市民・識者の声


市民のブログ


談論風発 : 教育基本法改定論者への助言 「愛国心」の意味再定義すべし
島根大学法文学部助教授 植松 健一

教育基本法の改定案が国会での継続審議となった。与党案が「国と郷土を愛する」態度の養成を、他方、民主党案が「日本を愛する心の涵養(かんよう)」を、教育目標に盛り込もうとして対立している。しかし両案の違いは正直のところ国民にはわかりにくい。やはり真の対立軸は、これら「愛国心(またはその態度)」を法律に書き込むことの是非であろう。

この論争についていえば、基本法改定反対派の主張に分があるように思われる。「国旗・国歌法と同じく、学校現場での愛国心の強制につながる」という反対派の危惧(きぐ)も、通信簿の評価項目に愛国心の有無を含める小学校すらある現状では、説得力をもって耳に響く。さらに、「『愛』を法律で押し付けるのはナンセンスではないか」、「日本は法律に定めなければ愛されないような国家なのか」と問われれば、反論のしようがない。

これに対して改定派は「愛国心の欠如が戦後の教育を荒廃させた」などと指摘する。愛国心の育成が少年犯罪や「引きこもり」を減らすというこの手の主張は俗耳には入りやすいが、合理的な因果関係に乏しい「風が吹けばおけ屋がもうかる」の議論であろう。(もっとも私個人としては好都合な議論ではある。親や教師に反抗的だった私の幼年期を、「悪いのは教育基本法です」と責任転嫁できるのだから)。

愛国心を法律に書き込むことについては石破茂衆院議員や作家の上坂冬子氏などからも懐疑の声が挙がっている(「論座」〇六年七月号の両者のコメント)。タカ派・保守派にあっても理性的な発想の持ち主であれば、そう考えるのが普通なのであろう。

では、劣勢の基本法改定派に起死回生の論拠はないだろうか?

次のようにアドバイスしてみたい。改定派は、「愛国心」の意味を「日本国憲法とその精神の尊重擁護の姿勢」と再定義する戦略を採ってはどうか。これはドイツなどでは「憲法愛国主義」と呼ばれ、リベラル派や左派に好まれるスタンスであるから、(リベラル派・左派の多い)改正反対派からの宗旨変えを期待できるかもしれない。もっとも、この戦略には大きな難点がある。それは、残念ながら改定派の多くが日本国憲法を愛していない(その意味で「愛国心」を欠いている)という点だ。考えてみれば現行の教育基本法前文こそ「日本国憲法の精神に則」る旨が強調されているのだから、この意味での「愛国心」育成のためにあえて法改正をする理由が見つからない。

それでは、「愛国心」を「大義のために、為政者に異を唱える心」と読み替えてみるのはどうか。主君をいさめ刑死する臣たちを繰り返し描く史記や十八史略は、「反逆による愛国心」の意義を説く古典としても読める。この「反逆による愛国心」から儒教的なものを除去した現代バージョンといえそうなのが、「市民的不服従」という発想だ。現代を代表する社会学者J・ハーバーマスは、社会的な不公正を感じながら有効な是正手段を持たない市民たちの異議申立行動は、仮にそれが違法であっても(非暴力であることが前提だが)正当な場合があると説く。民主的な法治国家においても、「法律に定められている」(legal)ことが常に「正当である」(legitim)とは限らないからである(『近代−未刊のプロジェクト』岩波現代文庫)。これを市民的不服従と呼ぶ。

市民的不服従をどう処遇するかは、その社会の寛容さを測る「ものさし」となる。最近の日本では、反戦や政府批判を説くチラシの配布は、住居侵入、威力業務妨害、国家公務員法違反などの罪で逮捕され有罪となってしまう。被告たちの政治的異議申立はハーバーマスの言う市民的不服従であり、法律とそれを適用する側こその正当性が疑われる場面であるというのにだ。

職務命令違反による処分覚悟で「君が代」斉唱の指導を拒む都立高校の教員たちもまた、「良心の自由」を守るために市民的不服従を貫いている。この五月に逝去された箕輪登・元防衛政務次官の手による自衛隊イラク派兵違憲確認訴訟も、首相の靖国参拝の違憲判断を求めて各地で争われている訴訟も「反逆による愛国心」の発露といえるのかもしれない。

結論をまとめよう。教育基本法改定派は、愛国心教育の内容を「市民的不服従の基盤をなす批判的精神と異端者に寛大な心をはぐくむこと」と読み替えることで、劣勢な論議を仕切り直すことが賢明である。(この点を認めなければ中国共産党の「愛国教育」を非難する論理を放棄することになるが、それは改定派の望むところではないはずだ)。

この私のアドバイスに対して改定派の友人は声を荒らげて反論した。

「いや、われわれが考える『愛国心』はそんな国への反抗を唱道するわけがない。われわれが教育基本法の改定に期待するのは、ただただ国家や企業に服従してくれる者たちの育成なのだ!」

…これが教育基本法改定派の本音なのであろう。

山陰中央新報 2006年8月29日

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日本教育学会の歴代4会長 教育基本法改悪に反対 「見解」発表

日本教育学会(佐藤学会長、会員二千七百人)の歴代会長四氏は二十七日までに、秋の臨時国会での教育基本法改悪法案の審議に向けて、改悪反対の立場からの「見解」を発表しました。衆院教基法特別委員会の全委員に送る予定です。

見解をまとめたのは大田堯、堀尾輝久、寺崎昌男、佐藤学の四氏。同学会の歴代事務局長の七氏も賛同しています。

見解は政府案と民主党案について「両法案は…教育への不当な支配をチェックするのが基本法なのだという現行法の精神から逸脱している」と指摘し、政府案の新設一七条(教育基本計画)は「競争と評価を軸とする管理主義的教育に拍車がかかるおそれが十分に予想される」と批判しています。さらに「国あるいは政府は…学習の権利を保障するための条件整備にこそ積極的な役割を果たすべきであって『道徳の教師』になるべきではない」と訴えています。

また、(1)「なぜいま改正の必要があるのか」が不明確(2)「憲法改正を先取り」するものではないか(3)占領下の押しつけ論など基本法制定の「歴史的事実をわい曲」している、などのこれまでの審議の問題を指摘しています。

しんぶん赤旗 2006年8月28日

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改悪案は民主主義の喪失 教育学15学会シンポ

教育学関係の十五学会による教育基本法「改正」問題を考えるシンポジウムが二十六日、東京の立教大学で開かれ、四人のパネリストが教育基本法の改悪に反対する見解を報告しました。

佐藤学・日本教育学会会長(東京大学教授)は「現行法、政府案、民主党案が並んだ。現行法は完成度がはるかに高く、首尾一貫性、教育的洞察の深さ、教育的役割、どの点でも古くない。今後さらなる議論を重ねるとともに、何らかの行動が必要だ」とあいさつしました。シンポには二百十人が参加しました。

日本教育法学会の西原博史・早稲田大学教授は「政府の改悪案の狙いは教育の目的を『人格の完成』から、愛国心を中心とする特定の資質を教育の目標にひっくり返すものだ」と分析しました。

日本教育経営学会の小島弘道・筑波大学教授は「(現行の)教育基本法は新しい学校経営構築のために、今なお進むべき確かな方向性や力強いメッセージを与えてくれる」と述べました。

日本社会教育学会から発言した佐藤一子・東京大学教授は、戦後の社会教育法の先進性に着目し「それを支えた教育基本法の二条(教育の方針)および七条(社会教育)の全面改定は、戦後民主主義の喪失ともいうべき危機的事態だ」と強調しました。

日本教育社会学会の広田照幸・東大教授は戦後社会の変化を分析し、政府案は「徳目を教え込むことで教育問題を解決しようという大胆不敵な暴論だ」と批判。「東アジア共同体構想が動きだす中、閉鎖的で内向きな国民をめざす方向は時代遅れだ」と発言しました。

会場からは「子どもの権利は人権と重ねて理解すべきだ」など活発な意見が出されました。

しんぶん赤旗 2006年8月27日

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教育学関連15学会共同公開シンポジウム(第4回)
「教育基本法改正案と日本の教育―教育基本法改正問題を考える―」

○日時  2006年8月26日(土)14時00分〜18時00分
○場所  立教大学池袋キャンパス8号館1階8101番教室
     (JR線・東武線・西武線・地下鉄線「池袋駅」下車。西口より徒歩約7分。)

開会挨拶  藤田昌士(日本生活指導学会・元立教大学)

報告〈報告タイトルはいずれも仮題〉
 @教育基本法改正案の法的検討  西原博史(日本教育法学会・早稲田大学)
 A教育基本法改正案と学校教育  小島弘道(日本教育経営学会・筑波大学)
 B教育基本法改正案と社会教育  佐藤一子(日本社会教育学会・東京大学)
 C日本の教育と教育基本法改正案 広田照幸(日本教育社会学会・東京大学)

