疑いの目で見られたくはあるまい。審査にかかわることを自ら辞退するのが常識であろう。市大側も「好ましくない」と説明している。

医師は人の命を救う崇高な使命がある。その純潔さに患者は信頼を寄せる。裏に回っての不適正行為はその裏切りに等しい。一人一人が倫理を守る原点に立ち返り、意識を改める必要がある。

市大は法人化されて以来、初代学長、初代理事長がそろって任期途中で退任し、四月から前市代表監査委員の布施勉新学長と前横浜市副市長の本多常高新理事長が学内の改革を進める。両氏には、これまで培った手腕を生かし、医学部内に残る、これらのあしき慣習を根本から改善してほしい。

神奈川新聞 2008年4月4日

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教育振興計画 財政的裏付けが前提だ

中教審特別部会は、二〇〇八年度から五年間の教育の政策目標を定めた「教育振興基本計画」の答申案をまとめた。渡海文科相への答申を経て、今月中にも閣議決定される。

基本計画は〇六年末に成立した改正教育基本法で策定が義務付けられ、〇七年二月から審議が続けられてきた。

道徳教育充実のため教材作りを支援する国庫補助制度や、小中学校約一万棟の耐震化、福田首相が掲げる「留学生三十万人計画」などが柱だ。

さらに、五年間に取り組む事項として、公立学校の学校選択制の普及や現行の「六・三・三・四制」の弾力化▽幼稚園と保育所の機能を一元化した「認定こども園」を二千カ所以上に拡大―などを盛り込んでいる。

一方、計画の実現や教職員定数増に向けた具体的な投資額は明記されていない。歳出削減を進める財務省の同意が得られなかったためだ。どの分野に重点的に財政措置するかについては中教審内でも議論が分かれている。計画の実効性に不安を残す内容である。

素案では、国内、国際情勢の変化を踏まえ、「今こそ我が国は『教育立国』を宣言し、国を挙げて教育の振興に取り組むべきである」と目指す方向を打ち出している。

この意気込みの強さに対し、教育投資額の明記が見送られたことは整合性が取れない。委員からも「教育への重点投資を打ち出すのが基本計画の役割だったはず」と批判の声が出ている。検討の焦点でもあっただけに、教育現場の落胆が想像される。

もとより、日本の国内総生産(GDP)に占める教育の公共支出の割合は、経済協力開発機構(OECD)加盟国平均の5・0%に対し、3・5%しかない。

にもかかわらず、教育予算の拡充をめぐる答申案の表現は「欧米主要国と比べて遜色(そんしょく)ない教育水準を確保すべく投資の充実を図る」と控えめだ。これでは「教育立国」への決意が掛け声倒れに終わりかねない。

基本計画の期間は五年だが、十年先を見通しながら進められる。国際競争は激化し、これまで以上に変化の激しい時代が到来すると予想されている。

国が財政難を理由に未来への投資を渋っていては、日本と国際社会に貢献できる人材の育成に支障を来す。計画の実現は財政的裏付けが前提である。未来につけを回してはならない。

高知新聞 2008年4月4日

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