閉会挨拶  佐藤 学(日本教育学会・東京大学)

司会  三上昭彦(日本教育政策学会・明治大学)・水内 宏(日本教育方法学会・聖母大学)

参加費  資料代として500円

主催  教育学関連15学会
日本教育学会/教育史学会/大学教育学会/日本教育行政学会/日本教育経営学会/日本教育社会学会/日本教育政策学会/日本教育制度学会/日本教育法学会/日本教育方法学会/日本教師教育学会/日本社会教育学会/日本生活指導学会/日本道徳教育学会/日本比較教育学会

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中教審答申 教員免許の更新制 教師・研究者が懸念
自由な実践抑えられる 管理統制を強める


中央教育審議会が十一日の答申で打ち出した教員免許の更新制。現職教員も十年に一度三十時間の講習を受け、修了認定されなければ免許が失効し、職を失うことになります。現場の教師や教育研究者は、どう受けとめているのでしょうか。

東京都内の中学校教師(51)は「講習の中身がどういうものになるかまだ分からないが、時の政府の教育政策への忠実度が問われるものになるのではないか」と語ります。東京では「日の丸・君が代」の強制をはじめとして教育行政による現場への管理が強まっています。「講習を受けさえすれば更新されるといっても心理的圧迫感があり、創意工夫した教育をすることをいっそう自己規制してしまうかもしれない」

条件整備が先決

山口県の小学校教師(49)は「現場は非常に忙しくなっています。いったいいつ講習を受けろというのでしょうか」といいます。「現場ではさまざまな新しい課題が生じていますから、教師が学び続けること自体は必要です。しかし、研修にいきたいと思っても時間もお金も保障されず、自分のお金で休みをつぶしてやるしかないんです」

小学校に導入されはじめた英語教育のための研修も勤務時間外でなければ受けられない状態です。「今回出されているようなやり方では忙しくなるだけ。自分が必要とする研修を受ける時間と予算、学校の人的な体制など条件整備が先決だと思います」

必要性説明ない

教員養成問題に詳しい土屋基規・神戸大学名誉教授は「答申は、教員養成は『転換期』にあるとしていますが、十年、二十年先を見通した将来展望はなく、更新制先にありきという姿勢が強く出ています」と語ります。

中教審も二〇〇二年の答申では、更新制は「専門性向上には必ずしも有効な方策とは考えられない」としていました。

土屋さんは「更新制導入の理由として『社会的状況の変化に対応する』というだけで、必要性と合理性の説明はありません。現在の大学の教員養成課程は多くが担当教員が二人しかいないなど極めて貧困です。更新のための講習を大学などで行うといっても現実的な受け皿がない」と指摘。大学での教員養成の充実と現職教員の研修の条件整備をきちんとやることが必要だといいます。

身分が不安定に
教職員政策について研究している勝野正章・東京大学助教授は「専門性の向上や資質能力の刷新は必要ですが、今回の更新制がそれにつながるとは考えられません。教員の身分が不安定になることのマイナスのほうが大きい」と語ります。

教育は子どもと教師との人間的な交流のなかでおこなわれるもの。「簡単に身分が奪われてしまっては、教師が創意工夫を発揮して自由な教育実践をすることができません」と勝野さんはいいます。ILО・ユネスコの「教員の地位に関する勧告」(一九六六年)も身分保障は教員の利益にとって不可欠なだけでなく「教育の利益のためにも不可欠」としています。

これまで免許が失効するのは懲戒免職の場合などに限定されていました。今回の更新制では、講習の修了認定を受けなければ懲戒免職と同じ扱いになるというものです。

勝野さんは、答申は教員への管理統制を強める点で教育基本法改悪案と同じ流れだと指摘します。「更新講習の基本内容や修了要件は国が定めることになっています。教職課程に新設するという『教職実践演習』も国が内容を定めるものです。教育基本法『改正』案は現行法の『教員は、全体の奉仕者』という言葉を削っています。教師は子どもや保護者のほうを向いて教育をするのでなく、国にいわれたとおりの授業をやりなさいということにされかねません」

しんぶん赤旗 2006年7月14日

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教育基本法を考える

改正の是非が議論されている教育基本法について考えるシンポジウムがきのう沖縄国際大学で開かれました。

教育基本法を巡っては、子供たちの学ぶ意欲やモラルの低下の原因は現行の法律にあるとして改制の必要性が叫ばれる一方、国家や国益が優先され戦前の教育へ回帰するとの批判の声も挙がっています。昨日のシンポジウムで1フィート運動の会の中村文子さんが講演し、戦前の軍国主義教育により沖縄戦で大勢の教え子が命を落としたと話し、戦前の教育を反省し作った今の教育基本法を変えてはならないと訴えました。

沖縄テレビ放送 2006年6月25日

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教育基本法とクラーク精神
藤田正一

改正で戦前回帰許すな

「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、心理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身とともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」

教育基本法第一条の文言である。これは北大の前身、札幌農学校の初代教頭クラーク博士の自主独立と自律の精神を重んじた教育精神とよく似ている。それもそのはずだ。教育基本法の原案を作った「教育刷新委員会」は安部能成委員会や南原茂副委員長をはじめ多くのメンバーが二人の人物を介して、「クラーク精神」の影響を強く受けていた。

二人とは新渡戸稲造と内村鑑三。ともに札幌農学校二期生だ。

新渡戸は著書「武士道」で私利私欲を捨てる日本の精神を世界に紹介。旧制一高の校長、東京帝大の教授などを歴任し、第一次世界大戦の反省から誕生した国際連盟の初代事務次長も務めた。

旧制一高の前身、第一高等中学校で教壇に立った思想家内村は、日露戦争以後、徹底して非戦平和を説いた。学生たちは彼の自宅に通い、博愛精神を学んだ。

新渡戸は軍部への批判から「国賊」とののしられ、内村は教育勅語に対する拝礼を拒み、教壇を追われた。しかし、国を愛すればこその行為だった。

教育刷新委員会のメンバーは、尊敬する新渡戸、内村が教育の表舞台から追いやられる様子を目のあたりにしてきた。それゆえ「教育は不当な支配に服することなく、国民全体に対し、直接に責任を負つて行われるべきもの」(教育基本法第10条)と主張。時の政権や実力者に従うのではなく、敢然と正義を主張する人間を育てようとした。

政府と民主党の改正案は、この条文を骨抜きにするものだ。10条後段の「国民全体に対し直接責任を負つて」を「法律の定めるところにより」に入れ替える政府案は、法律という大義名分のもとに、教育への不当な支配がなされないとも限らない。民主党案に至っては全文削除というありさまだ。

改正論者の中には「現行の基本法が急場しのぎに作られ、十分な論議がされていない」との指摘もある。

果たしてそうか原案作りに携わった人々は抑圧の時代、いくら望んでも実現できなかった理想を形にするべく、全力を尽くしたのではないか。崇高な理念と格調高い文章は一朝一夕にできるものではない。

改正案が示す政権の教育支配への意欲は、戦前の国家体制への回帰を色濃く示したものと思えてならない。新渡戸が墓の中で泣いている。(北大総合博物館長・獣医学研究科教授)

北海道新聞 2006年6月19日

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教育基本法改正:広大教授「学習指導要改訂に恐怖」−−改正を問うシンポ /広島

国会で審議されている教育基本法改定案について議論しようと、シンポジウム「『教育基本法改正』を問う」がこのほど、東広島市鏡山1の広島大であり、同大教育学部の難波博孝教授らが講演した。【吉川雄策】

◇中教審運営の問題点を指摘
同大の学生で作る実行委員会の主催。難波教授は「(同改定案は)03年3月に文部科学相の諮問機関の中央教育審議会が行った答申が反映されている。同審議会は今年度末までに、学習指導要領の全面改訂について答申を行う予定で大変恐怖を感じる。同審議会は、会長と副会長が実質的にすべてを決めている点に問題があり、文部科学省のホームページで公開されている議事録を見ればよく分かる」と述べた。

同法案に「我が国と郷土を愛する態度を養う」との文言が盛り込まれたことに関連し、県内の公立学校で君が代斉唱時に起立しなかった教職員が県教委に処分されている問題にも触れ、「起立している人を邪魔してはいけないのと同様、起立しない人を邪魔してもいけない。多様性を認めることが大切だ」と話した。

同シンポには、君が代斉唱時に起立しなかったため処分を受けた公立学校の2教諭も参加。女性教諭は「県教委は、憲法が思想信条の自由を保障しているため、単に君が代を歌わないだけでは処分が出来ないと分かっており、あえて処分をするために『上司の命令に背いた』との形を作っている。周囲には『処分されるのになぜ反対するのか』と言う人もいるが、処分することもおかしいと思い、反対している」と訴えた。

また、先月24日〜今月1日に同大の教育学部や法学部などの1年生222人に、広島県と東京都で公立学校の卒・入学式で君が代斉唱時に起立しなかった教職員を教育委員会が処分したことの是非についてアンケート結果を発表。結果は、「賛成」31人▽「反対」126人▽「どちらでもない」60人▽無回答5人だった。賛成意見には「教員は率先垂範しないといけない」「歌わなくてもいいから立つべき」などの意見がある一方、反対意見では「様々な人間がいることを子どもにも教えるべき」「愛国心は国から強制されて身に付けるものでない」などの意見があったという。

毎日新聞広島 2006年6月17日

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教育基本法改正 インタビュー(下)

「愛国」が盛り込まれた与野党の教育基本法改正案をどう考えればいいのか。戦後政治の世界で長く改正を主張してきた中曽根康弘元首相(88)に続いて、気鋭の歴史・社会学者(慶応大総合政策学部助教授)小熊英二氏(43)の意見を紹介する。 (聞き手=社会部・片山夏子、加古陽治)

教育基本法の与党改正案を読んで、三つの問題を感じました。

一つは、この改正案は在日外国人を含めた一般の国民、住民が持つ教育への不安に即したニーズに応えたものではないということです。

いま切実に論じられている教育の問題は、格差や不登校、学力低下や学級崩壊などで、与党改正案が重視している愛国心とか道徳問題ではありません。そんなことには、一般国民はさほど関心がないでしょう。この改正案で喜ぶのは、自民党文教族をはじめとした年配の保守系の人たちだけではないでしょうか。

■連携

二つめは、「国と郷土を愛する」「態度を養う」と記していること、さらに家庭教育の重視と社会教育との連携を強調していることです。

多くの人が指摘していることですが、「態度を養う」ということは、生徒が君が代を大きな声で歌っているか評価したり内申書に書いたりできるという拡大解釈につながりかねません。また、卒業式にきた父母が君が代を大きな声で歌わなければ、家庭教育がよくないという評価もできる。さらには、祝日に日の丸を掲げない家庭は教育基本法に反している、そうした家庭は教育委員会から職員を派遣して日の丸を掲げるよう指導する、というような家庭教育と社会教育の「連携」が起こるかもしれない。

つまり、いま学校の卒業式などで起きている国旗国歌をめぐる事態が、家庭や社会全体に及びかねない。政府や与党が「そういうことをやる気はありません」と答弁したとしても、国旗国歌法の時も「学校で強制はしない」と答弁したのですから安心できません。

■介入

三つめに、自民党は「万年与党ぼけ」ではないかと感じました。

今の教育基本法第一〇条は「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って」と書いて、教育への政権の介入を禁じている。これは戦前の軍国主義教育への反省もありますが、制定時の状況では、共産党や社会党が政権を取って教育を左右したら大変だという危機感もあったはずです。

基本法を発案した文相の田中耕太郎、教育刷新委員会(今の中央教育審議会)の初代委員長安倍能成、二代目の南原繁、首相の吉田茂らは、みな反共自由主義者でした。実際に一九四七年三月の教育基本法公布の直後、四月の選挙で社会党が勝って政権を取った。基本法を作った当事者たちは、間に合ってよかったと思ったのではないか。

ところが与党改正案では、この一〇条に当たる部分を「不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより」として、政権の介入ができるようにした。これは自民党が教育を意のままにする道を開きかねないと批判されていますが、そればかりではない。もしも今後、民主党と共産党の連立政権ができたり、極右政党がかつての日本新党のようにいきなり台頭して政権を取ったら、自民党や公明党は「あんな改正をしたのは自殺行為だった」と後悔することになるかもしれません。

しかし与党改正案にはそういう可能性を考えた形跡が全然ない。永遠に自分たちが政権党であることを前提にしている。緊張感ゼロの「万年与党ぼけ」だと思います。

■魅力

以上三つの点から、一般国民にも、場合によれば自民党にも得にならない改正案だから望ましくないと私は考えます。

そもそも、愛国心を教えなければいけないと法律でうたうのは、それほどこの国は魅力がないと自分で言っているようなものです。日本がアジア諸国からも国連でも尊敬を集めていて、政治が立派に行われていたら、教育されなくても国に愛着を持つでしょう。そういう政治や外交をしないでおいて、年に一回の入学式や卒業式での国旗や国歌の扱いにこだわる人たちになど、国の政治をまかせたくありませんね。

おぐま・えいじ 東京大農学部を卒業後、出版社勤務。東大大学院博士課程修了。2000年から現職。専門は歴史学・社会学。著書に「単一民族神話の起源」(サントリー学芸賞)、「<民主>と<愛国>−戦後日本のナショナリズムと公共性」(大仏次郎論壇賞ほか受賞)、「日本という国」などがある。

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講演:経済評論家・森永卓郎さんが格差社会に警鐘−−山形 /山形

経済評論家の森永卓郎さんが10日、「格差社会とこれからの教育」と題した講演を山形市平久保の「ビッグウイング」で行った。

連合山形と県教職員組合が主催した。森永さんは、教育基本法の改正案について「教育を国の責務とする今の法律から、義務教育の面倒をみないとする内容に変えようとしている」と、所得によって教育を受ける機会に差が出ると指摘した。

また、法改正や予算配分、税制改正などの政府の政策に格差社会を広げる内容が盛り込まれていると指摘。小泉内閣の構造改革について「格差を広げるだけ」と批判し、「一部の金持ちがますます金持ちになるだけで、社会が幸せになることはない」と警鐘を鳴らした。【釣田祐喜】

毎日新聞 2006年6月11日

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教育基本法改正 インタビュー(上)

憲法改正と並んで、自民党の“悲願”とされる教育基本法改正。今国会に与野党の改正案が提出されたが、継続審議となる見通しだ。なぜ改正が必要なのか。改正によって何がどう変わるのか。長く改正を主張してきた中曽根康弘元首相(88)と、改正に批判的な歴史社会学者(慶応大学総合政策学部助教授)小熊英二氏(43)の二人に話を聞いた。最初は、中曽根元首相の意見を紹介する。 (聞き手 社会部・片山夏子、加古陽治)

教育基本法は、戦後の占領政策そのものが反映されたものだ。戦前の国家的で視野の狭い教育体系の欠陥を是正し、世界的な視野に立つものに変えようとした。その点は評価できる。

しかし内容を見ると、個性とか個人主義が強烈で、日本の歴史や文化、伝統は無視されている。国という概念も公の概念もないと言ってよい。道徳性についても欠けているなど、教育上の重大欠陥を内包していた。

そうした占領政策からの脱却は、自民党結党(一九五五年)以来の悲願だ。鳩山一郎内閣のころから歴代文相が改正を試みたが実現せず、私の首相時代の臨時教育審議会でも手をつけられなかった。実際は、愛国心や道徳教育を学習指導要領で認めるなどして、事実上、基本法を是正してきたんだが。

■世論

ソビエト崩壊後、今まで支配してきた米ソの両支配体系が崩れ、世界はナショナリズムの時代に入った。日本は九〇年代の十年間、自民党分裂、政治の腐敗や不況が続き漂流していたが、十年たって憲法や教育基本法の改正が国民の中から鬱然(うつぜん)と出てきた。今、盛り上がった大きな力が動いている。まさに国民的ナショナリズムの力であり、政治主導ではできないことだ。

世論調査を見ると憲法改正の賛成は六割、基本法はもっと高い。この動きを、正しい政治の道筋でものにしていくのは政治家の責任だ。

政府と民主党の改正案は重なる面が多いが、違う面もある。「愛国心」は、政府案は「態度を養う」で、民主党案は「日本を愛する心を涵養(かんよう)し」とある。政府案は、公明党との妥協で「態度を養う」となったが、格好が大事で心が抜けている感じだね。

■自然

憲法一九条(思想・良心の自由)との関係で議論があるが、自分たちが生まれて生活している祖国に愛情を持つのは世界的趨勢(すうせい)で、日本だけ特別にやっているわけじゃない。「国家」という概念に対し、われわれは「祖国」という概念で考える。国というと権力的行政機構を連想するが、われわれのは歴史的伝統的、文化的共同体という思想だ。

教えられたから愛せるものではないという考えは、ある程度正しい。しかし、自分の家庭を愛するように、生まれた国や文化、歴史を尊重する。それから、愛情が生まれるのは自然なことだ。そういう自然的作用を法律に書くことは、強制的に教えるということ、教え込むことではない。政府案は「態度」という表現をしているが、適当でないと思っている。

■10年

(通知表の評価は)あんなのなくたっていい。私は賛成しないね。

与党案は「不当な支配に服することなく」という文言を残している。不当な支配を排除することは、教育の中立性を維持する意味では重要なポイントだと思う。

基本法を変えることはまだスタートライン。後に出てくる教育関係法、学習指導要領の改革が大事だが、基本法を変えなければ学習指導要領なども変えられない。やっぱり十年ぐらいかかるだろうね、いろいろな問題を解決していくのに。

■悲願

今度の議会は大事なチャンスだった。会期延長をしないというのは、小泉君(純一郎首相)の関心の少なさを示している。小泉君はえり好みが強くてね。道路や郵政も大事だけれど、どっちかというと脇道の問題だ。政治の本道は憲法、教育基本法とか財政再建、社会保障、外交問題だが、そこは手を抜いてきたね。

こういうものは歴史が判断する。政治家は歴史法廷の被告席にある。

改正案は、新内閣の最初の国会か来年の通常国会には成立させないといけない。新首相の最初の仕事としてやってもらいたい。自民党結党以来の悲願が、ようやく実ろうとしているのだ。

なかそね・やすひろ 東京帝大法学部卒業後、内務省入省。戦時中は海軍主計士官となる。1947年に群馬3区から衆院初当選、科学技術庁長官、防衛庁長官、通産相などを歴任した。82年、首相に就任。「戦後政治の総決算」を掲げた。97年に大勲位菊花大綬章を受章。2003年に政界を引退した。著書に「自省録−歴史法廷の被告として」など。

東京新聞 2006年6月11日

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シリーズ評論 教育基本法改正を考える 3

日本大学教授 百地章さん
強制の意味付けが問題

与党の改正案は全体として単なる手直しに終わってしまった印象だ。宗教的情操の涵養も明記されず、合格点はとても与えられない。

伝統文化の尊重
ただ、それなりに評価できる点はある。教育の目標として「豊かな情操と道徳心を培う」「伝統と分化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」を掲げた。「伝統と文化の尊重」は、現行法ができる際に連合国総司令部(GHQ)によって削除された部分だ。それが盛り込まれた意義は大きい。

愛国心の強制が内心の自由を侵害するとの指摘があるが、明らかに誤解に基づいている。教育とはある種の強制なくして成り立たない。また子どもの心の琴線に触れることなくして教育はできない。つまりは、許される強制か許されない強制かが問題なのだ。

例えば国家の斉唱にしても、歌わない生徒がいれば繰り返し繰り返し歌うよう指導する。立たない生徒がいれば立たせて歌わせる。これは教育上、やらなければいけないことであって、内心の自由や基本的人権の侵害にはあたらない。

あり得ないことだが、どうしても歌わない子がいた場合に無理やり口を開かせることはいけない。あるいは歌わないことで罰則を加えたり、生徒の思想そのものを追及したりすることは、まさに自由の侵害だ。

内心の自由の侵害に当たるのは基本的に二点だけ。内心にある限りいかなる思想信条も絶対であり、そこに国が立ち入ってはいけない。その思想そのものを否定したり、その思想を持って差別したりしてはいけない。もう一点は、その思想を無理やり表明させてはいけない。つまり沈黙の自由。この二点だ。

アメリカ国民も政権批判はするが、それを超えた共同体としての国家に対しては忠誠を誓っている。愛国心教育と中国で行われているような反日教育とは違う。サッカーや野球の日本代表を応援するような素朴なナショナリズムを正しく育て上げるためにも、愛国心を学校で教えるべきだ。そうでないと、愛国心が排外主義という形で噴出する恐れがある。

半端な見直し案
現行法の教育行政の条文では、教育権の主体が明記されないまま「教育は不当な支配に服することなく」とされている。その結果、文部科学省や教育委員会の正当な指導さえも、日教組などは「不当な支配」として排除しようとしてきた。

「教育は」の部分が、「教育行政は」であれば、国が教育を行うことを基本とした上で、それ以外の日教組などの不当な支配に服してはいけないということになる。与党案では教育が法律に従って行われる点は明記したが、中途半端な見直しであることに変わりない。

教育は国家百年の大計であり、与党案をこのままの形で成立させるべきではない。継続審議にして次の内閣で本格的に論議するべきだ。

北海道新聞 6月3日

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新教育の森:さが 教育基本法改正・識者インタビュー/4止 /佐賀

◇理念で現実変わらず−−佐賀大文化教育学部教授・新富康央さん(57)

今起きている教育の諸問題が、基本法を改正しないと変わらないのか、改正したら変わるのか。本来、なぜ今の基本法ではいけないのかという議論から始めるべきだが、それが見えない。

いわゆる「愛国心」表記など、法案に書かれている文言自体は正論だ。問題はなぜ今持ち出してきたのか。正論と言ったのは、当然のことであえて盛り込む必要はないから。正義を行いなさいとわざわざ書くのはおかしいのと同じこと。

多様化した価値観やまとまりを失った社会などが、いろいろなひずみを引き起こしているのは確か。だが、元凶が基本法にあるという論調は、問題のすり替えだ。その因果関係が伏せられている。まして(法の)理念や観念が現実を動かすということはない。

愛国心などの中身の是非は別にして、そういう理念や観念で世の中が動くという幻想を与える方が、実は怖い。現実や現場の論理ではなく、建前や形式論で「こうなっているはず」とか「こうあるべきだ」という論理が横行し、教育は前に進まないだろう。

例えば、学校評価は今、より具体的に学校教育を検証し、どう変わるべきか、データを集めようという方向に進んでいる。だが、愛国心のように、どう評価するのか分からない抽象的なものが入ってくると、せっかく具体的な方向に向かっているのに、形式的な評価にまた戻ることになりかねない。

法案にある「教育振興基本計画」は、改正法案のあり方を見る指標として、注目している。教育の基盤整備にとどまればいいが、法案にある価値観や理念に基づき、おそらく教育内容に踏み込んでくるだろう。

私は「牧場の教育」と言っているが、教育は一定の柵(さく)を設け、その中で自由にさせればいい。野放しの「放牧型」でも、一定の方向に絞る「手綱型」でもいけない。現行の基本法は一定の柵の役割を果たしている。改正案は手綱型にしようとしている。

基本法は教育の「大きな枠」だ。今の基本法を変える必然性はない。逆に十分に生かしていない。具体化するのは現場。今の基本法の中でやるべきことは山積している。(おわり)

……………………………………………………………………………………………

◇新富康央さん
広島大教育学部・同大学院を経て78年、佐賀大講師に。92年から教育学部(現・文化教育学部)教授。現場の視点や実態に即した臨床教育学を研究している。県学校評価検討委員会と県学力向上推進協議会の委員も務めている。

毎日新聞佐賀 2006年6月3日

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シリーズ評論 教育基本法改正を考える 4
日教組組織委員長 森越康雄さん
もの言える社会が「公」

教育基本法の改正案について、自民、公明両党は三年間かけ七十回の協議を重ねたというが、一部の議員によって密室で進められた。「教育の憲法」という重要性を考えると、国会に提出して一ヶ月余りの審議で成立させようなんて、言語道断といわざるを得ない。

政府は改正の目的として、不登校やいじめなど学校現場の退廃を挙げている。そして、「教育は不当な支配に服することなく」という条文を盾に、退廃の原因は、日教組が政府の介入を退けてきたことだと主張している。とんでもない事実誤認だ。

尊厳ないがしろ
教育行政は戦後一貫して、旧文部省や文部科学省が中央集権的に牛耳ってきた。日教組のせいだというなら、組合の強い北海道などは非行やいじめが横行し、組合員がほとんどいない地域は天国のような教育が行われているのか。そんな事実があるなら示してほしい。

いまはそんな犯人捜しをしている場合ではない。それほど子供たちを取り巻く状況は全国的に深刻だ。社会が弱肉強食の度合いを強める中、子供たちは居場所を失い、認められない苦しさにもがいている。つまり、今の教育基本法の根幹にある「個人の尊厳」がないがしろにされているのだ。

私たちも国や郷土を愛することを否定しない。問題なのは、内心にかかわることを法律で規定することだ。小泉首相は靖国参拝への批判に対し、「内心の問題だからとやかくいわれたくない」と言っている。にもかかわらず、子供たちの内心には平気で踏み込もうとしている。自分がされて嫌なことを相手に強いる「非教育的」なことだ。

学習指導要領に「国を愛する心情を持つ」という文言が入ったことで何が起こったか。通知表でABC評価する学校が出てきた。「国を愛する心情」の成績を上げるために子供たちは何をすればよいのか。評価する先生たちも困る。例えば「竹島問題」について問い、「力ずくで取り返すべきだ」と答えたらAなのか。「話し合いで解決するべきだ」と答えた子どもはCなのか。国や郷土を愛している度合いを一方的に測られることの矛盾と怖さを感じる。

互いに認め合う
改正案では「公共の精神」も強調されている。しかし、現行法にも「自他の敬愛と協力によって」ときちんと書いてある。「公共」というのは、声の大きい人や小さい人、気が強い人や弱い人、そんなさまざまな人が一緒に暮らす社会のことだ。互いに認め合い、自由にものが言える社会が「公」ではないのか。改正したい側が言う「公」は「全体の次に自分を置く社会」と聞こえる。

民主党も対案を出した。「愛国心」を条文ではなく前文に入れ、強制の意図がないことを示したとされているが、私はどこに入れようとも問題と考えている。論議することは否定しないが、教育の将来を数の力で拙速に決めることは許されない。(おわり)

もりこし・やすお
岩手県内の中学校の美術教員から岩手県教組委員長、連合岩手会長などを経て2004年に日教組委員長に就任。青森県出身。青森県立八戸高、岩手大学教育学部卒。59歳。

北海道新聞 2006年6月4日

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シリーズ評論 教育基本法改正を考える 2
民間教育臨調会長 西沢潤一さん
愛国心、公の精神は当然

現行の教育基本法は、終戦後のどたばたの中でかなり乱暴な形で制定された。憲法も同じだ。戦後の教育は民主主義がいびつな形で支えとなり、自己中心的な子どもを生んでしまった。自分の属している組織を大事にする、責任感を持つという意識が足りない。教育基本法を改正し、そうした点を一日でも早く改正しなければならない。

いま、国という考え方がねじれてしまっている。

「三つ子の魂百まで」という言い伝えがある。子どもの人権を尊重することは良いことだが、一番大切な小学生の時期に教えるべきことをしっかり教えないから、おかしなことになる。例えば、親の背中にのっかってじゃれている子が、親が痛がっているのにやめない。きちんとしからない親も悪い。そうして育った子は大人になっても自己中心的な考えをする。

成績評価もいい
改正案では、公共の精神の尊重をうたっている。「私」を大切にしようと思えば「公」を大事にしなければならないのは当然のことだ。「税金なんて払うのは嫌だ」といったら、生活のための道路は舗装されず、川に橋も架からない。結局、自分が困ることになる。「私」を大事に思うからこそ「公」の精神が重要なのだ。少し強引でも、国を愛するという風習を呼び戻したほうがいい。自国、他国を問わず、国旗に対して敬意を表すことは国際習慣として当然のことだ。そういうことが日本人は分からなくなってしまった。現行の教育基本法の下、国際的常識を教えてこなかったからだ。

教育基本法に愛国心を明記し、学校現場で強制すると、戦前の軍国主義に戻ると主張する人がいるが、そんなことはあり得ない。右か左かというように、物事を短絡的にとらえてはだめだ。

愛国心というのは、自分の国を外国の人から「素晴らしい国ですね」と言ってもらえるようにすること。外国の人々から尊敬の念を持ってそう言ってもらえた時、私たちの愛国心は満足する。愛国心を通知表で暫時、成績評価することも問題ない。CであればAを目指そうという向上心が生まれてくる。どういう点を評価するかはこれから慎重に決めたらいい。

国に誇りと夢を
学校義務教育に国が責任を持つのは当たり前だ。だが、現行法の「教育は不当な支配に服することなく」の言葉を根拠に、日教組などは行政の介入を退けてきた。(与党の)改正案でこの言葉がそのまま残ってしまったのは残念だ。「教育」は「教育行政」とし、国の責任を明確にした上で法改正を実現しなくてはならない。

現行法の教育体制の下で学ぶ子どもたちが、かわいそうだ。日本人が自己嫌悪に陥っている面があるが、もっと自国に誇りと夢を持たせるべきだ。教育基本法を改正し、教えるべき時期に教えるべきことを教える。教育基本法と憲法の改正を実現してようやく戦後が終わる。改正が一回で終わらなければ、またやるべきだ。

にしざわ・じゅんいち
東北大学長、岩手県立大学長を務めた後、2005年4月開学の首都大学東京の初代学長に就任。「ミスター半導体」の異名を持ち、ノーベル賞候補にも名前が挙がる。仙台市出身。東北大学工学部卒。79歳。

北海道新聞 2006年6月2日

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新教育の森:さが 教育基本法改正・識者インタビュー/3 /佐賀

◇格差助長につながる−−弁護士・東島浩幸さん(45)

中央教育審議会などの議論を見ると、今回の改正の背景は二つある。一つはいじめや学級崩壊、少年事件など、教育荒廃への国民の不安。二つ目は国際競争の激化の中、社会や経済をけん引するエリート育成が必要という意見。では、これらの課題が基本法の改正とどう関係があるのか。

基本法が教育荒廃の原因かといえば、検証も分析もなされていない。教育荒廃がないとは言わないが、改正すれば克服できる問題でもない。また、国際競争力のためにエリートを育てないといけないというのは、国民ではなく、為政者側が考えている理由。国際社会の中でどういうスタンスを取るかは国づくりの骨格で、国民が選択するものだ。

日本の教育は98年に国連子どもの権利委員会から、競争の激しい教育制度の克服などを勧告され、04年にも同様の勧告を再び受けている。国際化を言うのであれば、国際的な人権水準に照らして内容を検討することは不可欠なはず。だが、改正案の中で検討した形跡はなく、国際化に全く逆行している。

基本法は教育に対して国がすべきこと、してはいけないことを大きな観点から規定することが一番重要。国が細かく「こういう人になりましょう」と規定するのは問題だ。法案にある「教育振興基本計画」も、数値目標の達成状況に応じて予算や人事を配分する、褒美とペナルティーを通じて教育内容を統制する手段として使われるだろう。

改正案にはエリート教育の観点があり、学校間などで数値目標の達成状況を競えば、子供たちの競争という形になる。また、義務教育年数(9年)の削除によって義務教育がどう変わるのかが見えない。憲法に準じた基本法から年数を外し、より下の法律で年数をころころ変えられるというのは問題だ。

現状でも国連子どもの権利委員会から過度な競争を指摘され、教育に費用をかけられるかどうか、つまり保護者の経済力に競争が左右されている。今回の改正が実現すれば、この傾向は強まり、さらに格差の助長、固定化につながる。大多数の子供が早い段階で「非エリート」とされ、教育の機会均等は崩れてしまうだろう。(つづく)

毎日新聞佐賀 2006年6月1日

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シリーズ評論 教育基本法改正を考える 1

教育基本法が岐路に立たされている。1947年の制定後、改正案が初めて国会に提出された。今国会では継続審議となる見通しだが、愛国心の規定や教育行政のあり方などを焦点に、見直しに向けた議論が進む。日本の戦後教育の根幹を支えてきた「教育の憲法」は、改正が必要なのか。賛否双方の声を聞き、考える糧としたい。 (4回連載します)

日本教育法学会前会長 堀尾輝久さん
人間の内面 法で縛れぬ


なぜいま、改正が必要なのか。政府は、いじめや不登校など学校現場の問題のほか、情報化社会やグローバリゼーション、少子化などを理由に挙げる。「新しい時代に対応」と言うが、これらは改正の理由にはまったくなっていない。

1947年の制定後、一度も改正されていないからといって、果たして古いと裁断できるのか。私は、教育基本法も憲法も未完のプロジェクトだと思っている。基本法が掲げる理想を豊かに発展させていく。そういう課題を後世のわれわれは託されている。
 
理念実現努力を
基本法は改正品ではない。求められているのは改正ではなく、理念を実現していく努力だ。現実はむしろ、基本法の精神がゆがめられ、空洞化されているところで教育の病理現象が広がっているのだ。

いまの日本社会で公共の精神が希薄になっているのは事実だ。だが、そもそも公共とは何か。政府の言う公共とは何か。政府の言う公共とは「国家的公共性」だ。基本法や憲法が目指す「公共性」は、国家とは区別されたもの。人権を軸に一人一人を互いに大事にする「市民的公共性」だ。

公共の精神はなぜ薄れてしまったのか。理由の一つに新自由主義的な政策がある。まさに市民的公共性を壊す形で進められてきている。市場原理最優先の新自由主義的な発想だと、競争ばかりで格差が広がり、国としてのまとまりは薄れる。だから、競争と評価による管理を広め、イデオロギー的には公共心と愛国心でつながざるを得ない。政府がいま愛国心を持ち出す理由はそこにある。

そもそも、人間の内面性、道徳性にかかわる部分を法律に書くことが問題だ。普遍的なことだけに限定し、最低限を規定する。それが近代法の原理だ。教育基本法もその抑制の原理でまとめられた。良いことなら何でも書けという発想とは違う。(与党の)改正法案の大きな問題は、「教育の目標」という新しい項目を立て、愛国心や公共性など20以上の徳目的な項目を並べたことだ。抑制の原理を超えている。

過去の反省ない
国と教育との関係も根本的に変えようとしている。「教育は不当な支配に服することなく」との文言は残ったと言われるが、残ったのではなく「不当な支配」の解釈が変わったのだ。現行法の立法過程では、国家権力の不当な支配があり得るという解釈から、こうした規定を設け、教育は「国民全体に直接に責任を負う」ものとされた。だが、改正案ではこの部分は削除され、「法律の定めるところにより行われるべきもの」となった。

国がやることは法律に従っているから不当な支配ではない、それを批判するのは不当ということになる。教師と生徒がともに真理と真実を求めて、自由に考え、発言することのできない教育が過去に何をもたらしたか。その反省がない。そこにある教育観は、戦前戦後、国民的にも国際的にも積み上げられてきた教育の条理の否定にほかならない。

ほりお・てるひさ 
民主教育研究所代表のほか、こどもの権利保護などに取り組む国際NGO(非政府組織)「DCI」(本部・ジュネーブ)日本支部の副代表を務める。教育思想史研究の第一人者。東大名誉教授。73歳。

北海道新聞 2006年6月1日

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新教育の森:さが 教育基本法改正・識者インタビュー/2 /佐賀

◇伝統など条文化必要−−夢の学校をつくる会理事長・古賀武夫さん(56)

加筆・修正された一つ一つの項目に、特に問題は見当たらない。私が今、懸念しているのは、生きがいがないと感じる人が増えていること。だから、現行法に足りないものをきちんと言葉にし、具体性を持たせるのは良いことだと思う。注目するとすれば、どう具体的に表現しているかだろう。

例えば、前文に「伝統を継承し」とある。日本の伝統とは何かという議論は別にして、自分の国のことを知らない人が多い。歴史や伝統、文化は条文に入れた方がいい。また、教育の目標に「幅広い知識と教養」「豊かな情操と道徳心」「健やかな身体」とある。心と体と頭を鍛えましょうということ。今、この三つのバランスが非常に悪いと思う。

家庭教育が「子の教育について第一義的責任を有する」と、盛り込まれたことも評価している。学校に責任転嫁する親がいるが、「川上を清めれば川下も清まる」という言葉もある。川上の親が自覚しないといけない。

自公の調整で国を愛する「心」が「態度」に変わったが、これは妥協でしょう。態度は内側から出てくるもの。「心」の方が分かりやすい。(内心の)評価が問題なら、評価しなければいい。測れないものを測ろうとしても無理がある。

他国の象徴に対する礼儀も含め、きちんとした態度を教えることは必要だ。例えば、空手の試合会場でも冒頭に君が代が流れ、起立のアナウンスがあっても、大人が座ったままだったりする。子供はそれを見て「ああ、これでいいんだ」と思ってしまう。

もう一つは宗教。法案では「宗教に関する一般的な教養」にとどまったが、宗教的な情操は涵養(かんよう)した方がいい。何宗、何教に入りなさいという意味ではなく、死生観などを通じて自分を超えたものを知り、個人だけの命ではないことは教えるべきだと思う。

私も3年ほど教員の経験があるが、基本法や学習指導要領を読んだことがなかった。それでも教えられたのは海外経験など、自分の体験があったから。教育はそんなに難しくはなく、見本を示せばいい。大事なのは、親や教師が何をやっているか、生き方にある。子供はそこを見る。(つづく)

◇夢の学校をつくる会理事長・古賀武夫さん

佐賀市高木町の「古賀道場」で空手と英語を指導する。国際親善などの活動に尽力し、NPO法人「地球市民の会」の会長。「夢の学校をつくる会」では08年4月の開校を目標に、幼小中か小中高一貫の私立学校作りを進めている。

毎日新聞佐賀 2006年5月31日

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教育基本法「改正」法案に反対し、廃案を求めるアピール

奈良県にお住まいのみなさん。奈良県におつとめのみなさん。

いま、教育基本法「改正」法案が提出され、政府・与党は今国会で可決成立をさせようとしています。

教育基本法は、子どもたちのすこやかに育む日本の教育と日本の将来にとって教育の「憲法」ともいわれる非常に重みのある法律です。

私たちは、教育基本法「改正」法案が、国民的な討論を経ないままに、短期間の審議を経るだけで多数決により採択されることは絶対に認めるわけにはゆきません。私たちは、今国会に提出されている教育基本法「改正」法案について、次の諸点で疑問を呈するとともに、廃案を求めるものです。

第一の疑問は、教育基本法の位置づけが逆転し、戦前の教育勅語のような性格を持っている点です。そもそも現行の教育基本法は、過去の過ちを反省して、新しい憲法のもとで国が国民に対して行う教育の基本的な原則を定めたものです。これに対して、今回の「改正」法案では、現行法の基本的な原則を曖昧にするとともに、国民の側に責任を求める意味合いが随所に表れ、道徳的な性格を帯びています。たとえば、「第六 学校教育」において「教育を受ける者が、学校生活を営む上で必要な規律を重んずるとともに、自ら進んで学習に取り組む意欲を高めること」と勉学に取り組む姿勢が問われています。「第十 家庭教育」では「父母その他の保護者」の責任、さらに「第十三 学校、家庭及び地域住民等の相互の連携協力」では関係住民の「役割と責任を自覚する」ことなどが説かれています。

第二の疑問は、一人ひとりの個人が大切にされるというよりは、国や郷土などの「公共への奉仕の精神」がくりかえし強調されていることです。現行法の前文では「普遍的にしてしかも個性豊かな文化の創造」がうたわれ、個性の多様性と自発性が強調されていますが、「改正」案では、しきりに「態度を養う」という表現が登場しています。そして、「道徳心を培う」ことを強調し、一定の行動スタイルや枠にはめこもうとする意図さえ感じさせられます。その延長線上にあるのが、「第二 教育の目標」の「伝統と文化を尊重し」に見られる、いわゆる「我が国と郷土を愛する」「愛国心」の強調です。

第三の疑問は、教育行政が本来、積極的に行うべき教育条件整備への言及がなくなったことです。「改正」案の「第十六 教育行政」では、教育は「この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきもの」とすることで、行政機関が教育内容に関する様々なことがらにこれまで以上に口出しできる枠組みを作ろうとしています。重大な問題は、教育基本法第十条に定める「教育は不当な支配に服することなく、国民全体に対して直接に責任を負って行われるべきものである」「2 教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない」という教育の自立性、教育行政のありかたを根本から変えようとしていることです。

第四の疑問は、項目が増えたことで教育基本法というよりは、下位の法律の寄せ集め的な性格が強まっている点です。改正法案では「生涯学習の理念」「大学」「私立学校」「教員」「家庭教育」「幼児期の教育」「学校、家庭及び地域住民等の相互の連携協力」「教育振興基本計画」が新しい項目として入り、「男女共学」が削除されました。新設された項目を見ると、政府・与党が近年、関心をもって推進してきた施策が中心になっていると思われます。つまり、今回の改正法案は、長期的に21世紀の教育のあり方を展望するというよりは、児童虐待、いじめ、学級崩壊、学ぶ意欲の低下など、現在の子どもたちや日本社会が置かれている問題状況への「処方箋」としての位置づけを、教育基本法の改正に期待しているものといえます。

以上のような疑問の根本には、第一点目で述べたように、教育基本法の発想の逆転があると考えられます。国の教育行政の基本を明らかにした現行法の理念をないがしろにし、現在の目先の問題状況に対応するために、国民に一定の価値観、行動様式をとるように強いる「責めたてる教育」観が中心になっています。このことは、民主的な国家・社会の形成者としての個人の人格形成、主権者の教育といった、戦後、大切にしてきた教育の基本を葬り去り、戦前への回帰をめざすものといえます。 「公共の精神」「伝統と文化を尊重」「豊かな情操と道徳心を培う」「規律を重んじ」などといった文言は、最近の問題状況を受けてあらためて登場してきた言葉ですが、現行の教育基本法ではより具体的に、「実際生活に即し、自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によって」(教育の方針)、「個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成」(教育の目的)という方針が規定されています。現行法の表現は、より主体的、自主的に、実際生活を切り開いていく能力を育成しようという意図が込められています。現行教育基本法の精神こそが、時代の変化に柔軟に対応できるとともに、多文化化し、多様化する時代に沿った方向性を先取りしていると考えることができます。

今回提出の「改正」法案は、個人の力の発現に期待するというよりは、それに枠をはめる危険性さえ伴った法案であり、廃案をつよく求めるとともに、現行の教育基本法を生かした教育改革の推進を求めるものです。

2006年5月31日

生田周二(奈良教育大学教授)
岩井宏實(帝塚山大学名誉教授・前学長)
梅村佳代(奈良教育大学教授)
大久保哲夫(奈良教育大学名誉教授・前学長)
佐伯快勝(真言律宗総本山西大寺宗務長)
高見敏雄(日本キリスト教団牧師)
中塚 明(奈良女子大学名誉教授)
藤田 滋(弁護士)
溝江玲子(児童文学者・作家)
山田 昇(奈良女子大学名誉教授)

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新教育の森:さが 教育基本法改正・識者インタビュー/1 /佐賀

「教育の憲法」と言われる教育基本法。1947年の制定以来初の改正法案が国会で審議されている。法案では「我が国と郷土を愛する」といういわゆる「愛国心」の表記のほか、義務教育年数9年を削除し、新しく家庭教育の責任などを盛り込んだ。単なる加筆・修正ではなく、改正の内容は学習指導要領や教育関連法に大きな影響を与える。一方、改正自体が必要なのか、それによって今の教育がどう変わるのか、議論が深まったとは言えない。法案をどう見るか、県内の4人の識者に話を聴いた。(構成・姜弘修)

◇拙速に変える必要なし−−佐賀大経済学部教授・畑山敏夫さん(53)

現行法を変えないといけない必然性が分からない。改正の方向性にも疑問がある。法案では、いわゆる愛国心教育の条項や、能力主義につながると危惧(きぐ)されている点、そして「公共の精神」が強調されている点に注目している。

愛国心という国民の心に働きかける条項を作るのは問題だ。結局、心は態度で示すしかない。法律で「国を愛する態度」を掲げると、学校現場でどう教え、どう育っているか、成果を調べるようになる。つまり、具体的な愛国心の証明が求められていく。国は愛するものであって、この条項は、愛させるものだ。

愛すべき対象の国を作れば、自然と自分の国に誇りと愛着を持つ。童話の「北風と太陽」で言えば、太陽でいかないといけない。改正する側が法案の段階で(「内心は評価しない」など)慎重なことを言っても、後々に解釈や運用が変わる恐れがあるものは、初めから作らない方がいい。

また、法案は教育の機会均等を残しつつも、あえて、教育の目標に「個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし」と記している。この条項が出来る子は伸ばし、出来ない子にはそこそこの教育を施すという、エリート選抜的な教育や学力競争を助長しないか。うがった見方と思うかもしれないが、今の学校現場からすると、能力と言えばやはり学力。十分に危惧されることだと思う。

「公共の精神」は確かに大切だが、個人主義の否定につながらないか気になる。個人より家族や地域、国家など、個人を超えた集団に価値を置く社会観を子供に植え付けることにならないか。利己的な若者が増えたと言われている中で、現行法にない「公共の精神」があえて盛り込まれた。戦後やっと実現した個人主義が利己主義とされ、なおざりにされていく危険性はある。

現行法を拙速に変える必要はない。それより学校現場を具体的にどうするか、という議論にエネルギーと時間を費やす方がいい。今のゆとりや希望のない学校教育の現場から子供たちをどう救い出すか、親や教師、そして政治家も、もっと努力すべきだ。法律を変えれば教育が良くなるというのは幻想だ。(つづく)

……………………………………………………………………………………………
◇佐賀大経済学部教授・畑山敏夫さん(53)

大阪市立大法学部・同大学院を経て85年、講師として佐賀大経済学部に赴任。96年から同学部教授。現代フランス政治を通じ、ナショナリズムや選挙について研究。「市民オンブズマン連絡会議・佐賀」の共同代表も務める。

毎日新聞佐賀 2006年5月30日

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教育基本法案の廃案を求める声明

                            2006年5月27日
                         日本教育法学会 会長
                       伊藤 進(明治大学名誉教授・
                       駿河台大学法科大学院教授)

政府は、今国会に教育基本法案を提出した。本法案は、現行教育基本法を全面改正することにより、実質的に現行法を廃棄し、これとは全く異質な新法に置き換えるものとなっている。そこには、以下のように看過することのできない重大な問題点が含まれている。

第1に、国民一人ひとりの自主的・自律的な人格形成の営みを保障している現行法を、国家による教育の権力的統制を正当化する法へと転換させている点である。教育の自主性を保障する現行10条1項を、「教育は、…この法律及び他の法律に定めるところにより行われるべきもの」と変えた法案16条1項には、法律の力によって教育を統制しようとする志向が明瞭にあらわれている。

第2に、「愛国心」や「公共心」をはじめとする多くの徳目を「教育の目標」(法案2条)として掲げ、「態度を養う」という文言を介して、道徳規範を強制的に内面化させる仕組みを導入したことである。法案2条の主要部分は告示にすぎない学習指導要領の「道徳」の部分を法律規定に“格上げ”することにより、道徳律に強制力を与えるものであるが、これは思想及び良心の自由を保障する憲法19条に明らかに抵触する。

第3に、教育に関する「総合的な」施策の策定・実施権限を国に与え(法案16条2項)、政府に「教育振興基本計画」の策定権限を与えることにより(法案17条)、国が教育内容の国家基準を設定し、その達成度の評価とそれに基づく財政配分を通して、教育内容を統制する仕組みを盛り込んだ点である。この仕組みにより、すでに進行している競争主義的な格差容認の教育「改革」がますます加速することになる。

今回の法案は、国民的な議論を経ることなく、密室で作成された。提案に際して、現行法を改正しなければならないことの説得的な理由は何ら示されていない。憲法と一体のものとして教育のあるべき姿を定めた《教育の憲法》を改変するには、あまりにもずさんな手続といわなければならない。

政府案に対して提出された民主党の「日本国教育基本法案」は、政府案と同様の問題点を含んでおり、また法案として一貫性・体系性を欠いている。

日本教育法学会は、1970年の学会創設以来、教育の自由を研究の主軸に据えてきた。また、教育基本法改正問題が現実の政治日程にのぼってきた2001年以降は、特別の研究組織を設けてこの問題に取り組んできた。この研究の成果を踏まえ、本学会会長として、内容的にも手続的にも多くの問題をはらむ政府法案はもとより、民主党対案についても、その速やかな廃案を強く求めるものである。

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<教育法学会>政府の法案廃案に 国家統制の危険性訴え

 教育学者らでつくる「日本教育法学会」は27日、政府が今国会に提出している教育基本法案について「現行法を全く異質な新法に置き換えるものだ」とし、廃案を求める緊急声明を出すことを決めた。声明文は「自主的な人格形成の営みを保障している現行法を、国家による教育統制を正当化するものに転換させている」と指摘。

毎日新聞 2006年5月27日

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教育基本法改正:県内大学関係者も反対アピール発表 /愛知

県内の大学関係者が17日、国会で審議中の教育基本法改正案に反対する緊急アピールを発表した。森川恭巌(やすたか)・元名古屋自由学院短大(現・名古屋芸術大短期大学部)学長や佐々木享・名古屋大名誉教授ら6人の連名で、「教育基本法は、戦争への道を踏み固めた戦前の教育の反省に基づいて制定された。(政府は)基本法を改悪し、平和憲法を支える教育の力を圧殺しようとしている」などと訴えている。

21日には名古屋市中区の市民会館で中嶋哲彦・名古屋大教授(教育法学)を講師に、午後6時半から集会を開く。参加は無料。問い合わせは森川氏(電話052・721・8041)へ。【武本光政】

毎日新聞 2006年5月18日付

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2006年5月16日 愛知教育大学有志のアピール
教育基本法「改正」に反対し、廃案を求めるアピール

わたしたちは教育基本法「改正」に反対します!

1. 憲法・教育基本法の制定時理念

法にはその法の制定に込められた理念があります。教育基本法の場合、日本国憲法の理念を実現するために制定されたことは、その成立過程や教育基本法前文に明らかです。

今回の「改正」案では、相次ぐ少年事件や学校における困難な事態を口実とした「公共の精神」を掲げており、現憲法と一体の法としての立場を全面的に塗り替えるものとなっています。それにもかかわらず「教育基本法」と呼ぶやり方はごまかし以外のなにものでもありません。

2.権利保障と憲法・教育基本法

およそ近代国家における憲法は、国家による権利侵害から国民を守るために成立した経緯を持っています。現行憲法は、戦前・戦中の国家による国民の基本的人権侵害の反省にたち、国民の権利を保障するためにつくられました。

特に教育は、戦前・戦中、多くの父母や教師の思いに反して、思想・信条統制の道具とされ、国民の基本的人権はおろか、戦争動因により生命さえ奪うという基本的人権侵害の大きな担い手となりました。このようなことが二度と起こらないように、「国家による権利制約を極力避ける」目的で、戦前の勅令主義を改め法律主義とし、教育基本法を制定したのです。教育基本法は、戦前のような行政による不当な支配・介入への歯止めという目的をもって制定されたのです。

@改正理由について
改正理由として現行教育基本法に問題があるかのように言われていますが、本当でしょうか。戦後わずかな時期を除き、行政は、現行教育基本法の理念の実現をサボタージュしてきました。そのことが教育の荒廃を招いたという指摘は枚挙に暇がありません。また、今回の改正によって、教育問題の「どのような改善が見込まれるか」まったく示されていません。

A(教育の目標)において
国民の間で議論の分かれる「国を愛する態度」の教育を「教育の目標」に位置づけることによって、目標の達成度が評価されることになります。そうすると子ども、教師、保護者の一人ひとりに「愛国的な態度」が強要され、憲法で明記された基本的人権の尊重に抵触する虞れが生じます。

B(学校教育)において
「教育を受ける者が、学校生活を営む上で必要な規律を重んずる」としていますが、子どもたちは規律そのものを拒否しているのではなく、彼ら・彼女らを生きづらさや孤立化に追い込む規律を拒否しているのです。いま必要なのは、子どもたちが生きる世界を広げていく力を育むことではないでしょうか。

C(家庭教育)において
保護者責任を強調していますが、本来家庭教育は「親の権利」に属するものです。家庭を国家の教育の下請け機関にするための行政の家庭教育への介入は、越権行為であると言わざるをえません。

D(教育行政)において
現行教育基本法では「教育は不当な支配に服することなく国民に対して直接責任を負って行われるべきである」として、「国民全体」のためであることが明示されていますが、改正案では、「この法律及び他の法律の定めるところにより」と述べることで、個々の父母や教職員が子どもたちのために行うさまざまな取り組みすら「不当な支配」として排除することを可能としています。

E(義務教育)において
このたびの「改正」案では「9年の普通教育」という文言を削除しています。これは、義務教育段階における教育の複線化・格差化を可能にします。子どもたちを苦しめている能力主義のいっそうの徹底となるとともに、現在問題とされている格差社会が教育を通じて一層進展し、固定化することが懸念されます。

F(教育振興基本計画)において
教育行政は「法律によって」行われることが原則です。しかし、この度の「改正」案には、教育の一切の方策を行政に白紙委任する「教育振興基本計画」が盛り込まれています。これでは、教育はその時々の政権の道具にされてしまいます。

以上の理由から、私たちは、今回の教育基本法「改正」案の即時撤回・廃案を求めるとともに、現行教育基本法の理念にたちかえった教育の推進を求めます。

呼びかけ人
 牛田憲行 折出健二 児玉康一 斎藤秀平 澤武文 添田久美子 竹内謙彰 
 中田敏夫 藤井啓之 山内明 (五十音順)

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国会上程の撤回を求める 「教育基本法改正案」は認められない

この度、閣議決定され、国会での審議に付されることになった「教育基本改正案」は、手続きの面でも、内容の面でも不当であり、到底、認めることはできない。

そもそも内容面に多くの問題を含んでいた2003年3月23日の中央教育審議会答申中の「教育基本法改正案」を、与党の「教育基本法改正に関する協議会・検討会」という、与党だけの密室討議の結論をそのまま「改正案」にしたのが、今回の政府案である。準憲法的性格を有する教育基本法の扱い方としてはきわめて杜撰で、非民主的な「改正案」づくりだと言わざるをえない。


内容面での問題性は、2004年6月16日の与党中間案に劣らず、数多く指摘できる。

第1は、前文に「公共の精神を重んじ」と「伝統を継承し」という文言が入っているという点である。両者ともに国家優先の考え方、もっと端的にいえば、戦前の国家体制を想起させる内容になっている。

第2に、第2条の「教育の目標」に「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する……態度を養うこと」が入ってきたことである。第1の問題点とも深く関わってくる内容であり、また、「国を愛する心」を「態度」で示せという形で、内心に踏み込んで、より強く「愛国心」を強制することになりかねない。現行の憲法と教育基本法制定趣旨を根本から否定するものである。

第3に、男女共学の条項を削除する一方、「障害のある者が、その障害の状態に応じ、十分な教育が受けられる」として国際的潮流のインクルーシブ教育を否定する条項を新たにつくり、子どもの権利条約の趣旨に反する「規律遵守」を求める条項すら設けている。

第4に、中間報告にあった「教育行政は不当な支配に服することなく」はさすがに現行通りに「教育は服することなく」に戻ってはいるが、「国民全体に対し直接に責任を負って」という教育の基本的な在り方にかかわる文言は中間報告と同様、削除されてしまっている。

改正案には、この他、多くの問題点がある。それらは研究的にも深める必要のあるものであるばかりでなく、国民的合意に向けて相当に検討しなければならない問題である。

ここに改めて、「教育基本法改正案」の閣議決定および国会上程に強く反対し、撤回を求めるものである。

平和・人権・民主主義の教育の危機に立ち上がる会

呼びかけ人・世話人
李仁夏(在日大韓基督教会名誉牧師)、池田賢市(中央大学助教授)、石井小夜子(弁護士)、大田堯( 東京大学名誉教授)、大谷恭子(弁護士)、小沢牧子(臨床心理学研究家)、鎌倉孝夫(埼玉大学名誉教授)、川西玲子(研究室主宰)、銀林浩(明治大学名誉教授)熊谷一乗(創価大学客員教授)、黒沢惟昭(山梨学院大学教授)、柴山恵美子(女性労働問題研究家)、関啓子(一橋大学大学院教授)、暉峻淑子(埼玉大学名誉教授)、永井憲一(法政大学名誉教授)、西村絢子(日本女子体育大学教授)、長谷川孝(教育評論家)、原田三朗(駿河台大学教授)、日高六郎(京都精華大学名誉教授)、増田祐司(島根県立大学教授)、嶺井正也(専修大学教授)、宮坂広作(東京大学名誉教授)、矢倉久泰(教育ジャーナリスト)

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〈緊急声明〉 与党が密室で協議した教育基本法「改正」案の上程に反対する

四月一二日、与党の「教育基本法改正検討会」は、自公の間で長く対立してきた「愛国心の表記」について、合意に達したと報じられました。それは、「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する……態度を養う」というものです。与党は、この合意をもとに法案化し、今国会での上程、成立を目指すと言われます。

教育基本法は、戦後、日本国憲法の精神に沿い、平和的な社会、国家を形成する主権者を育てるために、教育の大原則を定めた法律です。教育刷新委員会の学識経験者たちが議論し、新憲法下の国会で作られました。いま与党で合意されたのは、この準憲法的な性格をもつ基本法を、「改正」と言いながら全面的に書き変えてしまおうとするものです。もともと法律になじまない「愛国心」や道徳律などを書き込み、戦前と同様、行政が国民の心に介入できるようになる恐れがたいへん強い「改正」案です。

教育は、一人一人の国民にとって、直接かかわりのある重大な問題であると同時に、これからの日本社会を担っていく子どもたちの、知力、学力、体力、生きていく力、そして心のあり方にもかかわり、また社会全体を変えてしまう可能性を持っています。こうした重要な問題を、与党は一部議員だけの密室の協議で行い、内容も議論の過程も、一切国民に知らせませんでした。「百年の計」といわれる教育の根本原則を、二つの政党の「寄木細工」でつくることなどありうるでしょうか。このまま国会に上程し、数の力で成立を押し通すなど、絶対に許されないことです。

与党検討会の秘密主義は、会議の中で配布された資料や議論の内容をめぐるメモまで、会議終了後にすべて回収するという常軌を逸したものです。与党に持ち帰って合意を取り付けるといっても、すべて口頭という無責任さです。このままではすべての国民はもとより、ほとんどの与党議員ですら、教育基本法をめぐる議論から排除され、結論だけを押し付けられることになります。

私たちは、こうした密室協議で生まれた法案の上程に反対します。教育の議論は拙速を避け、様ざまな問題を勘案しながら、国民的な議論と合意をとりながらなされるべきだと考えます。

二〇〇六年四月一四日

喜多明人(早稲田大学教授)
小森陽一(東京大学教授)
石井小夜子(弁護士)
大内裕和(松山大学助教授)
尾木直樹(教育評論家・法政大学教授)
加藤周一(作家)
桂敬一(立正大学講師)
北沢洋子(国際問題評論家)
佐藤学(東京大学教授)
杉田敦(法政大学教授)
俵義文(子どもと教科書ネット21事務局長)
辻井喬(作家)
暉峻淑子(埼玉大学名誉教授)
西原博史(早稲田大学教授)
藤田英典(国際基督教大学教授)
間宮陽介(京都大学教授)
最上敏樹(国際基督教大学教授)
毛利子来(小児科医)
山口二郎(北海道大学教授)

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